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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第一話 冬季加算

爆弾は御堂筋線の地下で破裂した。


だが、その破片は翌朝、大阪市役所民生局の窓口まで飛んできた。


朝八時半。庁舎の廊下には、夜の匂いがまだ残っていた。濡れた外套、安い煙草、消毒液、泣きはらした女の白粉。蛍光灯は早くも疲れた色をして、長椅子には昨日から眠っていない顔がいくつも並んでいた。


壁には、西日本の国土図が掛かっている。


京都に小さな菊の紋。大阪に赤い丸。沖縄、佐世保、岩国には米軍施設を示す青い印。地図の東端、関ヶ原から伊勢湾のあたりには、太い線が引かれていた。


東経百三十六度。


三十年前、北から来たソビエト軍と、南から来たアメリカ軍がそこで向かい合った。北海道、東北、関東を押さえたソ連。九州、関西、中国・四国を押さえた米軍。暫定軍事境界線と呼ばれた線は、いつの間にか国境になった。


東京には日本人民共和国が生まれた。


京都と大阪には、日本国が残った。


平成二十八年、西暦一九七五年。


西日本は、アメリカが極東で守る最後の防壁だった。朝鮮半島はすでに全域が共産圏に落ちている。サイゴンも春に陥ちた。新聞は連日、「次は大阪か」と書き立てていた。


大阪市役所一階の掲示板には、前夜のうちに貼られた国家公安本部の告知があった。


――不審な思想活動を見たら、すみやかに通報を。

――東側放送の聴取、流布を禁ず。

――共産主義団体への協力は、国家保安法により処罰される。


西野芳彦は、その貼り紙の前を通り過ぎた。


四十歳。大阪市役所民生局保護第一課主査。


背は高くない。肩幅も目立たない。髪には白いものが混じりはじめている。紺の背広は少し擦れていた。役所の男としては、どこにでもいる。どこにでもいるように見える、ということは、役所では大切な才能だった。


「西野さん、今日、地獄ですわ」


机に着くなり、隣の佐伯隆司が煙草をくわえたまま言った。


佐伯は四十五歳。腹が出て、声が大きく、机の上はいつも汚かった。だが受給者の顔と名前だけは妙に覚えている。朝、窓口の前で震えていた老女には、さっきも自分の茶を出していた。


