情報解析
捜査には情報収集が必要になる。しかし無闇に情報を集めれば良いわけではない。人々がしているようにSNSを見て、意図もなく意味のない情報に目を通すのは時間の無駄でしかない。いかに正確な情報を集め、それらをより多く集めて、必要・不必要を選別し、それらを系列立てて、深層に潜む真実を見極めるのがプロのやることだ。
TKOはソンナムとの話し合いを終えると、いつものように大誠に情報解析によるバックアップを要請して、バージョンアップしたエアロ・バイクに跨がって、雷門通りを滑らかに走り抜けていた。TKOは西浅草の町の一画を目指していた。
エアロ・バイクは雷門通りを右折して、その先の路地をゆっくりと進んでいって、しばらくしてから左折して、一軒の住宅の前に停車した。
TKOはその場所でエンジン・モーターを切って、バイクから降り立つと、三階建てのその家の周辺を注意深く見回した。それから正面の左手側にある玄関に向かった。その家は、最も新しい拉致被害者として認定された、27日前に姿を消した北川瑛子が両親と暮らしていた実家だ。
TKOは右耳の後ろにあるスイッチを入れて、超小型高解像度カメラを起動させ、ヘッドセットに大誠を呼んだ。
「大誠」
「ここにいる。カメラの映像は明瞭だ」
「西浅草にある被害者宅の前に到着した。これからその家に向かう」
「了解した」
それから在宅していた母親に、私立探偵のIDバッジを提示して、一通りの挨拶を終えた。TKOは許可を得て階段を上って、三階にある被害者の自室へと向かった。
「今から三階の南側にある被害者の部屋に入る」
「了解」
TKOはそう言ってそのドアを開け、室内に歩み入った。それから録画用のインデックスのために、被害者に関する情報を簡単に述べた。
「被害者は10月11日に失踪した北川瑛子、二十三歳だ。彼女はインターネット関連会社の企画部で働いていて、職場のある勝どき付近で拉致されたと伝えられている」
オフィスでは大誠がコンピュータ・コクピットに入って、TKOから送信されてくる室内の映像をメイン・モニターに確認していた。
資産家として有名だという北川家の一人娘である瑛子の部屋は、二十八平米ほどの広さで、セミダブル・ベッドに32型の4Kテレビ、デスクトップ・パソコンや備え付けのクロゼットなどが整理して配置され、ライト・イエローの小柄の壁紙が印象的な、ちょっと贅沢な女性的な部屋だった。TKOは洞察を鋭く、そんな室内に、事件の謎の解明につながる小さなヒントを求めて、その部屋の細かな部分を一箇所、一箇所と見回した。
本棚にナンバー順に並んだ服飾・旅行・食事に特化した雑誌類。キャビネットに飾られた時計やアクセサリー。ハンガーに吊るされてクロゼットに並べられている洋服。収納棚にはバッグや小物が整理して収められている。TKOはそれらを自身の目で確認し、彼女が普段から何に興味を持っていたのか、その嗜好を推察した。
彼女は大人っぽい嗜好なのか?室内にはぬいぐるみやアイドルの雑貨やキャラクター・グッズなどが一切なく、幼稚な印象を感じるところがまったくない。ところが、多くの日本人に見受けられるのと同じに人物像には特徴がなく、一貫したスタイルより流行やブームに影響を受けやすい性質のように思えた。TKOはそんな風にして日常の拠点から、そこに住む生活者の習慣や癖や性質を正確に読み取ろうとする。
TKOがヘッドセットに報告した。
「裕福な家庭の一人娘らしく、持ち物にはヨーロッパやアメリカの高価なブランド品が目立つ。被害者はいわゆる『イミテーション・セレブ』って奴だな」
「そうだね。好みはそれなりに洗練されているみたいだけど、これといった大きな特徴がない。コーディネイトはきっと雑誌にあるスタイリストの提案そのままだ」
大誠がそう応えて、モニターに被害者の自宅の室内の詳細の確認を続けた。
TKOがクロゼットの中に、ハンガーに掛けられている洋服を確認する。すると、その中にあるコーディロイのライダーズ・ジャケットの左襟のボタン・ホールのところに、オレンジ色の羽根飾りが見えた。大誠がそれを見付けて、室内にいるTKOに告げた。
