ローズ献血センター/マドンナ支援募金
TKOは恵比寿のビルの自宅に戻って、シャワーを浴び終えて体を温めたところだった。深夜というのにハンディコムに着信音が鳴った。発信元は湾岸警察、刑事課の安西警部だ。TKOはモニターにそれを見て、不審に思って通話パネルにタッチした。
「TKOだ。こんな時間にどうしたんだよ?」
TKOはプライベートの保護のために自分のカメラをオフにしていた。すると深刻な表情をした安西が、モニターに答えた。
「湾岸警察、刑事課の安西だ。大変な事件が起きちまった。今から50分ほど前に、滝川が病院内で射殺されたんだ」
「何だって?俺はさっき会ってきたばかりだぞ」
表情を硬くした安西が、現場にハンディコムのカメラを向けて続けた。
「悲しいことだが現実だ。滝川は22口径の銃弾を、顔面と胸に三発食らっている」
「嘘だろ。・・・なんてことだよ。畜生」
病室から滝川の遺体が丁寧に運び出されてゆく。現場となったICUの室内では、他の入院患者たちに迷惑が掛からないよう、静かに、そして注意深く、鑑識たちによる調査が始まったばかりだ。それから安西が歩き出してきたその場所は、確かにTKOがさっきまで近くにいたナース・ステーションのカウンターの前だった。
TKOはあまりのショックに力を失って、フロアに座り込んでしまった。それから心配になって安西に確かめた。
「それで?ICUには篠田が一人で残っていたんだが。篠田は無事なのか?」
「何だ?篠田ってのは?そいつは初耳だ。あの時の防犯課の巡査のことか?」
「滝川が意識を戻したって連絡が来たんで、篠田と二人して駆け付けたんだ。だって、そうだろよ。彼女も同じ事件の犠牲者になるところだったんだ」
「なるほど」
「明日になったら病室に移動できるって話だったんで、滝川の荷物を整理していたはずだ。それで、もう少しそこに残るって彼女が言うから、俺は先にその場所を出たんだ。彼女をそこに残してさ」
「そうだったのか。室内には滝川のもの以外に血痕は残されていない。問題は彼女がその場所に居合わせたかってことだよな。先に帰っている場合だってある」
安西はそう答え、ICUの室内で鑑識の作業を見守る紺野に目をやった。そしてTKOに伝えた。
「ちょっと待ってくれ。・・・紺野」
「はい。何でしょうか?」
紺野が近くにやって来ると、安西が頷いて、篠田に関する指示をした。
「防犯課の篠田巡査がここの室内に残っていたそうだ。今すぐ調べて、篠田のハンディコムに連絡を入れてくれ。良いな、彼女の居場所を正確に確認するんだ」
「防犯課の篠田ですね。了解しました」
紺野はその指示を受け、一旦、湾岸署の防犯課に連絡を入れた。そうしてそこで篠田のモバイル・アドレスを入手すると、その手でアドレスをクリックして、早速、篠田のハンディコムに電話連絡を入れた。
紺野のハンディコムに発信音が鳴った。それが五回、十回と続いた。これによって篠田のハンディコムには問題がないことが分かった。損壊していたり水没していたりする場合には、数回の発信音の後に受信機の不在を告げるメッセージが流れ、発信音はそれ以上、続かないものだ。それでも深夜の2時近くとはいえ、いつまで経っても篠田が電話に出ないことが気に掛かった。どうしてなのか留守電のメッセージにも切り替わらない。そう思って紺野は一旦、電話を切って、再度、再々度と彼女のアドレスに発信した。ところが呼び出し音はするものの、篠田からの応答が一向に返らなかった。何か用事があったとしても、これだけハンディコムを鳴らしていたなら電話にくらいは出ても良いはずだ。
TKOと話を続ける安西が、横目で紺野に進捗を尋ねた。すると紺野は篠田と連絡が取れなくて、そんな安西に首を捻ってみせた。
安西がたまらずTKOに伝えた。
「篠田のことは居所が分かり次第、再度、こちらから連絡を入れる」
「頼む。一刻も早く篠田の居所を確認してくれ」
「分かっている。それじゃあ、またな。必ず連絡を入れる」
