第26話 一行だけ、見つかりません
事務所を開いて七日目、王宮古語官から《古契本文・全条項対訳》が届いた。
請願の要件。古竜の応答義務。条件協議。終了条項。対訳には、古契原本の各頁を写した影写が添えられていた。
私は二度読み、索引を確認し、三度目には影写の余白まで追った。
訳注には、《書記エレン筆》とある。母の手記に写されていた古字と同じ、語尾を右上へ跳ねる癖。
見慣れた癖だった。私が数字や語尾を書き終える時も、無意識に同じ角度で線を跳ね上げる。八百年前に生きた母方の祖先も、この条文を読み、同じ紙面へ小さな印を残していた。
その筆跡の隣にも、あるはずの条文はなかった。
夕食後、対訳をタウンハウスの机へ置いた。
「ゼノス。事実確認があります」
向かいで茶を飲んでいた彼の背が、わずかに固くなる。
「同居を始めた夜、あなたは『古竜は契約主のそばを離れてはならない』と言いましたね」
「言った」
「この全文対訳には、距離条項が一行もありません」
沈黙のあと、彼は茶器を置いた。
「そのような条文はない」
「では、なぜ」
「我が作った」
あまりに堂々としていて、意味を理解するのに時間がかかった。
「事実でない説明をしたのですか」
「一緒に住むために必要だった」
「公開審理の前夜、終わったら話すつもりだったのでしょう」
ゼノスは目を逸らした。
「……追い出されるのが怖くて、先延ばしにした」
「必要だったかどうかを決めたのは、あなただけです」
私は対訳の頁を押さえた。
「それだけではありません。あなたは『我は嘘をつかない』と言いました。私はその言葉を前提に、ほかの説明も信じた。距離条項だけでなく、あの断言まで含めて、私の判断材料を歪めたのです」
「婚姻契約へ署名した時も、あなたは真相を知りながら黙っていました。初日の同居だけの問題ではありません」
「私は、事実でない条件を前提に同居を承諾しました。あなたがしたことは、公開審理でクレインが私へ問うたことと同じです。力や情報の差を使い、相手の選択肢を狭めた」
ゼノスは視線を伏せた。
「……そうだ」
言い訳をしないことは、免罪にはならない。
「あなたが怖くて同居したわけではありません。ですが、条文があると信じていなければ、初日から隣室を使わせたかは分かりません。その時の同意には瑕疵があります」
「望むなら、今すぐ出ていく」
扉へ向かう彼を、私は止めなかった。
出ていくか、残るかまで私が先回りすれば、また同じことになる。
ゼノスは扉の前で足を止めた。
「だが、出ていきたくない」
「それも、あなたの意思ですね」
「うむ」
「今夜は、ここまでにします。私は一人で考えます。あなたも、真実を知った私に何を望むのか、自分で考えてください」
ゼノスは扉から手を離した。
「客室は使って構いません。今夜そこにいることを許すのは、存在しない条文ではなく、今の私です」
「……承知した」
彼は一礼し、廊下の向こうへ消えた。
その夜、私は一人で、出会ってからの記録を読み返した。
返却対象から争いのある物を外した日。商談の外で待った日。原本を感知せず、私が答えを出すまで机の紙へ触れなかった夜。契約が消えたあと、互いに残ると選び直した日。
最初の承諾には瑕疵がある。その事実は消えない。けれど、積み重ねた記録は、最初の承諾とは別に、今の意思を裏書きしていた。
翌朝、私は自分から婚姻契約書を開いた。
「私が今もあなたの隣にいるのは、最初の説明が正しかったからではありません」
ゼノスは答えを急がせず、向かいの席で待っていた。
「私は事情を知り、一晩考えた今、改めてあなたと暮らすことを選びます。ただし、最初の嘘が消えるわけではありません」
婚姻契約書の第七項へ書き足した。
《契約の文言、能力、危険および選択に影響する事実について、自己の都合で虚偽または意図的な省略を行わない》
「これは罰ではありません。どちらか一方が、相手の選択肢を勝手に削らないための条項です」
「承知した」
ゼノスは竜文字で署名し、私もその下へ署名した。
私は、夜の応接室で彼へ尋ねた言葉を思い出した。
「以前、あなたに聞きましたね。私がどうなれば満足なのか、と。まだ答えをもらっていません」
彼はしばらく私を見つめた。
「何かを取り戻した汝でも、失敗した汝でもよい。我の望みで形を変える必要はない」
今度は、視線を逸らさなかった。
「我はただ、汝の隣にいたい」
「契約上の義務がなかった、同居を始めた夜から?」
「うむ。我が、汝の隣にいたかったからだ」
私たちは訂正版を二通作り、事務所へ向かう途中、公証人へ一通を預けた。互いの意思を守る条項を、二人だけの記憶にしないためだ。
そのまま二人で《商務調整事務所》へ向かい、私は扉を開けた。
受付机には王宮への報告簿。入口横には、昨日と同じ待合椅子。ゼノスは今朝署名した婚姻契約書を懐へ入れ、当然のようにそこへ座った。
「今朝も、外で待つのですか」
「業務と婚姻は別なのであろう」
少し不服そうに言いながら、彼は開いた扉の手前で止まる。
最初の依頼人が来た。私は自分で選んだ仕事へ向かい、背後から届く声を聞いた。
「行ってこい、クロエ。ここで待っている」




