第11話 縁談は、巣の移籍ではありません
上質な羊皮紙の手触りを指先で確かめながら、私は伯爵家から届いた手紙をもう一度読み直した。
差出人は、王都でも名家の誉れ高い伯爵家。内容は、その家の次男と私との正式な縁談の打診だった。次男とはいえ、彼は若くして騎士団の要職に就いている堅実な人物だと聞いている。
かつての私――男爵家の薄暗い部屋で、ただ黙々と帳簿をつけ、ヴィクトルや父の都合の良い裏方として無償で働き続けていた私には、天地がひっくり返っても舞い込まないような良縁だった。
王宮での一件や、ハルト商会での私の実務能力が正当に評価された結果、外の世界は私を「有能で自立した実務家」として見てくれている。
私は手紙をそっとテーブルに置き、封筒の角を指で揃えた。
私が、選べる側になっている。
家族の都合で一方的に婚約を破棄された私が、今は自分の意思で、誰と結婚するか、あるいは結婚しないかを選べる立場にある。その事実だけで、十分すぎるほどの報いを受けた気がした。
相手の経歴も申し分ない。だが、私は今、ようやく自分の足で立ち、自分の事務所を開くという目標に向かって歩き始めたばかりだ。誰かの妻という役割に再び収まる気には、到底なれなかった。
「……丁重に、お断りの返事を書きましょう」
私が羽ペンを手にした、その時だった。
「断るのか?」
不意に、ひどく冷え切った、それでいて周囲の空気を焦がすような重い声が降ってきた。
見上げると、いつの間にか客室から出てきたゼノスが、私の手元にある伯爵家からの手紙を、親の仇でも見るかのように睨みつけていた。
彼の首筋には黒曜石のような鱗がうっすらと浮かび上がり、室温が急激に数度上がっている。
「ゼノス、覗き見は趣味が悪いですよ」
「隠すような真似はしておらん。……それより、その紙切れはなんだ。汝を別の巣へ移そうという提案ではないか」
「別の巣って……。まあ、縁談ですから、家を出ることにはなりますが」
「つまり、汝の所有権をその『伯爵家』とやらが主張し、新たな共同宝物庫を構築しようというのだな。生意気な。どこの誰とも知れぬ羽虫が、我の契約主を奪おうなどと」
縁談=巣の移籍。婚姻=共同宝物庫の構築。
古竜の独特な脳内翻訳に呆れつつも、私は彼があからさまに不機嫌になっていることに気づいた。
「ゼノス、落ち着いてください。誰も私を奪ったりしません」
「落ち着いていられるか。その伯爵の屋敷を、今すぐ更地にしてこよう。物理的に巣が存在しなくなれば、汝を移しようがなくなるからな。合理的だ」
「全然合理的じゃありません! 禁止条項の『建物を壊さない』『第三者を巻き込まない』に真っ向から違反しています!」
私は立ち上がり、真顔で物騒なことを言い出した彼を見上げた。
「いいですか、ゼノス。私が誰の巣……いえ、誰と生きるかは、私が選びます。家の都合や、他人の圧力では決して決めません」
「……汝が、選ぶ?」
「そうです。私はこの縁談相手を嫌っているわけではありませんが、今は自分の実務に専念したい。だから、私の意思で断るのです。あなたに更地にしてもらう必要はありません」
私の言葉を聞いたゼノスは、浮かび上がっていた首筋の鱗をスッと消し、少しだけ目を丸くした。
「……そうか。汝が、自分で選んだ結果として、行かないのだな」
「はい」
「……ならば、よい。我が出る幕はなかったな」
彼はすっと殺意を収め、肩の力をわずかに抜いた。自分が「嫌だ」と思うことよりも、「私が自分で選ぶ」という私の主体性を尊重してくれたのだと分かり、私は少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。
その日の午後、私は王宮のローデリック様に提出する書類を届けるため、ゼノスを伴って王宮の回廊を歩いていた。
