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第13話 私が本当に取り戻したかったもの

ハルト商会の応接室には、淹れたての紅茶の香りが漂っていた。


テーブルを挟んで向かいに座る大口商人ユリウス・ハルトは、満足げに分厚い契約書に署名し、それを私の方へ押し出した。


「素晴らしい。貴女が再構築してくれた輸送ルートのおかげで、我が商会が被るはずだった損失は完全にゼロになった。それどころか、以前よりも効率的な運用が見込めそうだ」


「恐れ入ります。お役に立てたのであれば何よりです」


私も契約書に『クロエ・レーヴェン』と個人の署名を行い、控えを受け取った。


ゼノスを建物の外で待機させて臨んだ、私単独での実務。その結果として、大商会との正式な継続契約を見事に結ぶことができたのだ。


ユリウス様は紅茶を一口飲み、少し真面目な顔つきになった。


「クロエ様。貴女がアーデン家から独立されて、困窮しているのはあちらだけだと思っているかもしれませんが……実は、我々商人たちも密かに頭を抱えていたのですよ」


「え? 商会の皆様が、ですか?」


「ええ。私たちはアーデン子爵家と取引をしていたのではありません。貴女の正確な判断と、隙のない調整力に仕事を預けていたのです。表向きの署名が誰であろうと、実務を取り仕切っていたのが貴女であることは、この界隈の者は皆知っていますからね」


ユリウス様は、過去の取引控えを一枚抜いた。


「《東倉庫分割納品案件》もそうでした。主輸送業者が抜けた後、条件を組み直したのは貴女だ」


その言葉は、私の胸の奥にすっと染み込んでいった。


ヴィクトルや父は、私の働きを「家族としての当然の支援」であり、「彼らの指示で動いた結果」だと信じて疑わなかった。


私も長年その枠の中に押し込められ、いつしか「私は誰かの裏方に徹するしかないのだ」と自分に言い聞かせていた。


だが、外の世界の評価は違ったのだ。


私は彼らの付属品ではなく、私という一個人の能力によって、他者から名指しで必要とされていた。


「これからも、我が商会は商務調整事務所を頼りにさせていただきますよ」


「……はい。ご期待に沿えるよう、尽力いたします」


商会を辞去する前、私は昨夜の机を思い出した。


徹夜で組み直した紙束は、朝になっても一枚の位置さえ変わっていなかった。


マーサが片づけようとした時、ゼノスが『クロエが置いた順序には意味がある』と止めたのだという。


守ると言いながら私の領域へ踏み込んできた家族とは違う。


彼は国を動かせても、私が決めるべき一枚には触れなかった。


商会を辞去し、外の待合スペースで彫像のように固まって私を待っていたゼノスと合流する。


「待たせたな、ゼノス。帰りましょう」


「うむ。今日の我は完璧に背景と同化していたぞ」


「はいはい、お疲れ様でした」


王都の石畳を並んで歩きながら、私は自分の心境が、古契を起動した夜から大きく変化していることに気がついた。


あの時は、ただ腹立たしかった。私の時間と資産を無償で搾取し、挙句の果てに「裏方としては優秀だから働き続けろ」と言い放った彼らに、少しでも恥をかかせてやりたいと思っていた。


だが今は違う。


彼らが失敗して不幸になる姿を見たいわけではない。「私がいなければ何もできない」と嘲笑したいわけでもない。


私が本当に望んでいたのは――『自分の仕事を、自分の名前に戻すこと』だったのだ。


タウンハウスに帰宅した私は、すぐに応接室のテーブルにバインダーを広げた。


向かいのソファには、いつものようにゼノスが腰を下ろし、私の手元を興味深そうに見つめている。


「ゼノス。私はこれまで、あなたに『不当な扱いを正す』という曖昧な目的で動いてもらっていましたが、ここで一度、私の『救済目的』をはっきりと定義し直したいと思います」


