第6話 自分の仕事に、自分で値段をつけます
昨夜受け取った一通の手紙を、私は朝食のテーブルでもう一度読み返していた。
差出人は、王都で中堅の規模を持つ香辛料商会の主だった。内容は「新規に開拓する南方ルートの契約条件表の整理と、短期の交渉補助をお願いしたい」というもの。
かつてアーデン家の代理として何度か取引をした相手だが、今回はアーデン家を通さず、明確に「クロエ・レーヴェン個人」への指名依頼だった。
「……仕事の段取り自体は、三日もあれば終わりますね」
私は手帳にさらさらと作業工程を書き出した。現地の相場調査、関税の計算、契約書のドラフト作成。どれも手慣れた作業だ。
だが、依頼に応えるための見積書を作成し始めたところで、私のペンはピタリと止まってしまった。
一番下の項目。『報酬額』の欄。
依頼人は「報酬額はクロエ様から提示してほしい」と求めている。相手は私の実務能力を知っているからこそ、言い値を払う用意があるということだ。
それなのに、私の手は無意識のうちに、一般的な事務員の数日分にも満たない、お茶代程度の金額を書き込もうとしていた。
(……少し手伝うだけだし。これくらいでいいわよね)
そう思考が流れた瞬間、自分の内側にある重たい「癖」に気がついた。
ヴィクトルとの婚約中、私はどれほど複雑な契約をまとめ上げても、どれほど商会の利益に貢献しても、それを「婚約者としての当然の支援」として無償で提供し続けてきた。
自分の労働に対価を求めるという発想自体が、私の中から抜け落ちてしまっていたのだ。
「なぜ、これほど低いのだ」
不意に背後から声がして、私はビクッと肩を震わせた。
いつの間にか隣室から出てきたゼノスが、私の肩越しに見積書を覗き込んでいる。彼は私が書きかけの数字を見て、不満げに形の良い眉をひそめていた。
「ただの紙きれに文字を書くだけの作業ならばともかく、汝の知恵と時間を差し出すのであろう? ならば、その値は山ひとつでも軽かろうに」
ゼノスは極めて真面目な顔で、とんでもないことを言った。
「……ゼノス。何度でも言いますが、山は報酬の単位になりません」
「なぜだ。金脈の通った山であれば、その石ころほどの銀貨より価値があるぞ」
「仮に山をもらって所有権が私に移ったとしても、固定資産税と管理費で私は数ヶ月以内に自己破産します。それに、山を切り崩して街へ持ってくる運送費だけで足が出ます」
「む……。人間の社会は、価値の保存にも無駄な費用がかかるのだな」
心底不思議そうに呟く古竜に、私は深々とため息をついた。
スケールが狂いすぎている。だが、彼が「山ひとつ」という極端な例を出してくれたおかげで、自分が書こうとしていた額がいかに不自然に低いか、はっきりと自覚することができた。
父の屋敷で怒鳴られた時、私は「自分は便利な道具だった」と思い知らされた。
けれど、私自身が自分の仕事に値段をつけられないなら、私自身が私を「都合の良い道具」として扱っているのと同じではないか。
「……そうですね。これは、安売りするような仕事ではありません」
私は書きかけた数字を横線で消し、棚から業界の相場表と過去の取引記録を引っ張り出した。
今回の仕事にかかる作業時間。南方ルートという新規開拓におけるリスクと、私が請け負うべき責任の範囲。そして、私の整理した契約書が商会にもたらすであろう利益の予測。
それらを一つひとつ、冷静な頭で弾き出していく。
相手を不幸にする復讐ではない。私が私の人生を取り戻すための、最初の一歩。
私はペンを握り直し、見積書の空白だった報酬欄に、適正かつ、少し強気な額をしっかりと書き込んだ。インクが紙に染み込んでいくのを見つめながら、私は初めて、自分の足で立ったような確かな手応えを感じていた。
その日の午後、私は香辛料商会へ赴き、見積書を提出した。
商会の主は、私が提示した金額を見るなり、一切値切ることなく深く頷いた。
「結構です。貴女の正確で隙のない仕事には、これだけの価値がある。すぐに前金を用意させましょう」
そうして始まった仕事は、ゼノスの魔法の力を一切借りることなく進んだ。
商会の会議室の隅で、私は現地商人との条件交渉を補佐し、不利な条項を次々と修正していく。三日間の業務は予定通り、いや、それ以上の成果を上げて無事に完了した。
三日目、最後の条項へ相手方の署名が入った直後、会議室の扉が乱暴に開いた。
「私が開拓した取引先を横取りしたのか!」
ヴィクトルだった。
私は署名済みの依頼書を閉じ、彼へ表紙を向けた。
「宛名をお読みください。依頼先はクロエ・レーヴェン個人。業務範囲も報酬も、アーデン家との契約から独立しています」
「昔の縁があったから選ばれただけだ。君の仕事は、もともと私の指示で――」
「では、私が三日前に修正した第五条の内容を説明できますか」
彼の口が止まった。
商会主が、署名の終わった契約書を私の側へ滑らせた。
「横取りではありません。私はクロエ様の条件と実力を選びました。貴殿が知らない条項を、貴殿の仕事とは呼べません」
「クロエ、私に恥をかかせるつもりか」
「私は自分の仕事をしただけです。あなたの面目は、私の業務範囲に含まれていません」
退出を求められたヴィクトルは、私の返事を待たずに扉を叩きつけた。
誰かの手紙で勝利を知らされたのではない。自分で値段をつけ、自分で説明し、自分の名義で署名を受け取った。
その夜。
私はタウンハウスの応接室で、商会から受け取った報酬の入った革袋をテーブルに置いていた。
袋を開けると、ずっしりとした銀貨と金貨の輝きが顔を出した。これは亡母の遺産でもなく、誰かの立て替えでもない。私自身が値段をつけ、私の働きだけで得た正当な対価だった。
「……やはり、山ひとつの方が妥当だったのではないか」
向かいのソファで茶を飲んでいたゼノスが、革袋の中身を見て不服そうに呟いた。
「これでは少なすぎる。我が宝物庫の隅に落ちている屑石にも劣るぞ」
「私にとっては、これで十分すぎるほどの価値があります」
私は苦笑しながら革袋の紐を縛った。
ゼノスは本当に、人間の価値観を理解していない。彼にとって「宝」や「価値」の基準は、人間社会の貨幣経済とは全く違う次元にあるのだ。
私はふと、彼を見つめた。
人間離れした美貌を持つ、長身の男。しかし、これは彼の仮の姿に過ぎない。
「ゼノス」
「なんだ」
「あなたの値段の尺度は、私には分かりません。あなたがどれほどの存在なのか、この姿のままでは実感できない気がします」
私はテーブルに置いた手を組み、まっすぐに彼を見た。
「では、本当の姿を見せてください。あなたが、どれほどの力を持つ古竜なのかを」




