第五話 湯豆腐
加納誠という名前は、紙より軽かった。
だから、燃やしても残った。
西野芳彦は市役所を出る前、庁舎裏の焼却箱で庁内便の封筒を燃やした。茶色い紙はすぐに黒く縮み、庁内便に似せた赤い印だけが、最後まで小さく残った。
信用確認第一対象。
その一行も、煙になった。
だが、名前は消えなかった。
加納誠。
市役所の机に届いた名前。
鶴橋の路地で、朝鮮系の少年を庇っていた青年。
雨で滲んだ荷札に、丁寧すぎる字を書いていた手。
西野は灰を見届けてから、手を洗った。
水は冷たかった。蛇口の下で右手を開くと、親指の付け根がわずかに赤くなっていた。作業服の男の手首を押さえた時の痕だった。たいしたものではない。痛みもない。
ただ、身体が覚えていた。
二十五年ぶりに使った道具が、まだ錆びていないことを。
官舎に着いたのは、夜八時を少し過ぎていた。
玄関を開けると、湯豆腐の匂いがした。
白い湯気。昆布だし。葱。醤油。かすかな柚子。
それから、鶴橋の煙が自分の背広に残っていることに気づいた。
紀子は台所にいた。
「遅かったのね」
「市役所が混んだ」
いつもの答えだった。
紀子は鍋の蓋を少しずらし、それから夫を見た。
「今日は、市役所の匂いじゃないのね」
西野は靴を脱ぐ手を止めなかった。
「どういう意味や」
「煙と、にんにく」
「ああ」
「背広に臭いつけるん、やめて言うてるやろ」
紀子はそれだけ言って、豆腐を皿へ移した。
「昼に外へ出た」
「そう」
紀子はそれ以上、聞かなかった。
聞かないことが、この女のいちばん鋭いところだった。
奥の部屋から麻里の声がした。
「お父さん、今日こそ進路の話」
「ああ」
「昨日も聞くって言うた」
「今日は聞く」
「ほんまに?」
「今日は、湯豆腐がある」
「関係ある?」
「食べ終わるまでは起きてる」
麻里は不満そうな顔で食卓に座っていた。英単語帳は今日は閉じてある。代わりに、学校の鞄が椅子の横に置かれていた。口が少し開いていて、紙が数枚はみ出していた。
西野はそれを見た。
見ただけだった。
食卓には三人分の器が並んでいた。
鍋の中で、豆腐が白く揺れている。湯気が眼鏡のない西野の目にも薄くかかった。紀子は取り皿に葱を入れ、麻里は醤油を入れすぎて紀子に注意された。
テレビでは、NHAの夜のニュースが流れていた。
大阪地下鉄爆破事件の死者数。
国家保安法の厳格運用。
京都御所での陛下の御動静。
朝鮮人民共和国の対馬海峡演習。
沖縄嘉手納周辺での米軍誤射事故。
そのあと、東京湾岸の映像に切り替わった。
ガラス張りのホテル。ロシア語と日本語の看板。西ドイツ資本の合弁企業。ライトアップされたロビー。薄いコートを着た若い男女。
キャスターは硬い声で言った。
「日本人民共和国は、東京湾岸経済特区の発展を社会主義的近代化の成果として宣伝しています。しかし専門家は、ソ連および西欧資本への構造的依存を深めるものと指摘しており――」
麻里が箸を止めた。
「東って、結局どういう国なん」
紀子はテレビの音を少し下げた。
「またその話?」
「学校で先生が、東は自由がないから人間らしく暮らせないって言う。でもニュースやと、ホテルとか車とか出てくる。貧しいのか豊かなのか、どっちなん」
西野は豆腐を取った。
箸先で崩さないように、皿へ移す。
「暮らしてる人間には、暮らしてる国や」
麻里は眉を寄せた。
「それ、答えになってない」
「国の説明なんか、だいたい答えにならん」
「お父さん、役所の人みたい」
「役所の人や」
「そういう意味ちゃう」
麻里はむくれた。
紀子が少し笑った。
西野は味噌汁ではなく、湯豆腐の湯気を見ていた。
東はどういう国か。
東京の訓練所の床。
薄い毛布。
ロシア語の教本。
朝の点呼。
藤堂鶴彦の声。
『目を見るな。人を撃つ時に目を見る者は、撃った後で目を閉じられなくなる』
そういう国だった。
だが、そんな答えを食卓に出すわけにはいかなかった。
麻里はぽつりと言った。
「私、文学部に行きたい」
紀子が箸を置いた。
「就職のことも考えなさい」
「考えてる。教師とか、出版社とか」
「出版社は簡単やないわよ」
「分かってる」
麻里は父の方を見た。
「本を作る仕事って、悪くないよね」
「悪くない」
「東の小説も読んでみたい」
紀子の手が、ほんの少し止まった。
西野は止まらなかった。
「学校の図書館にないのか」
「ない。ほとんど禁書扱いやもん。先生は、向こうの文学は宣伝ばっかりやって言う。でも、全部がそうなんかな」
「全部、という言葉は信用するな」
「じゃあ、読んでみないと分からんやん」
「読める場所を選べ」
麻里は箸を置いた。
「本にも国境があるの?」