安西はそう言って、TKOとの電話を切ると、すぐさまアドレスを呼び出して、湾岸警察の刑事課に電話連絡を入れた。
刑事課のオフィスでは壁面にある大型モニターが着信音を鳴らし、デスクに着いていた夜勤の野口が通話パネルにタッチした。するとモニターに切迫した安西の表情が映り、その場に居合わせた刑事たちがそれに注目した。野口が代表して、安西に応えた。
「警部。滝川の様子は?現場はどんな状態なんですか?」
「滝川の遺体はモルグへと移された。現場に関しては署に帰り次第、皆に報告する」
「何かあったんですか?」
「皆、聞いてくれ。いいや。こいつは野口、お前に頼もう」
安西はそう言って、野口に依頼した。
「当時、防犯課の篠田冴巡査が滝川のICUにやって来ていたことが分かった。至急、篠田の自宅の住所を調べ出してくれ。確か、築地の辺りに住んでいたはずだ」
野口がデスクにメモを取りながら、それに応えた。
「防犯課の篠田冴巡査、自宅の住所ですね」
「それから、その家の近所にある交番の制服警官を、早急に何名か篠田の自宅に向かわせてくれ。篠田の無事を確実にしたいんだ」
「制服警官を篠田の自宅に。人員はどれくらい?」
「必ず複数名、動かしてくれ。とにかく自宅まで行かせて、篠田の所在を明確にして欲しい。滝川を射殺した犯人が近くにやって来ているかも知れない。良いな。警官たちには彼女の姿をその目で確かめて、彼女の無事をしっかりと確認するように伝えてくれ」
「了解しました。篠田の自宅を確認して、ただちに警官たちをその家に向かわせます」
それからただちに篠田の自宅の住所が調べられ、近所にある二箇所の交番からそれぞれにパトカーが出動した。そうして深夜にも関わらず、計四名の制服警官が築地本願寺の近くにある篠田が住むというマンションに急行した。
サイレンを鳴らさずに、回転灯だけを灯した二台のパトカーがマンションのその前に到着すると、警官たちはホルスターから拳銃を抜き出して、周辺に注意を傾け、エレベーターと階段に二手に分かれて、篠田を探して彼女が住む四階のフロアへと上がっていった。
TKOは、篠田のハンディコムにくり返し電話をかけ続けていた。ところが篠田の応答は無く、留守電にも切り替わらないためにメッセージを残すことさえ出来ないでいた。
TKOは焦りを感じて苛立っていた。あげくは困り果て、深夜というのにハンディコムに大誠を呼び出すことにした。
ベッドでぐっすりと眠っていた大誠が、ハンディコムの着信音に不機嫌そうに目を覚ました。それからモニターを見て、それがTKOからの電話であることを知って、眠たい目を擦りながらハンディコムの電話へと出た。
「どうしたんだよ?いったい何時だと思ってんのさ」
アメリカ仕込みの朝型の大誠には、なんとも辛い時間帯だった。TKOはそんな大誠の言い草に、不愉快になって応えた。
「そんなことは分かっている。夜中の2時だが仕方がないだろ」
そう言って、すかさず思い直した。
「いいや、済まない。じつは困った事件が起きちまってさ。ロベルトが射殺された」
「何だって?なんで突然そんなことに」
「それで、お前に話していた篠田っていう女警官だが、彼女も同じ時間帯にロベルトの病室にいたはずなんだ。ハンディコムに電話を入れても連絡が取れないし、警察に探してもらったんだが病院内にもいないみたいなんだ。・・・まいったよ。彼女の居所が分からなくなっちまった。一度は彼女を救えたっていうのに、そんな彼女がいなくなっちまった」
TKOはそう伝えながら、自身の無力さを心に苦く噛み締めていた。・・・ロベルトが銃撃を受けて殺害された。そして、可愛かった篠田が行方知らずになってしまっている。戦いのために特別な能力を持って生まれてきた戦士が、ほんのわずかな友人たちすら敵の手から守れなかったのだ。悲しみはそれほどまでに強く、クサビのように心に深く突き刺さっていた。
