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日本分断、東経百三十六度ここにあり  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第二話 扶養家族

朝になっても、雨は残っていた。


細い雨だった。降っているというより、空気の中に水が混ざっているような雨だった。


西野芳彦は五時四十分に目を覚ました。

目覚まし時計が鳴る前だった。

隣の布団で紀子が眠っている。廊下の向こうでは、麻里がまだ寝ている。台所では、昨夜洗った茶碗が乾いているはずだった。


何も変わっていなかった。


変わっていないものの上に、薄い紙が一枚置かれただけだった。役所で使う、白くて安い申請用紙。まだ何も書かれていない。だが、いつか必ず赤い判が押されることだけは決まっている。


洗面所で顔を洗った。剃刀を当てる。頬の下、顎のきわ、喉。


手は震えなかった。


鏡には、いつもの男がいた。


大阪市役所民生局保護第一課主査。

妻一人、娘一人。

思想歴なし。

組合活動なし。

勤務態度、良好。


西野は剃刀を洗い、タオルで顔を拭いた。

台所へ行くと、紀子が味噌汁を温めていた。


「早いのね」

「目が覚めた」

「昨日、遅かったのに」

「ああ」


紀子はそれ以上、聞かなかった。鍋の蓋を取ると、湯気が上がった。豆腐と葱の味噌汁だった。


麻里は眠そうな顔で起きてきた。制服の襟を直しながら、食卓につく。


「昨日、結局進路の話、途中やった」

「今日帰ったら聞く」


西野は言った。


「ほんまに?」

「ほんまに」

「昨日もそう言うた」

「昨日は市役所が悪い」

「今日は?」

「俺が悪くならんようにする」


麻里は少し笑った。

紀子は味噌汁を置きながら、夫を見た。


「靴、濡れてたわよ」

「雨やったからな」

「傘、持っていったのに」


西野は箸を取った。


「差すほどでもなかった」


紀子は何か言いかけて、やめた。


麻里は気づいていない。英単語帳を開き、味噌汁をすすっていた。


西野は黙って飯を食べた。

茶碗の中の白い米を見ていると、昨夜の声が戻ってきた。


本件に扶養家族は認められておりません。


役所の言葉だった。

それでいて、役所のどんな通知よりも正確だった。


七時四十五分、西野は官舎を出た。

紀子は玄関まで来なかった。台所から声だけがした。


「今日は傘、差しなさい」

「分かった」


西野は傘を持って出た。

だが、市役所に着くまで一度も開かなかった。


市役所の前には、昨日よりも多くの警官が立っていた。制服警官だけではない。黒い背広の男が数人、玄関脇の灰皿の近くで煙草を吸っている。


国家公安本部。


あるいは、その下請け。

西野は彼らを見なかった。

見なかったということは、目に入っていないという意味ではなかった。


保護第一課の空気は、昨日より重かった。机の上には書類が積み上がり、電話は鳴り続けている。木島晴江はすでに窓口に出ていた。佐伯隆司は受話器を肩で挟んで、何かを説明していた。