西野は答えなかった。
湯豆腐が鍋の中で静かに崩れた。
紀子が言った。
「麻里、熱いうちに食べなさい」
「お母さんはどう思う?」
「本には国境がなくても、本を持ってる人間には住所があるわ」
麻里は少し考えた。
「それ、こわい言い方」
「ほんとのことよ」
西野は紀子を見た。
紀子は何も知らない顔で、豆腐を取り分けていた。
何も知らない顔をする人間ほど、何かを知っている。
麻里は鞄に手を伸ばした。
「そうや。今日、学校の前で配ってた」
一枚のビラを取り出す。
西野の箸が止まった。
紙は安い藁半紙だった。黒いインクが少しかすれている。上部に大きく書かれていた。
地下鉄爆破被災者児童への教科書・書籍提供のお願い
その下に、団体名。
大阪冬季救援会。
麻里は言った。
「被災者の子どもに本を集めるんやって。教科書とか絵本とか。悪いことじゃないよね」
西野はビラを受け取った。
表情は変えなかった。
連絡先の欄を見た。
活字で印刷された住所の横に、鉛筆で追記があった。
書籍整理班 加納誠
丁寧な字だった。
強く書こうとして、ところどころ力が入りすぎている。左へわずかに傾く癖がある。
鶴橋の路地で見た字。
市役所の倉庫で見た字。
母親の紙片にあった字。
同じ字だった。
「お父さん?」
麻里が言った。
西野はビラから目を上げた。
「これ、名前を書いたのか」
「まだ。学校で集めるか、直接持っていくか迷ってる」
「名前を書くな」
声が、思ったより低く出た。
麻里は驚いた顔をした。
「どうして」
「この国では紙に名前を書く時は、相手を選べ」
「何それ」
「名前を書いた紙は、自分より遠くへ行く」
「ただの本の寄付やん」
「ただの紙はない」
麻里の顔に、反発が浮かんだ。
「お父さん、時々すごく怖い言い方する」
紀子が、鍋の火を少し弱めた。
「麻里、今日はもうしまいなさい」
「でも」
「お父さんは、家で仕事してる顔になってる」
西野は紀子を見た。
紀子は夫を見なかった。
ただ、湯豆腐を取り分けていた。
麻里は納得していない顔でビラを引き取ろうとした。西野は一瞬だけ、紙を離さなかった。
その一瞬で、麻里の目が変わった。
父親ではなく、知らない男を見る目だった。
西野は紙を離した。
「名前は書くな」
「分かった」
麻里はそう言った。
分かっていない声だった。
食事はそのあと、静かになった。
テレビでは、国家保安法の解説が続いていた。画面の中の評論家が、自由を守るための一時的措置だと言っていた。隣の評論家は、自由は一時的に制限すると戻ってこないと言った。司会者は笑顔のまま、時間が来たと告げた。
紀子が湯飲みを片づける時、西野の手を見た。
「手、どうしたの」
西野は自分の右手を見た。
親指の付け根が赤い。
「役所で、少し」
「判子で、そこは赤くならないでしょう」
麻里がまた父を見た。
西野は手を引いた。
「書類棚で挟んだ」
「そう」
紀子はそれ以上、聞かなかった。
その「そう」は、信じたという意味ではなかった。
聞かないことにした、という意味だった。
十時過ぎ、麻里は部屋へ戻った。
紀子は台所で鍋を洗った。
西野は食卓に座ったまま、湯気の消えた鍋を見ていた。
しばらくして、紀子が言った。
「麻里は、あなたに似てるわね」
「どこが」
「言わないことがあるところ」
西野は答えなかった。
紀子は布巾を絞った。
「でも、あの子はまだ下手よ。隠したつもりのものを、すぐ鞄から出す」
「俺も下手か」
紀子は少しだけ笑った。
「あなたは、上手すぎるのが下手」
その意味を、西野は聞かなかった。
聞けば、答えなければならない。
家族が寝静まったあと、食卓には一枚のビラが残っていた。
麻里が置き忘れたのか。
わざと置いたのか。
西野には分からなかった。
彼はビラを手に取った。
藁半紙のざらつき。安いインクの匂い。鉛筆の筆圧。
地下鉄爆破被災者児童への教科書・書籍提供のお願い。
大阪冬季救援会。
書籍整理班。
加納誠。
西野は、机の上に届いた偽の庁内便を思い出した。
信用確認第一対象。
あの紙は燃やした。
だが、この紙は燃やせなかった。
麻里の指の跡が、端に残っている気がした。
西野はビラを畳まなかった。
畳めば、ただの紙に戻る気がしたからだ。
湯豆腐の鍋は、まだ少し温かかった。
白い豆腐が、出汁の底で崩れていた。
市役所の机に届いた名前。
鶴橋の路地で見た名前。
娘の鞄から出てきた名前。
その名前が、食卓の上にあった。
加納誠。
命令は、とうとう靴を脱いで家に上がっていた。
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