第10話 助ける相手を、好き嫌いだけで決めません
王宮でローデリック様の調書に「魔法不使用宣言」を記録させてから、私は今後の実務運用における明確なルールを定めた。
王宮が古竜の存在を公的に認知した以上、ゼノスを連れ歩いて商談の席につけば、相手は「古竜の力による威圧」だと受け取りかねない。それは私が目指す「正当な手続による権利の回収」を根底から揺るがす行為だった。
だから私は、ハルト商会の豪奢な本店へ足を踏み入れる直前、背後を歩くゼノスに向かって振り返った。
「ゼノス。ここから先は、私一人で入ります。あなたは一階の待合スペースか、建物の外で待っていてください」
「なに?」
ゼノスは不満げに形の良い眉をひそめた。
「我が契約主のそばを離れ、一人で待てというのか。もしこの建物の中に、汝に害をなす者がいたらどうするのだ」
「これは王都でも有数の大商会です。白昼堂々、私に斬りかかってくるような暴漢はいません。それに……」
私は少し声を潜め、彼を見上げた。
「商談というものは、相手との均衡が大切です。あなたが隣にいるだけで、均衡は完全に崩れます。ですから、私からのお願いです。私が戻ってくるまで、商談を壊さないために『存在感を消して待つ』という高度な任務を遂行してくれませんか」
「存在感を、消す……」
ゼノスは顎に手を当て、真剣な顔で考え込んだ。
「なるほど。ただ力を振るうよりも遥かに繊細な魔力制御を要求されるということか。よかろう、汝がそこまで言うのなら、このゼノス、誰の目にも留まらぬただの背景として待機してやろう」
「期待しています。暴れないでくださいね」
私は一階の革張りベンチに彼を座らせると、受付へ向かった。
受付係は、私の目の前で二つの欄を埋めた。
《商談出席者:クロエ・レーヴェン一名》
《同行待機者:ゼノス一名。一階待合、商談不参加》
私は記載を確認してから署名した。これで、同行者の存在を隠さず、私が商談そのものには単独で臨んだという記録が残る。
通された応接室には、大口商人ユリウス・ハルトが待っていた。
彼は私がアーデン家の裏方として働いていた頃からの付き合いで、私の実務能力を高く評価してくれている数少ない人物の一人だ。
私は席に着く前に、ユリウス様へ一礼した。
「先日は男爵邸の帳簿開示に立ち会っていただいたのに、今日はそちらからの頼み事ですか」
「あの時は立会人、今日は依頼人だ。急な呼び出しに応じてくれて感謝する、クロエ様。いや、今は『独立した実務家』とお呼びすべきかな」
ユリウスは人懐っこい笑みを浮かべ、分厚い書類の束をテーブルに置いた。
「早速だが、《北街道天候遅延案件》を頼みたい。北方へ向かう大規模な輸送契約だが、中継地点の天候不良で足止めを食らっていてね。全体のスケジュールと違約金の調整を、昔と同じように急ぎで頼みたい。報酬は、後で色をつけて支払うから」
ユリウスの言葉に、私は微かに目を細めた。
彼は悪人ではない。だが、商人の悲しい性として、かつて「無償に近い形で便利に動いてくれた令嬢」としての私に、まだ甘えている部分があった。
「ユリウス様。ご依頼はありがたく存じますが、その条件ではお引き受けできません」
「……え?」
「『昔と同じように』という前提が間違っています。私はもう、アーデン家の名代として家同士の付き合いで動いているわけではありません。独立した実務家です」
私は彼が提示した書類を軽く指先で叩いた。
「報酬額が明記されていない契約は結びません。また、『スケジュールの調整全般』という曖昧な責任範囲では、不可抗力による遅延の全責任を私が負わされる可能性があります。報酬額の事前提示、私に与えられる交渉権限の範囲、そして天災時の免責条項。これらを明文化した書類を再提示していただけない限り、このお話はなかったことにしてください」
応接室に、ぴんとした緊張感が走った。