「ちょっと待って。今あったオレンジの羽根飾り」
「何だ?」
TKOが手を戻し、ジャケットの襟元にあるオレンジの羽根飾りを見つめた。大誠がモニターにそれを見つめて、TKOに話した。
「ここにあるオレンジの羽根飾り。以前にこれと同じモノを、どこかで見たような気がする。・・・ちょっと待って。別の被害者の室内のデータと見比べてみる」
大誠が指先のマウスをクリックして、サイド・モニターに別の被害者の自宅の録画映像を呼び出した。それからそれらの室内の詳細を早送りに確認する。映像のファイルには、捜査に乗り出してこれまでに調査に赴いてきた四軒分の室内の状態が収められている。
一軒目は高輪にある、被害女性が両親と一緒に暮らしていたマンションの一室だ。被害者は両親によほど甘やかされていたのか?その部屋は母親の手によって整理整頓が行き届いていた。大誠は映像を早送りに、クロゼットの内部の映像を注意して確かめた。ところが、その部屋にはオレンジ色の羽根飾りは見付けられなかった。調査に立ち会うことを申し出た母親の口述によると、安物のアクセサリーなどを彼女の部屋に見付けたら、そんなモノは娘には似つかわしくないからと、すぐに廃棄してしまうとの話だった。
次の部屋はOLだった被害者が、意外と優雅に一人暮らしをしていたマンションの一室だ。ベランダから東京湾が見渡せる室内には、ラルフ・ローレンのトレンチコートが無造作に壁際のハンガーに掛けられていた。そして、そこにあるトレンチコートの胸元には、カラー・ビーズと銀の装飾に、毛足の整ったオレンジ色の羽根飾りが飾られていた。確かにそれは瑛子の部屋で見付けたモノと同じ、オレンジ色の羽根飾りだ。
その羽根の映像をモニターに静止させ、大誠がTKOに指示した。
「見付けたよ。ハンディコムにモニターを立ち上げてくれ。映像を転送する」
「OK」
TKOがハンディ・コムに投射モニターを立ち上げた。それと同時に、別の被害者宅で発見されていたオレンジ色の羽根飾りが、映像となってモニターに表示された。それを見て、TKOが大誠に伝える。
「届いた。確かに同じ羽根飾りのようだな。現物はピアスのようだが」
大誠がデータを確認して、その映像が何日に実施した立ち入り調査の、何という被害者の部屋だったかを報告する。
「これは平山真鈴が住んでいた、お台場のマンションの一室のものだ」
「覚えている。あの時は、ただの流行りのアクセサリーかと思っていたが。初めて共通点だな。この飾りは事件の捜査に役立つかもしれない」
「そうだね。そう思う。・・・ちょっと待っていてよ。とにかく確認してみるからさ」
大誠はそう答えて、右手のモニターのグーグル・サーチに『オレンジ色の羽根飾り』と表記して、ネットに検索を実行した。すると、人気モデルやタレントによるファッション系のブログや、一般の若い女性のSNSなどが簡単に何百件も検索されてきて、どれもが大量の『いいね』とコメントで溢れていた。おおよそは根拠に欠ける意見ばかりで、どれもがいい加減で、稚拙で一過性でしかない内容だ。大誠は文面を読み比べて呆れたように唇を尖らすと、その中で一番に信頼が置けると思える福祉系のサイトを読みながら、TKOに報告した。
「確かにそいつはピアスのようだ。バッグや帽子や洋服のワンポイントに使ってくれってさ。巷の若い女たちの間で、そいつを身に着けることが流行しているみたいだ。羽根飾りはシティで活動している『マドンナ支援募金』に二万円以上を募金した女性だけに与えられるノベルティーだってさ。一般には市販されていない、セレプ御用達の有名デザイナーによるアクセサリーらしい」
「なるほど」
「通しのナンバーが刻印されていてさ。付属のビーズが違ったりしているせいで、コレクターの間で過剰に人気が上がっている。ネットのオークションなんかじゃ、20万円近くの高値がついた逸品があるらしい」
「実体に見合わない虚構の価値観ってやつだな。市場経済の害悪そのものだ」
すると、オフィスのフロアを横切ってきた江梨子が、コンピュータ・コクピットの外郭をノックして、大誠を呼んだ。
