第四話 鶴橋の煙
加納誠。
その名は、翌朝になっても西野芳彦の中に残っていた。
市役所の机に座り、死亡照会、扶養照会、住宅斡旋の紙をめくっている間も、昨日の倉庫で見た若い字が、頭のどこかに貼りついていた。
山下敬一。
西成日雇い。
冬季。
加納誠。
紙の上では別々の言葉だった。だが、線はすでにつながっている。
西野は朝一番で、保護第一課の奥にある受給者台帳の棚を開けた。
誰も不審には思わない。
彼は鍵を持っていた。
二十五年かけて、鍵を預けられる側の人間になっていた。
山下敬一の住所。西成の日雇い労組。大阪冬季救援会。鶴橋の朝鮮避難民世帯。救援物資の配布先予定。
必要な棚を開け、必要な帳簿を取り、必要な欄だけを見た。盗む必要はなかった。ここでは、それが仕事だった。
佐伯隆司が隣から覗いた。
「昨日の救援会、気になりますか」
「配布先の確認や」
「役所の人間は、そう言えばだいたい何でも見られますな」
西野は台帳から目を上げなかった。
「見るだけならな」
佐伯は笑った。
「見たあと、どうするかが仕事ですか」
「それで給料をもらってる」
「安い仕事や」
佐伯は煙草をくわえたまま、自分の机へ戻った。
西野は台帳を閉じた。
佐伯の机の方は見なかった。
見なければ、見られない関係は続く。
役所には、そういう同僚も必要だった。
鶴橋。
金斗満。
朝鮮避難民。食堂。保証人。日雇い。救援会。
線は、そこへ向かっていた。
昼休み、西野は市役所を正面玄関から出なかった。
地下の職員通用口を使った。庁舎の裏を抜け、中之島の川沿いを歩く。雨は上がっていたが、橋の欄干には水滴が残っていた。
彼は歩きながら、濡れたショーウィンドウに映る背後を見た。
ひとり。
灰色のコートの男が、橋の手前で煙草に火をつけていた。火をつけるのが遅い。こちらを見るのを我慢している人間の動きだった。
西野は淀屋橋駅へ降りた。
改札を通り、いったん逆方向の列車に乗った。扉が閉まる直前、降りた。ホームの売店で新聞を取る。読まない。紙面の端に、さっきの灰色のコートが映った。
もう一人いた。
女だった。紺のスカーフ。こちらを見ない。見ないことが、うまかった。
灰色のコートは西側の匂いがした。尾行に慣れていないが、命令には慣れている。公安か、その手先。
紺のスカーフは違った。
距離が一定すぎた。視線が薄すぎた。街の雑踏に混じるための下手な工夫がない。
西野は次の列車に乗った。
鶴橋で降りた時、灰色のコートは隣の車両から降りた。紺のスカーフは降りなかった。
だが、西野はそれで消えたとは思わなかった。
鶴橋の駅を出ると、煙があった。
焼肉の煙。炭の匂い。にんにく。雨を吸った木箱。濡れた舗道。朝鮮語と大阪弁が混ざり、店先にはキムチの赤、干し魚の銀、古いホーロー看板の青が並んでいた。
西野は細い路地に入った。
金斗満の食堂は、線路沿いの奥にあった。看板の文字は半分消えている。昼時を過ぎていたが、店にはまだ客がいた。工員、日雇い、朝鮮避難民の老人、若い女、国防軍の下士官らしい男。
金斗満は鍋の前に立っていた。
五十代。太い首。白髪交じりの短髪。目だけが若かった。朝鮮人民共和国から逃げてきた男の目だった。
「市役所さん、昼飯か」
「仕事や」
「役所の人間は、飯も仕事や言う」
金はホルモン鍋を小さな器によそい、カウンターに置いた。
「食え。話はそのあとや」
西野は箸を取らなかった。
「山下敬一を知っているか」
金の手が止まった。
鍋の湯気だけが上がった。
「死んだ男や」
「知ってるかと聞いた」
金は厨房の奥を見た。客の声、ラジオの音、皿の当たる音。何も変わっていない。
「使い走りや。西成の日雇いと、救援会の間を行ったり来たりしてた」
「爆弾を作る手か」
金は鼻で笑った。
「あいつに作れるのは、せいぜい安い握り飯や。爆弾なんか触らせたら、自分の指を飛ばす」
「なぜ死んだ」
「知らん」
「知らない顔ではない」
金は西野を見た。
「知ってる顔をして長生きできる国か、ここは」
西野は答えなかった。
金は鍋の火を少し弱めた。
「山下は最近、妙なことを聞き回ってた。救援会の名簿。身寄りのない被災者。学生の連絡先。西成の労組。東淀川の窓口」
「誰に頼まれた」
「そこまで言わん男やった。言わんのやなくて、知らんかったんやろ」
西野は器の中の鍋を見た。湯気の奥で、脂が光っている。
「加納誠」
金の目が、今度ははっきり動いた。
「どこでその名を」
「紙で見た」
「役所は何でも紙で見る」
「お前は何で見る」
金は少し笑った。
「目や」
それから外を顎で示した。
「その目で見てみい」
店の外で、声がした。
「赤の荷物を運ぶんか、お前」
若い男の声だった。右派の腕章をつけた二人組が、路地の端で少年を囲んでいた。少年は十五、六歳。朝鮮系の顔立ちで、両手に段ボール箱を抱えている。箱には救援物資の紙札がついていた。
少年は何か言い返そうとして、言葉に詰まっていた。
