第12話 幕間 古竜は、短い時間を忘れない
クロエが伯爵家への断り状の下書きを書いている間、ゼノスは一度応接室を出て、廊下の窓辺で古い鱗を指先に乗せていた。
八百年前に自然脱落した黒い鱗。人間なら両腕で抱える大きさだが、彼には爪の先ほどでしかない。
それを初めて磨いたのは、マティアスという職人だった。
恐怖で膝を震わせながら、「曇ったままでは鱗に失礼だ」と三日かけて艶を戻した。
停戦条項を写した書記エレンは、ゼノスの言葉を一字も誤るまいとして、指が固まるまで羽ペンを握った。彼女の文字には、語尾を右上へ跳ねる癖があった。
二人は、もういない。
マティアスは妻を得て、子を育て、白髪になった。エレンは王都の記録院を作り、老いて視力を失った。ゼノスが次に会いに行った時には、二人の墓標だけが並んでいた。
人間の一生は短い。
だが、短いことと、軽いことは同じではなかった。マティアスが鱗へ残した細い研磨跡も、エレンが古契の余白へ書いた癖のある注記も、ゼノスは八百年後の今まで忘れていない。
クロエが捨てた見積りの下書きにも、同じ右上がりの跳ねがあった。
応接室から、紙を折る音がした。
彼女もまた、竜にとっては一瞬で老いる。
伯爵家へ嫁げば、その短い一生の大半を、ゼノスの見えない場所で過ごすかもしれない。その想像だけで、屋敷を消し飛ばしたい衝動が湧く。
だが彼は最近、人間の法を学んだ。
伯爵家の債権を買い取り、婚姻による転居を期限の利益喪失事由に加えれば、建物を壊さず縁談を止められる。物理的損害はなく、契約上も成立する。
我ながら見事な案だ、と一瞬思った。
次の瞬間、父や元婚約者と同じ影が脳裏をよぎった。
だが、誰も傷つけず、法も破らない案の何がいけないのか、まだ言葉にできない。それでも、クロエがこの方法を選ばないことだけは分かった。
ゼノスは鱗を宝物庫へ戻した。
彼女に選ばれたい。選べなくしたくはない。
その違いは、古竜の中でまだ輪郭を得たばかりだった。
やがてゼノスは応接室へ戻った。
クロエは下書きを清書し、封蝋を押した。彼が戻っても、判断の確認も許可も求めない。
近くのソファへ腰を下ろしたゼノスは、マーサへ渡される手紙を見つめた。
選べなくして手元へ残すのではなく、自由なまま振り向いてもらう。
「我は、選ばれるに足る存在になれるだろうか」
かつて誰にも問う必要のなかったことを、最強の古竜は初めて口にした。




