第8話 古竜の本当の姿は、家より大きい
朝の澄んだ空気を切り裂くように、貸し切りの馬車が王都の街道を駆け抜けていく。
私とゼノスが向かっているのは、王都の城壁から馬で一時間ほど離れた、人家も畑もない岩だらけの荒野だった。
向かいの席に座るゼノスは、今朝がた「怖ければ近づかなくてよい」と言った時の少し硬い表情とは打って変わり、今は腕を組んで目を閉じ、静かに馬車の揺れに身を任せている。
やがて馬車が荒野の中央で停まると、私は御者に待機を命じ、ゼノスと共に乾いた大地へと降り立った。
「見事なまでに何もない場所ですね。ここなら、私の設定した禁止条項――『建物を壊さない』『第三者を巻き込まない』を遵守した上で、あなたの本当の姿をお披露目できそうです」
「うむ。ここならば、我が一度羽ばたいただけで街が吹き飛ぶような事態にはならんだろう」
ゼノスは極めて真面目な顔で、とんでもない物騒なことを言った。
私はバインダーに挟んだ計算用紙に目を落とした。彼から事前に聞き取った「本体のサイズ」と、羽ばたいた際に発生する風圧の予測値から、私自身が吹き飛ばされないための安全距離を割り出してある。
「では、私はあちらの岩山の影まで下がります。私が合図をするまで、決して動かないでくださいね」
私が指定した地点まで百歩ほど後退すると、人間姿のゼノスが呆れたように声を張り上げた。
「クロエよ、いくらなんでも離れすぎではないか? それでは我の声もろくに届くまい」
「リスク管理の基本です! 風圧で私の首が折れたら、あなたは契約違反になりますからね!」
「……やれやれ、人間の身体の脆さには頭が痛くなるな」
ゼノスは大きなため息をつくと、首を左右に鳴らし、まっすぐに私の方を見た。
「では、我の本来の姿を見せよう。――約束通り、怖ければ無理に近づかなくてよいからな」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ゼノスの輪郭が陽炎のようにブレた。
ゴゥン、と。
大気そのものが悲鳴を上げたような、内臓を直接揺らす重低音が荒野に響き渡った。直後、彼を中心に爆発的な魔力の奔流が渦を巻き、周囲の小石が一斉に空へ舞い上がる。
熱風が私の前髪を乱し、私は思わず腕で顔を覆った。
「――――ッ!」
風が収まり、目を開けた私の視界は、完全に「黒」に塗り潰されていた。
大きい、という言葉では到底足りない。
岩山に身を隠している私の遥か頭上を、黒曜石のように鈍く光る巨大な鱗が覆っている。
その頭部だけで、私が暮らしているタウンハウスが丸ごと収まってしまうほどの容積があった。
空の雲を切り裂くように伸びた角。
そして、折り畳まれているにもかかわらず、広げれば間違いなく空を隠し、太陽の光を遮るであろう巨大な翼。
大地に四肢をついているだけで、地面からはビリビリと微細な振動が伝わってくる。彼の体温が周囲の空気を加熱し、荒野の温度が数度は跳ね上がっていた。
「…………っ」
理屈ではない、圧倒的な捕食者に対する生物としての本能。私の膝は恐怖でガクガクと震え、冷や汗が背中を伝い落ちた。
これが、歴史上の伝承に残る災害そのもの。数千年の時を生きる、世界の規格外。
(……なるほど、確かに)
私はガチガチと鳴る奥歯を噛み締めながら、奇妙にも冷静な思考の一部で納得していた。
タウンハウスの客室で、彼が「人間の家具は小さすぎる」「寝台が狭い」と不満を漏らしていた理由が、今なら物理的に痛いほど理解できる。
家屋よりも巨大な身体を持つ生物が、人間サイズに圧縮されて生活させられているのだから、窮屈に決まっている。
巨大な古竜は、ゆっくりとその巨大な頭部を下げ、私の方を見た。
