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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第七話 信用確認

朝の市役所には、まだ加納誠の座った椅子が残っていた。


ただの椅子だった。木の背もたれに傷があり、座面の端が少し剥げている。昨日も、一昨日も、誰かが座った。明日も誰かが座る。


それでも西野芳彦には、そこだけが少し違って見えた。


加納は、そこに座っていた。


書籍提供の申請書を出し、東側出版物は全部駄目なのかと聞き、仮一覧から未成年の名前を外すと言った。古い文庫本を落とし、宮沢賢治を拾い上げた。


西野麻里の名前を、公安に渡る紙から消した男。


そして、信用確認第一対象。


西野は椅子から目を離した。


机の上には、葬祭扶助、医療扶助、住宅斡旋、公安照会、そして救援物資の配布表が積まれていた。紙は増える。人は減る。役所では、いつもそうだった。

佐伯隆司が隣で引き出しを開け閉めしていた。


「西野さん、煙草見ませんでした?」

「吸わん」

「吸わん人間の机から出てきたら、それはそれで怖いですな」

「諦めろ」

「諦めの悪さで役所に残ってます」


佐伯は笑い、机の下から潰れた箱を見つけた。


「一本だけ残ってましたわ。奇跡や」

「税金の無駄やな」

「市民に夢を与える仕事です」


佐伯は火をつけようとして、木島晴江に睨まれた。


「窓口が開く前だけにしてください」

「木島さん、最近、課長に似てきましたな」

「それは訴えます」


佐伯は笑って火を消した。

西野は処理簿を開いた。


昨日の加納誠の申請記録。

大阪冬季救援会。

書籍整理班。

未成年者名簿差替済。

公安照会、保留。


保留。


便利な言葉だった。

決めなかったことを、決めたように見せられる。


午前中、窓口は混んだ。


地下鉄爆破で父を亡くした少年の通学費。

母親が入院した老人の保証人。

朝鮮避難民世帯の暖房費。

夫が公安に拘束された女の扶養照会。


人は順番に並ぶ。

不幸にも、整理番号があった。

昼前、庁内電話が鳴った。

佐伯が取った。


「保護第一課。はい。……西野さん、国際貿易会館から。スウェーデン工作機械展の担当やそうです」


西野は受話器を取った。


「西野です」


相手は男の声だった。知らない声だった。


「先日お問い合わせいただいた資料の件で、追加のカタログが届いております」


西野は、何も問い合わせていなかった。


「いつまでに」

「本日、十五時までに。以後は展示替えになります」

「分かりました」


受話器を置いた。

佐伯が煙草の箱を振った。


「工作機械ですか」

「市役所も、たまには機械化せんとな」

「まず課長を機械化しましょう。怒る機能だけ残して」


木島が笑いそうになり、書類で口元を隠した。

三好課長は奥の机で公安からの封筒を読んでいた。聞こえていたはずだが、何も言わなかった。


十五時前、西野は市役所を出た。

今回は尾はついていなかった。少なくとも、ついていないように見せる程度には、相手も学んでいた。


大阪国際貿易会館の一階ロビーでは、工作機械展が開かれていた。銀色の切削機、油の匂い、外国語のカタログ。西ドイツ、スウェーデン、フランス。反共国家の大阪で、資本と機械だけは静かに国境を越えていた。

