第25話 短い一生と、長い婚姻契約
契約が終わっても、ゼノスは隣にいる。
私は白紙を取り出し、表題を書いた。
《婚姻契約書》
ゼノスが目を見開く。
「これは、古契の延長でも同居契約でもありません。命令や仕事ではなく、私自身の意思で、あなたを伴侶に選ぶための契約です」
「クロエ。汝は、我を選ぶのか」
「はい。あなたは?」
「我も伴侶として汝を選ぶ。囲わず、奪わず、汝が扉を開くまで待とう」
幸福を言葉にした直後、私は避けられない条件を口にした。
「あなたは数千年を生き、私は長くても八十年ほどです」
ゼノスは宝物庫から、私が両腕で抱えるほど大きな黒い鱗を出した。
「八百年前に落ちたものだ」
以前彼が思い出していたマティアスとエレン。鱗を磨いた職人と、停戦条項を書いた書記。二人は短い生を終えたが、彼の記憶から消えていない。
「短いことと、軽いことは同じではない」
その言葉は慰めではなかった。見送った者の名前を八百年持ち続けた存在の事実だった。
ゼノスには、伴侶へ生命力を分け、寿命を延ばす術がある。ただし不可逆で、人間の肉体を変える危険がある。
「勝手には使わぬ。汝が危険と効果を理解し、明示して望むまでは」
「今は決められません」
「百年でも待つ」
「その頃には、普通の私は死んでいます」
「では、決められる時までだ」
彼は本当に時間の尺度が違う。
私は婚姻契約書へ最初の条項を書いた。
《寿命を含む重大な魔術は、説明と双方の明示同意なしに行わない》
続けて、婚姻条項を作る。
《嫉妬を理由に知人を石化しない》
《夫婦喧嘩で都市や山脈を焼かない》
《配偶者を宝物庫へ保管しない》
《互いの仕事場と私物へ、許可なく触れない》
《重大事項は、相手の返答を待って決める》
ゼノスは、禁止事項が増えるほど嬉しそうだった。
「汝は我と暮らす未来を、それだけ具体的に考えている」
言われて、ペンが止まる。
「信用されていないとは思わないのですか」
「信用しているから曖昧にする、という人間の理屈は理解できぬ。守るべき形を示される方がよい」
彼は最後に、六つの条項とは別に、署名へ添える誓約文を書いた。
《我、ゼノスは、クロエ・レーヴェンの意思と選択を生涯尊重し、その隣で、彼女が望む未来を守る》
「生涯とは、どちらのですか」
「まずは汝の。その先は、汝が選んだ長さまで」
私は署名した。
ゼノスが指先を触れると、古い竜文字の署名が青白く浮かぶ。
婚姻契約書は二通作った。公証人への寄託は、双方で最終確認してからとした。
これは彼を従わせる命令書ではない。
自由な二人が、相手の自由を奪わないために結ぶ婚姻契約だった。
翌朝、《商務調整事務所》の看板を掲げた。
第一号の再契約者はユリウス商会。アルノーは新たに記録管理担当として雇うことにした。彼は私の不正を隠す家令ではなく、依頼人の原本を守る職員になる。
受付机の端には、王宮へ提出する《古竜関与業務報告簿》を置いた。最初の欄には、《商談中は待合椅子で待機。魔法使用なし》と記した。
ゼノスには、入口横の待合椅子を用意した。
「我はまた外で待つのか」
「商談中だけです」
「婚姻したのに」
「婚姻と業務は別です」
彼は不満そうに座った。それでも、私が扉を閉めるまで一歩も越えなかった。