大誠にとっても、これほどまでに狼狽えているTKOを見るのは初めてだった。実力と実行力で過激な戦場を生き抜いてきた、誰より賢明で自信家だったTKOが、それほどまでに打ち拉がれているのだ。それを知って大誠は、慌ててベッドから飛び起きると、TKOの求めるすべてに応えようと思った。何よりそれが、TKOのパートナーたる務めでもあった。
「これからすぐにオフィスに降りるよ。とにかく、そっちで仕事を始めよう。きっと何とかなる。細かい話はそれからだ」
ダウンコートに身を包み、あくびをしながら大誠がエレベーターから降りてきて、暖房が行き届く前の寒々として明かりの少ないオフィスへとやって来た。すると、ニットのカーディガン・コートを体に羽織り、肌寒そうに両手を組んだTKOが、そんな大誠を出迎えて言った。
「済まない、大誠」
「構わないよ。事が事だからね」
「奴らは事件を発覚させた俺たちを狙って、報復に来たんだ。カン・ジュンソクが逮捕され、その夜の実弾銃撃で犠牲者たちが何人か出ているはずだ」
「言えているね」
「事件が発覚した以上は、犯行には全力を傾けるつもりだ。奴らはそれを表明するためにロベルトを殺害した。自分たちがシティの警察より上手だってことを主張するためにさ。こいつはプロとしてのプライドの表現だ」
大誠は早速、コンピュータ・コクピットのシートに腰掛けて、コンピュータを起動しながらTKOに伝えた。
「奴らは日本にやって来て、テレビでオチャラけたバラエティー番組や、奇妙なヌルキャラや、意味の分からないくだらないコマーシャルを見て、こんな民族なら絶滅した方が良いだろうって考えたんじゃないか?」
コンピュータが作動して、アプリケーションが速やかに立ち上がった。大誠はお手製のハッキング用のサポート・ソフト『イレーザー』のアイコンをクリックして、高度なアクセスを準備して、手早くキーを操作しながらTKOに続けた。
「バカげたものばかりを見せられていたら、俺だってそんな事を思うことがある。奴らの国では食い物にありつけなくて、毎日のように飢えて死んでゆく者たちがいる。ところが日本人は食べられる物を大量に廃棄して、そんなことなど気にも掛けていない。だからシティを混乱におとしいれ、お気楽な日本人に底無しの恐怖を味あわせてやろうってさ」
「言えているな。奴らは今も戦争中なんだ。兵役で鍛えられ、敵陣のまっただ中に入り込んできて常に臨戦態勢でいる。こいつは日本の治安への挑戦だ」
それはもっともだと、大誠が頷いた。それからサイド・モニターに聖マリア病院が契約しているインターシティ警備会社を拾い出し、警備会社が利用しているサーバーを特定すると、サーバーの内部情報を導き出して、ネットワークのセキュリティを突破して難無くシステムの内部に入り込んだ。
大誠のキーの操作と『イレーザー』のパフォーマンスに、ファイヤーウォールが穴を空けずに次から次へと乗り越えられてゆく。それから、大きなストレスを感じているだろうTKOを横目に見て、わざとらしく尋ねた。
「そうだ。TKOはまったく眠っていないんだろ?」
「ああ。まあな」
「コーヒーでも飲んで、ちょっと待っていてくれよ。一時間くらいなら休んでくれていても構わない。映像が集まり次第、呼びに行く。それから俺にもコーヒーを貰えるかい?」
大誠がそう言って、ブラインド・タッチでキーを打ち込み、データベースに蓄積された膨大なファイルから病院内に設置されている防犯カメラを選別して、それらの情報をモニターに呼び出した。
それぞれの病棟に振り分けられた防犯カメラには、分かりやすくナンバーが付けられていて、それほど大量でないことが分かった。大誠はそれを知って、たいした面倒じゃないと唇に笑みを浮かべた。それから外科病棟の見取り図をサイド・モニターに呼び出して、そこにある防犯カメラのナンバーを確認した。
そしてリズミカルにキーを打ち込み、それぞれのモニターを十二分割にすると、外科病棟と一階フロア、加えて病院の周辺に配置されている防犯カメラの映像の解析を始めた。
