封鎖のあとで
翌朝。
蛍光灯が白い。
ダンジョン管理局・新宿分室の聴取室は、坑道より乾いている。机の上にはペンと用紙と、使い込まれた霊力測定器だけだ。陸の右腕は固定帯のままで、背中の張り薬が椅子に当たって痛む。
「改めて。真島陸さん。アスモ・クリーン所属。霊力測定値は——」
担当官が測定器を差し出す。冷たい金属が指に触れる。針は動かない。
『霊力測定値:0』
——知ってる。
「……記録どおりです」
担当官は息を吐いた。隣のギルド窓口員が、書類の欄を何度も擦っている。記入できない空白が、紙の上で目立っている。
「B級『鋼鉄大蛇』の活動停止を確認したのは、あなたの突入直後です。B級を討てる等級の班は未到着。銀翼は現場を離脱。現場証言では、あなたがガードレール片を急所へ——」
「刺しました」
「霊力0の非ライセンス者が、B級を仕留めた、という記録は。……通りません」
肩の師匠が欠伸をする。誰も見ない。
『ふん。測れねえものを測ろうとするから困る』
陸は答えを選ぶ。師匠のことは言えない。気のことも、説明できない。
「……死骸は、そこにありました。俺は、刺しただけです」
担当官と窓口員が目を合わせる。用紙の「討伐者」欄は、結局、空欄のまま赤で『要再調査』と押された。
「銀翼については、護衛放棄および等級外脅威からの無断離脱で、処分手続きに入ります。あなたは、現場逸脱と負傷の確認対象です。任意聴取は、以上です。お疲れ様でした」
——討伐の手柄は、どこにも着かない。
それでも、銀翼の名前が処分対象に並んだ事実だけが、机の上に冷たく残る。
会社に戻ると、事務所の空気が違っていた。
班長は陸の顔を見て、ため息だけを先に出す。
「生きててよかった。……だがな。管理局が嗅ぎ回ってる。うちは下請けだ。厄介事は、現場の数字に出ちまう」
「すみません」
「謝るな。今日はもう休め。次の現場は、しばらく別班だ」
同僚の視線が、陸の固定帯で止まる。英雄扱いではない。火薬の側を見る目に近い。
『厄介事、か。夜の修業にはちょうどいいな』
「……キビシイっす」
呟きが漏れる。周囲は、痛みの独り言だと受け取ったらしい。
休憩室の自販機の前で、川瀬が待っていた。缶コーヒーを二本抱えている。手が、もう震えていない。
「陸さん。これどうぞ。……妹が、お礼を言えって」
「ありがとう。妹さんを泣かせずに済んだな」
川瀬は、一度頭を下げる。
「ありがとうございました」
陸は缶を受け取る。冷たい微糖だ。川瀬が選んだらしい。
「銀翼、処分って……本当ですか」
「聞く限りは」
「逃げたやつらより、陸さんのほうが——」
「記録には残んねえよ」
陸は自分で言って、缶のプルタブを上げる。
——残るのは、傷と、0の針だけだ。
夜。
アスモ・クリーンの資材置き場の裏は、薄暗く街灯が一本だけ届く。廃材の山と、錆びたパイプ。陸が素振りをしてきた場所だ。
『腹からだ。散らすな』
師匠が耳を引っ張る。痛む。
陸はパイプを握り、腹の奥から指へ糸を通そうとする。昨夜は通った。今夜は——途中で溶けてしまう。尖端が震えるだけで、何も起きない。
「……出ません」
『出るわけねえだろ。死にかけの火事場で一発当たっただけだ。それを“できた”と思うなよ』
「でも、B級は倒せましたよ」
『偶然に近い一撃だ。再現できなきゃ、意味ねえ。そりゃ地力じゃなく運だ』
陸は歯を食いしばり、もう一度通す。傷が引きつる。糸は細い。細いどころか、指先まで届かない。
パイプで廃材を叩く。ただの音だ。魔力保護も何もない木に、霊力も気も要らない。
——昨夜は、鱗に刃を通した。
それが、今は手元にない。
『休め、と言ったのは身体の話だ。気は、休めば鈍る。毎日、腹から指先へ気の糸を通してみろ。通せない日は、メニューを倍にする』
「……仕事は、しばらく現場に出られません」
『なら時間がある。上等だ。今夜の追加だ——息を止めずに素振り50回。糸が溶けるたびに、最初から数え直せ。終わったら、指先に糸が残るまで立ちっ放しだ』
陸はパイプを下ろす。掌の皮が、また割れている。爪の痕が残る。
事務所の窓に、まだ明かりがある。班長の「厄介事」が、耳の奥で繰り返される。川瀬の礼も、残っている。管理局の空欄も、残っている。
辞めるなら、今がいちばん簡単だ。傷を理由に休職して、測定の0を抱えたまま、別の現場へ沈む。師匠の声も、聞かなくて済む。
『何を考えてる、弟子』
「……辞めるか、残るか、迷っています」
『仕事か? 俺様か?』
「両方です」
師匠が笑う。嘲笑に近い。それでも、耳元から声は消えない。話を投げ出してはいない。
『どっちも残して、どっちも潰れるのが凡人だ。選ぶなら早くしろ。俺様は暇つぶしがしたいだけだが——ゼロのまま腐る弟子は、退屈だ』
陸はパイプを再び握る。通らない糸を、もう一度腹へ探す。
街灯の下で、数字は変わらず、記録も着かず、気の再現も、まだしない。
——それでも、手を離す理由より、握る理由のほうが、今は重要だ。
答えは出ない。出ないまま、陸は素振りを続けた。




