第7話 幕間 古竜には、彼女の値段がつけられない
人間という生き物は、世界のあらゆる事象を極めて矮小な尺度に押し込めたがる。
彼らは労働に、宝石に、土地に、あるいは命にすら「貨幣」という共通の目盛りを当てはめ、それらを比較して一喜一憂する。
数千年の時を生きる古竜ゼノスにとって、それは巣に集めた光る石の数を数える程度の、ひどく無邪気で無意味な文化に思えた。
タウンハウスの隣室で、契約主であるクロエが静かな寝息を立て始めたのを確認し、ゼノスは暗闇の中でただ一人、思考を巡らせる。
今日の昼間、彼女が無意識に書きかけて横線で消した、あの安すぎる報酬額。
ゼノスには、あれだけがどうしても理解できなかった。
彼女の明晰な知恵、書類を捌く手際の良さ、そして何より、あの毅然とした眼差し。あれほど愛おしく、気高く、絶対的な価値を持つ存在の時間が、なぜあのようなはした金で買えると考えてしまったのか。
あの時、ゼノスは本気で「山ひとつでも軽い」と進言したが、クロエにはあっさりと却下された。
山は報酬の単位にならない。
税や管理費で破産する。
その極めて現実的な人間の理屈を突きつけられたとき、ゼノスは己の尺度が彼女の世界と全く噛み合っていないことを学んだのだ。
ゼノスはそっと右手を虚空にかざし、空間を捻じ曲げて己の『宝物庫』へとアクセスした。
かつて彼が気まぐれに集めた黄金の山や、王侯貴族が血眼になって求めるであろう大粒の宝石の類は、もはやただの景色として背景に追いやられている。
現在、数千年を生きる古竜の至宝として最も厳重に保護されているのは、空間の特等席に並べられた細々とした品々だった。
少し縁が欠けたティーカップ。
使い終えてインクの染みがついたメモ帳。
ペン先が潰れてしまったガラスペン。
そして、先日彼女が「少し焦げてしまったから」と破棄しようとした、小さな焼き菓子。
いずれも、人間の市場に持ち込めば、銅貨一枚の価値すらつかないゴミである。
だがゼノスは、それらが朽ちないよう入念に魔力を込めて保存し、竜の巣の奥深くに鎮座させている。
豪華な宝石などよりも、クロエの日常の手垢がつき、彼女の思考の痕跡が残ったこれらの品の方が、はるかに重要で価値があった。
ゼノスは空間のポケットから、今日密かに回収した一枚の丸められた紙切れを取り出した。
それは、クロエが見積書を作成する際に使い、最終的にゴミ箱に捨てた下書きの紙だった。
そこには、彼女が最初に書こうとした「安すぎる報酬額」が黒々とした横線で塗りつぶされ、その横に、彼女自身が選び直した「適正な値段」が力強く書き込まれている。
ゼノスは正式な文書を盗み出したりはしない。
彼女の仕事を邪魔することは、彼女の意志に反するからだ。
しかし、彼女が自ら不用と判断して手放したものならば、それは誰にも文句を言われることなく、ゼノスの絶対的な保護下に置かれる。
「……クロエよ」
ゼノスは紙切れの皺を魔力で丁寧に伸ばし、焦げた焼き菓子の隣へと恭しく安置した。
これは、ただの紙切れではない。彼女が、かつて他人に貶められていた己の価値を、自分自身で高らかに定義し直した記念すべき記録なのだ。
彼女を不当に扱い、都合の良い道具として搾取しようとしたあの家族や、元婚約者の男。
彼らを王都ごと燃やし尽くし、跡形もなく消し去るという案は、ゼノスの中では今でも極めて合理的な解決策のままだ。クロエに害をなすものを物理的に排除すれば、彼女がこれ以上心を痛める危険はなくなる。
だが、ゼノスはそれを実行に移さない。
クロエは「復讐」という名目で、相手を不必要に傷つけることを明確に拒絶した。そして今日、自分自身の適正な値段を決め、自分の足で立ち、自らの力で外の世界から正当な評価を勝ち取ってみせた。
彼女が自力で戦い、自分の価値を証明しようとしている以上、古竜の強大な力でその過程を焼き払い、結果を上書きしてはならないのだ。
それは、全てを力で解決してきたゼノスにとって、初めて覚える「自制」だった。
彼女の決めた条件に従うこと。彼女の選択を尊重すること。それこそが、彼が彼女の隣に居続けるための唯一の理法なのだと、古竜は深く理解していた。
やがて、窓の外が白み始め、王都に朝の光が差し込んできた。
ゼノスは宝物庫の空間を閉じ、静かに立ち上がった。
今日は、彼女に「本当の姿」を見せる約束の日だ。
人間の姿に押し込めているのはあくまで仮の器であり、真の竜形態は、ただ存在するだけで人間の理性を恐怖で圧殺するほどの質量と熱量を持つ。
もし、あの真の姿を見たとき、彼女が己を完全に化物として拒絶したらどうなるだろうか。
数千年の生の中で、古竜が初めて感じた微かな恐れ。
だが、彼女は「見せてほしい」と望んだ。ならば、応える以外の選択肢はない。
しばらくして、隣室からクロエが身支度を終えて出てくる気配がした。ゼノスは扉を開け、いつものように冷静で整った表情を作って彼女を迎えた。
ただ一言だけ、どうしても確認しておかなければならないことを口にする。
「クロエ。……もしも我が真の姿を見て、怖ければ、近づかなくてよい」




