第八話 赤い救援会
大阪冬季救援会の事務所は、九条の古い雑居ビルの二階にあった。
一階は金物屋だった。錆びた鋸、釘、戸車、煤けた薬缶が店先に吊られている。二階へ続く階段は狭く、踏むたびに鉄板が薄く鳴った。壁には古い貼り紙の跡が残り、剥がされた文字だけが、別の時代の亡霊のように浮いていた。
西野芳彦は、階段の途中で一度だけ立ち止まった。
鞄はいつもより少し重かった。
中には、市役所の配布確認書類が入っている。大阪冬季救援会の書籍提供申請書。被災者児童の配布予定表。検品記録。
それから、もうひとつ。
茶色い紙袋に包んだ、小型拳銃。
西野は階段を上がった。
扉の向こうから、紙をめくる音と、誰かの咳が聞こえていた。若い声、年寄りの声、女の声。事務所というより、避難所と印刷所と学生部室を足して、どれにもなりきれなかった場所だった。
扉に貼られた紙には、太い字でこうあった。
大阪冬季救援会
地下鉄爆破被災者支援本部
その横に、小さなビラ。
『国家保安法強化に反対する。
死者を戦争の理由にするな。』
さらにその下に、別の紙があった。
『人民暦二十八年十一月
東京人民文化会館
チェーホフ連続上演週間』
西日本では見慣れない暦だった。
西野はしばらくそれを見た。
人民暦。建国から数える暦。東京で元号が廃止されてから、東の子どもたちは昭和を知らずに育っている。彼らにとって一九四八年は平成元年ではなく、人民暦元年だった。
三十年あれば、国は暦を作る。
暦を作れば、過去の数え方が変わる。
扉が開いた。
「市役所の方ですか」
若い女が立っていた。白い割烹着の袖を肘までまくり、手には包帯が巻かれている。顔立ちはきつくないが、目だけが鋭かった。看護学校の学生か、病院勤めの見習いか。薬品と石鹸の匂いがした。
「大阪市役所民生局の西野です」
「林美沙です。救護班です」
林は西野の鞄を見た。
「書類ですか」
「書籍提供と物資配布の確認です」
「なら、薬も提供してほしいので、申請書を持って帰ってください」
最初の一言がそれだった。
西野は言った。
「薬は別の窓口です」
「別の窓口へ行ける人は、ここへ来ません」
林は扉を大きく開けた。
「どうぞ。靴はそのままで。床はもう諦めてます」
事務所の中は狭かった。
段ボール箱が壁際に積まれ、毛布と古着が紐で縛られている。床には教科書、絵本、文庫本、参考書が山になっていた。奥の机では、老いた男が名簿を作っている。別の机では学生がビラを折っていた。
壁には、雑多な紙が貼られていた。
被災者救援。
国家保安法反対。
平和統一。
朝鮮避難民医療相談。
京都政府への公開質問状。
東京人民放送の周波数表。
赤土曜奉仕日のお知らせ。
東の匂いと西の怒りが、同じ壁で乾いていた。
小さなラジオから、ノイズ混じりの声が流れている。
――こちらは東京人民放送。人民暦二十八年十一月十二日、昼のニュースをお伝えします。西日本政府は、地下鉄爆破事件を口実として、平和統一を求める市民への弾圧を――
誰かが慌ててスイッチを切った。
加納誠だった。
古いコートを脱ぎ、袖をまくって本を仕分けていた。昨日、市役所の窓口に座っていた時より若く見えた。膝元には『銀河鉄道の夜』が何冊も積まれている。西側で出たもの、古い戦前版、東側から流れてきたらしい活字の違う版が混ざっていた。
加納は西野を見ると、少し驚いた。
いや、驚きではなかった。
驚いた顔の形をして、その奥で何かを確かめていた。
「西野さん」
「配布確認です」
「わざわざ」
「書類も渡しにきました」
「役所は、紙が来ると人が動くんですね」
「紙が来ても動かない時もありますが」
加納は少し笑った。
「昨日は、ありがとうございました。未成年の名前を外してくれて」
「市の判断です」
「市役所もたまには人間として判断をするんですね」
林美沙が横から言った。
「加納、そういう言い方をしない」
加納はすぐに頭を下げた。
「すみません」
怒りが続かない。
若さのせいか、性格のせいか、あるいは本当に人を傷つけることに慣れていないのか。
西野は部屋を見回した。
奥の机にいる老いた男が、西野を観察していた。五十代後半。黒縁眼鏡。痩せている。労組の古い活動家に見えるが、着ている上着は妙に上等だった。襟元に小さなピンバッジがある。
赤い星と桜。
東側のものだった。
男は名乗った。
「大垣修平です。救援会の事務局をやっています」
「市役所の西野です」
「お噂は」
「噂になる仕事はしていません」
「役所の人は、そうおっしゃる」
大垣は笑った。笑い方に湿り気があった。