「ほう。言ってみよ」


私はペンを走らせ、白紙に箇条書きで文字を連ねていった。


「一、亡母の遺産および私個人の財産を、完全に私の手元に戻すこと」


「二、私が彼らのために立て替えていた資金を、正当に清算させること」


「三、私がこれまで積み上げてきた仕事の功績を、彼らのものではなく、私個人の名義へ戻すこと」


「四、家族や元婚約者と私の間に、感情論で越えられない明確な境界線を作ること」


私はペンを置き、その四つの項目をゼノスに見せた。


「これが、私が本当に取り戻したかったものです。彼らを社会的に抹殺したり、命を奪ったりすることは目的ではありません。この四つの条件が満たされた未来を成立させること。それが私の復讐であり、救済です」


ゼノスは紙に書かれた文字をじっと見つめ、やがてゆっくりと頷いた。


「……なるほど。敵を物理的に消去するよりも、汝が望む形へ世界を再構築する方が、はるかに建設的で理にかなっている。汝の言う『救済』の形、確かに理解した」


数千年の時を力だけで解決してきた古竜が、私の定めた四つの目的を、自分の判断として受け入れてくれた。


私はホッと肩の力を抜いた。が、直後にゼノスが少しだけ眉を下げ、心底残念そうに呟いた。


「……しかし、そうか。では、あの見苦しい男を不幸のどん底に叩き落とす必要は全くないのか。髪の毛の一本まで燃やし尽くしてやるつもりでいたのだが……惜しいな」


国家災害級の古竜が、「嫌いな男を燃やせない」という理由で、まるで散歩を我慢させられた大型犬のように肩を落としている。


そのあまりにもスケールの狂った拗ね方に、私は堪えきれず、「ふふっ」と声を漏らした。


「な、なにがおかしい」


「いえ……ごめんなさい、ゼノス。あなたがそんな顔をするとは思わなかったので」


声を上げて笑うのは、婚約解消を告げられたあの日以来、初めてのことだった。


ひとしきり笑った後、私は少しだけ真面目な顔に戻って彼を見た。


「でも、少し残念ですね。この四つの条件が満たされれば、古契による『救済目的』は達成されたことになります。そうなれば、あなたは私に付き従う義務がなくなってしまいますから」


私がそう言うと、ゼノスはピタリと動きを止めた。


彼の視線が、獲物を捕らえるかのように真っ直ぐ私を射抜く。


「……クロエよ」


低く、地鳴りのような、それでいてひどく甘やかな響きを持った声。


「契約があろうとなかろうと、関係ない」


ゼノスはソファから身を乗り出し、長い腕を伸ばして、テーブルの上に置かれていた私の手に、そっと自分の大きな手を重ねた。


「汝が望む場所に、我もいる。それだけのことだ」


重ねられた手の大きさを意識した途端、ペン先が紙の上で止まった。


これは「契約による保護」ではない。


彼自身の意思による選択だ。


あの机に触れず、私が言葉を選ぶまで待っていた人。


私が惹かれたのは力の大きさではなく、その力を私の前で止めてくれる彼自身なのだと、もう認めるしかなかった。


その日の夕方。


私は照れ隠しのように「事務所の看板を発注しなくては」と慌てて席を立ち、エントランスへ向かった。


すると、郵便受けに一通の手紙が届いているのを見つけた。宛名は私。差出人の名前を見て、私は小さくため息をついた。


妹のセリアからだった。


『お姉ちゃんへ。お父様がすごく怒っているけれど、私はお姉ちゃんの味方よ。だから、披露会に連れてきたあの素敵な男の方(ゼノス様?)を私に紹介してほしいの。お姉ちゃんは仕事が好きだけど、私の方が社交に向いているから、彼の隣には私が立つべきだと思うの』


……呆れるほど無自覚で、そして傲慢な要求だった。


彼女はまだ、私が持っているものは何でも自分に譲られると信じて疑っていない。


私は手紙を握りつぶす代わりに、静かにそれを折りたたみ、机の引き出しにしまった。


私のものは、もう誰にも渡さない。

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