TKOは大誠の防犯カメラの映像の割り出しを待って、キッチンで好物のカフェ・マキアートを作ると、大誠にひとつを手渡し、オフィスのソファに深く身を沈めるように腰掛けた。カフェイン・シガレットを口にくわえ、少しは目覚めるかと思って、ほろ苦いコーヒーに何度かその口を着けた。
・・・ぼんやりと思い返すのは、格闘の末にロベルトが腹に銃弾を受けたその時の衝撃や、篠田を拉致犯のグループから辛うじて救い出した銃撃の瞬間ばかりだった。・・・セックスをしていた最中の篠田の表情や、しなやかなその肉体も印象的だった。・・・それから出来るだけ拉致犯の一人ひとりのその顔を思い出そうと試みてみた。ところが逮捕される間際のカン・ジュンソクの苦々しい顔付きだけが、なぜか脳裏に焼き付いていた。
そしてやがては室内が充分に暖まって来ると、ここのところの精神的な疲れもあってか、TKOはいつの頃からかうたた寝に落ちていた。
しばらくの間は健やかな眠りだった。眠りの安息は真綿で締め付けるような精神の疲労を忘れさせてくれた。ところがTKOの身の内に息衝く野性のなせる業なのか?瞼の下では眼球が動き出し、細部の筋肉が痙攣して、今時の現代人には珍しく、いつものように夢を見始めた。ところがその夢は奇怪で、心が和らぐ生易しい内容ではなかった。
TKOはベッドで全裸の女を抱き締めていた。仰け反って身悶える女の吐息と喘ぎ声がその耳に心地良かった。身の内に棲む獣が目覚めて、血液を沸々と滾らせている。TKOは女の片足を腕に持ち上げ、滑らかな女の肉体を串刺しに男根の抜き差しをくり返した。そうして女の膣の奥壁を突き続けた。
TKOは夢を見ながら、その女は篠田だと思い込んでいた。ところが良く見ると、そして注意して触れて確かめると、その感触は肉質の柔らかな白人のものであることが分かった。室内を見回すと、その部屋は昨夜のホテルのモダンなインテリアではなかった。額に入れて壁に飾られた素人っぽい油絵の肖像画。それから数枚のモノクロ写真。サイドボードの上に並んだカルバドスとティオペペのボトル。総革張りの三人掛けのチェスターフィールドのソファ。そのほかは南仏らしい素朴なアンティーク家具が室内を彩っている。そんなペッドルームの光景が、いつからか夜のものから真昼のものへと移り変わった。窓から見えるのは高く晴れ渡った青空。大地に降り注ぐ陽光。そして紺碧の地中海を見渡すマルセイユのパームビーチだ。
それが分かって安心していると、すべてが唐突に、夜の世界に引き戻された。
夜のシティの街中では、電力という文明の怪物が勢力を拡大して、まるで光の海のように人々の営みを照らし出している。人々はそんな中、外敵からの怯えも知らず、自身の脆弱さもわきまえず、まるで地球の征服者さながらに自由気侭に振る舞っている。個人主義が蔓延して、行き着いたその先にあったのは、不平等と貧富の差の拡大であって、家族と地域のコミュニケーションの崩壊だった。
この国は明治維新と戦後と震災の復興という三度の奇跡を実現したのに、アメリカを模倣した民主主義もどきの教育が、日本人の情緒と責任感と礼節を失わせていた。人々は自分の利益になるのなら、魂でも肉体でも何でも売るようになった。そうして打算的で利己的になり、そんなことなど気にせずに、目の前の欲望ばかりに囚われて現在だけを生きている。そして人々は真夜中近くだというのに、夜を恐れることもなく、渋谷のスクランブル交差点を行き交っていた。
私立の女子大生らしい女たちが路上でかしましくはしゃいでいる。私立の女子学生たちは裕福な家庭の出身者だけで構成されていて、セレブを気取って何でも可能だと思い込んでいる。あくまでも彼女たちは少数派で、社会の全体から見れば、鼻持ちならない毛嫌いされる対象だ。ところがそんな彼女たちは財産や人脈に恵まれて、世間の評判などお構いなしだった。
すると突然、ビルのその上にある暗黒の夜空から、いくつかの影が地上を目指して急降下してきた。空から飛来する黒い塊はイヌワシより数倍大きいが、あまりのスピードで実体が掴めなかった。そしてその時、地上の人々は、各々がバラバラに進んでいて、当然、上空の異変などには気が向かず、わずかに数名だけが奇妙な気配を頭上の遠くに感じ取っていただけだ。