「せやから、死亡診断書の写しが要るんですわ。原本出したら、あんたあとで困るでしょ。写し。そう、病院の証明でええから」


佐伯は電話を切ると、西野に顔を向けた。


「おはようさん。顔色、悪いで」

「昨日からや」

「それもそうか」


佐伯は引き出しから缶コーヒーを出した。ぬるくなっている。


「飲む?」

「いらん」

「知ってる」


佐伯は缶を開けた。

「でも、聞くのが同僚の務めや」

「務めが多いな」

「役所やからな。何でも務めになる」


佐伯は笑った。

その笑いは、いつもと同じだった。

いつもと同じものほど、見分けにくい。

西野は机に座り、昨日の処理簿を開いた。


山下敬一。


冬季加算相談。住所、淀川沿いのアパート。本人確認、未了。備考欄は空白。


その上に、交通課から回った死亡照会の写しが重なっていた。


死亡時刻、午後五時二十分頃。

死因、頭部外傷および胸部損傷。

事故車両、黒色大型乗用車。逃走中。


身元確認欄には、赤字で小さく書き込みがあった。


公安引取。


「昨日の男、公安に持っていかれたらしいで」


佐伯が横から言った。

西野は顔を上げなかった。


「そうか」

「ただの轢き逃げで公安が遺体持ってくか?」

「三好課長に聞け」

「聞いたら怒られるやろ」

「ほな、聞かんことや」


佐伯は缶コーヒーを飲んだ。


「西野さん、そういうとこ、冷たいな」

「親切や」

「自分で言うな」


佐伯は笑い、また電話を取った。

西野は処理簿を閉じた。


山下敬一が何者だったのか。


東側の末端伝令か。西側の内通者か。藤堂側の使いか。あるいは、そのどれでもない男に、誰かがただ言葉を持たせただけなのか。


分からない。

分からないものに、今は手を伸ばさない。

それが長く生きる方法だった。


午前中は、扶養という言葉ばかりを見た。


扶養義務者。

扶養照会。

扶養家族。


木島が書類を持って、西野の机へ来た。


「この人、どうしましょう」


地下鉄爆破で夫が行方不明。遺体は未確認。子どもが二人。夫の母親も同居。収入は止まっている。


「夫が死亡確認されないと、葬祭扶助は出せません。課長は待てって」


「緊急小口で回せる」

「でも、身元確認が」

「課長には俺が言う」

「昨日もそれ言ってました」

「便利な言葉や」


木島は少し笑った。


すぐに表情を戻す。


「西野さん」

「何や」

「家族って、書類が揃わないと家族にならないんですか」


西野は紙から目を上げた。


木島は疲れた顔をしていた。だが、その疲れの中に、まだ怒る力が残っている。


「役所ではな」

「役所の外では?」

「知らんふりをする人間が決める」

「誰ですか、それ」

「世間や」


木島は返事をしなかった。

西野は緊急小口の欄に赤鉛筆で丸をつけた。


「これを会計に回せ。急ぐと言えば、嫌な顔はされる」

「されるんですか」

「される。されても回せ」


木島は書類を抱えて戻っていった。

佐伯が煙草をくわえながら言った。


「木島さん、ああいうところ、危なっかしいな」

「若いだけや」

「若いだけで済んだら、公安はいらんわな」


佐伯はそう言ってから、自分の声が少し硬くなったことに気づいたように、笑ってごまかした。


「まあ、公安なんか、いらん方がええけど」


西野は佐伯を見なかった。

見なかったが、佐伯の言い直しの速さを覚えた。

昼前、三好課長が西野を呼んだ。


「山下の件や」


課長席の周りには、公安からの封筒がいくつも積まれていた。


「お前、余計な照会はしてへんやろな」

「してません」

「ならええ」


三好は声を落とした。


「今、上が神経質になってる。地下鉄の件で、東側の細胞が大阪に入ってるいう話や。市役所も例外やない」

「市役所に、ですか」

「不思議か」

「いいえ」

「窓口は、人が入ってくる。市民、避難民、学生、労組、宗教、朝鮮系、台湾系、訳の分からん団体。こっちが開けてる扉から、敵も入ってくる」

「閉めますか」

「閉めたら、役所やない」


三好は苦い顔で言った。


「そこが腹立つんや」


西野は黙っていた。

三好は椅子にもたれた。


「わしの兄貴は、仙台で役所勤めやった。向こうが入ってきた時、最後まで窓口を開けてたらしい。避難証明を出すためにな」


三好は机の上の判子を見た。


「それで置いていかれた」


西野は、少しだけ三好の顔を見た。


「生きてるかどうかも分からん。もし生きてたら、今は向こうの役人かもしれん。赤い判子を押してるかもしれん」


三好は鼻で笑った。


「笑えるやろ」

「いいえ」

「笑えへんから、腹が立つんや」


三好は封筒を渡した。


「学生関係の扶養照会や。左の救援会が絡んでる。木島にはまだ触らせるな。お前が見ろ」

「分かりました」

「あと、山下の件は忘れろ。交通事故や」

「交通事故なら、忘れる必要はないでしょう」


三好は目を細めた。


「そういう言い方、やめとけ」

「はい」


西野は封筒を受け取った。


昼休み、西野は食堂へ行かなかった。


庁舎の裏口から出て、中之島の方へ歩いた。雨はやんでいたが、川の上には低い雲が残っていた。


淀屋橋の近くに、大阪国際貿易会館があった。


西ドイツ、スウェーデン、フランス、中立国の商社が入る建物だった。西日本は反共国家だったが、商売は思想より少しだけ粘り強かった。東側との直接取引は禁じられていても、中立国を挟めば、機械も部品も情報も動く。


