第三話 この国の窓口
朝から、窓口に判子が増えた。
赤い判子だった。
要公安照会。
三好課長が、保護第一課の職員を集め、机の上にそれを置いた。木の持ち手には手垢が染みていて、どこかの棚の奥から引っ張り出してきたものに見えた。
「本日より、地下鉄爆破事件に関連する相談者については、必要に応じて思想関係照会を行う」
三好は言った。
木島晴江が判子を見た。
「生活保護の窓口ですよ、ここは」
「分かってる」
「困ってる人を助ける窓口です」
「困ってるふりをして入ってくるのが工作員や」
三好は即座に言った。
「市民の顔をして、被災者の顔をして、遺族の顔をして、書類を持って入ってくる。窓口ほど入りやすい場所はない」
佐伯隆司が煙草を指に挟んだまま言った。
「課長、遺族の前でそれ言うたら、灰皿どころか机飛びますよ」
「分かっとる。だからここで言うてる」
「少しでも不審なら、ですか」
木島は引かなかった。
「少しでも、や」
「誰が決めるんです」
「担当者や」
「私たちが、人を疑うんですか」
三好は息を吐いた。
「木島君、君は人がよすぎる」
「人が悪いよりは、役所に向いてると思います」
「人がええだけで守れる国やったら、三十年前に分かれてへん」
室内が静かになった。
佐伯が灰皿に煙草を置いた。
「ほな課長、せめて役所の中くらい、人のええ顔させてください。顔まで公安に貸したら、給料が合いませんわ」
三好は佐伯を睨んだ。
「お前は口が軽すぎる」
「重い口は課長に任せてます」
数人が小さく笑った。
場は戻った。
だが、判子は机に残った。
西野芳彦は、自分の席で処理簿をめくっていた。
要公安照会。
赤い字だった。
生活を認める判子と、生活を疑う判子は、同じ色をしていた。
午前九時、窓口が開いた。
最初に来たのは、石炭代の冬季加算を求める老女だった。紙袋の中に、去年のもの、一昨年のもの、日付の読めないものまで混ざっている。
担当の若い職員が困った顔をした。
佐伯が横から首を突っ込んだ。
「安田さん、それ去年の領収書や。こっち、今年のやつ。ほら、石炭屋の判子が違う」
老女は目を細めた。
「よう覚えてるなあ」
「役所の茶を三回飲みに来た人は、だいたい覚えます」
「茶は薄い」
「税金で濃い茶は出せません」
佐伯は紙袋から必要な紙だけを抜き、残りを丁寧に戻した。
木島がその背中を見て、少しだけ笑った。
三好は見ていないふりをした。
西野は処理簿に目を落としたままだった。
佐伯はそういう男だった。
雑で、軽く、煙草臭い。だが、誰が何月に何の相談で来たか、妙に覚えている。
覚えようとしているのか、覚えてしまうのかは分からない。
どちらにしても、役所では役に立つ。
午前十時過ぎ、母親が来た。
息子が公安に連れていかれたという。爆破事件の翌日に、大学の寮から連行された。母親は小さな風呂敷包みを膝に置き、同じことを何度も言った。
「あの子は爆弾なんか作りません。統一のビラを配ってただけです」
木島が対応していた。
「こちらで拘束状況を確認することはできません。ただ、生活費の相談でしたら」
「寮に戻れへんのです。荷物も押収されて。仕送りも、どこへ送ったらええのか」
三好が奥から言った。
「大学名は」
母親は答えた。
三好の顔が硬くなった。
「そこは統一派の拠点や。照会票を付けろ」
「でも、相談内容は生活費と荷物のことです」
木島は判子を見た。
押せば簡単だった。
紙の隅に赤い字がつく。それだけで、母親の名前と息子の名前は公安へ行く。すでに行っているかもしれない。だが、市役所からも行く。
二重に疑われる。
木島は判子に手を伸ばさなかった。
「西野さん」
三好が言った。
西野は立ち上がった。
木島の横に座り、申請書を見た。世帯主、母。扶養対象、大学生の息子。住所、学生寮。備考欄、空白。
母親は西野を見た。
「うちの子、悪いことしたんでしょうか」
西野は答えなかった。
答える場所ではなかった。
「荷物の受け取り先を、いったんご実家に変更できます」
西野は書類の下段を指した。
「ここに、実家の住所を書いてください。生活費の送金は、大学の学生課経由で確認します」
「公安は」
母親は小さな声で聞いた。
「ここは民生局です」
西野は言った。
「公安ではありません」
慰めではない。
事実だった。
ただし、事実の全部ではなかった。
三好が低く言った。
「照会票は」
「すでに公安が本人を押さえています。こちらから重ねる必要はありません」
「判断は」
「担当者です」
三好は西野を見た。
西野も見返した。
短い沈黙があった。
「分かった」
三好は奥へ戻った。
木島は小さく息を吐いた。
母親は震える手で住所を書いた。