「昨日からや」


西野は鞄を置き、袖口を直した。


「そらそうですけど。朝一番で葬祭扶助が三件、医療扶助が七件。あと、公安から照会が来てます。学生関係」

「どこに」

「木島さんの机」


佐伯が顎で示した先で、木島晴江が青い顔をして書類を抱えていた。二十八歳。ケースワーカーになって四年目。気が強いようで、死者の名前が並ぶ紙にはまだ慣れていない。


西野は立ち上がり、木島の机へ行った。


「貸して」

「でも、西野さん、これは私の担当で」

「名前を読み違えたら、あとで遺族が二度死ぬ」


木島は一瞬だけ唇を噛んだ。だが、紙束を渡した。

死亡者名簿だった。

氏名、年齢、住所、扶養家族、身元確認の有無。


西野は一枚目から見ていった。鉛筆の先が、ひとつの漢字で止まる。


「この『﨑』は、戸籍では大きい方の崎や」

「すみません」

「謝らんでええ。直せば済む」


木島は彼の横顔を見た。


「西野さん、平気なんですか」

「何が」

「こういうの」


西野は紙から目を上げなかった。


「平気な人間は役所におらん。先に手を動かすだけや」


慰めではなかった。

だから木島には効いた。


九時、窓口のシャッターが開いた。


最初に来たのは、夫を亡くした女だった。三十前後。喪服ではなく、普段着の上に黒いカーディガンを羽織っている。髪を結い直す余裕もなかったのだろう。


「主人が、昨日の地下鉄に」


そこまで言って、女は口を押さえた。

木島が椅子を勧めようとしたが、西野が先に申請用紙を出した。


「葬祭扶助の説明をします。お名前を」


女は西野を見た。

その目に、ほんの一瞬、責めるような色が浮かんだ。人が死んだのに、なぜこの男は名前を聞けるのか。なぜ紙を出せるのか。


西野は目を逸らさなかった。


「今、書けるところだけでかまいません」


女は泣きながら、夫の名を書いた。


次は火傷を負った工員だった。包帯の隙間から赤い皮膚が見えていた。会社が休業補償を出すかどうか分からないという。


その次は、息子が公安に連れていかれたという母親だった。


「あの子は爆弾なんか作りません。統一のビラを配ってただけです。あの子は、東へ行きたいなんて一度も」


奥から三好課長が顔を出した。


三好は五十代半ば。東北からの避難民だった。仙台が落ちた年、父親と兄を東に残してきたという話を、酒の席で一度だけしたことがある。


「統一いう言葉が、いちばん危ないんですわ、奥さん」


母親が凍ったように三好を見た。


「課長」


西野が低く言った。

三好は西野を見た。西野は首を振らなかった。ただ、母親の前にある申請書を指で押さえていた。

三好は鼻を鳴らし、奥へ戻った。


母親は震える手で鞄を握っていた。


「息子さんの扶養関係だけ、確認します」


西野は言った。


「ここでは、それしかできません」


母親は泣き出した。


十時を過ぎる頃には、待合の長椅子が足りなくなった。朝鮮半島から逃れてきた家族が、通訳を伴って住宅相談に来た。


朝鮮半島は、もう全土が共産圏だった。


南も北もない。釜山も京城も、金日成の旗の下に入って二十年以上が経っている。そこから逃れてきた者たちは、西日本にとって被害者であり、同時に疑わしい者でもあった。


「身元保証人が足りません」


若い職員が、規則どおりに言った。


父親らしい男は日本語が分からない。通訳が説明すると、男は何度も頭を下げた。母親は子どもの肩を抱いた。


木島が困った顔で西野を見た。

西野は台帳をめくった。


「鶴橋の金斗満さんを知ってるか、聞いて」


通訳が伝える。男が顔を上げた。


「知っているそうです。食堂の」

「保証人欄は空けておいてええ。今日中に金さんへ電話する」


若い職員が小声で言った。


「でも、課長が」

「課長には俺が言う」


西野は判を押した。


朱肉の赤が、紙に沈んだ。

昼前、事件は小さく起きた。


弟を地下鉄で亡くしたという男が、窓口で怒鳴りはじめた。補償が遅い。国は何をしている。東の連中を殺せ。アメリカは守ってくれるんじゃなかったのか。京都の陛下は何をしている。


言葉はまとまっていなかった。悲しみが、政治の形を借りて噴き出しているだけだった。


男はカウンターの灰皿を掴んだ。

木島が息を呑んだ。

警備員は、まだ廊下の向こうだった。


西野は椅子から立った。

「それは軽いです」

男が西野を見た。

「本気で殴るなら、椅子の方が重い」

窓口全体が静かになった。


男の意識が灰皿から椅子に移った、その瞬間だった。


西野はカウンターを回り込み、男の肘の内側に指を滑らせた。強くはなかった。ただ、骨と筋の間の、力が抜ける一点を押した。男の手から灰皿が落ちる。次に肩が沈み、膝が椅子へ折れた。