「大誠さん」
「何?」
江梨子が大誠の正面側のモニターに目をやって、報告する。
「吉報よ。新たに一軒、被害者宅の捜査の許可を取ることが出来たわ」
「良いね。そいつはありがたいニュースだ」
そう言って報告を終えると、江梨子はモニターに表示されている羽根飾りを見つめた。それから、他のサイトやブログをチェックしている大誠に尋ねた。
「大誠さん」
「うん?まだ何かある?」
「ここにあるオレンジの羽根飾りがどうかしたの?」
「ああ。二軒の被害者の自宅で見付かってさ」
「そうなの。この羽根ってあれでしょ?・・・私はまったく関心がないけど、孤独感に苛まれた女性のための生活支援だって、精神衛生を前面に押し出して、女性のフリーセックスを広く支援しようってムーブメントのサインでしょ?そう言う募金が、シティを中心にずいぶん流行っているみたいだけど」
大誠はそれを聞いて、困惑を顔付きにした。
「何だって?セックスが精神衛生に良いって効能は分かっているけど、それをフリーにすることを喧伝して、女性を孤独感から救おうっていうのか?」
「まあ、そう言うことね。そう言うことになるわね」
「都会の女たちが男たちから煙たがられるようになったのは、あまりに打算的で、強欲になり過ぎたからだって聞いているが。いくら何でもやり過ぎじゃないか?」
「私もそうは思うけど」
「種を植えるだけの男とは肉体の構造が違うだろ。性病とかは気にしないのか?」
「だって日本は、婦人病と性病についての予防接種だけは行き届いているから」
大誠が君もその中の一人なのかと、そういう江梨子の顔付きを不審に思って見つめた。すると江梨子は驚いたような顔付きになって、慌てて首を振って否定して話した。
「私はそんな考え方じゃないわよ。微塵もないから。だってそうでしょ?こんな下賎な世の中にだって、ちゃんとした男性はいるもの。・・・だけど最近の男性は総体的にマザコンで、草食化しちゃっていて、積極性に欠けるでしょ?それでは一般的な女性には恋愛のチャンスがない」
そんな風に話しをする江梨子に、大誠がわざとらしく頷いた。
「確かに。ロリコンや変態なんかが大量にいるからな」
「とにかく、それが本来の意味とはまったく関係なく、発色が美しくて可愛いからって、世間の若い女性たちの間で大人気になっているみたい。マスコミやネットに扇動されるままに流されてしまう群衆行動は、この国では良く見る光景でしょ」
「確かに。日本人は物事の真相を深く理解して動こうとしない」
「海外の経験がまったく無くて、私がそんな群衆の一人だったら、ここのオフィスには雇ってもらえなかったはず」
それを聞いて、大誠が笑みを浮かべて、コンピュータに向かって話しかけた。
「聞いていたかい?TKO」
「ああ。全部聞いていた」
江梨子はハンディコムを通して、今の会話をTKOも聞いていたのかと、恥ずかしくなって顔色を真っ赤にした。
TKOがヘッドセットに耳を傾け、唇に笑みを浮かべながら話した。
「江梨子の言う通りだ。彼女を雇って正解だよ。ずいぶんと俺たちの力になってくれている。最近の男についての論評も、完璧に同意できるものだ」
「その通りだね。俺もそう思う」
そう言って大誠が、インターネットに『マドンナ支援募金』を検索しながら、江梨子のことを賞賛するように横目になって見つめた。
「意地悪、からかっているんでしょ。・・・」
江梨子は穴があったら入りたいと思って恐縮して、火照ってしまって一層全身を真っ赤にした。そんな江梨子がとても可愛いと思えた。大誠はそれを横目に、笑みを浮かべて、検索されてきた『マドンナ支援募金』のホームページをモニターに開いた。それはオシャレで、洗練されていて、女性受けを狙ったモダンな印象のホームページだ。
大誠がそれを読み進めて、報告を続ける。
「『マドンナ支援募金』のホームページを開いてみた。・・・ホームページに掲載されている主旨によると、『マドンナ支援募金』てのは、仕事をしているシングルマザーやシングルウーマンを対象に、独立した女性の生活支援を目的に実施されている。・・・電報堂に大和テレビ、パシフィック・TV、アースネット・ジャパン、トランス・デジタルやテレコム出版社なんかが協賛していて、メディアを使って、結構、大規模に広報をかけている。・・・ちょっと待って」
