第23話 妹は、自分の名前で署名します
先に来たのは、ユリウス様ではなくセリアだった。
宝飾も飾りもない紺色のワンピース。泣き腫らした目。以前のようにマーサの制止を振り切らず、玄関で面会を願った。
「ヴィクトル様との婚約は解消したわ」
応接室へ通すと、彼女は私を見ずに言った。
「お姉ちゃんが全部返させたから。家具も、お金も、取引先もなくなって、あの人、私に人脈を作れって怒鳴ったの」
私は黙って続きを待った。
「私だって、あの人なら、お姉ちゃんがいなくても全部できると思ってた。でも違った。あの人は最初から、お姉ちゃんが戻ってきて働くつもりで、私と婚約したの」
「あなたは、何をしに来たのですか」
「分からない」
初めて、セリアは分からないと言った。
「助けてほしいって言えば、お姉ちゃんは断るでしょう。謝れば許してくれるとも思ってない。でも……私、ずっと、お姉ちゃんの代わりになれば愛されると思ってた。ドレスも、婚約者も、古竜様も。欲しかったのは物じゃなくて、お姉ちゃんが持っている『選ばれる理由』だったのかもしれない」
それは謝罪ではなかった。理解の始まりに過ぎない。
「私はあなたの代わりではありません。あなたも、私の代わりになる必要はありません」
セリアが顔を上げた。
「だから、私の家には置きません。お金も仕事も用意しません。母方の伯母上――古い書記一族の記録を守ってきた方が、礼儀作法と記録実務を一から学ぶなら引き受けると手紙をくださいました。行くかどうかは、あなたが決めなさい」
「伯母上の家では、レーヴェン男爵令嬢として扱われません。見習い記録係として、朝の掃除から始めることになります」
セリアの顔がわずかに強張った。
私は封筒を渡した。
セリアはすぐに「行く」とは言わなかった。しばらく握りしめ、最後に自分の名で受領欄へ署名した。
「失敗しても、お姉ちゃんのせいにできないのね」
「ええ。成功しても、私の手柄にはなりません」
彼女は泣かなかった。
玄関を出る前、ゼノスへ一礼した。以前のように笑いかけず、何も要求しなかった。
それで十分だとは思わない。
ただ、彼女が初めて、自分の選択を自分の名前で持って帰った。
午後、ユリウス様が来た。
彼は面会室へ入るなり、正式な謝罪書と、証言辞退に至った通知の写しを机へ置いた。
「融資を止められれば、百人以上の雇用を失うところでした。私は商会を守るため辞退しました。ですが、理由を貴女へ伝えず、結果として貴女を一人で立たせた。申し訳ありません」
「辞退そのものを責めるつもりはありません。私でも同じ損失を計算したでしょう」
「では、継続契約を」
「同じ条件では戻しません」
私は新しい条項を示した。
係争や金融上の圧力で協力不能になった場合、相手の秘密を侵さない範囲で、第三者保管の通知を残すこと。突然の辞退で業務を止めた場合の引継ぎ範囲。互いが黙って消えないための手順。
「信頼は、謝罪一度で元通りにはなりません。作り直すなら、前と同じ契約では駄目です」
ユリウス様は条文を読み、署名した。
「承知しました。貴女がそう言う方だから、私はもう一度契約したい」
セリアを許したわけではない。
ユリウス様への不安が消えたわけでもない。
関係は、白紙に戻せない。だから、壊れた箇所を見た上で、次に越えてはならない線を引き直す。
その夜、私は《商務調整事務所》の鍵と、古契終了条項の抄訳を並べた。
返してもらうべきものは、もう残っていなかった。




