表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日本分断、東経百三十六度ここにあり  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/5

第四話 鶴橋の煙

加納誠。


その名は、翌朝になっても西野芳彦の中に残っていた。


市役所の机に座り、死亡照会、扶養照会、住宅斡旋の紙をめくっている間も、昨日の倉庫で見た若い字が、頭のどこかに貼りついていた。


山下敬一。

西成日雇い。

冬季。

加納誠。


紙の上では別々の言葉だった。だが、線はすでにつながっている。


西野は朝一番で、保護第一課の奥にある受給者台帳の棚を開けた。


誰も不審には思わない。


彼は鍵を持っていた。

二十五年かけて、鍵を預けられる側の人間になっていた。


山下敬一の住所。西成の日雇い労組。大阪冬季救援会。鶴橋の朝鮮避難民世帯。救援物資の配布先予定。


必要な棚を開け、必要な帳簿を取り、必要な欄だけを見た。盗む必要はなかった。ここでは、それが仕事だった。


佐伯隆司が隣から覗いた。


「昨日の救援会、気になりますか」


「配布先の確認や」

「役所の人間は、そう言えばだいたい何でも見られますな」


西野は台帳から目を上げなかった。


「見るだけならな」


佐伯は笑った。


「見たあと、どうするかが仕事ですか」

「それで給料をもらってる」

「安い仕事や」


佐伯は煙草をくわえたまま、自分の机へ戻った。


西野は台帳を閉じた。


佐伯の机の方は見なかった。


見なければ、見られない関係は続く。

役所には、そういう同僚も必要だった。


鶴橋。

金斗満。

朝鮮避難民。食堂。保証人。日雇い。救援会。

線は、そこへ向かっていた。


昼休み、西野は市役所を正面玄関から出なかった。

地下の職員通用口を使った。庁舎の裏を抜け、中之島の川沿いを歩く。雨は上がっていたが、橋の欄干には水滴が残っていた。


彼は歩きながら、濡れたショーウィンドウに映る背後を見た。

ひとり。

灰色のコートの男が、橋の手前で煙草に火をつけていた。火をつけるのが遅い。こちらを見るのを我慢している人間の動きだった。


西野は淀屋橋駅へ降りた。

改札を通り、いったん逆方向の列車に乗った。扉が閉まる直前、降りた。ホームの売店で新聞を取る。読まない。紙面の端に、さっきの灰色のコートが映った。


もう一人いた。

女だった。紺のスカーフ。こちらを見ない。見ないことが、うまかった。


灰色のコートは西側の匂いがした。尾行に慣れていないが、命令には慣れている。公安か、その手先。

紺のスカーフは違った。

距離が一定すぎた。視線が薄すぎた。街の雑踏に混じるための下手な工夫がない。


西野は次の列車に乗った。

鶴橋で降りた時、灰色のコートは隣の車両から降りた。紺のスカーフは降りなかった。


だが、西野はそれで消えたとは思わなかった。

鶴橋の駅を出ると、煙があった。


焼肉の煙。炭の匂い。にんにく。雨を吸った木箱。濡れた舗道。朝鮮語と大阪弁が混ざり、店先にはキムチの赤、干し魚の銀、古いホーロー看板の青が並んでいた。


西野は細い路地に入った。


金斗満の食堂は、線路沿いの奥にあった。看板の文字は半分消えている。昼時を過ぎていたが、店にはまだ客がいた。工員、日雇い、朝鮮避難民の老人、若い女、国防軍の下士官らしい男。


金斗満は鍋の前に立っていた。

五十代。太い首。白髪交じりの短髪。目だけが若かった。朝鮮人民共和国から逃げてきた男の目だった。


「市役所さん、昼飯か」

「仕事や」

「役所の人間は、飯も仕事や言う」


金はホルモン鍋を小さな器によそい、カウンターに置いた。


「食え。話はそのあとや」


西野は箸を取らなかった。


「山下敬一を知っているか」


金の手が止まった。


鍋の湯気だけが上がった。


「死んだ男や」

「知ってるかと聞いた」


金は厨房の奥を見た。客の声、ラジオの音、皿の当たる音。何も変わっていない。


「使い走りや。西成の日雇いと、救援会の間を行ったり来たりしてた」

「爆弾を作る手か」


金は鼻で笑った。


「あいつに作れるのは、せいぜい安い握り飯や。爆弾なんか触らせたら、自分の指を飛ばす」

「なぜ死んだ」

「知らん」

「知らない顔ではない」


金は西野を見た。


「知ってる顔をして長生きできる国か、ここは」


西野は答えなかった。

金は鍋の火を少し弱めた。


「山下は最近、妙なことを聞き回ってた。救援会の名簿。身寄りのない被災者。学生の連絡先。西成の労組。東淀川の窓口」

「誰に頼まれた」

「そこまで言わん男やった。言わんのやなくて、知らんかったんやろ」


西野は器の中の鍋を見た。湯気の奥で、脂が光っている。


「加納誠」


金の目が、今度ははっきり動いた。


「どこでその名を」

「紙で見た」

「役所は何でも紙で見る」

「お前は何で見る」


金は少し笑った。


「目や」


それから外を顎で示した。


「その目で見てみい」


店の外で、声がした。


「赤の荷物を運ぶんか、お前」


若い男の声だった。右派の腕章をつけた二人組が、路地の端で少年を囲んでいた。少年は十五、六歳。朝鮮系の顔立ちで、両手に段ボール箱を抱えている。箱には救援物資の紙札がついていた。

