第六話 書籍整理班
朝、麻里は父と目を合わせなかった。
味噌汁を飲み、卵焼きをひと切れ残し、英単語帳を鞄に押し込んだ。昨日のビラは食卓にはなかった。鞄の中に戻したのか、捨てたのか、どちらでもない場所に隠したのか。
西野芳彦は聞かなかった。
聞けば、答えが必要になる。
紀子は台所で弁当箱を包んでいた。いつもと同じ手つきだった。麻里が玄関で靴を履く。
「いってきます」
「ああ」
西野が答えると、麻里は一瞬だけこちらを見た。
何か言いたそうだった。
しかし、言わなかった。
扉が閉まる。
紀子は弁当箱を風呂敷に包み、夫の前へ置いた。
「あなたも、言わないことが増えたわね」
西野は茶碗を置いた。
「前からや」
「前からなら、増えないわ」
紀子はそう言って、流しの方へ戻った。
西野はそれ以上、何も返さなかった。
市役所に着くと、保護第一課はすでに騒がしかった。
地下鉄爆破から数日が経ち、窓口の混乱は少しだけ形を変えていた。葬祭扶助、医療扶助、住宅斡旋。その次に来るのは、子どもの教科書、制服、通学費、身寄りのない老人の入院保証人だった。
人は死ぬ。
家は焼ける。
それでも翌週には、学校が始まる。
役所はその順番で動く。
西野は机に座り、処理簿を開いた。
昨日の「信用確認第一対象」の紙は、もうなかった。燃やした。灰は流した。
だが、燃やしたものほど、頭の中では形がはっきり残る。
加納誠。
佐伯隆司が隣の机から声をかけた。
「西野さん、昨日、早かったですね。帰るの」
「夜八時が早いなら、この役所はもう終わってる」
「終わってるんと違いますか」
佐伯は煙草をくわえようとして、木島に睨まれ、火をつけるのをやめた。
「今日はまた救援会の書類が来てますわ」
「大阪冬季救援会か」
「そう。今度は本です。本を集めるにも役所の判子が要るんですな」
「本ほど面倒な荷物はない」
「重いから?」
「燃えやすいからや」
佐伯は少し笑った。
「西野さん、たまに怖いこと言いますな」
西野は返事をしなかった。
木島晴江が書類を抱えてやって来た。
「西野さん、これです。地下鉄爆破被災者児童への教科書・書籍提供。協力団体は大阪冬季救援会。申請者が来ています」
「申請者」
「加納誠さん」
木島がその名を口にした時、何かが机の上に落ちたようだった。
音はしなかった。
佐伯は引き出しを閉める手を止めた。
ほんの一瞬だった。
西野は書類を受け取った。
「窓口へ通せ」
「課長は公安照会を付けると思います」
「課長にはあとで言う」
「最近、そればっかりですね」
「便利な言葉や」
木島は苦笑して、窓口へ戻った。
数分後、加納誠が入ってきた。
昨日の鶴橋と同じ古いコートを着ていた。雨は降っていないのに、袖口が少し湿っている。どこかで濡れた荷物を持ったのだろう。頬にはかすかな擦り傷があった。昨日、右派の男に押された時のものかもしれない。
加納は窓口の椅子に座ると、丁寧に頭を下げた。
「大阪冬季救援会の加納です。書籍提供の件で」
声は少し固い。
若さを隠そうとして失敗している声だった。
西野は申請書を見た。
「教科書、絵本、参考書、児童向け図書。配布対象は地下鉄爆破被災者児童」
「はい」
「配布場所は」
「市役所の指定場所に従います。こちらで直接配ると、問題になると聞きましたので」
「誰に」
加納は一瞬、言葉を止めた。
「市の方に」
嘘だった。
ただし、悪い嘘ではない。誰かを守るための、雑な嘘だった。
西野は鉛筆を取った。
「書籍の検品は市で行う。政治宣伝物、東側出版物、無許可翻訳本は除外」
「東側出版物は、全部駄目ですか」
加納が言った。
木島が少し顔を上げた。
西野は加納を見た。
「配布先に子どもがいる」
「子どもが読むから、なおさら選ぶべきでは」
「選ぶのは親と学校や」
「親を亡くした子もいます」
加納の声が低くなった。
「それで、今回の支援です」
「すみません」
加納はすぐに頭を下げた。
怒りが持続しない。怒る訓練を受けていない。
あるいは、怒りを自分の中で正しい形にできない。
西野は、机の端にあった鉛筆を一本、わざと落とした。
鉛筆は床を転がり、加納の足元で止まった。
加納は反射的に拾った。
右手。
指先にインクと紙粉。
親指の側面には鉛筆だこ。
拳の握り方は、喧嘩を知らない者の握り方だった。
加納は鉛筆を西野に返した。
「どうぞ」
「ありがとう」
西野は鉛筆を受け取った。
武器を持つ手ではない。
紙を持つ手だった。
三好課長が奥から出てきた。