「書籍配布の件ですね。名簿は班ごとに整理しています。あとで総括を――」
「大垣さん」
加納が遮った。
「その言葉、やめませんか」
大垣は眉を上げた。
「どの言葉だ」
「総括です」
事務所の空気が少し動いた。
加納は本を抱えたまま続けた。
「被災者支援です。党の会議じゃありません」
大垣の目が冷えた。
「言葉を怖がるから、西の教育は弱い」
「言葉じゃありません。言葉に隠れるものが怖いんです」
西野は黙って聞いていた。
総括――東の、いや共産主義特有の単語。
訓練所の教室。白い壁。木の椅子。藤堂鶴彦の声。
行動のあとには総括がある。総括なき行動は、人民への背信である。
その言葉は、二十五年経ってもまだ耳の奥に残っていた。
林美沙が間に入った。
「大垣さん、名簿は私が見ます。未成年の名前は学校単位まで。個人名は残しません」
「それでは誰が協力してくれたか分からない」
「名前を残せば公安に渡ります」
「渡って困ることはしてないだろ」
林は包帯の巻かれた手を机に置いた。
「名前を書かれるのは、あなたじゃない」
大垣は口を閉じた。
加納はそのやり取りを見ていた。反論したそうだったが、言わなかった。言えば林の足を引っ張ることを知っている顔だった。
西野は、机の上の名簿を見た。
名前。住所。年齢。扶養者。通学先。被災状況。
また名前だった。
どの国も、まず名前を書く。
書いてから、助けるか、疑うか、消すかを決める。
部屋の隅で、朝鮮避難民の母親が子どもを抱いていた。子どもは熱があるらしく、顔が赤い。林がそこへ行き、額に手を当てた。
「昨夜から?」
母親はたどたどしい日本語で答えた。
「夜、熱。薬、ない」
林は西野を振り返った。
「市役所で医療券、今日中に出せますか」
「書類が揃えば」
「揃わない時は」
「揃える」
林は西野を見た。
「市役所の人の顔をしてますね」
「市役所の人間です」
「顔の話です」
加納が小さく笑いかけて、すぐにやめた。
西野は母親から名前を聞き、手帳に書いた。
子どもの名。住所。保証人。金斗満の食堂の裏手。
「金さんを保証人にする」
母親は少し安心した顔をした。
林が言った。
「金さん、また怒りますよ」
「怒るだけなら、市役所より早い」
加納が言った。
「市役所の人が、そんなこと言うんですか」
「市役所の人間だから言う」
大垣が奥で咳をした。
「西野さん。あなたは、こちらの活動に理解があるようですね」
「ありません」
即答した。
大垣は笑った。
「理解がない方が、柔らかい時もある」
西野は大垣の襟のピンバッジを見た。
「東京のものですか」
大垣の指が、襟元に触れた。
「古い友人からの土産です。人民文化会館の記念品でね。向こうは、芸術に国境を設けない」
林が冷たく言った。
「国境は設けないけど、出国許可は要るそうですね」
大垣は聞こえないふりをした。
加納は苦い顔をしていた。
西野は本の山に目を落とした。
一冊だけ、見慣れない表紙があった。淡い青の紙に、赤い星と子どもの絵。題名は『雪の日のドゥルージナ』。日本語の下に、ロシア語が併記されている。発行元は東京人民児童出版社。製造年は人民暦二十七年。
麻里が見たら、何と言うだろう。
悪い本なのか、と聞くだろう。
子どもたちが共同住宅の雪かきをする話だ。
赤い星のついた腕章を巻き、年寄りの部屋へ石炭を運ぶ。最後に班長が褒める。
それだけなら、悪い本ではない。
それだけで済まないから、国は本を恐れる。
加納がその本に気づき、そっと別の箱へ移した。
「それは配らないのか」
西野が聞いた。
加納は少し迷ってから答えた。
「配れば、子どもの家に公安が来ます」
「内容は」
「子どもが雪かきをする話です」
「それでもか」
「それでもです」
加納は本を箱に入れた。
「東の本が全部正しいとは思いません。でも、西で読めない本が全部間違ってるとも思えません」
西野は何も言わなかった。
林が薬箱を閉じた。
「加納、理屈はいいから、この箱を階下へ」
加納は本の箱を持ち上げた。思ったより重かったのか、少しよろけた。
西野は手を出さなかった。
林が代わりに箱の片側を持った。
「力がないのに、全部持とうとする」
「持てます」
「持てないものを持てると言う人から潰れます」
林の声は、優しくなかった。
だから優しかった。
大垣が事務所の奥から缶詰を持ってきた。
「差し入れだ。東京経由で入ったものらしい」
缶には日本語とロシア語が並んでいた。
新潟人民水産公社。鰊油漬。人民暦二十八年製造。
林が眉をひそめた。
「これ、避難民の人たちに出すんですか」