黒い塊は人々の上空を飛び回ると、ビルの上層階の外壁に貼り付くように留まった。鉤爪を食い込ませ、ビルの上方に逆さになって貼り付いて、良く見るとそれは、TKOの夢に産まれる奇怪な『人コウモリ』だった。人コウモリは地上を見降ろして何かを待っている様子だ。地上では、多くの車が光の渦のように交差点を走り抜けていた。歩行者たちが歩道に立ち並んで信号が変わるのを待っている。やがて歩行者用の信号が青になると、歩行者たちは交差点に堰を切ったように歩き出した。そうしてスクランブル交差点は人込みで一杯になった。すると人コウモリが大きな翼を羽ばたかせて飛び立って、人々で込み合った交差点の中央を目指して下降していった。
すると、人波に混じって交差点を歩いていた篠田がいきなり肩を鷲掴みにされて、一気に中空に持ち上げられ、そのまま夜空に連れ去られていった。
どういう理由で、篠田がその場所にいたのかは分からない。人コウモリは七匹。いいや、十匹はいただろうか?・・・そして次から次へと低空を横切って、若い女たちを鋭い鉤爪に捕獲して、そのまま夜空に飛び立っていった。事態はあまりに唐突で、想像力を越えていて、周囲に居合わせた人々は、その場で何が起きたのかさえ判断が付かなかった。ある者はそれを目の当たりに驚愕して、金切り声を絞り上げた。ある者は恐怖に包まれ、脅えきってパニック状態におちいっていた。
TKOは魔物によって篠田が強引に連れ去られる、そんな奇怪で暗示的な夢を見た。人類は文明の力でことごとく外敵を排除してきた。そして、地球の食物連鎖の頂点に立ったつもりでいる。それでも現代人を個々で捉えてみたならば、地上でこれほど無能で貧弱な生き物を見ることは滅多にない。しかも、その数は半端なく多い。・・・
翌日、TKOは昼前に目覚め、トレーニングを終えた後、江梨子を交えて大誠との話し合いを進めながら三人でのランチを採った。そしてランチを済ませると、その足で聖マリア病院へと出向き、篠田の行方が知れなくなった救急口の周辺を注視して回った。大誠が集めた防犯カメラの映像によると、昨夜は篠田がICUから出ていったその後に、室内に一人になったロベルトが射殺されている。ここまでの時点では、篠田は今でも無事でいるように思えた。
東洋人らしい暗殺者を映した外科病棟の映像は、どれもが光学ブロックらしい装置によってひどく画質が乱れていた。それでも大誠はコンピュータ・コクピットに居所を定め、録画映像を圧縮センサー・アルゴリズムに通して、少ないデジタル情報を増幅して、欠損しているピクセルを埋め合わせた。それから、それらの映像の中から比較的認識しやすい瞬間をスチルにして拾い出し、そんな画像にフィルターを掛けて、ピクセルの修復のための補正用のトリートメントを加えた。大誠はそうしてプロの本領を発揮するべく犯人の人相を識別できるよう画像の処理に全力を傾けた。
篠田は病院の救急口から歩き出してきて、路地へと曲がったところまでは防犯カメラにその姿を確認することが出来た。ところが、その先が分からなかった。まるで神隠しのようだ。
TKOは建物の入り口にある茂みの陰に、昨夜、篠田が着けていたものと同じストールが落ちているのを見付けた。それを手に取って匂いを嗅ぐと、確かに彼女と同じ匂いがした。唯一、篠田の失踪に関与しているだろうと思われるものは、近い時刻に路地の先にある防犯カメラに映り込んでいた、たった一台のグレイっぽいEVシーマだけだ。
続いて、築地にある篠田のマンションを訪れてみた。するとマンションの建物の前には一台のパトカーが駐車していた。TKOはエアロ・バイクから降り立つと、車のウインドウをノックして、運転席にいる制服警官にIDバッジを見せて尋ねた。
「篠田が帰ってくるのを待っているのか?」
「はい。刑事課の安西警部から指示があって」
「そうか。俺はちょっと彼女の部屋を見てくるよ」