ユリウスは数秒間、驚いたように私を見つめていたが、やがて表情を改め、背筋を伸ばした。
「……失礼した。貴女の言う通りだ。甘えがあったことを謝罪しよう。すぐに正式な契約条件表を作成し直す」
それからの交渉は早かった。再提示された条件は妥当なものであり、私はその場で受任を決めた。
正式契約を持ち帰り、具体的な輸送再構築は翌日から書簡で進めることにした。
二時間後。この日の協議を終えて一階の待合スペースに戻ると、そこには異様な光景が広がっていた。
ゼノスは革張りのベンチに、まるで彫像のように背筋を伸ばして硬直して座っていた。
彼は「存在感を消す」という任務に全力で挑んでいるらしく、魔力を極限まで内側に抑え込んでいる。
だが、その隠しきれない長身と美貌、そして漏れ出る威圧感のせいで、周囲の客たちは彼を遠巻きにし、誰もベンチに近づこうとしなかった。
そんな中、迷子になったらしい初老の婦人が、恐る恐る彼に道を尋ねている場面に出くわした。
『あの……東通りのパン屋は、どちらでしょうか……?』
『……この扉を出て右へ三百歩進み、二つ目の交差点を左だ。……我は今、存在感を消しているゆえ、これ以上は話しかけぬよう』
ゼノスは顔も向けず、極めて事務的に、大真面目に道を教えていた。
「ふふっ」
私はたまらず吹き出し、彼に歩み寄った。
「お待たせしました、ゼノス。完璧な任務遂行でしたね。おかげで良い仕事ができました」
「……終わったか。人間の前で息を潜めるのは、山を削るより疲れるぞ」
ゼノスは窮屈そうに長い脚を伸ばし、立ち上がった。
「ありがとうございます。あなたが外で、何もしないで待っていてくれたことが、私にとって一番の助けでした」
私が素直に礼を言うと、彼はきょとんとした後、どこか誇らしげに口角を上げた。
翌日から数日間、私は候補となる運送業者たちと書簡を交わした。その中の一つ、グラーツ運送組合は、私が提示した厳格な納期と遅延ペナルティを見て「リスクが高すぎる」と断った。
私は「ご検討ありがとうございました」とだけ返し、引き止めも、古竜の威光を匂わせることもしなかった。別の輸送先へ切り替え、納期と予算を組み直す。
その過程で、《北街道天候遅延案件》の末端に、アーデン家が納入を担当する香辛料の枠があると分かった。案件を立て直せば、ヴィクトルたちも連帯違約金を免れる。
一瞬だけ契約を放り出したくなった。だが、元婚約者を困らせるために、正当な報酬を提示した依頼人まで犠牲にはできない。私は作業を続け、ゼノスの魔法を一度も借りずに輸送計画を完成させた。
案件がまとまった日の夕方、ユリウス様から業務完了確認書に添えて短い追伸が届いた。
『ヴィクトル卿が商会へ来て、本件の窓口を自分へ戻すよう要求した。契約当事者ではないため取次ぎは断ったが、応対に帳場を半刻取られた。今後も同様の来訪があれば、追加の苦情処理費を請求したい』
勝利を称える手紙ではなく、迷惑を受けた取引先からの実務的な苦情だった。
私は謝罪とともに、今後アーデン家からの問い合わせは取り次がないこと、対応が必要になった場合は別途費用を計上することを、継続契約案へ追記した。
仕事を完了しても、過去の関係が勝手に切れるわけではない。切り離すにも、条件と記録が要る。
タウンハウスの自室に戻り、ユリウス様からの「今後も継続して案件を預けたい」という打診の手紙を読みながら、私は本格的に『商務調整事務所』の看板を掲げる準備を始めようと考えていた。
ふと、郵便受けに届いていた手紙の束の中に、見慣れない上質な封筒が混ざっているのを見つけた。
蝋印は、王家にも連なる高位の伯爵家のものだ。
不思議に思って封を切ると、そこには丁寧な時候の挨拶と共に、予想もしていなかった言葉が綴られていた。
『……貴女の聡明さと独立の気風に深く感銘を受けました。つきましては、我が家の次男との正式な縁談をご検討いただけないでしょうか』
手紙を持つ手が、わずかに止まる。




