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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第二十話 鍵

黒い車は、官舎の前に停まっていた。


ライトは消えている。エンジンの音もない。運転席に人影があるようにも見えたし、ただの背もたれの影にも見えた。雨上がりの道路に、車体の黒が薄く滲んでいた。


西野芳彦は、ナンバーを見た。

覚えられる。

まだ、覚えられる。

だが、覚えたところで何になるのか分からなかった。

二階の窓から、麻里が顔を出していた。


「お父さん」

「何や」

「また誰か来てるの?」


また。

その一語が、夜の空気より冷たかった。

西野は答えなかった。


遠山甚一郎の声が、橋の上から戻ってきた。

家の前の車には、あまり近づかない方がいい。

乗っている者が、こちらの者とは限りません。


こちら。

あちら。


東。

西。

灰色。


赤黒台帳の欄が、黒い車の窓に映っているようだった。

西野は車へ近づかなかった。


官舎の階段を上がる。濡れた靴底が、古いコンクリートに鈍い音を立てた。背中に視線を感じる。車の中からか、窓の中からか、それとも自分の背中が勝手に作ったものか。


二階の廊下で、麻里が待っていた。


制服のままだった。鞄は足元に置いてある。窓から急いで出てきたのだろう。髪が少し乱れている。


「何なの、あの車」

「知らん」

「知らん車が、毎日家の前に停まるの」

「毎日ではない」

「一昨日もいた。昨日もいた。今日は違う車やけど、同じ停め方してる」


西野は麻里を見た。

十七歳の娘は、もう窓の外を見ることを覚えていた。

見なくていいものを見る年になっていた。


「見るな」

「無理やん。家の前にいるんやから」

「なら、気にするな」

「それも無理」


麻里は父を睨んだ。


「お父さん、私に何を隠してるの」


廊下の奥で、紀子の声がした。


「麻里」


紀子は台所から出てきた。割烹着をつけたまま、手を布巾で拭いている。顔には驚きがない。黒い車のことを、すでに知っている顔だった。


「ご飯、冷めるわよ」

「お母さんも見たやろ」

「見たわ」

「何で普通なん」

「普通にしてないと、家の中まで外になるじゃない」


麻里は言葉に詰まった。

西野は靴を脱いだ。


靴紐をほどく指が、少しだけ遅れた。麻里はそれを見ていた。紀子も見ていた。家の中で、自分の手を見られることが増えている。


台所には、煮物の匂いがしていた。


大根、鶏肉、薄い醤油。湯気はもう弱い。食卓には三人分の茶碗が並んでいる。テレビはついていなかった。代わりに、外の車の気配だけが、壁の向こうから入ってくる。


西野は席に着いた。

麻里は座らなかった。


「加納さん、本当に過激派やったの」


紀子の手が、鍋の蓋の上で止まった。

西野は娘を見た。


「新聞にはそう出ている」

「新聞の話を聞いてるんじゃない」

「俺が知ることではない」

「嘘」


麻里の声が震えた。


「お父さんは、市役所の人やろ。あの人、市役所に来てたんやろ。私の名前を名簿から消してくれたんやろ。なのに、何も知らんの?」


西野は答えなかった。

麻里は続けた。


「加納さん、学校の前で言ってた。本を集めるだけで怖がらないでいいって。でも名前は気をつけた方がいいって。変な人やったけど、悪い人には見えんかった」


加納の声が、また戻ってきた。


東へ……帰るな。


西野は箸を取らなかった。


「悪い人間だけが死ぬわけやない」

「そんなこと分かってる」

「なら」

「でも、死んだ後に悪い人にされるのは、違うやん」


麻里の言葉は、まだ若かった。

若く、正しかった。


正しい言葉は、時々、扱いに困る。

国家も、父親も、それを持て余す。


紀子が静かに言った。


「麻里、座りなさい」

「お母さんは、何とも思わないの」

「思ってるわ」

「じゃあ」

「思ってることを全部口にしたら、食事が美味しくなるのかしら」


麻里は椅子を引いた。座ったが、箸は取らなかった。

しばらく三人とも黙っていた。


外で車の扉が開く音がした。


麻里が顔を上げる。

西野は立ち上がりかけた。

紀子が言った。


「座って」


西野は動きを止めた。


「今、外へ出たら、帰ってこれるの?」


その問いは、静かだった。

だから重かった。

西野は座り直した。


廊下の向こうで、階段を上がる足音はしなかった。車の扉が閉まる音だけがした。黒い車は、まだそこにいるのか、走り去ったのか分からない。


紀子は煮物を取り分けた。


「食べましょう」


麻里は小さく言った。


「こんな時に」

「こんな時でも、人は食べるの」


紀子は西野の器にも煮物を入れた。


「食べない人から、顔が変わる」


西野は箸を取った。


大根は冷めかけていた。味は染みている。紀子は朝から煮ていたのだろう。いつも通りの味だった。

