一撃の極意
表現って難しいですね。。。
消毒液の匂いが強い。
仮設の救護テントは、新宿地下坑道の封鎖線の外側に張られていた。陸の背中には張り薬が何枚も貼られ、右腕は簡易の固定帯だ。応急処置をした救護班には、歩けるなら歩いてもいいが、走らないように、と言われた。
『この程度の傷で走るな、だと? 笑わせる』
肩の師匠が、医療用のライトを無視して欠伸をする。姿も声も、陸以外には届かない。
「……病院へ行けって、班長が言ってました」
陸が、師匠へ——誰にも聞こえない声で——返す。
『封鎖が先だろうが。B級が穴の中で暴れてるのに、ベッドで寝ててどうする』
テントの外で、拡声器が鳴る。管理局経由でギルドの初動班は到着したが、B級を討てる等級の覚醒者が揃うまで正規突入はしない方針らしい。
「銀翼、先に逃げやがったらしいぞ」
誰かが吐き捨てるように言う。名前が、怒声に混じって聞こえた。
川瀬が、湯の入った紙コップを差し出す。手が、少し震えている。
「陸さん。本当に、ありがとうございました。……妹に、今日は遅くなるって連絡しました」
「無事でよかったよ。怪我はない?」
「はい。擦り傷くらいで大丈夫です。これ、お湯貰ってきました」
陸は湯を受け取る。熱が掌に残る。さっき、鉄棒に通した糸の感触に近い。
『いい顔だ。だが、まだ鱗に刃を通しただけだ。次は、急所まで届かせろよ』
——急所、か。
『鱗の継ぎ目は入口だ。本体は奥——眼の下、顎の内側。血管が寄っていて、魔力保護も薄い』
師匠は陸の指を掴み、自分の小さな胸へ押しつける。
『腹から、ここまで届かせろ。途中で散らすなよ。気は一点に集めろ。広げたら、ただの息だ』
テントの隅で、陸は座ったまま拳を握る。背中の傷が引きつるたび、腹から指へ通そうとする気の糸が細く揺れる。それでも、さっきよりは早い。
——届くだろうか。
と、そのとき、地面が揺れた。
封鎖線の向こうで、怒声と測定器の警告音が重なる。
「魔力反応が出口側へ移動! スタンピード手前の挙動だ!」
D級の穴から、B級が地上の側へ向かっている。新宿の地下は人の通り道だ。放置すれば、街側へ溢れてしまう。
拡声器が飛ぶ。
「一般作業員は退避! 初動班は待機!」
「B級対応が揃うまで突入するな! 戦力不足のまま動くな!」
銀翼はもういない。
陸は固定帯を外した。痛みで視界が白む。それでも立ち上がる。
「陸さん!?」
「下がってください。封鎖の外です」
川瀬が目を見張る。陸は自分でも、声が低いのに気づく。
『行くのか』
——はい、師匠。行きます。何もできないまま見てることなんて、できません。
師匠が笑う。今度は、余裕のある笑いだ。
『上等だ。死ぬか半死か——どっちに転んでも、退屈はしねえ』
陸は封鎖線の隙間を、作業員用の点検口から滑り込んでいく。警備の誰かが制止するが、もう遅い。坑道の湿気が戻ってくる。魔気が鼻の奥を刺す。
鋼鉄大蛇は、崩落した入口付近まで来ていた。
さっき、陸が刺した継ぎ目の鱗が、黒くひび割れている。怒りではなく、出口を探している動きだ。狭い通路が、巨体を苛立たせる。
『気づかれてない今がチャンスだ。眼の下——左』
手近にあるのは、崩落に巻き込まれたガードレールの破片だ。重い。清掃用の鉄棒より長い。
陸は、走らないようにという指示を破る。三歩。五歩。傷が開く。
腹の奥から指へ、糸を一本だけ通す。散らさない。測れないものを、測れないまま尖らせる。
大蛇が陸を見た。霊力0の人間など、餌にも満たないはずだ。なのに鱗の傷が、記憶を呼び戻すらしい。牙が開く。
陸は死角へ回り込む。牙の内側へ、ではなく、振り上げられた頭の下へ。
ガードレールの尖端を、眼の下の柔らかい窪みへ押し込む。
**ズブッ——。**
弾かれない。さっきは、弾かれる抵抗の向こうに、僅かな隙間を感じただけだった。今は、その隙間を割って、刃が内側まで入る。
気が一気に抜け、腕の骨が悲鳴を上げる。陸は離さない。体重を乗せ、ねじる。
大蛇が短く鳴く。尾が暴れる。天井が落ちる。
陸の喉から、短い声が漏れる。叫ぶというより、食いしばった息だ。
それでも尖端は奥まで入り、魔力保護の向こうで、何かが切れる感触がある。
巨体が、前のめりに崩れる。砂埃が立つ。
直後、測定器を持った誰かが、遠くで叫ぶ。
「反応……落ちた!? B級、活動停止!」
陸は膝をつく。ガードレールから手が滑る。血の味が口の中にある。
『……まあ、一撃としてはギリギリだが合格だ』
師匠の声が、少し掠れる。陸の気を導いたぶん、師匠の側も力が削れているらしい。
『届いただけだ。次は、もっと速く、もっと綺麗にやれ。自分を削って勝つな』
「……次も、あるのですか」
『弟子にした以上、最強くらいにはなってもらわなければ困るな。まだ入り口だ』
点検口の向こうから、ライトが差し込む。管理局とギルドの初動班だ。川瀬の声も混じる。
「陸さん! 陸さん!」
陸は片手を上げる。それが精一杯の合図だ。
「生存者確認! 救護に回せ!」
先に来るのは、救助の声だ。倒れた巨体と、膝をつく作業服——普通なら、被害者としか見えない構図である。
だが、測定器を抱えた男だけが、落ちた針から目を離さない。
「……おかしい。反応が落ちたのと、この男が点検口へ入ったの、ほぼ同時だ」
誰かが、短く息を詰める。
「中に正規の戦力は、まだ入っていない。……清掃員が、何かをしたのか?」
霊力を測れば、また0だろう。世間の目には、欠陥のままだ。
——倒せた。
陸は答えず、天井のひびを見る。壁の修復が、すでに黒い鱗のそばで始まりかけている。ダンジョンは、いつもの顔に戻ろうとする。
肩の師匠だけが、満足げに尻尾を振っていた。
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