「救援会か」
加納の背中がわずかに硬くなった。
三好は申請書を見た。
「協力団体が多いな。学生自治会、労組、朝鮮避難民支援団体」
「被災者支援に協力していただいています」
加納は言った。
「思想団体の隠れ蓑やないのか」
木島が小さく息を吸った。
加納は唇を結んだ。
「本を集めることが、思想になりますか」
三好の目が細くなった。
「本ほど思想になるものはない」
「なら、検品してください。市役所で」
加納は申請書を指で押さえた。
「配布先も、市で決めてください。団体名も出さなくてかまいません。僕らは本を持ってくるだけでいい」
三好は返事をしなかった。
西野は申請書をめくった。
添付資料の中に、協力者一覧があった。
学校別、団体別、連絡係。
大阪府立北浜高等女学校。
書籍回収協力者。
西野麻里。
西野の目は止まらなかった。
紙を一枚めくっただけだった。
だが、名前はそこにあった。
麻里。
同じ欄に、加納誠の名がある。
木島が覗き込もうとしたので、西野は紙束を少しずらした。
「これは提出用か」
加納はすぐに答えた。
「いえ、それは仮の一覧です。学校前で配った時に、名前を書いた子が混ざっています。未成年の名前は正式書類から外します」
「なぜ外す」
「公安に渡ると困るからです」
室内の空気が止まった。
佐伯が遠くで煙草を探すふりをやめた。
三好が低く言った。
「今、何と言った」
加納はしまったという顔をした。
しかし、言葉を戻さなかった。
「子どもが本を集めただけで、公安に名前が行くのはおかしいと思います」
「おかしいかどうかは、君が決めることやない」
三好が言った。
「それで爆弾が防げるなら、僕も黙ります」
加納の声は震えていた。
「でも、名前だけ集めても、爆弾は止まらないでしょう」
三好の顔色が変わった。
木島が何か言おうとした。
西野が先に口を開いた。
「仮一覧は回収する」
加納は西野を見た。
「こちらで正式な提出書類に差し替える。未成年者名は学校名まで。個人名は載せない」
三好が西野を見た。
「西野」
「市としても、未成年者の個人名を外部団体経由で保存するのは避けるべきです」
「公安照会は」
「正式書類で行えます」
三好はしばらく黙った。
「お前は最近、判断が早いな」
「窓口が混んでますから」
佐伯がそこで小さく言った。
「混んでる時ほど、判子は早い方がええですしね」
誰も笑わなかった。
加納は息を吐いた。
目立たないように、しかし深く。
西野は見ていた。
安堵の息だった。
嘘をついた息ではない。
「加納さん」
西野は言った。
「本は、市役所の裏口から搬入してください。正面玄関は使わない」
「どうしてですか」
「混む」
「いつも混んでいるんですか」
「今日は特に混む」
加納は少し首を傾げたが、うなずいた。
「分かりました」
「それと、帰る時は会計課で搬入確認票を取ってください」
木島が目を上げた。
「西野さん、それは搬入後でいいのでは」
「先に渡しておく。二度手間になる」
加納はまた頭を下げた。
「ありがとうございます」
西野は顔を上げなかった。
会計課は、庁舎の東側にあった。正面玄関とは逆方向。公安の男たちがいる小部屋からも遠い。
対象を逃がしたのではない。
保全しただけだ。
そう言えば、任務の言葉になる。
加納は書類をまとめて立ち上がった。
その時、鞄から一冊の本が落ちた。
薄い文庫本だった。
表紙は古く、角がすり切れている。西野の足元で開いた。
宮沢賢治。
西側でも読める作家だった。東側でも読まれている作家だった。
国境の線を、どうにか越えてしまう種類の名前。
加納は慌てて拾った。
「すみません」
「寄付する本か」
「いえ、これは自分のです」
加納は本を鞄に戻した。
「子どもに配るには、少し難しいので」
「読んでいるのか」
「はい」
加納は少しだけ笑った。
「こういう本は、どちらの日本にもあると思いたいので」
三好が奥で舌打ちした。
西野は何も言わなかった。
加納は会計課へ向かった。
西野はその背中を見送った。
廊下の向こう、黒い背広の男がひとり、新聞を持って立っていた。昨日の公安ではない。新しい顔だった。加納が正面玄関へ向かえば、必ず視界に入っただろう。
加納は東側の廊下へ曲がった。
西野は処理簿に判を押した。
押した音が、いつもより乾いて聞こえた。
昼過ぎ、佐伯が西野の机に寄ってきた。
「西野さん、さっきの学生、逃がしました?」
「会計課へ回しただけや」
「役所の迷路に?」