警官にそう伝え、管理人から鍵を受け取って、TKOはエレベーターを使用して四階のフロアに上がった。
それから鍵を開け、篠田のマンションの室内に入ると、リビングルームの壁には、なぜか傭兵時代に取材を受けた時のものらしいTKOの一枚の写真が飾られていた。TKOはそれを見付けて複雑な心境になった。この国の体制側である警官になるような女が、異端である自分にどうして関心を持ったのか?・・・それが不可解に思えた。それに、どこでどうしてこんな写真を手に入れたのか?それは自分でも忘れていた小さな出来事だ。
その後は、さほど遠くない場所にある、篠田の実家を訪ねてみることにした。家の前には同じように一台のパトカーが駐車していた。TKOは運転席にいる制服警官に頷いてみせ、その家の玄関のインターホンを押した。すると室内にいた父親がその応答に出た。
TKOがインターホン越しに慎重に挨拶した。
「私立探偵の鬼方と言います。昨夜、行方が知れなくなった冴さんの居所を捜査するために、彼女の実家であるこの家に伺いました」
すると父親が「何だって協力します。どうか、娘の居所を捜し出してください」と応えて、考えていた以上に好意的に迎え入れてくれた。
TKOはその家に上がって、週に一度は必ずこの家に帰ってきていたという二階にある篠田の部屋に真っすぐに向かった。
銀縁眼鏡に白髪まじりの彼女の父親は、部屋の入り口近くに立ち止まって、TKOの捜査の様子を心配そうに見つめていた。TKOはまずは壁に並べて飾られた数枚のモノクロ写真を見つめて驚きを隠せなかった。それらはなぜかTKOがフランスの外人部隊に所属していた頃の、希望のない日本を捨てて海外に出ていった、誰にも関心を持たれていなかった頃の非常に若かった時代のTKOの写真だった。
そんなTKOの横顔を見つめて、父親が彼に伺うように伝えた。
「あの、覚えていませんか?・・・私は以前、国際紛争を報道するジャーナリストを仕事にしていて、紛争地帯など、多くの土地に取材に出ていました」
TKOは怪訝に篠田の父親のその顔を見つめた。すると父親が、神妙そうに続けた。
「ある時、私は、日本人の一青年が、フランス外人部隊のエリート組織である、第二外人落下傘連隊に配属されたという情報を耳にしました。それでその青年を取材するため、コルシカ島にあるカルヴィ駐屯地まで伺ったことがあるんです」
TKOはそれを聞いて、遠い昔を思い出した。
「ああ、あなたはあの時の、・・・俺が第一中隊に配属されて、市街戦の戦略に従事していた時代のことだ。俺はまだ二十歳になったばかりで、かなり若かった」
「実際にお会いしたのはあの時だけでしたが。私はそれ以降も、君の行動をフォローし続けていました。・・・君は危険を顧みない、本当に勇気ある人だ」
父親は篠田啓介といって、現在は大学に勤務して、国際情勢の研究者として生計を立てている。また、彼が執筆した『安楽死する日本』は、TKOも一読したことがあった。
篠田とは父一人、娘一人の関係で、かねてからTKOこそが自己犠牲の信念を持った真の男だと憧れて、幼かった一人娘に何度もその話を語り聞かせたと言う。それを知って、TKOはようやく篠田が自分に特別に肩入れしているその理由が分かった。
TKOは、篠田の部屋の室内をゆっくりと観察した。この部屋は彼女が健全に成長して、子供の頃から安定的に人生を培ってきた居所だ。TKOの眼差しは、彼女の細かな日常を読み取るべく鋭い洞察を称えていた。そしてそんな室内に、これまでの事件の被害者たちとの関連性を示す何事かを探していた。
室内はとても上手く整理されていた。壁面の一杯に組み立てられた木目調の収納家具。小物や雑貨を入れる容器やケースが同じ色、同じ素材で整えられている。デスクの上のコンピュータはタフブック。ハンディコムや携帯音源、マンションにあった4Kテレビも同じパナソニック製のビエラだった。本棚にある書籍は、同じ小説家のものをすべて読破しているらしく、クロゼットの中を確かめると、気に入った洋服や靴などがあると、彼女には色違いで同じ品物を買い求める習慣があったようだ。バッグも出来るだけ同じブランドの同じラインを買い揃えていた。それらからは篠田がある種のコレクターであることが分かった。彼女は昆虫の標本を作るかのように自分の身の回りの品物を整えていた。
