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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第八話 赤い救援会

大阪冬季救援会の事務所は、九条の古い雑居ビルの二階にあった。


一階は金物屋だった。錆びた鋸、釘、戸車、煤けた薬缶が店先に吊られている。二階へ続く階段は狭く、踏むたびに鉄板が薄く鳴った。壁には古い貼り紙の跡が残り、剥がされた文字だけが、別の時代の亡霊のように浮いていた。


西野芳彦は、階段の途中で一度だけ立ち止まった。


鞄はいつもより少し重かった。


中には、市役所の配布確認書類が入っている。大阪冬季救援会の書籍提供申請書。被災者児童の配布予定表。検品記録。


それから、もうひとつ。

茶色い紙袋に包んだ、小型拳銃。

西野は階段を上がった。


扉の向こうから、紙をめくる音と、誰かの咳が聞こえていた。若い声、年寄りの声、女の声。事務所というより、避難所と印刷所と学生部室を足して、どれにもなりきれなかった場所だった。


扉に貼られた紙には、太い字でこうあった。


大阪冬季救援会

地下鉄爆破被災者支援本部


その横に、小さなビラ。


『国家保安法強化に反対する。

死者を戦争の理由にするな。』


さらにその下に、別の紙があった。


『人民暦二十八年十一月

東京人民文化会館

チェーホフ連続上演週間』


西日本では見慣れない暦だった。


西野はしばらくそれを見た。


人民暦。建国から数える暦。東京で元号が廃止されてから、東の子どもたちは昭和を知らずに育っている。彼らにとって一九四八年は平成元年ではなく、人民暦元年だった。


三十年あれば、国は暦を作る。

暦を作れば、過去の数え方が変わる。


扉が開いた。


「市役所の方ですか」


若い女が立っていた。白い割烹着の袖を肘までまくり、手には包帯が巻かれている。顔立ちはきつくないが、目だけが鋭かった。看護学校の学生か、病院勤めの見習いか。薬品と石鹸の匂いがした。


「大阪市役所民生局の西野です」

「林美沙です。救護班です」


林は西野の鞄を見た。


「書類ですか」

「書籍提供と物資配布の確認です」

「なら、薬も提供してほしいので、申請書を持って帰ってください」


最初の一言がそれだった。

西野は言った。


「薬は別の窓口です」

「別の窓口へ行ける人は、ここへ来ません」


林は扉を大きく開けた。


「どうぞ。靴はそのままで。床はもう諦めてます」


事務所の中は狭かった。

段ボール箱が壁際に積まれ、毛布と古着が紐で縛られている。床には教科書、絵本、文庫本、参考書が山になっていた。奥の机では、老いた男が名簿を作っている。別の机では学生がビラを折っていた。


壁には、雑多な紙が貼られていた。


被災者救援。

国家保安法反対。

平和統一。

朝鮮避難民医療相談。

京都政府への公開質問状。

東京人民放送の周波数表。

赤土曜奉仕日のお知らせ。


東の匂いと西の怒りが、同じ壁で乾いていた。

小さなラジオから、ノイズ混じりの声が流れている。


――こちらは東京人民放送。人民暦二十八年十一月十二日、昼のニュースをお伝えします。西日本政府は、地下鉄爆破事件を口実として、平和統一を求める市民への弾圧を――


誰かが慌ててスイッチを切った。

加納誠だった。


古いコートを脱ぎ、袖をまくって本を仕分けていた。昨日、市役所の窓口に座っていた時より若く見えた。膝元には『銀河鉄道の夜』が何冊も積まれている。西側で出たもの、古い戦前版、東側から流れてきたらしい活字の違う版が混ざっていた。


加納は西野を見ると、少し驚いた。

いや、驚きではなかった。


驚いた顔の形をして、その奥で何かを確かめていた。


「西野さん」

「配布確認です」

「わざわざ」

「書類も渡しにきました」

「役所は、紙が来ると人が動くんですね」

「紙が来ても動かない時もありますが」


加納は少し笑った。


「昨日は、ありがとうございました。未成年の名前を外してくれて」

「市の判断です」

「市役所もたまには人間として判断をするんですね」


林美沙が横から言った。


「加納、そういう言い方をしない」


加納はすぐに頭を下げた。


「すみません」


怒りが続かない。

若さのせいか、性格のせいか、あるいは本当に人を傷つけることに慣れていないのか。


西野は部屋を見回した。


奥の机にいる老いた男が、西野を観察していた。五十代後半。黒縁眼鏡。痩せている。労組の古い活動家に見えるが、着ている上着は妙に上等だった。襟元に小さなピンバッジがある。