少年は何か言い返そうとして、言葉に詰まっていた。


そこへ、ひとりの青年が入った。

背は高くない。痩せている。学生服ではなく、古いコートを着ていた。顔にはまだ少年の線が残っているが、目だけはやけに真面目だった。


「その子は関係ないでしょう」


声は震えていた。

だが、逃げる声ではなかった。

右派の男が青年の胸を押した。


「関係ない奴が、赤い救援会の荷物運ぶんか」


青年は一歩下がった。倒れなかった。


「地下鉄で怪我した人に配る毛布です。思想で暖を取る人はいません」


もう一人の男が笑った。


「ええこと言うな、学生さん」


青年は少年の箱に手を添えた。

紙札が雨で滲んでいた。青年は膝をつき、紙札を裏返して、鉛筆で住所を書き直した。

丁寧な字だった。


強く書こうとして、ところどころ力が入りすぎている。左へわずかに傾く癖がある。


西野は、それが誰の字かを知っていた。


金斗満が低く言った。


「加納誠や」


西野は外を見たままだった。


「危なっかしい学生や。頭でっかちで、喧嘩も弱い。けど、悪い目はしてへん」


「悪い目の人間も、善いことをする」

「善い目の人間も、悪い方へ運ばれる」


金は鍋をかき混ぜた。


「わしは赤が嫌で逃げた。逃げた先で、赤かもしれんと言われる。ほな、わしは何色や」


外では、金の店の常連たちが数人、路地へ出ていた。右派の男たちは舌打ちし、加納の肩をもう一度だけ押してから離れた。


加納は少年の箱を持ち直してやった。


少年が小さく頭を下げる。加納は照れたように笑い、路地の奥へ歩いていった。


西野は追える距離にいた。

追わなかった。

尾がついている。だから追わない。

それだけだった。


それ以外の理由は、まだ理由として認めなかった。

店の裏口へ回ると、灰色のコートの男が路地の反対側に立っていた。下手な尾だ。立ち位置が正直すぎる。


西野は表へ戻るふりをして、厨房脇の狭い通路に入った。

そこに別の男がいた。


灰色のコートではない。作業服。帽子を目深に被っている。鶴橋の男に見えた。だが、手が違った。労働者の手ではない。傷が少なすぎる。


西野が通り過ぎる瞬間、その男が半歩動いた。

西野は男の手首を取った。

声は出さなかった。

通路の壁に押しつける。肘を外へ返す。骨が、ほんの少し鳴った。


男の顔が歪んだ。


「誰の尾だ」


男は答えなかった。

西野は力を少しだけ足した。

男の呼吸が止まる。


「西か」


答えない。


「東か」


男の目が、わずかに動いた。

それだけで十分だった。

遠くで、少年の笑い声がした。さっきの朝鮮系の少年だろう。金斗満が何か怒鳴り、店の中で皿が鳴った。


西野は手を離した。

男は通路の奥へ走った。

西野は手のひらを一度だけ開いた。

男の手首の骨の感触が、まだ残っていた。


怒りではなかった。

恐怖でもなかった。


ただ、古い道具を久しぶりに使った時の、嫌な馴染み方だった。


西野は追わなかった。

追えば、自分の尾まで一緒に走る。灰色のコートに、作業服の男を見せることになる。


東の尾を、西の尾に売るほど、まだ安くはなかった。

店に戻ると、金斗満が鍋の火を消していた。


「あんた、二人連れてきたな」


西野は何も言わなかった。


「一人は西の犬や。もう一人は、犬の匂いがせん」


「逃げてきた人間は、鼻がいいな」

「鼻が悪い奴から死ぬ」


金は器を押し出した。


「食え。冷める」


西野は初めて箸を取った。

ホルモンは硬く、汁は辛かった。


「加納に近づくな」


金が言った。


「なぜ」

「あの子は、人を疑うのが下手や」

「それは短所だ」

「せや。だから、あんたみたいな男には近づけたらあかん」


西野は鍋を食べた。

何も返さなかった。

市役所へ戻ると、午後の窓口はまだ混んでいた。

木島が老女に茶を出している。三好課長は公安の男と小部屋に入っていた。佐伯は机の引き出しを開けたり閉めたりしていた。


「煙草、切らしましたわ」


佐伯が言った。


「仕事は」

「切れてません」


西野は自分の席に戻った。

机の上に、庁内便の封筒が置かれていた。

茶色い封筒。右上には庁内便の印。差出課名は空白だった。


西野は封筒を指でなぞった。

紙は市役所のものだった。印も似ている。

だが、朱肉が薄い。庁内便で使う赤より、半息だけ乾いていた。


中から来たものではない。

中から来たように見せたものだった。


誰が机に置いたのか。

佐伯か。木島か。庶務か。あるいは、誰でもない誰かか。


封を切る。


中には紙が一枚だけ入っていた。

昨日、倉庫で見た大阪冬季救援会のメモの写しだった。


右下に、加納誠の名。

その下に、赤鉛筆で一行だけ書かれていた。


信用確認第一対象。


西野は紙を畳んだ。


机の向こうで、佐伯が煙草を探していた。木島は窓口で老女に茶を出していた。三好課長は公安の男とまだ戻らない。

市役所は、いつも通りだった。


いつも通りの場所に、殺すべき名前が届いていた。


加納誠。

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