「食べ物に思想はない」
大垣が言った。
その時、階段を上がってきた金斗満が、缶を見て足を止めた。
「赤い国の缶詰を、赤から逃げてきた人間に食わせるんか」
大垣は笑った。
「中身は魚ですよ」
金の目は笑っていなかった。
「魚にも、どこを泳いだかはある」
事務所が沈黙した。
西野は金を見た。
「何しに来た」
「医療券の話で来たら、魚が先に臭った」
金は子どもを抱いた母親を見て、舌打ちした。
「また熱か。店に寝かせとけと言うたやろ」
母親は小さく頭を下げた。
金は西野に近づき、低く言った。
「あんたがここにおると、空気が硬くなる」
「元から硬い」
「違う硬さや」
金は加納の方を見た。
「あの子に近づくなと言うた」
「向こうが来た」
「それが一番悪い」
西野は返さなかった。
林が金に言った。
「医療券、今日中に出るそうです」
「ほんまか」
「西野さんが言いました」
金は西野を見た。
「役所の言葉か」
「俺の言葉や」
「どっちが信用できるんや」
「どっちも似たようなもんやな」
金は鼻で笑った。
「ほな、信頼できんわな」
事務所の窓の外で、市電の音がした。
その音に紛れて、ラジオのスイッチがまた入った。誰かが触れたのか、故障か。東京人民放送の声が、ノイズの中から浮かび上がる。
――西日本政府は、善意の救援活動をも国家保安法の対象とし、市民の名前を収集しています。人民日本政府は、被災者への人道支援を拒みません。労働者と市民の連帯こそが――
加納がすぐにラジオを切った。
大垣が言った。
「なぜ切る」
「聞かれたら困ります」
「聞かれて困る自由など、自由ではない」
加納は振り返った。
「捕まるのは、あなたじゃなくて学生です」
大垣の顔が固まった。
林が低く言った。
「その通りです」
金斗満が缶詰を見ながら笑った。
「赤い放送も、西の公安も、若いのにだけ耳がええ」
西野は部屋の全員を見た。
大垣。加納。林。金。朝鮮避難民の母親。ビラを折る学生。階段の近くで黙っている作業着の男。壁際で新聞を読んでいる老教師風の男。
誰が敵か。
答えはなかった。
少なくとも、一種類ではなかった。
大垣は東を夢見ている。
加納は西を疑っている。
林は薬を探している。
金は赤を憎んでいる。
公安はこの場所を見ている。
東側も、たぶん見ている。
そして西野は、殺すために来ている。
林美沙がふいに言った。
「西野さん」
「何ですか」
「あなたは、どちらを見る人ですか」
加納が顔を上げた。
金も黙った。
質問は、あまりにも真ん中を突いていた。
西野は答えた。
「書類を見る人間です」
林は目を細めた。
「だから顔の話だと言ったんです」
その時、階段下で足音がした。
軽い足音ではない。二人。たぶん男。止まり方が揃っていた。
事務所の全員が、一瞬だけ黙った。
加納が窓の外を見た。
林は薬箱を閉じた。
大垣はピンバッジに触れた。
金斗満は缶詰を机の下へ押し込んだ。
扉が開いた。
入ってきたのは、郵便配達員だった。
「大阪冬季救援会さん。速達です」
誰かが息を吐いた。
郵便配達員は帽子を取らず、封筒を一通置いて帰った。
宛名は、大阪冬季救援会。
差出人は空白。
大垣が封筒を取ろうとした。
その前に、加納が手を伸ばした。
「僕が見ます」
大垣は加納を見た。
「なぜ君が」
「最近、変な郵便が多いので」
林が言った。
「ここで開けない方がいい」
西野は黙っていた。
加納は封筒を懐に入れた。
その動作は自然だった。
自然に見せようとしすぎていた。
西野には分かった。
加納は、その封筒を待っていた。
西野は鞄を持ち上げた。
「書類は確認した。医療券は今日中に出す」
林がうなずいた。
「お願いします」
加納が西野を見た。
「西野さん」
「何や」
「少しだけ、あとで時間をもらえますか」
林の顔が動いた。
金斗満が鍋の火を切った。
大垣は書類に目を落とすふりをした。
加納は続けた。
「あなたに会いたがっている人がいます」
事務所の外では、また市電が通った。
窓ガラスが小さく震えた。
西野は加納を見た。
「誰だ」
加納は答えなかった。
ただ、封筒を押さえた手に力を入れた。
「ここでは言えません」
西野の鞄の中で、紙袋に包まれた鉄が重さを持った。
さっきまで軽すぎたものが、急に人間一人分に近づいた。
加納誠は、西野を信じている顔ではなかった。
誰かに教えられた条件を、ひとつずつ照合している顔だった。
それが一番、始末に悪かった。
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