赤い星と桜。

東側のものだった。

男は名乗った。


「大垣修平です。救援会の事務局をやっています」

「市役所の西野です」

「お噂は」

「噂になる仕事はしていません」

「役所の人は、そうおっしゃる」


大垣は笑った。笑い方に湿り気があった。


「書籍配布の件ですね。名簿は班ごとに整理しています。あとで総括を――」

「大垣さん」


加納が遮った。


「その言葉、やめませんか」


大垣は眉を上げた。


「どの言葉だ」

「総括です」


事務所の空気が少し動いた。

加納は本を抱えたまま続けた。


「被災者支援です。党の会議じゃありません」


大垣の目が冷えた。


「言葉を怖がるから、西の教育は弱い」

「言葉じゃありません。言葉に隠れるものが怖いんです」


西野は黙って聞いていた。


総括――東の、いや共産主義特有の単語。


訓練所の教室。白い壁。木の椅子。藤堂鶴彦の声。

行動のあとには総括がある。総括なき行動は、人民への背信である。


その言葉は、二十五年経ってもまだ耳の奥に残っていた。


林美沙が間に入った。


「大垣さん、名簿は私が見ます。未成年の名前は学校単位まで。個人名は残しません」

「それでは誰が協力してくれたか分からない」

「名前を残せば公安に渡ります」

「渡って困ることはしてないだろ」


林は包帯の巻かれた手を机に置いた。


「名前を書かれるのは、あなたじゃない」


大垣は口を閉じた。

加納はそのやり取りを見ていた。反論したそうだったが、言わなかった。言えば林の足を引っ張ることを知っている顔だった。


西野は、机の上の名簿を見た。

名前。住所。年齢。扶養者。通学先。被災状況。

また名前だった。


どの国も、まず名前を書く。

書いてから、助けるか、疑うか、消すかを決める。


部屋の隅で、朝鮮避難民の母親が子どもを抱いていた。子どもは熱があるらしく、顔が赤い。林がそこへ行き、額に手を当てた。


「昨夜から?」


母親はたどたどしい日本語で答えた。


「夜、熱。薬、ない」


林は西野を振り返った。


「市役所で医療券、今日中に出せますか」

「書類が揃えば」

「揃わない時は」

「揃える」


林は西野を見た。


「市役所の人の顔をしてますね」

「市役所の人間です」

「顔の話です」


加納が小さく笑いかけて、すぐにやめた。


西野は母親から名前を聞き、手帳に書いた。

子どもの名。住所。保証人。金斗満の食堂の裏手。


「金さんを保証人にする」


母親は少し安心した顔をした。

林が言った。


「金さん、また怒りますよ」

「怒るだけなら、市役所より早い」


加納が言った。


「市役所の人が、そんなこと言うんですか」

「市役所の人間だから言う」


大垣が奥で咳をした。


「西野さん。あなたは、こちらの活動に理解があるようですね」

「ありません」


即答した。


大垣は笑った。


「理解がない方が、柔らかい時もある」


西野は大垣の襟のピンバッジを見た。


「東京のものですか」


大垣の指が、襟元に触れた。


「古い友人からの土産です。人民文化会館の記念品でね。向こうは、芸術に国境を設けない」


林が冷たく言った。


「国境は設けないけど、出国許可は要るそうですね」


大垣は聞こえないふりをした。

加納は苦い顔をしていた。

西野は本の山に目を落とした。


一冊だけ、見慣れない表紙があった。淡い青の紙に、赤い星と子どもの絵。題名は『雪の日のドゥルージナ』。日本語の下に、ロシア語が併記されている。発行元は東京人民児童出版社。製造年は人民暦二十七年。