大誠が『マドンナ支援募金』の挨拶文が連なったフロントページを見て、不可解そうにその首を傾げた。そして報告を続ける。
「どうしてだか分からないけど、中国共産党の大物外交委員であるチェン・タイロンが、この募金に賛辞を送っている。・・・社会には女性の真の素晴らしさを分かっていない男性が多過ぎる。女性が女性と助け合い、すべての女性が一体となって、世代を超えて、しっかりとした意見を主張することが出来れば、それはきっと世界で女性の地位を向上させる、真に素晴らしい方法になるだろう、ってさ。・・・どう言うつもりかな?」
TKOが思案の顔付きになってそれを聞いていた。すると唐突に、コンピュータ・コクピットのサイド・モニターにチャイムが鳴って、警視庁から捜査各局への速報が届いた。
大誠がヘッドセットのTKOに告げた。
「ちょっと待って。たった今、警視庁から一報が入った」
「分かった」
TKOがそう言って、ハンディコムに答えた。
サイド・モニターでは警視庁の頭の薄い年配の報道官が、マイクを前に報告を始めた。
「警視庁より捜査各局に報告する。一連のものかと思われる新たな女性の失踪事件が発表されました。失踪者は明成大学二年生の秋川芽以、十九歳。通報は学校の関係者によるもので、彼女は昨夜、有明で行われていたテニス大会の打ち上げパーティーから帰宅する途中、突然、姿を消してしまったそうです。GPSの追跡によってハンディコムは有明の公園内の茂みの中から発見されていますが、彼女の行方はいまだ判明していません。彼女が失踪してすでに二十七時間が経っています。すべての警官は添付してある彼女の写真をしっかりと記憶して、これからの職務にあたってください。・・・再度、くり返します、」
大誠はそんな報告を聞いていて、苦虫を噛むような思いだった。江梨子も傍らで深刻な表情だ。大誠が苛立ちをこらえながら、モニターの向こうにいるTKOに尋ねる。
「聞いていたかい?」
「ああ。事件が拉致の再発であるなら最悪の事態だな」
「普通は事件が発覚したなら、いくらかほとぼりを冷ますものだが。なのに、奴らは早速事件を起こしやがった。いったい何が目的で、奴らは拉致を進めているのだろうか?」
大誠がそう言って、困惑を顔付きにした。大誠には、今回の犯人たちの行動に関して大き過ぎる疑念があった。ソンナムの働きによって、犯人たちが北朝鮮から脱北した元・工作員のグループであることが判明している。犯人たちはこの件を知らないにしても、その場に居合わせたTKOの反撃によって大きな損害を被って、事件が拉致の類いであることが日本の警察に知れ渡ってしまったのは分かっているはずだ。それなのに、奴らはどうしてこんなに早急に事件を再発させたのか?奴らはオレンジ色の羽根飾りを見て、女たちがフリーセックスの信望者であると決めつけて、それなら売春をさせて、消費に回しても構わないとでも考えているのか?・・・すべての列車が時刻表通りにやって来る便利過ぎるこの街に住み着いて、無闇に物事を消費し尽くしてきたシティの女たちなら、消費に打って付けだということか?・・・この街が日々、大量に廃棄してきた食料があれば、どれだけ祖国の人々が飢えずに救われて生きていられたか?しかも、この街の連中はそんな現実など気にもしていない。贅沢に慣れきった社会が産み出す無駄について考えてもいないのだ。・・・そんな現実を考えると、シティの人々が憎らしくて堪らないはずだ。この街は、限界に到達した資本主義の典型だ。屍になろうとしている資本主義の喘ぎ。のたうち回ってヒビ割れた社会の息遣いが、日常から感じ取ることが出来る。事あるごとに、ほんの一握りの勝者を潤して、幾万の敗者たちを片っ端から打ちのめしている。そんな事実と現実が理由となって、東京湾の沿岸で女たちが標的にされているのだろうか?・・・この街がそれだけ貪欲で、消費と廃棄に満ち満ちているからなのか?