一階ロビーでは、スウェーデン工作機械展の準備をしていた。


西野は受付を通らず、奥の喫茶室に入った。


そこに、葛城怜二がいた。


三十代後半。細身の男だった。髪をきちんと撫でつけ、灰色の背広を着ている。胸には中立国商社の通訳証が下がっていた。日本語は柔らかい。柔らかすぎて、感情がどこにも引っかからない。


葛城は新聞を畳んだ。


「お久しぶりです、西野さん」


西野は向かいに座った。


「昨日、電話で話した」

「直接お会いするのは、という意味です」

「初対面や」

「今の私とは、そうですね」


ウェイトレスが来た。

葛城はコーヒーを頼んだ。西野は水だけでいいと言った。


ウェイトレスが去ると、葛城は鞄から薄い封筒を出した。机の上には置かず、膝の上に置いたままだった。


「二十五年の配置、ご苦労さまでした」

「まだ終わっていない」

「ええ。ですから、終わらせます」


西野は水を飲まなかった。


「山下は何者だ」


葛城は一瞬だけ、目を細めた。


「山下敬一です」

「そういう話はしていない」

「末端の伝達者に、全体の意味は不要です」

「誰が消した」

「事故と聞いています」

「公安が遺体を引き取った」

「事故でも、政治的意味を持つことはあります」


西野は葛城を見た。


葛城の顔には、何もなかった。笑いも、怒りも、警戒もない。ただ、そこに顔があるだけだった。


「意味を知らない男を使って、死なせたのか」

「知らないから使えます」


葛城はコーヒーに砂糖を入れなかった。


「知っている人間は、死ぬ前に余計な顔をします」


西野は黙った。


「藤堂鶴彦」


葛城が言った。

その名前が出た瞬間、ロビーのざわめきが少し遠のいた。


藤堂鶴彦。

二十五年前、東京で西野に歩き方を教えた男。

喋り方を教えた男。

嘘のつき方を教えた男。

人を殺す時に相手の目を見るなと教えた男。


「生きているのか」

「生きています」

「西日本が保護しているはずだ」

「保護には費用がかかります。価値が下がれば、保護は薄くなる」

「亡命者の価値が下がったのか」

「古い亡命者です。彼が持っている情報も、古いものと見なされ始めている」

「古い情報で俺を起こすのか」


葛城はようやくコーヒーに口をつけた。


「古い情報には、古い配置員が向いています」


西野は黙っていた。


葛城は続けた。


「任務は三つです。藤堂鶴彦を発見すること。処分すること。所持資料を回収すること」

「処分の定義は」

「あなたが知っている定義です」


西野は少しだけ笑った。


「二十五年経っても、言い方は変わらないんだな」

「本部は言い方を変えません。変えると、昔の人間が混乱します」

「俺のことか」

「あなたも含まれます」


葛城は封筒を机に置いた。


「詳細です。暗記後、処分してください」


西野は触れなかった。


「家族は」


葛城はすぐには答えなかった。

答えに迷った沈黙ではない。答えを、どの形式で渡すかを選ぶ沈黙だった。


「昨日、お伝えした通りです」

「本件に扶養家族は認められていない」

「はい」

「妻と娘は、こちらに残る」

「あなたの身分が保全されている限り、危険は限定的です」

「身分が壊れたら」

「その場合は、状況が変わります」

「便利な状況だ」


葛城はカップを置いた。


「モスクワの顧問団は、あなたの奥様の旧姓を必要としません。娘さんの成績も、進路も、写真も必要としません」


西野は葛城を見た。


「配置員に家族はいない。記録上は、そうなっています」


喫茶室の向こうで、外国人の笑い声がした。

葛城は続けた。


「ただし、本部はあなたを懐かしがっているわけではありません」


その言い方は丁寧だった。

丁寧だから、冷たかった。


「確認したがっています」

「何を」

「あなたが、まだこちら側の人間かどうかです」

「確認の方法は」

「追って連絡します」

「今ではないのか」


葛城は微笑した。


「前もって知らせると、確認になりません。役所の抜き打ち検査と同じです」


