第七話 信用確認
朝の市役所には、まだ加納誠の座った椅子が残っていた。
ただの椅子だった。木の背もたれに傷があり、座面の端が少し剥げている。昨日も、一昨日も、誰かが座った。明日も誰かが座る。
それでも西野芳彦には、そこだけが少し違って見えた。
加納は、そこに座っていた。
書籍提供の申請書を出し、東側出版物は全部駄目なのかと聞き、仮一覧から未成年の名前を外すと言った。古い文庫本を落とし、宮沢賢治を拾い上げた。
西野麻里の名前を、公安に渡る紙から消した男。
そして、信用確認第一対象。
西野は椅子から目を離した。
机の上には、葬祭扶助、医療扶助、住宅斡旋、公安照会、そして救援物資の配布表が積まれていた。紙は増える。人は減る。役所では、いつもそうだった。
佐伯隆司が隣で引き出しを開け閉めしていた。
「西野さん、煙草見ませんでした?」
「吸わん」
「吸わん人間の机から出てきたら、それはそれで怖いですな」
「諦めろ」
「諦めの悪さで役所に残ってます」
佐伯は笑い、机の下から潰れた箱を見つけた。
「一本だけ残ってましたわ。奇跡や」
「税金の無駄やな」
「市民に夢を与える仕事です」
佐伯は火をつけようとして、木島晴江に睨まれた。
「窓口が開く前だけにしてください」
「木島さん、最近、課長に似てきましたな」
「それは訴えます」
佐伯は笑って火を消した。
西野は処理簿を開いた。
昨日の加納誠の申請記録。
大阪冬季救援会。
書籍整理班。
未成年者名簿差替済。
公安照会、保留。
保留。
便利な言葉だった。
決めなかったことを、決めたように見せられる。
午前中、窓口は混んだ。
地下鉄爆破で父を亡くした少年の通学費。
母親が入院した老人の保証人。
朝鮮避難民世帯の暖房費。
夫が公安に拘束された女の扶養照会。
人は順番に並ぶ。
不幸にも、整理番号があった。
昼前、庁内電話が鳴った。
佐伯が取った。
「保護第一課。はい。……西野さん、国際貿易会館から。スウェーデン工作機械展の担当やそうです」
西野は受話器を取った。
「西野です」
相手は男の声だった。知らない声だった。
「先日お問い合わせいただいた資料の件で、追加のカタログが届いております」
西野は、何も問い合わせていなかった。
「いつまでに」
「本日、十五時までに。以後は展示替えになります」
「分かりました」
受話器を置いた。
佐伯が煙草の箱を振った。
「工作機械ですか」
「市役所も、たまには機械化せんとな」
「まず課長を機械化しましょう。怒る機能だけ残して」
木島が笑いそうになり、書類で口元を隠した。
三好課長は奥の机で公安からの封筒を読んでいた。聞こえていたはずだが、何も言わなかった。
十五時前、西野は市役所を出た。
今回は尾はついていなかった。少なくとも、ついていないように見せる程度には、相手も学んでいた。
大阪国際貿易会館の一階ロビーでは、工作機械展が開かれていた。銀色の切削機、油の匂い、外国語のカタログ。西ドイツ、スウェーデン、フランス。反共国家の大阪で、資本と機械だけは静かに国境を越えていた。
受付の女が、白い封筒を渡した。
「こちらが追加資料です」
封筒には、スウェーデン語の会社名が印刷されていた。
西野は礼を言い、喫茶室に入った。
葛城怜二は奥の席にいた。
灰色の背広。薄いネクタイ。中立国商社の通訳証。机の上には紅茶が置かれていた。
葛城は、紅茶に苺ジャムを落とした。
大阪では少し目立つ飲み方だった。
東京では、もう珍しくない。
西野は向かいに座った。
「工作機械には詳しくない」
「私もです」
葛城はスプーンで紅茶を一度だけかき混ぜた。
「ですが、機械は便利です。人間より故障の理由がはっきりしている」
「人間も、理由をつけられて壊される」
「理由のない故障は、処分が難しい」
葛城はカップを置いた。
西野は封筒を開けた。
中には本当に工作機械のカタログが数枚入っていた。切削速度、軸径、輸出規制品目。その間に、薄い紙が一枚だけ挟まれている。
人民暦二十八年十一月
信用確認第一対象
加納誠
処分期限 三日以内
西野は紙を畳まず、机の上に置いた。
「学生だ」
「接触線です」
葛城は言った。
「人間ではなく」
「人間であることは否定しません。ですが、本件では接触線です」
「誰との」
「藤堂鶴彦」
その名が出ると、喫茶室の音が少し遠くなった。
「証拠は」
「山下敬一との接触。大阪冬季救援会の名簿操作。西成日雇い労組との連絡。市役所への接近。あなたの家族周辺への接触」
西野は葛城を見た。
「家族」
葛城はカップを持った。
「お嬢さんのお名前が、対象の仮一覧にありました」
「市役所の正式書類からは外した」
「正式書類からは、です」
葛城は静かに言った。
「紙は一枚ではありません。あなたの方がよくご存じでしょう」
西野は答えなかった。
葛城は続けた。
「対象は、あなたの家庭周辺に触れています。感情介入の前に処理してください」
「麻里は関係ない」
「だからです」
葛城の声は柔らかかった。
柔らかいものほど、刃が深く入ることがある。
「関係ができる前に切る。これは、配置員を守る措置でもあります」
「守る」
西野は小さく笑った。
「対象を殺せと言っている」
「接触線を切れと言っています」
「言葉を変えるな」
「言葉は正確に使うべきです」
西野は紙を見た。
処分期限 三日以内。
三日。