いつも通り。

その言葉が、今日はどこにも落ち着かなかった。


麻里がぽつりと言った。


「お父さんは、何が怖いの」


紀子は何も言わなかった。

西野は箸を置いた。


「怖がっているように見えるか」

「見える」


麻里は即答した。


「加納さんのことを聞くと怖い顔になる。東のことを聞いても、名前を書くことを聞いても、外の車を見る時も。怒ってるんじゃない。怖がってる」


西野は娘を見た。

怖がることは悪いことやない。

いつか自分がそう言った。

誰に言ったのか、もう覚えていない。

麻里だったか、自分だったか。


「怖がらない人間から死ぬ」


西野は言った。


「それ、答えじゃない」

「答えや」

「違う。お父さんは、いつも答えみたいな言い方で逃げる」


麻里は立ち上がった。


「私、部屋に行く」

「飯は」

「いらない」

「麻里」


紀子が呼んだが、麻里は聞かなかった。

廊下を歩く足音。襖が閉まる音。

食卓に、煮物の湯気だけが残った。

紀子はしばらく黙っていた。

それから、静かに言った。


「あの子、あなたに似てきたわね」

「どこが」

「答えをもらえないと、自分で探しに行くところ」


西野は湯呑みに手を伸ばした。

茶は冷めていた。


「探しに行かせるな」

「止められると思う?」


西野は答えなかった。

紀子は夫を見た。


「あなたは、止められたの?」


西野は湯呑みを置いた。


「何の話や」

「あなたがここへ来る前の話」


台所の蛍光灯が小さく唸っていた。


西野は紀子を見た。

紀子は目を逸らさなかった。


「私は、あなたの昔を知らない。写真もない。親戚もいない。焼けた家の話は何度か聞いたけど、その家がどこにあったのか、あなたは一度もちゃんと言わなかった」


西野は黙っていた。


「でも、全部を聞かないことにしたのは、私よ」


その言葉は、責めるものではなかった。

だから、逃げ場がなかった。


「あなたが話さない人だと知って、一緒に暮らした。だから、知らなかったとは言えない」


紀子は煮物の鍋に蓋をした。


「でも、麻里は違う。あの子は、あなたの沈黙を選んだわけじゃない」


西野は、返す言葉を持たなかった。

外でエンジン音がした。

今度は確かだった。


黒い車が動いたのだろう。低い音が遠ざかっていく。だが、それで安全になったとは思えなかった。見える車が去ると、見えない車が残る。


紀子が言った。


「今のは、どっち?」

「分からん」

「安心していいの?」

「分からん」

「安心しちゃいけないの?」

「分からん」


紀子は少しだけ笑った。

悲しい笑いだった。


「分からないものから、家族を守れるの?」


西野は答えなかった。

紀子はそれ以上、聞かなかった。


聞かないことが、彼女の優しさではなくなっていた。

それはもう、彼女自身の防衛だった。


食事が終わった後、西野は玄関へ行った。


靴は揃っている。麻里の革靴。紀子のつっかけ。自分の黒い革靴。傘立てには、三本の傘がある。紀子の傘、麻里の傘、自分の傘。


それだけの場所だった。

それなのに、どの国境よりも難しい線が引かれていた。


外と内。

家族と任務。

生活と台帳。


西野は玄関の鍵を確認した。

官舎の扉には、鍵が二つある。


一つは古い錠。

もう一つは、数年前に増設された補助錠だった。近所で空き巣が出た時、紀子が頼んだものだ。


西野は一つ目を回した。


かちり、と音がした。


二つ目に手をかける。


その時、二十五年前の藤堂の声が戻った。


鍵をかける時は、誰から守るかを決めろ。

決められない鍵は、敵の仕事を手伝う。


誰から守るための鍵なのか。


外の車か。

東側か。

西側か。

藤堂を追う者か。

遠山か。

葛城か。

片桐か。

それとも、自分か。


西野は二つ目の鍵を回した。


音は一つ目より軽かった。


軽すぎた。


寝室へ向かう途中、麻里の部屋の襖が少し開いていた。


机に向かう背中が見えた。

麻里は何かを書いていた。

ノートか。

手紙か。

それとも、別の何かか。


西野は見なかった。

見れば、娘がまだ残しているものを、汚す気がした。


寝室の扉を開けると、紀子はまだ起きていた。

押入れが開いていた。

その手前に、古い旅行鞄が出ていた。


十年前、家族で伊勢に行った時の鞄だった。長く使われていなかった。だから、奥に入っていたはずだった。


今は、手前に出ていた。

中は空だった。


まだ、空だった。


紀子は西野を振り返らなかった。

西野も、何も言わなかった。


電気を消した。


暗闇の中で、紀子の息が聞こえた。

起きている息だった。


西野も起きていた。


鍵は二つとも、かかっていた。


それでも、外はもう家の中にあった。

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