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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第六話 書籍整理班

朝、麻里は父と目を合わせなかった。


味噌汁を飲み、卵焼きをひと切れ残し、英単語帳を鞄に押し込んだ。昨日のビラは食卓にはなかった。鞄の中に戻したのか、捨てたのか、どちらでもない場所に隠したのか。


西野芳彦は聞かなかった。


聞けば、答えが必要になる。


紀子は台所で弁当箱を包んでいた。いつもと同じ手つきだった。麻里が玄関で靴を履く。


「いってきます」

「ああ」


西野が答えると、麻里は一瞬だけこちらを見た。

何か言いたそうだった。

しかし、言わなかった。


扉が閉まる。

紀子は弁当箱を風呂敷に包み、夫の前へ置いた。


「あなたも、言わないことが増えたわね」


西野は茶碗を置いた。


「前からや」

「前からなら、増えないわ」


紀子はそう言って、流しの方へ戻った。

西野はそれ以上、何も返さなかった。


市役所に着くと、保護第一課はすでに騒がしかった。


地下鉄爆破から数日が経ち、窓口の混乱は少しだけ形を変えていた。葬祭扶助、医療扶助、住宅斡旋。その次に来るのは、子どもの教科書、制服、通学費、身寄りのない老人の入院保証人だった。


人は死ぬ。

家は焼ける。

それでも翌週には、学校が始まる。


役所はその順番で動く。

西野は机に座り、処理簿を開いた。


昨日の「信用確認第一対象」の紙は、もうなかった。燃やした。灰は流した。


だが、燃やしたものほど、頭の中では形がはっきり残る。

加納誠。

佐伯隆司が隣の机から声をかけた。


「西野さん、昨日、早かったですね。帰るの」

「夜八時が早いなら、この役所はもう終わってる」

「終わってるんと違いますか」


佐伯は煙草をくわえようとして、木島に睨まれ、火をつけるのをやめた。


「今日はまた救援会の書類が来てますわ」

「大阪冬季救援会か」

「そう。今度は本です。本を集めるにも役所の判子が要るんですな」

「本ほど面倒な荷物はない」

「重いから?」

「燃えやすいからや」


佐伯は少し笑った。


「西野さん、たまに怖いこと言いますな」


西野は返事をしなかった。

木島晴江が書類を抱えてやって来た。


「西野さん、これです。地下鉄爆破被災者児童への教科書・書籍提供。協力団体は大阪冬季救援会。申請者が来ています」


「申請者」

「加納誠さん」


木島がその名を口にした時、何かが机の上に落ちたようだった。


音はしなかった。


佐伯は引き出しを閉める手を止めた。

ほんの一瞬だった。


西野は書類を受け取った。


「窓口へ通せ」

「課長は公安照会を付けると思います」

「課長にはあとで言う」

「最近、そればっかりですね」

「便利な言葉や」


木島は苦笑して、窓口へ戻った。

数分後、加納誠が入ってきた。


昨日の鶴橋と同じ古いコートを着ていた。雨は降っていないのに、袖口が少し湿っている。どこかで濡れた荷物を持ったのだろう。頬にはかすかな擦り傷があった。昨日、右派の男に押された時のものかもしれない。