西野は、その震えを見ていた。
二十五年前、東京で教わったことがある。
人は嘘をつく時、手より先に息が変わる。
その母親の息は変わっていなかった。
だから、たぶん嘘ではなかった。
たぶん、で十分だった。
役所の窓口では、百パーセントの真実など扱えない。
母親は住所を書き終えると、風呂敷包みの中を探った。
「あの、もう一つだけ」
西野は顔を上げた。
「はい」
「山下さんという方を、ご存じですか」
木島がわずかに眉を寄せた。
西野は表情を変えなかった。
「山下さん」
「山下敬一さん、いう方です」
母親は、小さく折られた紙片を出した。
「息子の下着を取りに寮へ行ったんです。ほとんど公安に持っていかれてましたけど、洗濯物の中に、これだけ残ってて」
西野は紙片を受け取った。
薄い紙に、鉛筆で三行だけ書かれていた。
山下敬一
西成日雇い
冬季
字は丁寧だった。
若い男の字に見えた。強く書こうとして、ところどころ力が入りすぎている。
「息子は、この人から電話があったと言うてました。爆破の前の日です。組合のことで話したい、と」
母親は声を落とした。
「でも、そのあと息子は公安に連れていかれて、その山下さんとも連絡が取れなくなって」
木島が西野を見た。
西野は紙片を見ていた。
山下敬一。
昨日、冬季加算の符丁を運び、数時間後に死んだ男。
「この紙は」
西野は聞いた。
「預かっても、よろしいですか」
母親はすがるような顔をした。
「それ、何か関係あるんでしょうか」
「分かりません」
西野は言った。
「分かれば、こちらから連絡します」
母親はうなずいた。
西野は紙片を、申請書の間に挟んだ。
木島は何か言いたげだったが、言わなかった。
西野も言わなかった。
一度目の沈黙だった。
昼休み、食堂は混んでいた。
職員たちはカレー、きつねうどん、鯖定食を黙って食べていた。誰も元気な話をしなかった。
佐伯は新聞を広げていた。
「また統一派の記事や」
木島が席に着いた。
「学生が全員爆弾作ってるみたいな書き方ですね」
「新聞は爆弾作らん代わりに、火をつけるんが仕事やからな」
佐伯が言った。
三好が隣から口を挟んだ。
「火がつくようなことをするから書かれるんや」
木島は箸を置いた。
「課長は、統一って言葉が全部悪いと思ってるんですか」
「悪いとは言わん」
三好は湯呑みを持った。
「危ないとは思う」
「どう違うんですか」
「悪いもんは避けられる。危ないもんは、ええ顔して近づいてくる」
木島は返事に詰まった。
佐伯が言った。
「せやけど課長。東に親戚残ってる人間からしたら、統一言いたなる気持ちも分かるんちゃいますか」
三好の箸が止まった。
佐伯はすぐに軽い声に戻した。
「まあ、わしは親戚も何も大阪から出たことないですけど」
三好は何も言わなかった。
西野は冷めかけたカレーを食べていた。
木島が西野を見た。
「西野さんは、統一した方がいいと思いますか」
佐伯が笑った。
「木島さん、食堂でその質問は重いわ」
「だって、誰もちゃんと答えないから」
西野は水を飲んだ。
「国境がなくなれば、窓口は減る」
木島は少し驚いた顔をした。
「それ、賛成ってことですか」
「仕事が減ると言っただけや」
佐伯が笑った。
「役所の人間らしい答えや」
三好は西野をじっと見ていた。
「国境がなくなっても、判子は減らん」
西野は続けた。
「別の判子が増えるだけや」
三好の目が、一拍だけ西野に残った。
西野はカレーを口に運んだ。
言いすぎた、とは思わなかった。
ただ、言わなくてもよかったとは思った。
午後、公安から男が二人来た。
一人は若かった。もう一人は四十代半ばで、額が広く、目が笑っていなかった。名刺には国家公安本部関西局とあった。
男たちは三好と短く話し、保護第一課の奥の小部屋を使いたいと言った。地下鉄爆破関連で、いくつかの世帯について聞き取りをしたいという。
「市役所内でですか」
木島が思わず言った。
若い方の公安が彼女を見た。
「何か問題が?」
木島は答えられなかった。
西野は書類をまとめながら、男たちの靴を見た。
若い方の靴は新しい。年上の方は、右足の外側だけが減っている。長く尾行をする人間の歩き方だった。
公安の男は西野を見た。
「あなたは」
「保護第一課の西野です」
「昨日の山下敬一の受付担当ですね」
佐伯が、少しだけ顔を上げた。
木島も動きを止めた。
西野は頷いた。
「はい」
「何か変わったことは」
「冬季加算の相談でした」
「それだけですか」
「それだけです」
公安の男は、しばらく西野を見た。
「その男は、何か特定の団体名を口にしましたか」
「日雇いの組合、と」
「どこの」
「西成の方と聞きました」
「具体名は」
