第4話 古竜との同居には、生活条項も必要です
ヴィクトルとセリアの婚約披露会を途中で辞去してから、数日が経過した。
王都の端にある、亡母から相続した小さなタウンハウス。
老侍女のマーサが丹念に磨き上げた木の床と、こぢんまりとしているが日当たりの良い応接室。
父の屋敷で常に帳簿と格闘し、誰かの後始末に追われていた日々が嘘のように、静かで穏やかな時間が流れていた。
唯一の例外は、私の向かいのソファで、人間用のティーカップを壊れ物のように両手で包み込んでいる国家災害級の古竜の存在である。
「……クロエよ。やはりこの屋敷は、汝の居所としては質素すぎるのではないか?」
ゼノスが、室内の調度品を見回しながら言った。
「隣にある我が部屋も、寝台が狭く、壁の装飾も貧相だ。我が力で空間を拡張し、王城の宝物庫から適当な家具を見繕って配置しようか。それとも、東の山脈を一つ削って黄金を掘り出し、この区画ごと買い上げるか」
彼は冗談を言っているのではない。
「召喚された古竜は契約主のそばを離れてはならない」という規定(私は古語が読めないため確認できていないが)に従い、彼は当然のように隣の客室を占拠している。
そしてここ数日、彼は事あるごとにこのスケールの狂った提案を真顔で繰り返していた。
私は手にしていたペンを置き、分厚い家計簿をテーブルの中央に広げた。
「ゼノス。何度でも言いますが、東の山脈を削れば王国の地理と生態系が変わります。空間拡張の魔法も、外部から見て建物の体積がおかしくなれば近隣の迷惑になります」
「しかし、汝がこのような狭い空間で不便を強いられる理由はなかろう」
「私は不便など感じていません。これが人間社会の平均的な中流貴族の暮らしです」
私は家計簿のページを叩いた。
「いいですか、山一つというのは人間の貨幣経済において単位として成立しません。市場に大量の黄金を流出させればインフレーションが起こり、王都の経済が崩壊します。それは私が設定した禁止条項『国家機能へ干渉しないこと』に抵触します」
「む……」
ゼノスは「経済の崩壊」という言葉のスケール感には納得したのか、わずかに眉を寄せた。
「この際ですから、同居に関する細かいルールも仕様として定義しておきましょう」
私はバインダーに新しい用紙を挟み、箇条書きで記入を始めた。
「第一に、《無断で家具および建物を拡張・改築しないこと》。第二に、《食料を山単位、あるいは森単位で調達しないこと》。市場で豚を一頭丸ごと買おうとした昨日のような真似は厳禁です。第三に、《人間社会の貨幣価値を無視した贈与を行わないこと》」
私は書き上げた用紙をゼノスに見せた。
「以上を生活条項として追加します。同意できますか?」
ゼノスは用紙を受け取り、不満そうにため息をついた。
「……承知した。人間の生活とは、かくも己を小さく制限せねばならぬものか。汝の規律の厳しさには恐れ入る」
「実務を回すには、適切な制限が不可欠ですから」
ゼノスが承諾したのを見届け、私は置いていたペンを、ようやく机へ戻した。彼はこの数日間、私が課した条件をただの一度も破っていない。国を滅ぼせる力を持っていながら、私の書いた数行の箇条書きに大人しく従っているのだ。
ふと、ゼノスの傍らのサイドテーブルに視線を移すと、そこに見覚えのある品々が並べられているのに気づいた。
縁が少し欠けた古いティーカップ。インクの染みがついた使い古しのメモ帳。それに、先日私が「もうインクが出ない」とゴミ箱に捨てたはずのガラスペン。
「……ゼノス。なぜ、私の捨てたペンがそこにあるのですか?」
私が尋ねると、ゼノスは当然のように答えた。
「汝が不用意に廃棄しようとしたゆえ、我が保護したのだ。それらの品は、汝が日常的に触れ、思考の痕跡を残した重要物であろう。いずれも我が宝物庫の奥深くに厳重に保管すべき逸品だが、今は仮置きとしてここに並べている」
「は……?」
思考が停止した。
彼にとっては、山脈の黄金よりも、私が使い古したメモ帳の方が価値が高いというのか。
「それはただのゴミです。宝物庫などに入れないでください」
「否。我にとっては価値がある」
ゼノスの声は低く、そして絶対的な所有欲を帯びていた。人間とは全く異なる、人外特有の「愛するものへの執着」の片鱗に触れた気がして、私は背筋に微かな悪寒と、それと同量のこそばゆさを感じた。
「……勝手な保護は控えてくださいね。ゴミ箱の中身を漁られるのは困りますから」
「善処しよう」
彼が本当に善処するかどうかは疑わしいが、これ以上追及しても堂々巡りになりそうだったので、私は話題を変えることにした。
