第二十話 鍵
黒い車は、官舎の前に停まっていた。
ライトは消えている。エンジンの音もない。運転席に人影があるようにも見えたし、ただの背もたれの影にも見えた。雨上がりの道路に、車体の黒が薄く滲んでいた。
西野芳彦は、ナンバーを見た。
覚えられる。
まだ、覚えられる。
だが、覚えたところで何になるのか分からなかった。
二階の窓から、麻里が顔を出していた。
「お父さん」
「何や」
「また誰か来てるの?」
また。
その一語が、夜の空気より冷たかった。
西野は答えなかった。
遠山甚一郎の声が、橋の上から戻ってきた。
家の前の車には、あまり近づかない方がいい。
乗っている者が、こちらの者とは限りません。
こちら。
あちら。
東。
西。
灰色。
赤黒台帳の欄が、黒い車の窓に映っているようだった。
西野は車へ近づかなかった。
官舎の階段を上がる。濡れた靴底が、古いコンクリートに鈍い音を立てた。背中に視線を感じる。車の中からか、窓の中からか、それとも自分の背中が勝手に作ったものか。
二階の廊下で、麻里が待っていた。
制服のままだった。鞄は足元に置いてある。窓から急いで出てきたのだろう。髪が少し乱れている。
「何なの、あの車」
「知らん」
「知らん車が、毎日家の前に停まるの」
「毎日ではない」
「一昨日もいた。昨日もいた。今日は違う車やけど、同じ停め方してる」
西野は麻里を見た。
十七歳の娘は、もう窓の外を見ることを覚えていた。
見なくていいものを見る年になっていた。
「見るな」
「無理やん。家の前にいるんやから」
「なら、気にするな」
「それも無理」
麻里は父を睨んだ。
「お父さん、私に何を隠してるの」
廊下の奥で、紀子の声がした。
「麻里」
紀子は台所から出てきた。割烹着をつけたまま、手を布巾で拭いている。顔には驚きがない。黒い車のことを、すでに知っている顔だった。
「ご飯、冷めるわよ」
「お母さんも見たやろ」
「見たわ」
「何で普通なん」
「普通にしてないと、家の中まで外になるじゃない」
麻里は言葉に詰まった。
西野は靴を脱いだ。
靴紐をほどく指が、少しだけ遅れた。麻里はそれを見ていた。紀子も見ていた。家の中で、自分の手を見られることが増えている。
台所には、煮物の匂いがしていた。
大根、鶏肉、薄い醤油。湯気はもう弱い。食卓には三人分の茶碗が並んでいる。テレビはついていなかった。代わりに、外の車の気配だけが、壁の向こうから入ってくる。
西野は席に着いた。
麻里は座らなかった。
「加納さん、本当に過激派やったの」
紀子の手が、鍋の蓋の上で止まった。
西野は娘を見た。
「新聞にはそう出ている」
「新聞の話を聞いてるんじゃない」
「俺が知ることではない」
「嘘」
麻里の声が震えた。
「お父さんは、市役所の人やろ。あの人、市役所に来てたんやろ。私の名前を名簿から消してくれたんやろ。なのに、何も知らんの?」
西野は答えなかった。
麻里は続けた。
「加納さん、学校の前で言ってた。本を集めるだけで怖がらないでいいって。でも名前は気をつけた方がいいって。変な人やったけど、悪い人には見えんかった」
加納の声が、また戻ってきた。
東へ……帰るな。
西野は箸を取らなかった。
「悪い人間だけが死ぬわけやない」
「そんなこと分かってる」
「なら」
「でも、死んだ後に悪い人にされるのは、違うやん」
麻里の言葉は、まだ若かった。
若く、正しかった。
正しい言葉は、時々、扱いに困る。
国家も、父親も、それを持て余す。
紀子が静かに言った。
「麻里、座りなさい」
「お母さんは、何とも思わないの」
「思ってるわ」
「じゃあ」
「思ってることを全部口にしたら、食事が美味しくなるのかしら」
麻里は椅子を引いた。座ったが、箸は取らなかった。
しばらく三人とも黙っていた。
外で車の扉が開く音がした。
麻里が顔を上げる。
西野は立ち上がりかけた。
紀子が言った。
「座って」
西野は動きを止めた。
「今、外へ出たら、帰ってこれるの?」
その問いは、静かだった。
だから重かった。
西野は座り直した。
廊下の向こうで、階段を上がる足音はしなかった。車の扉が閉まる音だけがした。黒い車は、まだそこにいるのか、走り去ったのか分からない。
紀子は煮物を取り分けた。
「食べましょう」
麻里は小さく言った。
「こんな時に」
「こんな時でも、人は食べるの」
紀子は西野の器にも煮物を入れた。
「食べない人から、顔が変わる」
西野は箸を取った。
大根は冷めかけていた。味は染みている。紀子は朝から煮ていたのだろう。いつも通りの味だった。
いつも通り。