「確認前でした」
「そして死んだ」
「そう聞いています」
「偶然だと思いますか」
西野は言った。
「交通課の判断を待ちます」
佐伯が小さく咳をした。
笑いを殺したのか、煙草のせいなのか分からない。
公安の男は西野から目を離した。
「山下の受付記録を提出してください」
「写しでよろしければ」
「原本を」
三好が口を挟んだ。
「原本は庁内保管です。写しを出します」
公安の男は三好を見た。
三好も引かなかった。
最後に公安の男が言った。
「では、写しで」
西野は処理簿の写しを作った。
カーボン紙を挟み、山下敬一の名をもう一度書いた。昨日と同じ字だった。
公安の男はそれを受け取り、小部屋へ入った。
扉が閉まると、佐伯が低い声で言った。
「市役所の中に公安の部屋ができたら、いよいよ便利やな」
木島が睨んだ。
「冗談じゃありません」
「冗談で済ませたいんや」
佐伯は机に戻った。
西野は小部屋の扉を見ていた。
中から、低い声が聞こえる。誰かが泣いている。別の誰かが、同じ質問を繰り返している。
母親の紙片のことは、言わなかった。
山下敬一。
西成日雇い。
冬季。
公安が欲しがる言葉は、すべてそこにあった。
西野は、それを渡さなかった。
二度目の沈黙だった。
夕方近く、救援物資の搬入申請が回ってきた。
団体名は、大阪冬季救援会。
地下鉄爆破の被災者向けに、毛布、缶詰、古着、石鹸を届けたいという。協力団体欄には、学生自治会、朝鮮避難民支援団体、教会、労組支部の名が並んでいた。
そのうち二つには、公安照会済みを示す鉛筆の小さな印があった。
「課長は、思想関係が怪しいから断れって」
木島が言った。
西野は申請書を見た。
「毛布は」
「五十枚」
「石鹸は」
「百個」
佐伯が横から覗いた。
「怪しい思想でも、毛布は暖かいわな」
三好が奥から言った。
「東側の宣伝物が混じっていたらどうする」
「検品します」
木島が言った。
「誰が」
「私が」
「君一人でか」
木島は黙った。
西野は申請書を置いた。
「受け取る。検品は木島さんと佐伯さん。宣伝物があれば廃棄。物資は市役所管理で配る。団体名は出さない」
三好は眉を寄せた。
「それで済むと思うか」
「済ませます」
佐伯が煙草を灰皿に押しつけた。
「課長、毛布を突き返して新聞に書かれたら、そっちの方が面倒ですわ。『市役所、思想を理由に被災者支援を拒否』。見出しが浮かびます」
「お前は黙れ」
「見出しを考えただけです」
三好はしばらく黙っていた。
「一枚でも変なものが出たら、全部止める」
「はい」
西野は申請書に受領予定の印を押した。
要公安照会の判子は、押さなかった。
その夜、庁舎裏の倉庫で検品をした。
毛布は湿っていた。缶詰は鯖と桃。石鹸には安い香料の匂いがした。
佐伯は木箱を開けながら言った。
「思想は見えませんな」
木島が古着のポケットを確認していた。
「当たり前です」
「いや、三好課長が言うから、てっきり赤い煙でも出るんかと」
「不謹慎ですよ」
「不謹慎で済むなら、だいたい安全や」
西野は缶詰の箱をどかした。
底に、紙が一枚入っていた。
木島が息を止めた。
佐伯も動きを止めた。
西野は紙を取り出した。
宣伝ビラではなかった。
手書きのメモだった。
爆破被災者のうち、身寄りのない者を優先してください。
こちらで把握している名簿を後日届けます。
大阪冬季救援会
加納誠
木島がほっと息を吐いた。
「普通のメモですね」
佐伯が言った。
「普通のメモが、一番厄介な時代やけどな」
西野はメモを見ていた。
丁寧な字だった。若い男の字に見えた。強く書こうとして、ところどころ力が入りすぎている。
午前中、母親が震える手で差し出した紙片。
そこにあった山下敬一の名。
その横に添えられていた、同じ筆圧、同じ払い、同じ左へ傾く癖。
同じ字だった。
「西野さん?」
木島が言った。
西野は紙を木島に渡した。
「配布記録と一緒に保管しとけ」
「はい」
「課長には?」
佐伯が聞いた。
西野は、ほんの一拍だけ置いた。
「物資に宣伝物はなかった。それだけでええ」
佐伯は何か言いかけたが、やめた。
倉庫の外では、雨がまた降りはじめていた。
西野は缶詰の箱を閉じた。
山下敬一。
西成日雇い。
冬季。
加納誠。
四つの言葉が、紙の上ではなく、彼の中でつながった。
その日、西野は三度、知らないふりをした。
一度目は、母親の前で。
二度目は、公安の前で。
三度目は、この国の窓口の中で。
そして三度目が、いちばん静かだった。
西野の中で、その名前だけが残った。
加納誠。
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