「ゼノス、魔法の仕様についてもう一つ確認したいことがあります」
「なんだ?」
「あなたは物の位置や物理的な移動履歴を感知できると言いましたね。例えば、父の屋敷から誰かが私の私物を盗んだとして、あなたはそれが『盗まれたものだ』という事実そのものを感知できますか?」
「可能だ。物の動きと、そこに介在した人間の魔力痕跡や物理的な軌跡を辿れば、誰が不当に持ち去ったかは容易に判明する」
「なるほど。ですが、それは使えませんね」
私が迷わず切り捨てると、ゼノスは怪訝な顔をした。
「なぜだ。真実が分かるのであれば、汝の権利を証明する手立てとなろう」
「人間の法廷、あるいは王宮が絡む審理において、魔法感知は単独の証拠にならないのです」
私は商務に携わってきた経験から、彼に人間社会のルールを説明した。
「魔法は目に見えず、術者の主観に依存します。どれほど絶大な力を持つ古竜の言葉であろうと、客観的な『記録』がなければ、人間の裁判官はそれを法的な真実として認定しません。相手が『古竜が嘘をついている』と主張すれば、水掛け論になりますから」
「真実であるのに、証拠にならぬというのか? なんという脆弱な法体系だ」
ゼノスは本気で呆れたように首を振った。
「人間社会では、真実よりも『書類』と『手続』が勝つのです。所有権を争う場合、私たちが頼るべきはあなたの魔法ではなく、領収書や目録、そして第三者の証言です。……ですから、今後の私の戦いにおいて、あなたの魔法で無理やり真実を暴いたり、証拠を作ったりすることは禁止します」
「……我が力を使わずして、汝はいかにして敵を討つというのだ」
「私は敵を討ちたいわけではありません。奪われたものを、正しい手順で私の手元に戻すだけです」
私は鞄から一枚の書類を取り出した。
「実演しましょう。これは亡母の遺品目録の写しです。現在、父の屋敷に私個人の『茶器箱』が残されたままになっています。父は『家から持ち出したものだ』と難癖をつけて返還を渋っていますが、この目録の三ページ目に、私が単独相続した私物であることが明記され、公証人のサインもあります。公証人の署名があり、父から異議の届出もありません」
私は目録をゼノスに見せた。
「これが人間の証拠です。帰属に争いがないと私は判断しています。ただし、魔法での移動が人間の手続上どう扱われるかは未確認です。これを最後に、王宮へ確認するまで返却魔法は止めます」
「ふむ。この紙の束が、我が魔法を行使するための免罪符というわけだな。面白き理屈だ」
ゼノスが指を軽く鳴らした。
次の瞬間、応接室のテーブルの端に、見慣れた木箱が音もなく出現した。中には、私が愛用していた茶器のセットが無傷で収まっている。
「ありがとうございます。これで、この家での当面の生活は整いました。以降、緊急の防御を除き、安易な返却魔法の使用はしばらく控えることにします」
私は木箱の表面を撫でながら、ふと気になっていたことを口にした。
「そういえばゼノス。私が起動したあの巻物――古契ですが、あれはいつ終わるのですか? あなたが私のもとに留まるという契約の期限です」
「契約の終了条件か」
ゼノスはティーカップを置き、まっすぐに私を見つめた。
「単純なことだ。当初の『救済目的』を果たしたと、請願者である汝自身が認めること。汝の口からその宣言がなされた瞬間、契約の義務は消滅する」
「私が、認めること……」
私は腕組みをして思考を巡らせた。
セリアから母の宝飾品を取り戻し、披露会に提供していた物資は回収した。
私物の茶器も今戻ってきた。
しかし、私が長年レーヴェン家やアーデン家のために立て替えてきた資金の清算は済んでおらず、私が築き上げた商務の功績も、いまだヴィクトルの手柄として扱われたままだ。
「……ダメですね。全く終わっていません。私の名前と功績を回収するまで、救済目的は未達成です」
「承知した。ならば、我は引き続き汝のそばで条件を守り続けよう」
ゼノスは口元に微かな笑みを浮かべ、満足そうに頷いた。
その日の午後。
タウンハウスの扉が乱暴に叩かれ、レーヴェン男爵家の使いの者が一通の書状を置いていった。
封を切って中を確認すると、そこには父バルドの署名で、厳格な呼び出しの言葉が記されていた。
『亡き妻の遺産は家産の一部である。勝手な持ち出しを禁ずる。早急に屋敷へ戻り、資産をレーヴェン家へ再統合する手続きを行え』
父の要求と私の暮らしを切り分ける作業は、まだ始まったばかりだった。