西野は封筒を手に取った。

薄い。

人ひとりを殺す命令は、いつも薄い。


「西野さん」


葛城は立ち上がった。


「二十五年は長い。長い配置員ほど、自分の居場所を任務と取り違える」

「俺がそうだと?」

「確認します」


葛城はそれだけ言って、喫茶室を出ていった。

市役所へ戻ると、窓口はまた混んでいた。

佐伯が西野の席に書類を積んでいた。


「どこ行ってたんですか。課長、探してましたよ」

「川を見に」

「川か。景気よう流れてたか」

「濁ってた」

「大阪らしい」


佐伯は笑い、ふと西野の胸元を見た。


「濡れてへんな」

「雨はやんでた」

「靴は濡れてる」


西野は佐伯を見た。

佐伯は缶コーヒーを振った。


「いや、何でもないです。役所の床が汚れるなと思って」

「掃除のおばちゃんに謝っとけ」

「西野さんがな」


佐伯は笑って自分の席へ戻った。

西野は机に座った。

封筒の重みは、背広の内側にほとんどなかった。だが、その薄さが身体に残った。

木島が別の紙を持ってきた。


「地下鉄爆破の被害者世帯です。扶養家族の欄、どう書けばいいか分からないって」


西野は紙を受け取った。

扶養家族。

また、その言葉だった。

欄は空白だった。


そこに名前を書けば、役所はその人間を家族として扱う。名前がなければ、扱わない。


簡単なことだった。

簡単すぎて、間違っている。


西野は鉛筆を取った。


「まず、同居している人間を書く」

「戸籍と違っても?」

「今、飯を食ってる相手からや」


木島はうなずいた。


「それ、規則にありますか」

「ない」

「じゃあ」

「あとで直せる。今は、それで持たせる」


木島は書類を抱えた。


「西野さん、たまに規則よりまともなこと言いますね」

「たまにや」


木島は窓口へ戻った。


今は、それで持たせる。

市民にも。家族にも。身分にも。

何もかも、あとで直せるふりをして、今日を通す。


夜八時前、ようやく庁舎を出た。

外は冷えていた。水たまりに市役所の窓明かりが映っている。

淀屋橋の方から、黒い車が一台ゆっくり走ってきた。市役所前で速度を落とし、また走り去った。


西野は見なかった。

見なかったが、ナンバーは覚えた。

帰宅すると、紀子が台所で大根を煮ていた。


「遅かったのね」

「市役所が混んだ」

「そう」


紀子は鍋を見たまま言った。


「今夜は大根にしたの。あなた、冷えると胃にくるでしょう」


西野は靴を脱ぐ手を止めた。


「そうやったか」

「そうよ」


紀子は振り向かなかった。


「麻里、待ってるわよ。進路の話」

「ああ」

「今日は、聞いてあげて」

「聞く」

「聞くだけじゃなくて、そこにいてあげて」


奥の部屋から、麻里の声がした。


「お父さん?」


西野は背広の内側から手を離した。


封筒は、まだそこにあった。


「今行く」


その夜、西野は麻里の話を聞いた。


文学部に行きたい。教師になるか、出版社に入りたい。東京の本も読んでみたい。向こうでは、どんな小説が書かれているのか知りたい。


紀子は台所で大根を煮ていた。


西野は最後まで席を立たなかった。


ただ一度だけ、麻里が「東京」と言った時、右手が膝の上で止まった。

麻里は気づかなかった。

紀子は気づいた。


深夜、家族が寝静まったあと、西野は台所で封筒を開けた。


中には薄い紙が三枚。


藤堂鶴彦の古い写真。

西日本内で使っている可能性のある偽名。

接触線の断片。


最後の一行だけ、赤鉛筆で囲まれていた。


――信用確認、近日発動。


西野は紙を暗記した。


それから、一枚ずつ細く破いた。台所の流しで燃やす。灰は水で流した。


焦げた紙の匂いが、少しだけ残った。


紀子が寝室で寝返りを打った。

西野は火の消えた流しを見ていた。

信用確認。

二十五年潜った男が、まだどちら側の人間か。

それを誰かが確かめに来る。

あるいは、もう来ている。

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