続いてTKOは、デスクの引き出しと小物入れのケースの中身を確認した。篠田は銀製のアクセサリーがお気に入りだったようだ。決してプラチナではない。銀には特別な風合いがあるのだと、以前に彼に話していたことがあった。中にはターコイズや珊瑚、ピンク色のインカローズや、オニキスや貝などで飾ったインディアン・ジュエリーがあった。すると別のケースのその中に、以前に見付けたオレンジ色の羽根飾りがあった。
TKOはそれを見付けてその目を細めた。それから父親に尋ねてみた。
「冴さんは、女性のための生活支援に募金していたんですか?」
「いいえ。その羽根は、銀座で献血した時にいただいた物だと聞いています。娘は社会に奉仕することを善しとしていました。臓器提供のためのドナー・カードも作っています」
そう話して、父親のその目からは涙が零れ落ちた。
それを聞いていて、オフィスの大誠がTKOのヘッドセットに報告した。
「銀座の献血所について検索をしてみる」大誠がそう伝えて、キーを軽やかに操作する。
涙に暮れながら父親が続ける。
「君が軍隊で身に着けたのは不倒の闘志と不屈の精神。それから生死を共にする戦友同士の信頼だ。戦場では、人間がどこまで残酷な生き物になれるかを知った。・・・まさか娘が君と一緒に仕事をすることになるとはね。・・・娘は本当に幸せな奴です。先週末にもこの家に帰ってきた時に、その目を輝かせて話してくれました。TKOは、いいや、鬼方多生男は本当に強い男だと。君を間近に見て、君の強さを改めて知った。娘は心を弾ませていましたよ。・・・政府、役人、警察、検察。私はこの国のマネージメントを信用していません。この国は、困難に立ち向かう真の勇者を生み出すための教育をしていない。そして国家と国民を、中でも弱者を守ろうとしていない。この国で信用できるのは君だけです。君しか戦っていない。君しか守ってくれない。・・・どうか、お願いです。どうか娘を。どうか娘の居所を捜し出してください」
父親の願いは祈りにも似ていた。自分の命を引き換えにしてでも、といった強い覚悟と信念を感じた。ここにいる父親は、それだけ娘を深く愛している。ところが娘は自身の意志で、火中にある小さな望みを拾おうとした。父親の影響もあってなのか?初めから手に負えないだろうTKOに憧れて、彼の幻影を一途に慕い続けてきた。そして率直で、勇気と行動力があったがために、それをそのまま実行してしまった。それがトラブルを招いたのだ。TKOはそれを知って、無謀だった篠田の過ちを心から哀れんだ。
一方、大誠は、TKOのイヤーセットのカメラを通して篠田の部屋の室内の様子を右上のサイド・モニターに確かめて、スピーカーに聞こえる父親との会話に耳を傾けて、それと同時にインターネットに銀座の献血所を検索していた。
すると銀座には、赤十字社が運営する献血ルームは一軒もなかった。近場でなら有楽町の駅近にある。それとは別に、街の中心に位置する商業ビルの一角に『ローズ献血センター』という独立系らしい献血所があった。大誠はサイトをクリックして、『ローズ献血センター』のホームページを右下のサイド・モニターに開いてみた。そして、ホームページに目を通してTKOを呼んだ。
「TKO」
「どうした?・・・」
「銀座に『ローズ献血センター』っていう女性専用の私立の献血センターがある。その場所は、電化製品からブランド品まで販売している『ジェネシス』って有名な中国系の免税デパートの三階の一角だ。・・・ここでは成人病や婦人病を早期に発見することを目的に、無料で血液検査を実施している。それから、独立した女性の生活を支援する『マドンナ支援募金』とも提携している。・・・ここでは献血を七回すると献血者に例の羽根飾りが贈られるようになっている。篠田はきっとこの場所で献血していたんだ」