TKOは考えの浅いこの国と現代の日本人が嫌いだ。それでも自身には、日本人としての自信とプライドが人一倍にある。そして自身のことを、外圧から日本人の魂を守る、盾となる力だと信じている。・・・それなのに事件は再発した。TKOは被害者のその部屋から足早に階下に降りてゆくと、リビングルームから顔を覗かせた母親に「失礼」と言って、そのまま憮然と表に出ていった。
それから路地を苛々して歩き回って、アスファルトを靴底で蹴りつけて、「畜生っ!」「何て事だ!」「何で、こんなに早くに!」などと声を荒げて、空に向かって怒りと憤りを言葉と言えない声にして張り上げた。
テクノポリスの丘にあるマイクロメカニック社内の生成工房では、梁瀬の手によって開発された『ナーヴァス・システム』が、梨々の身体を原型に形作られた人工骨の各部位に埋め込まれ、四肢や上体が一箇所ずつ丁寧に組み立てられていった。『ナーヴァス・システム』とは、HPC人工知能と電気神経システムを総称していて、頭骸骨内に収められている人工知能に司られ、視聴覚と全身の触覚から取り込まれる外部情報を自動的に分析して反応する。梁瀬はコンピュータの正面に居所を定め、接続されて次々と読み込まれ、データ化されて来る電気信号を、大型のメイン・モニターに注意深く観察した。
やがては神経ワイヤーとマイクロ・デバイスに埋め尽くされた全身の骨格が、脊椎に準じたスタンドへと姿勢を正してゆったりと立て掛けられた。それを医療着姿の四名の技術者たちが取り囲み、電圧ペンで直接ワイヤーに触れながらインプットとアウトプットを選り分けて、神経システムの通電と反応を確かめてゆく。それらが梁瀬の確認するメイン・モニターにデータ化されて表示されて来る。そうして万事、日本の匠の技である繊細な手作業によって、極めて精密な、世界で初めてとなるリアクション・ムーブ搭載のヒト型ロボットのプロトタイプが製造されてゆく。
その日の夕刻、森本は温泉地にある山荘から筑波まで帰ってくると、妻の美加と二人して、タクシーで市内にある自宅へと戻ってきた。
そして森本は妻と荷物を自宅に届けると、梁瀬が担当しているヒト型ロボットの製作の進行が気になって、妻に「休暇を採っている最中なのに、わざわざ会社に出掛けてゆくなんて信じられないわ。あなたって根っからの貧乏性ね」などとからかわれながらも、詫びを入れ、待たせておいたタクシーに乗り込んで、その足で会社に赴いた。そしてロビーで受付嬢と挨拶を交わし、そのまま二階にあるロッカールームに向かうと、医療着に着替えて、エレベーターを使用して、地階にある生成工房へと向かった。
森本はクリーンルームで両手をしっかりと洗って、ラテックスの手袋を両手に着けて、自動ドアを通り抜け、梁瀬の指揮の下、ヒト型ロボットの制作が進んでいる生成工房へと入ってきた。するとメイン・モニターの前にいた梁瀬がそんな森本をその部屋に見付け、満面の笑みとなって両腕を大きく広げながら彼のところに歩み寄ってきた。
「森本さん。帰ってきてくれたのか」
梁瀬がそう言って、森本の体を強く抱き締めた。
「さあ。こっちに来て。どうか見てやってくれ」
梁瀬は森本の背中に手をやって、制作が進んでいるヒト型ロボットのその正面へと導いていった。森本はそれを見て、全身を震わせて感動した。その時の森本のその顔と眼差しは、さながら大いなる夢を現実にした年幼い少年のようだった。
「素晴らしい。じつに素晴らしい。・・・本当に見事だよ」
「ああ。ここからはデバイスを埋めたシリコン・ゴムを筋肉の代替えに、表皮の裏面に神経デバイスのセンサーを張り巡らすだけだ。彼女の存在理由を生み出す形成の段階だ」
「ああ。・・・そうだな」
そこにある、工房の中央にある脊椎に準じてスタンドに立て掛けられたヒト型ロボットは、人体を形作って正確に骨格が組み立てられ、顔面の眼底には水晶体で包まれる前のナチュラル・フォーカスする二つの高感度カメラが埋め込まれ、両耳の内耳には鼓膜の役割を果たす集音マイクが、そして咽頭には声を発する人工声帯と発声スピーカーが備え付けられ、全身に網羅されたエネルギー血管と電気神経ワイヤーによって少女のものらしい人体の膨らみを持った『ヒューマノイド』と呼ぶに相応しい形状が表されていた。