書類の内容は、私が今後立ち上げる『商務調整事務所』の所在地と、古竜に関する緊急の連絡窓口を兼ねるという事務的な届け出だ。
回廊を曲がったところで、前方から歩いてくる見慣れた人影と鉢合わせた。
ヴィクトルだった。彼は私とゼノスの姿を認めるなり、露骨に足を止め、不快そうに顔を歪めた。
「……奇遇だな、クロエ」
「ヴィクトル様。ごきげんよう」
私は事務的に頭を下げ、すぐに通り過ぎようとした。しかし、彼は私の前に立ち塞がるようにして口を開いた。
「聞いたぞ。高位の伯爵家から縁談が来ているそうじゃないか」
王都の貴族社会の噂が回る早さには感心する。私は表情を変えずに彼を見た。
「ええ。ありがたいお話ですが、それが何か?」
「……強がるのも大概にしろ。どうせ私への当てつけだろう」
ヴィクトルは鼻で笑い、自信たっぷりに言い放った。
「君のような、実務ばかりで色気のない女が、高位貴族の妻として務まるはずがない。君自身が一番よく分かっているはずだ。どうせ条件が合わずに破談になり、結局は私の元へ、アーデン家の実務をこなす裏方として戻ってくるのだろう? 意地を張らずに、今のうちに素直に謝れば――」
その言葉の途中で、ゼノスが音もなく一歩前へ出た。
ただ私とヴィクトルの間に立っただけだ。
魔力も鱗も見せていない。
それでも披露会の記憶があるヴィクトルは、自分から顔を青ざめさせて数歩後退した。
周囲を歩いていた文官や貴族たちも、何事かと足を止めてこちらを見ている。
ゼノスは、床に這いつくばる虫でも見るかのようにヴィクトルを見下ろし、冷徹な声で言い放った。
「勘違いをするな、羽虫」
「な、なんだと……っ」
「クロエがどの巣へ行くか。誰を選ぶか。それを決める権利は、クロエ本人にしかない」
ゼノスの声は、王宮の回廊によく響いた。
「彼女の意思を無視して、自分の都合の良い場所へ戻るなどと軽々しく口にするな。彼女は、何者にも選択を奪われることはない」
それは物理的な脅しではなく、「私の選択を勝手に決めるな」と告げる言葉だった。
貴婦人の扇が止まり、周囲から声が消えた。最強の存在が、一人の令嬢の「選択の自由」を絶対不可侵のものとして保証したのだ。
ヴィクトルの顔は屈辱と恐怖で歪み、「クロエなら必ず自分のもとへ戻ってくる」という彼の根拠のない前提は、この王宮の回廊で完全に崩れ去った。
「……ゼノス、もう十分です。行きましょう」
私が声をかけると、ゼノスは何も言わず私の後ろへ戻った。
帰宅後、私は伯爵家への断りの手紙を書き終え、マーサに投函を頼んだ。
「実務に専念したい、と。これで先方にも失礼なく伝わるはずです」
私が封蝋を押した手紙を見送ると、近くのソファで見ていたゼノスが、ようやく肩の力を抜いた。
「……断ったのだな」
「ええ。最初からそう言っていたでしょう?」
私が苦笑すると、彼は真剣な眼差しで私を見つめ返してきた。
「我が嫌がったから、断ったわけではないのだな。汝の意思で、選んだのだな」
「はい。私が今の生活と、自分の仕事を最優先したいと選んだだけです」
ゼノスは小さく頷き、「ならばよい」と呟いた。
自分が気に入らないからといって力で排除するのではなく、私が自分で選ぶまで、彼なりに必死に耐えて待っていたのだ。
その不器用なほどの尊重に、私は単なる契約相手に対する以上の、不思議な温かさを感じていた。
夜の帳が下りた静かな応接室で、私はふと顔を上げ、彼に問いかけた。
「ねえ、ゼノス」
「なんだ」
「あなたは……私がどうなれば、満足なのですか?」
私の問いに、ゼノスは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。