大誠がホームページにある会社概要をクリックして、報告を続ける。
「経営形態は医療財団。所長はウォン・ハイファンって名の中国人の女性医師だ。・・・ちょっと待ってくれ。献血センターには、ここを出先機関としている親会社がある。秋葉原にある婦人病治療で有名だっていう共愛病院がそれだ。・・・奇妙だな。・・・中国系企業の日本進出は今や当然の成り行きだ。加えて、オレンジ色の羽根飾りには中国系の医療財団が関わっていることが分かった。ところが北朝鮮による不穏な影などまったく見付けられない。一連の事件と女たちの羽根飾りは単なる偶然の一致だろうか?」
TKOは室内に飾ってあった篠田の写真を見て、眉を吊り上げ、苦渋を表情にした。それからなんとも不愉快に思って、それに答えた。
「パズルのピースが欠けている感じだな」
「そうだね。・・・報告はこんなところだ。俺は途中にしている暗殺犯の解析に戻るよ」
「そうだな。そうしてくれ」
大誠は報告を終えると、マウスを両手の10本の指先に、コンピュータ・コクピットのメイン・モニターに向かった。そして防犯カメラの映像に残った暗殺犯の顔頭部をグラフィック・アプリに読み込んで、一旦その造形を3Dに加工して構築した。
それから膨大な量にのぼったノイズに塗れたスチル画像から無事な部分だけ選び出し、それらの部分を3Dの顔頭モデルにモザイクのように根気よく丁寧に貼り合わせていった。小さな無事な欠片を拾い集め、それを何度も、何度もくり返して、やがては大まかだが、顔頭モデルがひとつの男の人相を作り出すようになった。
大誠は次に、表皮に付着している余計な部分を削り取って、表皮の質感を整えて、ふたたびそれを2Dに戻して画像の復元を完成させた。大誠はここまで人相を復元できたら、顔認証のシステムが反応するはずだ、と判断した。
大誠はそこまで暗殺犯の人相を復元すると、マイクの向こうのTKOに報告を入れた。
「TKO」
「どうした?」
「暗殺犯の人相を復元することが出来た。これをソンナムに問い合わせてみるよ」
「了解した。そいつが終わったら、グレイのシーマの追跡を頼む」
「OK」
TKOにそう伝え、大誠は早速、ソンナムのハンディコムに連絡を入れた。そして韓国警察情報局にあるデータベースに身元確認してもらえるよう、なんとか復元できた暗殺犯の顔写真を送信した。
続いて、聖マリア病院の周域に設置されている防犯カメラを拾い出し、それらに残った映像に、現場の路地から芝通りに走り出してきたEVシーマの情報を収集した。
車のナンバーは簡単に読み取れた。それからすぐに、EVシーマが盗難車であったことが判明した。事件が起きた当日の午後に、東京駅の駐車場から盗まれた物だ。加えて、防犯カメラを切り替えながら、その夜の車の行く先を江東区にある砂町の商店街までは確認することが出来た。ところが、そこから先が分からなくなった。
そして翌日には、ソンナムによるデータベースの照合によってロベルトの暗殺者が、北朝鮮を脱北した元・工作員のリーダー格と思われるテ・ソジンであることが判明した。男は北の軍隊にいた頃には、キム政権で有名な死刑執行人だった。ソンナムから送られてきた顔写真に見るテ・ソジンは、一重瞼で唇が薄く、顔が細くて骨っぽくて色白で、なんとも冷徹な顔付きをしていた。男は冷血な狂気。例えるなら、人の心を持ち合わせていない鉄面の青鬼のようだ。
TKOと大誠はこの男こそが第一のターゲットだと、その顔を強く脳内に焼き付けた。それから警視庁の細川警視と話し合いを持って、マスコミには完全に伏せることを条件に、即日、テ・ソジンは日本の全国の警察に指名手配された。
続いて4日目の夜には、荒川をさかのぼった西岸にある、砂町水辺公園に近い道路の脇に乗り捨てられているEVシーマが、巡回していた制服警官によって発見された。ところが篠田の行方は一向に分からないままだった。




