第9話 王宮は、古竜より私を怖がっている気がします
銀の盆に乗せられていたのは、間違いなく王家の紋章が刻印された封筒だった。
エントランスでそれを受け取った私は、ペーパーナイフで慎重に封を切り、中に入っていた上質な羊皮紙に目を通した。
「……やはり、王宮からの出頭要請です」
宛名は私個人。
文面は極めて丁寧な書式だったが、要約すれば「先日アーデン家が借り上げたホールで起きた異常な現象について、同行者と共に事情を聞きたい」というものだった。
王都の中心であれほど大規模な魔法(返却)を行えば、当然、治安維持を担う王宮の耳にも入る。
「わざわざ足を運ぶのは面倒だな」
私の背後から羊皮紙を覗き込んだゼノスが、心底億劫そうに呟いた。
「城の者と話す必要があるのなら、王宮ごとこの庭に空間転送してやろうか。そうすれば汝の手間も省けよう」
「国家反逆罪になりますし、そもそもこの庭に王宮は入りません。潰れます」
私は間を置かず却下した。
「これ以上の騒ぎを起こす必要はありません。馬車を手配して、普通に出向きますよ。ゼノスも大人しくついてきてください」
「汝がそう言うのなら構わんが」
二時間後。私たちは王城の中枢部、重厚な扉の奥にある謁見の間へと通されていた。
広い室内には、必要最低限の近衛兵しか配置されていない。だが、彼らの目には明らかな緊張と恐怖が宿っており、剣の柄に置かれた手は白く強張っていた。
玉座に腰を下ろしていたのは、五十代前半の壮年の男性――国王アルベルト三世だ。
その傍らには、灰色の髪を神経質そうに撫でつけた文官が書類の束を抱えて立っている。
後で知ったことだが、彼は王宮法務庁主任法務官ローデリック・ハーンという実務の責任者だった。
「よく来てくれた、クロエ・レーヴェン男爵令嬢。そして……そちらの御仁」
アルベルト三世は、玉座に座ったまま、威厳を保ちつつも極めて慎重な声色で言った。
「王家に伝わる禁書と、過去の災害記録を照合させてもらった。黒曜の髪に金の瞳孔、そして先日のホールにおける、魔法陣の痕跡すら残さない空間転移。……失礼ながら、歴史上の災厄として記されている『古竜』その方とお見受けするが」
国王の言葉に、近衛兵の一人が半歩下がり、甲冑が石床を擦った。
ゼノスは人間形態のまま腕を組み、退屈そうに王を見下ろした。
「いかにも。だが我は今、この娘の呼び出しに応じている最中だ。貴様らの縄張りをどうこうする気はない。話があるなら、我ではなく契約主であるクロエにせよ」
王の権威など微塵も介さない、不遜極まりない態度。近衛兵たちが色めき立ったが、アルベルト三世は手でそれを制した。王は古竜と敵対する愚も、利用しようとする愚も犯さなかった。
「相分かった。レーヴェン嬢」
国王の視線が、私に向けられる。それは「危険な猛獣の飼い主」を見る目ではなく、対等に意思疎通ができる独立した交渉相手を見る目だった。
「此度の王宮への出頭、感謝する。我々としても、王都のど真ん中で未知の大魔法が行使された事実を無視するわけにはいかなくてな。事情を伺いたい」
私は静かに一礼し、顔を上げた。
古竜の真の姿を知った後でも、私がやるべき実務は変わらない。
「ご懸念はもっともです、陛下。先日の騒動は、私が彼に命じて、私個人の所有物のみを魔法で回収させた結果です。ですが、ご安心ください」
私はゼノスの方を向き、いつものようにバインダーを開いた。
「ゼノス。相手が国王陛下であっても、私の条件は変わりません。『人を傷つけない』『建物を壊さない』『国家機能へ干渉しない』。約束できますね?」
「汝の条件は絶対だ。我がそれを破ったことがあったか?」
ゼノスが淡々と同意すると、国王とローデリック様が、信じられないものを見るような顔で私を見た。
国家災害級の最強存在に対して、ただの男爵令嬢が当たり前のように禁止事項を読み上げ、それを古竜が忠実に受け入れている。