誰にも、暴力には見えなかった。

佐伯が落ちた灰皿を拾い、男の前にしゃがんだ。


「兄さん、座っとき。怒るんはええけど、灰皿で殴ったら葬式代の相談が、今度は弁護士代の相談になる」


男は泣きながら佐伯の胸を押した。佐伯は押されるまま、少しだけ後ろへよろけてやった。


「痛い痛い。役所の人間はな、意外と柔らかいんや」


誰かが小さく笑った。


場が、戻った。


佐伯は立ち上がり、西野に灰皿を渡した。


「西野さん、昔、柔道でもやってたんか」

「役所に長くおるとな、怒った人間の手元だけ見るようになる」


佐伯は笑った。

木島だけが、しばらく西野の手を見ていた。


昼休み、地下の食堂で、佐伯はカレーにソースをかけながら新聞を広げた。

一面には、大きな見出しがあった。


――地下鉄爆破、東側関与か。


横には、小さくサイゴン陥落後のインドシナ情勢が載っていた。アメリカの威信低下。極東防衛線の再確認。日本国政府、米国との共同声明へ。


「サイゴンが落ちて、うちのカレーが高なる。世界はようできとるわ」


佐伯が言った。

三好課長が湯呑みを置いた。


「冗談やないぞ。次は大阪やと思うてるんや、東の連中は」


「東京は景気ええらしいですけどね。外資ホテルやら、ドイツ車やら」


佐伯が新聞の別面をめくった。

三好は顔をしかめた。


「ソ連の犬が、ベンツに乗っても犬は犬や」


言ってから、三好は少しだけ口元を歪めた。


「うちの兄貴も、今ごろそのベンツを磨かされてるんかもしれんがな」


誰も笑わなかった。


木島が遠慮がちに言った。


「でも、向こうにも普通に暮らしてる人はいるんでしょう」

「普通の顔して入ってくるのが工作員や」


三好は即座に言った。


「窓口ほど入りやすい場所はない。困ってます、助けてください、書類を見てください。そう言うてな」


木島は黙らなかった。


「困ってる人は、どうやって見分けるんですか」


三好は新聞を畳んだ。


「見分けられんから、疑うんや」


西野はカレーを食べていた。


辛くも甘くもない、役所のカレーだった。


「西野さんはどう思います」


木島が聞いた。


「冷めると、まずい」


佐伯が笑った。


「そっちかい」


木島も少し笑った。三好は不満そうだったが、それ以上は言わなかった。


午後二時過ぎ、雨が強くなった。

窓口に、中年の男が来た。


外套は古く、帽子の縁から水が落ちていた。顔はどこにでもいる労働者風だった。背中が少し丸く、咳をひとつした。書類は揃っている。印鑑も持っている。

西野の前に座ると、男は帽子を取らずに言った。


「すんません、冬季加算の申請です」


西野は申請用紙を手元へ引いた。


「世帯人数は」

「一人です。いや、いまは一人でして」


男は鞄から紙を出した。


「東淀川の窓口でまとめて出せると、組合の人に聞いたんですが」


鉛筆の先が、紙の上で止まった。

ほんの一瞬だった。

男の声は、微かに人民共和国出身のイントネーションが混じっていた。


木島は隣の窓口で別の相談者に説明していた。