役所では、三日あれば住所照会ができる。扶養関係が確認できる。葬祭扶助の仮払いも、急げば通せる。
人を殺すにも、十分な時間だった。
葛城は紅茶を飲んだ。
「西日本では、困窮者が窓口で頭を下げるそうですね」
「見てきたのか」
「報告で」
「報告は、人間の匂いを削る」
「匂いは制度に不要です」
葛城は言った。
「東では、生活は職場単位で把握されます。住居、配給、医療、教育。個人の哀願ではなく、人民の権利として処理される」
「把握されることを、権利と呼ぶのか」
「把握されない人間は、守られません」
「把握された人間は、逃げられない」
葛城は少しだけ微笑した。
「逃げる必要のない社会を作るのが、政治です」
「逃げた人間を何人も見た」
「逃げる人間には理由があります」
「消される名前にも、理由があると言いたいのか」
「理由のない処理はありません」
西野は、机の上の紙を指で押さえた。
「加納誠にも理由がある」
「あります」
「俺の娘の名前を正式書類から外した」
葛城は表情を変えなかった。
「それは対象の危険性を示します」
「なぜ」
「対象は、制度のどこを避ければ人を守れるか理解している。そういう者は、ただの学生より危険です」
喫茶室の外で、外国人の笑い声がした。
工作機械の展示会。西側の商社。中立国の通訳。東側の命令。大阪の昼。
すべてが同じ空気の中にあった。
西野は言った。
「加納は東を信じていない」
「構いません」
「西も信じていない」
「だから使えます」
その言い方は、乾いていた。
加納が何を信じているかではない。
どこに立っているかでもない。
どの線につながっているか。
どこを切れば何が止まるか。
葛城にとって、世界は線でできていた。
人間ではなく。
「対象処分後、藤堂への線は」
「別途提示します」
「加納を切れば、藤堂への線も切れるのでは」
「それを確認するための信用確認です」
「俺が殺せば、線が切れる。俺が殺さなければ、俺が線になる」
葛城は初めて、少しだけ西野を見直すような目をした。
「理解が早い」
「市役所に長くいると、書類の裏が見える」
「西に長くいると、皮肉も増える」
葛城はカップを置いた。
「三日以内です」
「方法は」
「任せます」
「監視は」
「あります」
「西か、東か」
「どちらも」
正直だった。
正直である必要のある場面だけ、葛城は正直になる。
「昨日、鶴橋にいた作業服の男は」
「現地確認員です」
「弱かった」
「配置員の強さを測るには、十分でした」
「腕を折ってもよかった」
「折らなかった」
「なぜだと思う」
葛城は少し考えた。
「西側の尾を気にしたから」
「それだけだ」
「そうであることを望みます」
沈黙が落ちた。
葛城は鞄から、小さなマッチ箱を出した。東京湾岸ホテルのマークが入っていた。桜と赤い星を組み合わせた意匠。外資ホテルにしては、党の匂いが濃い。
「東京は変わりました」
葛城は言った。
「あなたが知っている東京ではありません。湾岸にはホテルが建ち、合弁企業が入り、若い技師たちはロシア語とドイツ語を使う。労働者住宅には集中暖房が入っています。西で人が石炭代を申請している間に、東では建物ごと暖める」
「その建物から出られるのか」
「必要があれば」
「誰の必要だ」
葛城は答えなかった。
西野はマッチ箱を見た。
東京湾岸ホテル。
人民暦二十八年開業。
三十年で、国は習慣を作る。
食べ方。暦。言葉。ホテルの印刷物。人を消す理由。
西野の知っている東は、もう東ではないのかもしれない。
それでも、命令だけは変わらなかった。
葛城は立ち上がった。
「対象の周辺に、林美沙という女性がいます。看護学校生。救援会で負傷者対応。警戒してください」
「彼女も処分対象か」
「現在は違います」
「現在は」
「状況は変わります」
葛城は通訳証を整えた。
「西野さん。あなたは、まだこちら側の人間ですか」
西野は紙を畳んだ。
「それを確認するんだろう」
「ええ」
葛城は微笑した。
「三日後までに」
葛城は喫茶室を出ていった。
西野はしばらく座っていた。
紅茶の表面に、溶け残った苺ジャムが赤く沈んでいた。
血には見えなかった。
血に見えるほど、まだ何も始まっていない。
市役所へ戻る前に、西野は国際貿易会館の地下へ降りた。
コインロッカーが並んでいる。外国商社の社員、通訳、運送業者が使う場所だった。西野は古い鍵を取り出した。二十五年前に受け取った鍵ではない。西側で、別の名前を使って作った鍵だった。
二十七番。
鍵を回す。
中には、茶色い紙袋が入っていた。
外から見れば、機械部品のカタログ束に見える。中には油紙に包まれた小型拳銃と、弾倉が二つ。西側製ではない。東側製でもない。中立国を経由して入った、出所の薄い鉄だった。
西野はそれを手に取った。
軽かった。
軽すぎた。
人間一人分には、いつも足りない重さだった。
その時、背後でロッカーが一つ閉まった。
西野は振り向かなかった。
足音が遠ざかる。
女の足音だった。
紺のスカーフ。
あるいは、別の誰か。
西野は拳銃を紙袋に戻し、鞄に入れた。
地上へ上がると、展示会のロビーでは、工作機械が静かに回っていた。金属を削る刃だけが、正確な音を立てている。
人間を削る音は、もっと静かだった。
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