麻里が見たら、何と言うだろう。

悪い本なのか、と聞くだろう。


子どもたちが共同住宅の雪かきをする話だ。

赤い星のついた腕章を巻き、年寄りの部屋へ石炭を運ぶ。最後に班長が褒める。


それだけなら、悪い本ではない。

それだけで済まないから、国は本を恐れる。

加納がその本に気づき、そっと別の箱へ移した。


「それは配らないのか」


西野が聞いた。

加納は少し迷ってから答えた。


「配れば、子どもの家に公安が来ます」

「内容は」

「子どもが雪かきをする話です」

「それでもか」

「それでもです」


加納は本を箱に入れた。


「東の本が全部正しいとは思いません。でも、西で読めない本が全部間違ってるとも思えません」


西野は何も言わなかった。

林が薬箱を閉じた。


「加納、理屈はいいから、この箱を階下へ」


加納は本の箱を持ち上げた。思ったより重かったのか、少しよろけた。

西野は手を出さなかった。

林が代わりに箱の片側を持った。


「力がないのに、全部持とうとする」

「持てます」

「持てないものを持てると言う人から潰れます」


林の声は、優しくなかった。

だから優しかった。

大垣が事務所の奥から缶詰を持ってきた。


「差し入れだ。東京経由で入ったものらしい」


缶には日本語とロシア語が並んでいた。

新潟人民水産公社。鰊油漬。人民暦二十八年製造。

林が眉をひそめた。


「これ、避難民の人たちに出すんですか」

「食べ物に思想はない」


大垣が言った。

その時、階段を上がってきた金斗満が、缶を見て足を止めた。


「赤い国の缶詰を、赤から逃げてきた人間に食わせるんか」


大垣は笑った。


「中身は魚ですよ」


金の目は笑っていなかった。


「魚にも、どこを泳いだかはある」


事務所が沈黙した。

西野は金を見た。


「何しに来た」

「医療券の話で来たら、魚が先に臭った」


金は子どもを抱いた母親を見て、舌打ちした。


「また熱か。店に寝かせとけと言うたやろ」


母親は小さく頭を下げた。

金は西野に近づき、低く言った。


「あんたがここにおると、空気が硬くなる」

「元から硬い」

「違う硬さや」


金は加納の方を見た。


「あの子に近づくなと言うた」

「向こうが来た」

「それが一番悪い」


西野は返さなかった。

林が金に言った。


「医療券、今日中に出るそうです」

「ほんまか」

「西野さんが言いました」


金は西野を見た。


「役所の言葉か」

「俺の言葉や」

「どっちが信用できるんや」

「どっちも似たようなもんやな」


金は鼻で笑った。


「ほな、信頼できんわな」


事務所の窓の外で、市電の音がした。


その音に紛れて、ラジオのスイッチがまた入った。誰かが触れたのか、故障か。東京人民放送の声が、ノイズの中から浮かび上がる。


――西日本政府は、善意の救援活動をも国家保安法の対象とし、市民の名前を収集しています。人民日本政府は、被災者への人道支援を拒みません。労働者と市民の連帯こそが――


加納がすぐにラジオを切った。

大垣が言った。


「なぜ切る」

「聞かれたら困ります」

「聞かれて困る自由など、自由ではない」


加納は振り返った。


「捕まるのは、あなたじゃなくて学生です」


大垣の顔が固まった。

林が低く言った。


「その通りです」


金斗満が缶詰を見ながら笑った。


「赤い放送も、西の公安も、若いのにだけ耳がええ」


西野は部屋の全員を見た。

大垣。加納。林。金。朝鮮避難民の母親。ビラを折る学生。階段の近くで黙っている作業着の男。壁際で新聞を読んでいる老教師風の男。

誰が敵か。

答えはなかった。

少なくとも、一種類ではなかった。


大垣は東を夢見ている。

加納は西を疑っている。

林は薬を探している。

金は赤を憎んでいる。

公安はこの場所を見ている。

東側も、たぶん見ている。


そして西野は、殺すために来ている。

林美沙がふいに言った。


「西野さん」

「何ですか」

「あなたは、どちらを見る人ですか」


加納が顔を上げた。

金も黙った。

質問は、あまりにも真ん中を突いていた。

西野は答えた。


「書類を見る人間です」


林は目を細めた。


「だから顔の話だと言ったんです」


その時、階段下で足音がした。

軽い足音ではない。二人。たぶん男。止まり方が揃っていた。

事務所の全員が、一瞬だけ黙った。


加納が窓の外を見た。

林は薬箱を閉じた。

大垣はピンバッジに触れた。

金斗満は缶詰を机の下へ押し込んだ。


扉が開いた。

入ってきたのは、郵便配達員だった。


「大阪冬季救援会さん。速達です」


誰かが息を吐いた。

郵便配達員は帽子を取らず、封筒を一通置いて帰った。


宛名は、大阪冬季救援会。

差出人は空白。


大垣が封筒を取ろうとした。

その前に、加納が手を伸ばした。


「僕が見ます」


大垣は加納を見た。


「なぜ君が」

「最近、変な郵便が多いので」


林が言った。


「ここで開けない方がいい」


西野は黙っていた。

加納は封筒を懐に入れた。

その動作は自然だった。

自然に見せようとしすぎていた。


西野には分かった。

加納は、その封筒を待っていた。

西野は鞄を持ち上げた。


「書類は確認した。医療券は今日中に出す」


林がうなずいた。


「お願いします」


加納が西野を見た。


「西野さん」

「何や」

「少しだけ、あとで時間をもらえますか」


林の顔が動いた。

金斗満が鍋の火を切った。

大垣は書類に目を落とすふりをした。

加納は続けた。


「あなたに会いたがっている人がいます」


事務所の外では、また市電が通った。

窓ガラスが小さく震えた。

西野は加納を見た。


「誰だ」


加納は答えなかった。

ただ、封筒を押さえた手に力を入れた。


「ここでは言えません」


西野の鞄の中で、紙袋に包まれた鉄が重さを持った。

さっきまで軽すぎたものが、急に人間一人分に近づいた。


加納誠は、西野を信じている顔ではなかった。


誰かに教えられた条件を、ひとつずつ照合している顔だった。


それが一番、始末に悪かった。

最後までお読みいただきありがとうございました!

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