佐伯は奥で電話を取っていた。

三好課長は公安から来た封筒を開けていた。


誰も見ていなかった。

西野は顔を上げた。


「東淀川でしたら、区の扱いです。ただ、世帯状況によって変わります。お名前を」


「山下です。山下敬一」

「住所は」


男は淀川沿いの古いアパート名を言った。


西野は書き取った。筆跡はいつもと同じだった。整いすぎず、乱れすぎず、役所の書類に向いた字。


「組合というのは」

「日雇いの。西成の方の」

「証明書はありますか」

「これでええんでしょうか」


男が差し出した紙は、古い労働組合の加入証だった。西野はそれを見た。紙の端がわずかに湿っている。


彼は判を押さなかった。


「確認が必要です。今日は控えをお渡しします」

「どれくらいかかります」

「早くても三日です」


男はうなずいた。


「三日」

「はい」

「三日ですね」


男は、そこで初めて西野の目を見た。

弱った相談者の目ではなかった。

だが、それも一瞬だった。


男は控えを受け取り、濡れた帽子を軽く押さえて立ち上がった。


「おおきに」


西野は、次の相談者を呼んだ。

夕方五時二十分、山下敬一は死んだ。

市役所から二筋北の交差点だった。雨で視界が悪く、大型の黒い乗用車が歩道寄りを走っていたという。目撃者は少なかった。車はそのまま御堂筋方面へ逃げた。


交通課から照会が来たのは、窓口を閉めたあとだった。


佐伯が受話器を置いて、顔をしかめた。


「西野さん、昼の冬季加算の男、死んだらしいで」


木島が振り向いた。


「え」

「轢き逃げやと。山下敬一。住所照会来てる」


三好課長が奥から出てきた。


「余計なことはするな。公安に回せ」

「ただの交通事故かもしれませんよ」


木島が言った。

三好は彼女を見た。


「今の大阪に、ただの事故なんかあるか」


誰も笑わなかった。

西野は死亡照会の紙を受け取った。

山下敬一。

昼に自分が書いた字が、そこに転記されていた。


顔色は変わらなかった。


自分のところに来た男が、自分のところを出て死んだ。

誰の差配か、まだ分からない。

分からないということが、その夜の意味だった。


夜、家に帰ると、湯豆腐の匂いがした。

西野家は大阪市内の古い官舎にあった。狭いが、掃除は行き届いている。玄関には麻里の革靴が揃えて置かれ、台所では紀子が鍋の蓋を少しずらしていた。


「遅かったのね」

「市役所が混んだ」

「でしょうね」


紀子はそれ以上聞かなかった。

そういう女だった。

十七歳の麻里は、食卓で英単語帳を開いていた。父を見ると、少しだけ姿勢を正した。


「お父さん、今日、話があるって言うてたのに」

「進路か」

「うん」

「食べてから聞く」

「食べたら寝るやん」

「努力する」


麻里は口を尖らせた。紀子が笑った。

テレビでは、NHAのニュースが流れていた。


大阪地下鉄爆破事件の死者はさらに増えた。政府は国家保安法の厳格運用を検討。京都御所では、陛下が被災者に御下賜金を出された。対馬海峡では朝鮮人民共和国の艦艇が確認された。