受付の女が、白い封筒を渡した。


「こちらが追加資料です」


封筒には、スウェーデン語の会社名が印刷されていた。

西野は礼を言い、喫茶室に入った。

葛城怜二は奥の席にいた。


灰色の背広。薄いネクタイ。中立国商社の通訳証。机の上には紅茶が置かれていた。


葛城は、紅茶に苺ジャムを落とした。


大阪では少し目立つ飲み方だった。

東京では、もう珍しくない。


西野は向かいに座った。


「工作機械には詳しくない」

「私もです」


葛城はスプーンで紅茶を一度だけかき混ぜた。


「ですが、機械は便利です。人間より故障の理由がはっきりしている」

「人間も、理由をつけられて壊される」

「理由のない故障は、処分が難しい」


葛城はカップを置いた。

西野は封筒を開けた。


中には本当に工作機械のカタログが数枚入っていた。切削速度、軸径、輸出規制品目。その間に、薄い紙が一枚だけ挟まれている。


人民暦二十八年十一月

信用確認第一対象

加納誠

処分期限 三日以内


西野は紙を畳まず、机の上に置いた。


「学生だ」

「接触線です」


葛城は言った。


「人間ではなく」

「人間であることは否定しません。ですが、本件では接触線です」

「誰との」

「藤堂鶴彦」


その名が出ると、喫茶室の音が少し遠くなった。


「証拠は」

「山下敬一との接触。大阪冬季救援会の名簿操作。西成日雇い労組との連絡。市役所への接近。あなたの家族周辺への接触」


西野は葛城を見た。


「家族」


葛城はカップを持った。


「お嬢さんのお名前が、対象の仮一覧にありました」

「市役所の正式書類からは外した」

「正式書類からは、です」


葛城は静かに言った。


「紙は一枚ではありません。あなたの方がよくご存じでしょう」


西野は答えなかった。


葛城は続けた。


「対象は、あなたの家庭周辺に触れています。感情介入の前に処理してください」

「麻里は関係ない」

「だからです」


葛城の声は柔らかかった。


柔らかいものほど、刃が深く入ることがある。


「関係ができる前に切る。これは、配置員を守る措置でもあります」

「守る」


西野は小さく笑った。


「対象を殺せと言っている」

「接触線を切れと言っています」

「言葉を変えるな」

「言葉は正確に使うべきです」


西野は紙を見た。


処分期限 三日以内。


三日。


役所では、三日あれば住所照会ができる。扶養関係が確認できる。葬祭扶助の仮払いも、急げば通せる。


人を殺すにも、十分な時間だった。


葛城は紅茶を飲んだ。


「西日本では、困窮者が窓口で頭を下げるそうですね」

「見てきたのか」

「報告で」

「報告は、人間の匂いを削る」

「匂いは制度に不要です」


葛城は言った。


「東では、生活は職場単位で把握されます。住居、配給、医療、教育。個人の哀願ではなく、人民の権利として処理される」

「把握されることを、権利と呼ぶのか」

「把握されない人間は、守られません」

「把握された人間は、逃げられない」


葛城は少しだけ微笑した。


「逃げる必要のない社会を作るのが、政治です」

「逃げた人間を何人も見た」

「逃げる人間には理由があります」

「消される名前にも、理由があると言いたいのか」

「理由のない処理はありません」


西野は、机の上の紙を指で押さえた。


「加納誠にも理由がある」

「あります」

「俺の娘の名前を正式書類から外した」


葛城は表情を変えなかった。


「それは対象の危険性を示します」

「なぜ」

「対象は、制度のどこを避ければ人を守れるか理解している。そういう者は、ただの学生より危険です」


喫茶室の外で、外国人の笑い声がした。


工作機械の展示会。西側の商社。中立国の通訳。東側の命令。大阪の昼。


すべてが同じ空気の中にあった。


西野は言った。


「加納は東を信じていない」

「構いません」

「西も信じていない」

「だから使えます」


その言い方は、乾いていた。


加納が何を信じているかではない。

どこに立っているかでもない。

どの線につながっているか。

どこを切れば何が止まるか。


葛城にとって、世界は線でできていた。


人間ではなく。


「対象処分後、藤堂への線は」

「別途提示します」

「加納を切れば、藤堂への線も切れるのでは」

「それを確認するための信用確認です」

「俺が殺せば、線が切れる。俺が殺さなければ、俺が線になる」


葛城は初めて、少しだけ西野を見直すような目をした。


「理解が早い」

「市役所に長くいると、書類の裏が見える」

「西に長くいると、皮肉も増える」


葛城はカップを置いた。


「三日以内です」

「方法は」

「任せます」

「監視は」

「あります」

「西か、東か」

「どちらも」


正直だった。

正直である必要のある場面だけ、葛城は正直になる。


「昨日、鶴橋にいた作業服の男は」

「現地確認員です」

「弱かった」

「配置員の強さを測るには、十分でした」

「腕を折ってもよかった」

「折らなかった」

「なぜだと思う」


葛城は少し考えた。


「西側の尾を気にしたから」

「それだけだ」

「そうであることを望みます」


沈黙が落ちた。

葛城は鞄から、小さなマッチ箱を出した。東京湾岸ホテルのマークが入っていた。桜と赤い星を組み合わせた意匠。外資ホテルにしては、党の匂いが濃い。


「東京は変わりました」


葛城は言った。


「あなたが知っている東京ではありません。湾岸にはホテルが建ち、合弁企業が入り、若い技師たちはロシア語とドイツ語を使う。労働者住宅には集中暖房が入っています。西で人が石炭代を申請している間に、東では建物ごと暖める」

「その建物から出られるのか」

「必要があれば」

「誰の必要だ」


葛城は答えなかった。


西野はマッチ箱を見た。


東京湾岸ホテル。

人民暦二十八年開業。


三十年で、国は習慣を作る。

食べ方。暦。言葉。ホテルの印刷物。人を消す理由。


西野の知っている東は、もう東ではないのかもしれない。


それでも、命令だけは変わらなかった。


葛城は立ち上がった。


「対象の周辺に、林美沙という女性がいます。看護学校生。救援会で負傷者対応。警戒してください」

「彼女も処分対象か」

「現在は違います」

「現在は」

「状況は変わります」


葛城は通訳証を整えた。


「西野さん。あなたは、まだこちら側の人間ですか」


西野は紙を畳んだ。


「それを確認するんだろう」

「ええ」


葛城は微笑した。


「三日後までに」


葛城は喫茶室を出ていった。

西野はしばらく座っていた。

紅茶の表面に、溶け残った苺ジャムが赤く沈んでいた。


血には見えなかった。

血に見えるほど、まだ何も始まっていない。

市役所へ戻る前に、西野は国際貿易会館の地下へ降りた。


コインロッカーが並んでいる。外国商社の社員、通訳、運送業者が使う場所だった。西野は古い鍵を取り出した。二十五年前に受け取った鍵ではない。西側で、別の名前を使って作った鍵だった。


二十七番。


鍵を回す。

中には、茶色い紙袋が入っていた。

外から見れば、機械部品のカタログ束に見える。中には油紙に包まれた小型拳銃と、弾倉が二つ。西側製ではない。東側製でもない。中立国を経由して入った、出所の薄い鉄だった。


西野はそれを手に取った。


軽かった。


軽すぎた。


人間一人分には、いつも足りない重さだった。


その時、背後でロッカーが一つ閉まった。

西野は振り向かなかった。

足音が遠ざかる。


女の足音だった。

紺のスカーフ。


あるいは、別の誰か。

西野は拳銃を紙袋に戻し、鞄に入れた。


地上へ上がると、展示会のロビーでは、工作機械が静かに回っていた。金属を削る刃だけが、正確な音を立てている。


人間を削る音は、もっと静かだった。

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