第20話 幕間 古竜には、言えない条文が一つある
ゼノスは王宮の方角へ意識を向けなかった。
少しでも感知を広げれば、証拠庫に商会原本があるか分かる。届いていればクロエへ伝えたくなる。届いていなければ、今すぐ倉庫から運びたくなる。
どちらも、彼女が選んだ勝負を壊す。
だから知らない。
世界の端で落ちた針さえ探せる古竜が、数枚の紙の所在だけを知らぬままにした。
問題は、もう一つあった。
クロエが謁見で申請した古契の全文対訳は、終了条項より先の照合へ進んでいる。いずれすべての文言が人間の言葉になる。
その時、彼女は気づくだろう。
ゼノスが同居を始めた夜に説明した条件の一つが、どこにも書かれていないことに。
我は嘘をつかない。
そう言うたび、胸の奥に小さな棘が刺さる。
人間の貨幣価値が分からなかったことも、山を報酬にしようとしたことも、国を消すのが最適だと考えたことも、本当だ。
嘘は一つだけ。
だが、その一つがなければ、彼女の隣室で朝を待つことも、机の紙へ触れずにいることも、扉の外で帰りを待つこともなかった。
今さら真実を告げれば、公開審理の前夜に彼女の心を乱す。
黙っていれば、いずれ王宮の対訳が暴く。
ゼノスは初めて、力では解けない期限を抱えた。
「明日が終わったら話す」
暗い窓へ向かい、誰にも聞こえない声で言った。
だが明日が終われば、彼女の救済目的も終わりに近づく。契約が消えれば、自分がこの家にいる理由まで問われる。
条文を偽った理由を話すことは、同時に、出会った夜から彼女のそばにいたかったと告白することだった。
世界を終わらせるより、よほど恐ろしい。
廊下から足音がした。クロエが水を取りに起きたのだ。
ゼノスはいつもの顔へ戻った。
「眠れないのですか」
「竜は眠らずとも困らん」
「私も、今夜だけ竜になりたいです」
弱音を口にした彼女へ、答えを先回りしない。
「茶を淹れよう」
「机の紙は動かさないでくださいね」
「分かっている」
彼はカップだけを取り、書類から指一本分離れた場所を歩いた。
守るとは、敵を消すことではない。
彼女が明日、自分の言葉で立てるよう、今夜の机をそのまま残すことだ。
そして契約が終わったあとも、それを続けたいと伝えることだ。
言えない一つの条文を胸に、古竜は朝を待った。