続いて、東京湾岸に開業した外資系ホテルの映像が流れた。


ガラス張りの高層建築。ロシア語と日本語の看板。西ドイツ資本の合弁企業。人民日本の若い男女が、明るいロビーを歩いている。


アナウンサーは硬い声で言った。


「日本人民共和国当局は、これを社会主義経済の発展と宣伝していますが、実態はソ連および西欧資本への従属強化との見方も――」


麻里が箸を止めた。


「東って、貧しいの? それとも豊かなの?」


紀子がテレビの音を少し下げた。


「どうして」

「学校では、自由がないから貧しいって習う。でもニュースでは、ホテルとか車とか出てくる」

「見せたいところだけ見せてるんやろ」


紀子が言った。


麻里は父を見た。


「お父さんは?」


西野は豆腐を崩さずに箸で取った。

「行ったことがないから分からん」

箸の先で、豆腐の角が少し崩れた。

西野は気づかないふりをした。

紀子は、それを見ていた。

「東に?」

麻里が聞いた。

「ああ」

「そっか」


麻里はまた英単語帳に目を落とした。

紀子だけが、ほんの少し西野を見ていた。


「あなた、若い頃の写真、ほんまに一枚もないのね」


急な言葉だった。

麻里が顔を上げた。


「何それ」

「前にも言うたでしょう。お父さん、結婚してからの写真はあるけど、それより前が何もないの」

「戦後に、だいぶ失くした」


西野は味噌汁を飲んだ。


「家も焼けたしな」

「どこの家?」


麻里が聞いた。

西野は答える前に、テレビへ目を向けた。


ニュースは、地下鉄爆破の現場映像に戻っていた。

「冷めるぞ」

紀子が言った。


麻里は不満そうに口を曲げたが、それ以上は聞かなかった。


食事が終わり、麻里は進路の話を少しした。文学部に行きたいと言った。紀子は現実的な就職の話をした。西野は途中で二度、返事を間違えた。


「やっぱり聞いてない」


麻里が言った。


「聞いてる」

「じゃあ、私、何学部って言った?」

「法学部」

「文学部」

「似てる」

「似てない」


麻里は怒ったが、本気ではなかった。

十時半には、家の明かりがひとつずつ消えた。


紀子が布団を敷き、麻里は部屋へ戻った。英単語帳を閉じる音がした。隣家のラジオから、古いジャズが小さく漏れていた。


西野はしばらく台所に座っていた。

湯豆腐の鍋は空だった。流しには、紀子が洗い終えた茶碗が伏せてあった。窓ガラスには、細い雨が斜めに流れている。


彼は背広を着直した。

玄関で靴を履くと、廊下の奥から紀子の声がした。


「どこへ」

「煙草」

「やめたんでしょう」


西野は少し黙った。


「歩いてくる」


紀子は起きてこなかった。


「傘、持っていきなさい」

「ああ」


外へ出ると、雨はまだ降っていた。


御堂筋の街灯は、濡れた舗道に長く伸びていた。夜の大阪は、昼間よりも国境に近い顔をしていた。黒い車がゆっくり走り、ビルの窓はところどころだけ明るく、遠くで警察車両のサイレンが短く鳴った。


西野は傘を差さずに歩いた。


三筋先の電話ボックスに入った。ガラスは曇っている。中には煙草の吸い殻が一本落ちていた。


彼は財布から十円玉を出した。

一枚、二枚。

番号は、考えずに押した。

呼び出し音は三度鳴った。

四度目の前に、誰かが出た。

男とも女ともつかない声だった。


「はい」


西野は濡れたガラスに映る自分の顔を見た。

大阪市役所民生局の主査の顔だった。

夫の顔であり、父の顔であり、役所の食堂で冷めたカレーを食う男の顔だった。


彼は言った。

「冬季加算の件で」

受話器の向こうで、紙をめくる音がした。

「受付番号は」

「二十五」


短い沈黙があった。

雨がガラスを叩いた。


「確認しました」


声は言った。


「長期配置を解除します」


西野は黙っていた。


「対象、藤堂鶴彦。所在、西日本内。発見次第、処分。所持資料を回収。完了後、東の窓口で総括を受けてください」


電話ボックスの外を、酔った男が一人、新聞を頭に乗せて走っていった。

世界はまだ、普通の夜を続けていた。


西野は受話器を持ち替えた。

右手から左手へ。

その動きだけが、家で茶碗を持つときとも、役所で判を押すときとも違っていた。


「扶養家族の扱いは」


自分の声が、少し遠くから聞こえた。

受話器の向こうで、また紙をめくる音がした。

手続きのような間だった。


「本件に扶養家族は認められておりません」


西野は目を閉じた。


湯豆腐の湯気。

麻里の英単語帳。

紀子の「傘、持っていきなさい」という声。


それらが、雨音の奥へ沈んでいった。


「了解」


その一言は、大阪市役所の男が使う返事ではなかった。

受話器を置く前に、声が続いた。


「祖国は、あなたの帰還を待っています」


西野は、初めて小さく笑った。

笑ったのは口だけだった。


「祖国が待つことはない」


声は黙った。


「命令が待つだけだ」


言い切った声が、自分のものに聞こえなかった。

二十五年前の教室で覚えた答辞を、いまも暗唱しているだけのようだった。


西野は電話を切った。

ガラスに映る顔は、さっきと同じだった。


大阪市役所民生局主査、西野芳彦。

妻一人、娘一人。

住所、大阪市内。

思想歴、なし。

組合活動、なし。

勤務態度、良好。


そして、もう一つ。


日本人民共和国国家保衛部、西側長期配置員。

昭和の終わらなかった東京から、十五歳で送り込まれた男。

配置期間、二十五年。


西野芳彦は電話ボックスを出た。


雨は弱くなっていた。

彼は傘を開かなかった。

二十五年潜った男に、本務が下りた。

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