加納は窓口の椅子に座ると、丁寧に頭を下げた。


「大阪冬季救援会の加納です。書籍提供の件で」


声は少し固い。

若さを隠そうとして失敗している声だった。

西野は申請書を見た。


「教科書、絵本、参考書、児童向け図書。配布対象は地下鉄爆破被災者児童」

「はい」

「配布場所は」

「市役所の指定場所に従います。こちらで直接配ると、問題になると聞きましたので」

「誰に」


加納は一瞬、言葉を止めた。


「市の方に」


嘘だった。

ただし、悪い嘘ではない。誰かを守るための、雑な嘘だった。

西野は鉛筆を取った。


「書籍の検品は市で行う。政治宣伝物、東側出版物、無許可翻訳本は除外」

「東側出版物は、全部駄目ですか」


加納が言った。

木島が少し顔を上げた。

西野は加納を見た。


「配布先に子どもがいる」

「子どもが読むから、なおさら選ぶべきでは」

「選ぶのは親と学校や」

「親を亡くした子もいます」


加納の声が低くなった。


「それで、今回の支援です」

「すみません」


加納はすぐに頭を下げた。

怒りが持続しない。怒る訓練を受けていない。

あるいは、怒りを自分の中で正しい形にできない。


西野は、机の端にあった鉛筆を一本、わざと落とした。

鉛筆は床を転がり、加納の足元で止まった。


加納は反射的に拾った。


右手。

指先にインクと紙粉。

親指の側面には鉛筆だこ。

拳の握り方は、喧嘩を知らない者の握り方だった。


加納は鉛筆を西野に返した。


「どうぞ」

「ありがとう」


西野は鉛筆を受け取った。


武器を持つ手ではない。

紙を持つ手だった。


三好課長が奥から出てきた。


「救援会か」


加納の背中がわずかに硬くなった。

三好は申請書を見た。


「協力団体が多いな。学生自治会、労組、朝鮮避難民支援団体」

「被災者支援に協力していただいています」


加納は言った。


「思想団体の隠れ蓑やないのか」


木島が小さく息を吸った。

加納は唇を結んだ。


「本を集めることが、思想になりますか」


三好の目が細くなった。


「本ほど思想になるものはない」

「なら、検品してください。市役所で」


加納は申請書を指で押さえた。


「配布先も、市で決めてください。団体名も出さなくてかまいません。僕らは本を持ってくるだけでいい」


三好は返事をしなかった。

西野は申請書をめくった。


添付資料の中に、協力者一覧があった。

学校別、団体別、連絡係。


大阪府立北浜高等女学校。

書籍回収協力者。

西野麻里。


西野の目は止まらなかった。


紙を一枚めくっただけだった。

だが、名前はそこにあった。

麻里。

同じ欄に、加納誠の名がある。


木島が覗き込もうとしたので、西野は紙束を少しずらした。


「これは提出用か」


加納はすぐに答えた。


「いえ、それは仮の一覧です。学校前で配った時に、名前を書いた子が混ざっています。未成年の名前は正式書類から外します」


「なぜ外す」

「公安に渡ると困るからです」


室内の空気が止まった。

佐伯が遠くで煙草を探すふりをやめた。

三好が低く言った。


「今、何と言った」


加納はしまったという顔をした。

しかし、言葉を戻さなかった。


「子どもが本を集めただけで、公安に名前が行くのはおかしいと思います」

「おかしいかどうかは、君が決めることやない」


三好が言った。


「それで爆弾が防げるなら、僕も黙ります」


加納の声は震えていた。


「でも、名前だけ集めても、爆弾は止まらないでしょう」


三好の顔色が変わった。

木島が何か言おうとした。

西野が先に口を開いた。


「仮一覧は回収する」


加納は西野を見た。


「こちらで正式な提出書類に差し替える。未成年者名は学校名まで。個人名は載せない」


三好が西野を見た。


「西野」

「市としても、未成年者の個人名を外部団体経由で保存するのは避けるべきです」

「公安照会は」

「正式書類で行えます」


三好はしばらく黙った。


「お前は最近、判断が早いな」

「窓口が混んでますから」


佐伯がそこで小さく言った。


「混んでる時ほど、判子は早い方がええですしね」


誰も笑わなかった。

加納は息を吐いた。

目立たないように、しかし深く。

西野は見ていた。

安堵の息だった。

嘘をついた息ではない。


「加納さん」


西野は言った。


「本は、市役所の裏口から搬入してください。正面玄関は使わない」

「どうしてですか」

「混む」

「いつも混んでいるんですか」

「今日は特に混む」


加納は少し首を傾げたが、うなずいた。


「分かりました」

「それと、帰る時は会計課で搬入確認票を取ってください」


木島が目を上げた。


「西野さん、それは搬入後でいいのでは」

「先に渡しておく。二度手間になる」


加納はまた頭を下げた。


「ありがとうございます」


西野は顔を上げなかった。

会計課は、庁舎の東側にあった。正面玄関とは逆方向。公安の男たちがいる小部屋からも遠い。

対象を逃がしたのではない。


保全しただけだ。

そう言えば、任務の言葉になる。

加納は書類をまとめて立ち上がった。

その時、鞄から一冊の本が落ちた。

薄い文庫本だった。


表紙は古く、角がすり切れている。西野の足元で開いた。


宮沢賢治。

西側でも読める作家だった。東側でも読まれている作家だった。

国境の線を、どうにか越えてしまう種類の名前。


加納は慌てて拾った。