その言葉が、今日はどこにも落ち着かなかった。
麻里がぽつりと言った。
「お父さんは、何が怖いの」
紀子は何も言わなかった。
西野は箸を置いた。
「怖がっているように見えるか」
「見える」
麻里は即答した。
「加納さんのことを聞くと怖い顔になる。東のことを聞いても、名前を書くことを聞いても、外の車を見る時も。怒ってるんじゃない。怖がってる」
西野は娘を見た。
怖がることは悪いことやない。
いつか自分がそう言った。
誰に言ったのか、もう覚えていない。
麻里だったか、自分だったか。
「怖がらない人間から死ぬ」
西野は言った。
「それ、答えじゃない」
「答えや」
「違う。お父さんは、いつも答えみたいな言い方で逃げる」
麻里は立ち上がった。
「私、部屋に行く」
「飯は」
「いらない」
「麻里」
紀子が呼んだが、麻里は聞かなかった。
廊下を歩く足音。襖が閉まる音。
食卓に、煮物の湯気だけが残った。
紀子はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「あの子、あなたに似てきたわね」
「どこが」
「答えをもらえないと、自分で探しに行くところ」
西野は湯呑みに手を伸ばした。
茶は冷めていた。
「探しに行かせるな」
「止められると思う?」
西野は答えなかった。
紀子は夫を見た。
「あなたは、止められたの?」
西野は湯呑みを置いた。
「何の話や」
「あなたがここへ来る前の話」
台所の蛍光灯が小さく唸っていた。
西野は紀子を見た。
紀子は目を逸らさなかった。
「私は、あなたの昔を知らない。写真もない。親戚もいない。焼けた家の話は何度か聞いたけど、その家がどこにあったのか、あなたは一度もちゃんと言わなかった」
西野は黙っていた。
「でも、全部を聞かないことにしたのは、私よ」
その言葉は、責めるものではなかった。
だから、逃げ場がなかった。
「あなたが話さない人だと知って、一緒に暮らした。だから、知らなかったとは言えない」
紀子は煮物の鍋に蓋をした。
「でも、麻里は違う。あの子は、あなたの沈黙を選んだわけじゃない」
西野は、返す言葉を持たなかった。
外でエンジン音がした。
今度は確かだった。
黒い車が動いたのだろう。低い音が遠ざかっていく。だが、それで安全になったとは思えなかった。見える車が去ると、見えない車が残る。
紀子が言った。
「今のは、どっち?」
「分からん」
「安心していいの?」
「分からん」
「安心しちゃいけないの?」
「分からん」
紀子は少しだけ笑った。
悲しい笑いだった。
「分からないものから、家族を守れるの?」
西野は答えなかった。
紀子はそれ以上、聞かなかった。
聞かないことが、彼女の優しさではなくなっていた。
それはもう、彼女自身の防衛だった。
食事が終わった後、西野は玄関へ行った。
靴は揃っている。麻里の革靴。紀子のつっかけ。自分の黒い革靴。傘立てには、三本の傘がある。紀子の傘、麻里の傘、自分の傘。
それだけの場所だった。
それなのに、どの国境よりも難しい線が引かれていた。
外と内。
家族と任務。
生活と台帳。
西野は玄関の鍵を確認した。
官舎の扉には、鍵が二つある。
一つは古い錠。
もう一つは、数年前に増設された補助錠だった。近所で空き巣が出た時、紀子が頼んだものだ。
西野は一つ目を回した。
かちり、と音がした。
二つ目に手をかける。
その時、二十五年前の藤堂の声が戻った。
鍵をかける時は、誰から守るかを決めろ。
決められない鍵は、敵の仕事を手伝う。
誰から守るための鍵なのか。
外の車か。
東側か。
西側か。
藤堂を追う者か。
遠山か。
葛城か。
片桐か。
それとも、自分か。
西野は二つ目の鍵を回した。
音は一つ目より軽かった。
軽すぎた。
寝室へ向かう途中、麻里の部屋の襖が少し開いていた。
机に向かう背中が見えた。
麻里は何かを書いていた。
ノートか。
手紙か。
それとも、別の何かか。
西野は見なかった。
見れば、娘がまだ残しているものを、汚す気がした。
寝室の扉を開けると、紀子はまだ起きていた。
押入れが開いていた。
その手前に、古い旅行鞄が出ていた。
十年前、家族で伊勢に行った時の鞄だった。長く使われていなかった。だから、奥に入っていたはずだった。
今は、手前に出ていた。
中は空だった。
まだ、空だった。
紀子は西野を振り返らなかった。
西野も、何も言わなかった。
電気を消した。
暗闇の中で、紀子の息が聞こえた。
起きている息だった。
西野も起きていた。
鍵は二つとも、かかっていた。
それでも、外はもう家の中にあった。




