第5話 父は、帳簿を渡してくれません
父バルドの呼び出しに応じて男爵邸へ行くと、応接室の机には何もなかった。
私が見せるつもりだった遺品目録も、家計簿も、立替明細もない。保管庫から運ばせようとしたところ、父が当主権限で閲覧を止めていたのだ。
「家の書類を、家を捨てた娘に勝手に持ち出させると思ったか」
父は勝ち誇るでもなく、当然のことを告げる顔をしていた。
「亡母の遺品目録には私個人の相続品が含まれます。閲覧まで拒む権限はありません」
「訴えたければ訴えろ。だが原本はここだ」
私は銀行役人オスカー、商人ユリウス、仕立屋エルザに同席を頼んでいた。三人は自分たちの控えで私の支払いと取引を証明できる。しかし父の手元にしかない家計原本まで、代わりに出すことはできない。
オスカーが静かに告げた。
「当行の記録では、クロエ様個人口座からの支出は確認できます。ただし、男爵家側の帳簿と照合できなければ、どの費目が立替金かは全額確定できません」
父はその一言だけを拾った。
「ほら見ろ。確定できないそうだ」
以前なら、私は書類の山を示せば相手が黙ると思っていた。今日は違う。記録が存在しても、相手が原本を握れば、正しい側がすぐ勝てるわけではない。
ゼノスが父を見下ろした。
「その紙庫ごと運べば済む」
「運びません」
私は答え、父へ《帳簿閲覧および保全請求》を差し出した。
「本日、原本の任意開示を拒否された事実を三名の立会人と記録します。以後、該当帳簿を破棄、改変、移動した場合は、その行為自体を王宮へ申し立てます」
「脅すのか」
「手続を説明しています」
父は紙を受け取らなかった。私は机へ置いた。
この場で遺産を取り戻すことはできなかった。父に間違いを認めさせることもできない。私が得たのは、拒否されたという一枚の記録だけだった。
邸を出たところで、エルザが言った。
「申し訳ありません。もっとお力になれると思っていました」
「十分です。今日、分からなかった範囲が確定しました」
強がりではない。欠けている物が分かれば、次の請求先を定められる。ただ、胸の奥に敗北の鈍い痛みは残った。
帰りの馬車で、ゼノスは珍しく「燃やす」と言わなかった。
「紙を奪わなくてよいのか」
「奪えば、父の言う通りになります」
「では、我は何をすればよい」
「今日は何もしないでください」
ゼノスは窓の外へ目を向けた。
「何もしないという命令は、山を動かすより難しい」
それでも彼は動かなかった。
タウンハウスへ戻ると、一通の依頼状が届いていた。家名ではなく、私個人へ向けた仕事だった。
『契約条件表の整理をお願いしたい。報酬額は、クロエ様ご自身からご提示いただきたい』
家の帳簿はまだ取り戻せない。
けれど、私のこれからの仕事まで、父の保管庫に閉じ込められてはいなかった。