人間サイズの私など、彼の瞳の瞳孔よりも小さい。黄金に輝く巨大な眼球が、瞬きもせずに私を映している。
だが、彼はそこから一歩も動かなかった。
大地を揺るがすような足踏みもしなければ、私を吹き飛ばすような荒い息さえ吐かない。彼は私の「合図をするまで動かないでください」という指示を、この絶大な力を解放した状態であっても、完璧に守っているのだ。
怖い。恐ろしい。少しでも彼が身じろぎすれば、私は容易く圧死するだろう。
けれど。
「……私が、指示をしたのだから」
私は自分に言い聞かせるように呟き、岩山の影から一歩、足を踏み出した。
恐怖から逃げるのではなく、恐怖を正しく認識した上で、前に進むことを選択する。彼はただの破壊装置ではない。私の契約相手であり、私の提示した条件を何よりも重んじてくれる存在だ。
一歩、また一歩。
熱を帯びた空気を押し退けるようにして、私は巨大な竜の鼻先へと歩み寄った。
古竜の金色の瞳が、信じられないものを見るようにわずかに見開かれるのが分かった。彼は私の接近に合わせて、呼吸の風圧すら当たらないよう、ピタリと息を止めた。
私は彼の手が届く距離――いや、彼からすればとっくに踏み潰せる距離まで近づき、ゆっくりと右手を伸ばした。
そして、黒曜石のような硬く滑らかな鱗に、そっと手のひらを触れた。
ビクッ、と。
巨大な古竜の巨体が、まるで雷に打たれたかのように微かに跳ねた。
岩のように硬い鱗の奥から、彼自身の高い体温と、力強い命の鼓動がダイレクトに伝わってくる。
彼は私が触れた鼻先の部分だけを極端に慎重に保ち、私が少しでも驚かないように、石像のように固まっていた。
これほどまでに強大で、理不尽で、美しい力が。
私が紙の端に書いた、ちっぽけな箇条書きの禁止条項に従い、身じろぎ一つせず、私の手を受け入れている。
「……大きくて、温かいですね」
私が微かに震える声でそう言うと、巨大な喉の奥から、グルル……と、地鳴りのような、それでいてどこか甘えるような低い音が響いた。
圧倒的な力を持つ存在が、私との約束を、自分の意思で守っている。
恐怖は消えなかった。ただ、彼が止まると知っているという確信が、その恐怖の中に一本の道を作った。私が感じたのは、彼を従わせる優越ではない。止まると選んでくれる相手への、揺るがない信頼だった。
私はしばらくの間、熱を放つ彼の鱗に額を寄せ、その鼓動の音を聞いていた。
タウンハウスへ戻る帰りの馬車の中。
人間形態に戻ったゼノスは、行きよりもさらに口数が少なくなっていた。だが、その視線は、こちらが落ち着かなくなるほど真っ直ぐに私を追い続けている。
私が彼の本体から逃げ出さず、自分の意志で触れたという事実が、古竜の人外的な執着を決定的なものにしてしまったらしい。
視線があまりにも重くて、私は少しだけ居心地の悪さを感じながらも、嫌な気はしていなかった。
「おかえりなさいませ、クロエ様! ゼノス様!」
タウンハウスのエントランスに入ると、いつもは落ち着いているマーサが、血相を変えて小走りで駆け寄ってきた。
「マーサ、どうしたのですか。そんなに慌てて」
「こ、こちらが……! 先ほど、王宮の使いの方が直接お届けに上がりまして……!」
マーサの手が震えていた。彼女が差し出した銀のお盆の上には、上質な羊皮紙で作られた一通の封筒が乗っている。
封蝋に刻まれていたのは、アーデン家のものでもレーヴェン家のものでもなかった。
それは、王国を統べる王家そのものの紋章だった。
「……王宮からの、正式な召喚状」
私が宛名を確認して呟くと、ゼノスが私の背後にすっと立ち、その鋭い瞳で封筒を見下ろした。
ヴィクトルとの婚約解消から始まった私物と役割の切り分けは、国家の最高機関を動かす事態にまで発展した。