そこへ、ひとりの青年が入った。
背は高くない。痩せている。学生服ではなく、古いコートを着ていた。顔にはまだ少年の線が残っているが、目だけはやけに真面目だった。
「その子は関係ないでしょう」
声は震えていた。
だが、逃げる声ではなかった。
右派の男が青年の胸を押した。
「関係ない奴が、赤い救援会の荷物運ぶんか」
青年は一歩下がった。倒れなかった。
「地下鉄で怪我した人に配る毛布です。思想で暖を取る人はいません」
もう一人の男が笑った。
「ええこと言うな、学生さん」
青年は少年の箱に手を添えた。
紙札が雨で滲んでいた。青年は膝をつき、紙札を裏返して、鉛筆で住所を書き直した。
丁寧な字だった。
強く書こうとして、ところどころ力が入りすぎている。左へわずかに傾く癖がある。
西野は、それが誰の字かを知っていた。
金斗満が低く言った。
「加納誠や」
西野は外を見たままだった。
「危なっかしい学生や。頭でっかちで、喧嘩も弱い。けど、悪い目はしてへん」
「悪い目の人間も、善いことをする」
「善い目の人間も、悪い方へ運ばれる」
金は鍋をかき混ぜた。
「わしは赤が嫌で逃げた。逃げた先で、赤かもしれんと言われる。ほな、わしは何色や」
外では、金の店の常連たちが数人、路地へ出ていた。右派の男たちは舌打ちし、加納の肩をもう一度だけ押してから離れた。
加納は少年の箱を持ち直してやった。
少年が小さく頭を下げる。加納は照れたように笑い、路地の奥へ歩いていった。
西野は追える距離にいた。
追わなかった。
尾がついている。だから追わない。
それだけだった。
それ以外の理由は、まだ理由として認めなかった。
店の裏口へ回ると、灰色のコートの男が路地の反対側に立っていた。下手な尾だ。立ち位置が正直すぎる。
西野は表へ戻るふりをして、厨房脇の狭い通路に入った。
そこに別の男がいた。
灰色のコートではない。作業服。帽子を目深に被っている。鶴橋の男に見えた。だが、手が違った。労働者の手ではない。傷が少なすぎる。
西野が通り過ぎる瞬間、その男が半歩動いた。
西野は男の手首を取った。
声は出さなかった。
通路の壁に押しつける。肘を外へ返す。骨が、ほんの少し鳴った。
男の顔が歪んだ。
「誰の尾だ」
男は答えなかった。
西野は力を少しだけ足した。
男の呼吸が止まる。
「西か」
答えない。
「東か」
男の目が、わずかに動いた。
それだけで十分だった。
遠くで、少年の笑い声がした。さっきの朝鮮系の少年だろう。金斗満が何か怒鳴り、店の中で皿が鳴った。
西野は手を離した。
男は通路の奥へ走った。
西野は手のひらを一度だけ開いた。
男の手首の骨の感触が、まだ残っていた。
怒りではなかった。
恐怖でもなかった。
ただ、古い道具を久しぶりに使った時の、嫌な馴染み方だった。
西野は追わなかった。
追えば、自分の尾まで一緒に走る。灰色のコートに、作業服の男を見せることになる。
東の尾を、西の尾に売るほど、まだ安くはなかった。
店に戻ると、金斗満が鍋の火を消していた。
「あんた、二人連れてきたな」
西野は何も言わなかった。
「一人は西の犬や。もう一人は、犬の匂いがせん」
「逃げてきた人間は、鼻がいいな」
「鼻が悪い奴から死ぬ」
金は器を押し出した。
「食え。冷める」
西野は初めて箸を取った。
ホルモンは硬く、汁は辛かった。
「加納に近づくな」
金が言った。
「なぜ」
「あの子は、人を疑うのが下手や」
「それは短所だ」
「せや。だから、あんたみたいな男には近づけたらあかん」
西野は鍋を食べた。
何も返さなかった。
市役所へ戻ると、午後の窓口はまだ混んでいた。
木島が老女に茶を出している。三好課長は公安の男と小部屋に入っていた。佐伯は机の引き出しを開けたり閉めたりしていた。
「煙草、切らしましたわ」
佐伯が言った。
「仕事は」
「切れてません」
西野は自分の席に戻った。
机の上に、庁内便の封筒が置かれていた。
茶色い封筒。右上には庁内便の印。差出課名は空白だった。
西野は封筒を指でなぞった。
紙は市役所のものだった。印も似ている。
だが、朱肉が薄い。庁内便で使う赤より、半息だけ乾いていた。
中から来たものではない。
中から来たように見せたものだった。
誰が机に置いたのか。
佐伯か。木島か。庶務か。あるいは、誰でもない誰かか。
封を切る。
中には紙が一枚だけ入っていた。
昨日、倉庫で見た大阪冬季救援会のメモの写しだった。
右下に、加納誠の名。
その下に、赤鉛筆で一行だけ書かれていた。
信用確認第一対象。
西野は紙を畳んだ。
机の向こうで、佐伯が煙草を探していた。木島は窓口で老女に茶を出していた。三好課長は公安の男とまだ戻らない。
市役所は、いつも通りだった。
いつも通りの場所に、殺すべき名前が届いていた。
加納誠。
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