「すみません」

「寄付する本か」

「いえ、これは自分のです」


加納は本を鞄に戻した。


「子どもに配るには、少し難しいので」

「読んでいるのか」

「はい」


加納は少しだけ笑った。


「こういう本は、どちらの日本にもあると思いたいので」


三好が奥で舌打ちした。

西野は何も言わなかった。

加納は会計課へ向かった。

西野はその背中を見送った。


廊下の向こう、黒い背広の男がひとり、新聞を持って立っていた。昨日の公安ではない。新しい顔だった。加納が正面玄関へ向かえば、必ず視界に入っただろう。


加納は東側の廊下へ曲がった。

西野は処理簿に判を押した。

押した音が、いつもより乾いて聞こえた。


昼過ぎ、佐伯が西野の机に寄ってきた。


「西野さん、さっきの学生、逃がしました?」

「会計課へ回しただけや」

「役所の迷路に?」

「迷路なら市役所の方が得意や」


佐伯は笑った。


「確かに」


それから声を少し落とした。


「あの一覧、見えましたわ」


西野は書類から目を上げなかった。


「何が」

「西野、という名前」


西野の手は止まらなかった。


「大阪には多い」

「麻里さんも?」


西野はそこで顔を上げた。

佐伯は煙草をくわえていなかった。


「見間違いかもしれませんけど」

「なら、忘れろ」

「忘れるのは苦手で」

「役所に向いてるな」


佐伯は少し笑った。


「同僚としては、忘れたことにしときます」


その言葉の中に、どれだけ同僚がいて、どれだけ別のものが混ざっているのか。


西野には、まだ分からなかった。

分からないものに手を伸ばすには、今日は情報が多すぎた。


夕方、木島が差し替えた正式書類を持ってきた。

未成年者の個人名は消えていた。学校名だけになっている。


「これでいいですか」


西野は確認した。


「いい」

「加納さん、変な人じゃなさそうでしたね」

「変な人間ほど、変じゃなさそうに来る」


木島は眉を寄せた。


「西野さんまで課長みたいなこと言わないでください」

「課長よりは短く言った」

「そういう問題じゃありません」


木島は書類を抱えたまま、少し黙った。


「でも、あの人、怖がってました」

「誰でも怖い」

「怖がりながら来る人を、怪しいと見るんですか」


西野は判子を置いた。


「怖がってない人間の方が怪しい時もある」


木島は納得していない顔だった。

それでいい、と西野は思った。

納得しない者がいなければ、窓口はただの入口になる。


夜、市役所を出ると、雨は降っていなかった。

しかし空は低い。

加納は無事に帰っただろうか。

西野はその考えを消した。


対象の移動を気にしているだけだ。

保全対象だからだ。

信用確認の前に、余計な手で壊されては困る。


言い換えれば、どんな感情も任務になる。


それが訓練の便利さだった。

官舎へ戻る前、西野は一度だけ公衆電話の前で足を止めた。


葛城に連絡する番号は、まだ使える。

しかし受話器は取らなかった。

報告すべきことは多かった。


加納誠が来庁したこと。

救援会の正式書類。

未成年者一覧に麻里の名があったこと。

公安が庁舎内に新しい目を置いたこと。

佐伯が麻里の名を見た可能性があること。


そのどれも、報告すれば家族に近づく。

西野は電話ボックスの前を通り過ぎた。


家に戻ると、麻里はまだ起きていた。

食卓にノートを広げている。紀子は台所で鍋を洗っていた。


麻里は父を見ると、すぐにノートを閉じた。

遅かった。

閉じる前に、表紙が見えた。

書籍回収係。

鉛筆で、小さく書かれていた。

西野は靴を脱いだ。


「名前は書くなと言った」


麻里は唇を結んだ。


「正式な名簿には書いてない」

「誰に聞いた」

「加納さん」


紀子の手が、台所で止まった。

麻里は父を見ていた。


「今日、市役所に行ったんやって。未成年の名前は消すって。ちゃんとしてる人やん」


西野は何も言わなかった。

麻里は続けた。


「お父さんは、何であんなに怖がるの」


怖がっている。

その言葉は、正確すぎた。

西野は鞄を置いた。


「怖がってるように見えるか」

「見える」


麻里は言った。


「東のことも、統一のことも、紙に名前を書くことも。お父さんは、怒ってるんじゃなくて、怖がってる」


紀子は振り向かなかった。

西野は娘を見た。


十七歳。

西日本で生まれ、西日本で育った。

国境を最初からあるものとして知っている世代。


加納誠も、たぶん同じだった。

西野は言った。


「怖がることは、悪いことやない」

「じゃあ、何が悪いの」

「怖がらないふりをすることや」


麻里は黙った。

西野は自分の言葉を聞いていた。

誰に言ったのか分からなかった。

娘にか。

自分にか。

夜、家族が寝静まったあと、西野は自分の右手を見た。


作業服の男の手首を押さえた痕は、もうほとんど消えていた。


かわりに、別の感触が残っている。


窓口で加納が差し出した申請書。

仮一覧にあった麻里の名。

宮沢賢治の古い文庫本。

佐伯の「同僚としては」という声。


加納誠。

対象は、今日、窓口に座った。


息をした。

嘘をついた。

本を落とした。

麻里の名前を消した。


殺すべき名前が、少しずつ人間になっていく。

それが一番、面倒だった。

最後までお読みいただきありがとうございました!

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