「迷路なら市役所の方が得意や」
佐伯は笑った。
「確かに」
それから声を少し落とした。
「あの一覧、見えましたわ」
西野は書類から目を上げなかった。
「何が」
「西野、という名前」
西野の手は止まらなかった。
「大阪には多い」
「麻里さんも?」
西野はそこで顔を上げた。
佐伯は煙草をくわえていなかった。
「見間違いかもしれませんけど」
「なら、忘れろ」
「忘れるのは苦手で」
「役所に向いてるな」
佐伯は少し笑った。
「同僚としては、忘れたことにしときます」
その言葉の中に、どれだけ同僚がいて、どれだけ別のものが混ざっているのか。
西野には、まだ分からなかった。
分からないものに手を伸ばすには、今日は情報が多すぎた。
夕方、木島が差し替えた正式書類を持ってきた。
未成年者の個人名は消えていた。学校名だけになっている。
「これでいいですか」
西野は確認した。
「いい」
「加納さん、変な人じゃなさそうでしたね」
「変な人間ほど、変じゃなさそうに来る」
木島は眉を寄せた。
「西野さんまで課長みたいなこと言わないでください」
「課長よりは短く言った」
「そういう問題じゃありません」
木島は書類を抱えたまま、少し黙った。
「でも、あの人、怖がってました」
「誰でも怖い」
「怖がりながら来る人を、怪しいと見るんですか」
西野は判子を置いた。
「怖がってない人間の方が怪しい時もある」
木島は納得していない顔だった。
それでいい、と西野は思った。
納得しない者がいなければ、窓口はただの入口になる。
夜、市役所を出ると、雨は降っていなかった。
しかし空は低い。
加納は無事に帰っただろうか。
西野はその考えを消した。
対象の移動を気にしているだけだ。
保全対象だからだ。
信用確認の前に、余計な手で壊されては困る。
言い換えれば、どんな感情も任務になる。
それが訓練の便利さだった。
官舎へ戻る前、西野は一度だけ公衆電話の前で足を止めた。
葛城に連絡する番号は、まだ使える。
しかし受話器は取らなかった。
報告すべきことは多かった。
加納誠が来庁したこと。
救援会の正式書類。
未成年者一覧に麻里の名があったこと。
公安が庁舎内に新しい目を置いたこと。
佐伯が麻里の名を見た可能性があること。
そのどれも、報告すれば家族に近づく。
西野は電話ボックスの前を通り過ぎた。
家に戻ると、麻里はまだ起きていた。
食卓にノートを広げている。紀子は台所で鍋を洗っていた。
麻里は父を見ると、すぐにノートを閉じた。
遅かった。
閉じる前に、表紙が見えた。
書籍回収係。
鉛筆で、小さく書かれていた。
西野は靴を脱いだ。
「名前は書くなと言った」
麻里は唇を結んだ。
「正式な名簿には書いてない」
「誰に聞いた」
「加納さん」
紀子の手が、台所で止まった。
麻里は父を見ていた。
「今日、市役所に行ったんやって。未成年の名前は消すって。ちゃんとしてる人やん」
西野は何も言わなかった。
麻里は続けた。
「お父さんは、何であんなに怖がるの」
怖がっている。
その言葉は、正確すぎた。
西野は鞄を置いた。
「怖がってるように見えるか」
「見える」
麻里は言った。
「東のことも、統一のことも、紙に名前を書くことも。お父さんは、怒ってるんじゃなくて、怖がってる」
紀子は振り向かなかった。
西野は娘を見た。
十七歳。
西日本で生まれ、西日本で育った。
国境を最初からあるものとして知っている世代。
加納誠も、たぶん同じだった。
西野は言った。
「怖がることは、悪いことやない」
「じゃあ、何が悪いの」
「怖がらないふりをすることや」
麻里は黙った。
西野は自分の言葉を聞いていた。
誰に言ったのか分からなかった。
娘にか。
自分にか。
夜、家族が寝静まったあと、西野は自分の右手を見た。
作業服の男の手首を押さえた痕は、もうほとんど消えていた。
かわりに、別の感触が残っている。
窓口で加納が差し出した申請書。
仮一覧にあった麻里の名。
宮沢賢治の古い文庫本。
佐伯の「同僚としては」という声。
加納誠。
対象は、今日、窓口に座った。
息をした。
嘘をついた。
本を落とした。
麻里の名前を消した。
殺すべき名前が、少しずつ人間になっていく。
それが一番、面倒だった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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