第16話 母の手記は、元には戻りません
父は私の返事を待たず、扉を押し開けて入ってきた。
「請求を取り下げろ。お前の金も、亡き妻の遺産も、家のために使うのが当然だ」
「未払い賃金を残したまま、私に無償で資金繰りをさせるおつもりですか」
「使用人の話などしていない!」
その一言で、家令たちが切られた理由まで分かった。
父は応接室の木箱を見つけた。母の遺品、古契、手記を一時保管している箱だ。
「そんな物まで独り占めしていたのか」
「触らないでください」
私が間に入るより早く、父は手記の束をつかんだ。ゼノスの瞳孔が細くなる。
「クロエ。命じれば、その腕を動かぬよう固定する」
「傷つけないで。紙にも触れないで」
ゼノスは止まった。
父は一枚を開き、母の文字を見て顔を歪めた。
『何を失わせたいかではなく、何を取り戻したいかを先に定めなさい』
「死んでまで、お前を私に逆らわせるのか」
紙が裂けた。
乾いた音は、怒号より大きく聞こえた。
私は父の手から残った半分を奪い返した。ゼノスが一歩で父との間へ入り、今度は威圧も魔法も使わず、ただ出口を指した。
「出よ。クロエが許した客ではない」
父は私たちを睨み、裂けた紙片の一部を床へ投げた。すべては戻らなかった。小さな一片が靴底に張りついたまま、夜の石畳へ消えた。
「ゼノス。探せますか」
「位置は辿れる。だが、踏まれ、雨に濡れれば同じ形には戻せぬ。我に壊れた紙を復元する力はない」
追えば見つかるかもしれない。だが父を魔法で追跡すれば、また別の越境になる。私は残った断片を拾い、重ねた。欠けた一行は、欠けたままだった。
正しいことを言っても、失うものはある。
涙は出なかった。代わりに、母の残した他の頁を一枚ずつ番号付きの封筒へ移し、公証人へ保全を依頼する一覧を作った。
その中に、古契の由来を記した頁があった。母は本文の一部を古字のまま写し取り、脇に自分の訳を添えていた。
母方の祖先は、人間と竜の停戦条約を記録した書記の一族。人間側が生贄と討伐遠征を禁じる代わりに、署名した竜は、書記一族の正当な救済請願が起動された時、一度応答し、条件を協議する。
署名竜の名は、ゼノス。
「だから、私の呼びかけに応じたのですね」
「義務は、応答して話を聞くところまでだ。その後、どの条件を引き受けるかは我が決めた」
「国を滅ぼす案も、契約上の義務ではなかったと」
「あれは善意だ」
「では、『契約主のそばを離れられない』という条件は、どの条文にあるのですか」
ゼノスは、裂けた手記へ視線を落とした。
「先に、その紙を保全せねばならぬ。続きが失われれば、条文の話もできぬ」
正論で、また問いをずらされた。
私は保全一覧の末尾へ、《距離条項の原典確認》と書き加えた。善意の尺度が大きすぎる相手だからこそ、曖昧な説明を放置してはならない。
翌朝、父によるタウンハウスへの無断侵入と母の手記毀損について、王都治安局へ被害届を提出した。失われた一片は戻らない。それでも、破った事実と残った断片は記録に残す。
数日後、王宮から共同申立ての通知が届いた。
申立人側弁務士の欄には、父でもヴィクトルでもなく、テオドール・クレインの署名がある。
『古竜の強制力を用いた財産移動は、強迫による私的執行であり無効である』
披露会で震えながら記録を取った男が、その記録を武器にして戻ってきた。