ローデリック様のペンが止まり、国王は私とゼノスを交互に見た。少なくとも、古竜だけを警戒している顔ではなかった。
「……素晴らしい制御だ、レーヴェン嬢」
ローデリック様が、額の汗をハンカチで拭いながら進み出た。
「しかし、王宮の法務を預かる身として一つ明言しておかねばなりません。王宮が『古竜の存在を認定すること』と、『古竜という圧倒的な強制力を背景にして、私的な権利執行を際限なく行うことを許可すること』は別問題です」
「理解しております」
私は即答した。
「魔法による所有権の判定が人間の法廷で単独の証拠にならないことは、以前商務で学びました。ですから、ローデリック様の面前で、公的に宣言いたします」
私は一呼吸置き、はっきりとした声で告げた。
「今後、私への緊急の防御が必要な場合、または王宮の監督下で公的執行として命じられた場合を除き、私的な財産移動、商談、および証拠収集に古竜の魔法を一切使用いたしません。立替金の回収も、失われた功績の証明も、すべて人間社会の記録と正当な法的手続によって処理します」
この宣言を聞いたローデリック様の顔に、明確な安堵の色が浮かんだ。
「……よろしいのですか? その気になれば、あなたは王都のすべてを力で手に入れることも可能だというのに」
「私は、奪われた私の人生と信用を、正しい持ち主の元へ戻したいだけです。力で他者をねじ伏せれば、それは単なる暴力による強奪に成り下がりますから」
「立派な見識だ」
アルベルト三世が深く頷いた。
「ローデリック。今のレーヴェン嬢の『魔法不使用宣言』と『人間手続優先方針』を、王宮の公的な確認調書として記録に残せ。彼女と古竜に対する無用の干渉は禁ずる」
「はっ。直ちに」
ローデリック様が羽ペンを走らせ、公的な記録が作成された。
私は持参した古契の写しも差し出した。
「もう一件、全文対訳を申請します。私に読めるのは起動句と救済の要旨だけです」
王家古語官が写しを検め、首を振った。
「終了条項の抄訳を先行させます。王家保管本との全文照合には、ふた月ほどを要します」
「構いません。正式に受理してください」
申請番号が調書へ追記された。
王宮調書には、古竜の危険性と同時に、私が人間の手続を選んだ事実が残った。
謁見を終え、王宮の長い回廊を歩きながら、私は隣を歩くゼノスに小声で尋ねた。
「ゼノス。私があなたの巨大な本当の姿を知っても、あなたに対する態度も、課す条件も変えなかったこと……不満ではありませんか?」
「なぜ不満に思うのだ」
ゼノスは私に視線を向け、微かに口角を上げた。
「我が恐ろしい存在であると知ってもなお、我を盲信せず、恐れず、対等な条件で縛ろうとする。それこそが汝の価値だ。我は心地よく従っているに過ぎん」
彼の人間離れした美しい笑顔に、私は少しだけ胸が詰まるような感覚を覚え、誤魔化すように前を向いた。
私とゼノスが王城の門を出る頃には、水面下で様々な憶測が駆け巡っていたのだろう。
王宮での詳細なやり取り、特に「魔法不使用宣言」の内容までは非公開とされたが、ヴィクトルや父、そして王都の貴族たちの間には「クロエ・レーヴェンが、国王陛下から直接、極めて丁重な扱いを受けた」という事実だけが光の速さで伝わった。
それにより、「クロエには王家すら気を使う、巨大で得体の知れない後ろ盾がいる」という勘違いが、一気に加速することになる。
それを証明するように、私たちがタウンハウスに帰宅すると、エントランスの銀の盆の上には、朝にはなかったはずの分厚い手紙の束が山のように積まれていた。
「クロエ様。高位貴族の方々や、大手商会からのお手紙です」
マーサが呆れたように言う。
宛名を確認すると、これまで男爵家の裏方であった私など見向きもしなかったような権力者たちからの、「業務への協力」や「素晴らしい縁談があるのだが」といった打診の手紙ばかりだった。
奪われていた私の社会的信用は、今や私が想像していた以上の規模で、私の元へと還ってこようとしていた。