早速、森本はiPadとタッチペンを手に、作業を進める技術者たちに混じって、彼らの邪魔にならないよう注意しながらヒト型ロボットの正面に立って、全身の人工筋肉の貼り付けをスムーズに実行するための行程を算出した。人工筋肉の貼り付けは所々が難しい作業だが、創造性に満ち溢れて、手順を想像するだけでその胸が躍った。そして口元に笑みを浮かべ、モニターを見つめている梁瀬へと告げた。
「そうだ。梨々ちゃんに、地元で有名なチョコレートのお菓子を買ってきたんだ。週末にシティに帰ったら、彼女にそれを渡してやってくれ」
「いいや。ここまで進んでいるんだ。今週末は帰れないだろ」
「そうじゃない。ここまで進んでいるんだ。今さら慌てたって仕方がない。休める時にはしっかりと休んで、仕事をする時に持てる力のすべてを注ぐんだ」
梁瀬は森本の忠告に、人生の先輩には敵わないなと、納得して頷いた。それからモニターにデータ化されて行く電気信号の循環を見つめて、下唇を指先で摘んだ。
電圧は想定以内を維持して負荷が生じず、電流がヒト型ロボットの全身の神経ネットをスムーズに駆け巡る。そのたびに人工知能が反応と分析をくり返している。『ナーヴァス・システム』にはまったくトラブルがない。生成のスケジュールが順調に消化され、完成するその日が一日一日と近付いている。ここまでの行程はほぼ完璧だ。まったく申し分のない状態だ。
梁瀬は完成に向かう一人娘を原型にしたロボットに対しては、一方ならぬ愛情を抱いていた。完成の暁には、なにより大切に扱って行きたいと考えている。
梁瀬が森本に告げた。
「森本さん」
「何だね?」
「今日は改めて、あなたにありがとうと言わせてください。本当にありがとう。ありがとうございます」
妙に畏まった梁瀬の言葉に、森本が怪訝に思ってその顔を上げた。
「何のために?・・・おい。何のことだね?」
森本には、梁瀬が何を伝えたいのか上手く理解できなかった。すると、梁瀬が感慨深げに、こう伝えた。
「いいや。今回の『ヒューマノイド』の開発に関しては、はなから儲けを狙わなくて構わないって。・・・そんな意見を納得して、承諾してくれて」
「何を言っているんだ。『ヒューマノイド』がビジネスにならなくたって構わないじゃないか。彼女は私たちの思想のアイコンだ。彼女が私たちの存在を世界に知らしめてくれる。どっちにしたって、彼女に内蔵されている多くの技術が広く世界に汎用化されれば、放っておいたってビジネスになるさ。パテント(特許)の数は相当のものだ。儲けはそれからだって構わないじゃないか」
森本がそう言って、梁瀬に明るく微笑んでみせた。
第一に、大阪万博の時代から始まった『お客様は神様です』といった、日本のビジネスにおける非常に独特で盲目的な低脳な思想には大きな間違いがある。ビジネスは信用があって初めて成り立つものだ。売り手と買い手は対等で、双方にはなにより信頼が大切だ。なにも態度の悪い下劣な人間とビジネスする必要はないし、そんな人間を『神様』と思うことなど極めて滑稽で愚かしい。それでも、お客を神に例えたいなら、理解力のある、品性の良い客だけに特化するべきだ。
梁瀬と森本は『ヒューマノイド』のマーケットに関しては、俗っぽさを善しとしない、教養とリテラシー(読解力)の高い少数に限定して、所有者のクオリティを維持することが『ヒューマノイド』の存在を価値ある芸術と位置付けて、ヒト型ロボットの開発とその意義に相応しい美徳だと考えている。そうしてマイクロメカニック社におけるヒト型ロボットの製造を抑制し、『ヒューマノイド』そのものの存在価値を希少にして、現実的で貴重な財産とすることを決定している。そして、その過程で培われた素材と技術を幅広く世界の産業に転用して、汎用化して、大きく利益に還元することを計画にしている。
また、梁瀬と森本は『ヒューマノイド』の存在とイメージを、マンガやアニメやゲームなどの、なんとも幼稚なポップカルチャーと混同されないよう注意深く一線を隔てておきたいと考えている。そうすれば『ヒューマノイド』は子供たちの夢を未来に誘う役割を果たし、それを見て子供たちは、夢や理想が努力を日々重ねて現実にするものだと理解するだろう。マンガやアニメやゲームが、子供たちが時間を費やす楽しいツールであることは理解している。中にはほんのわずかだが、大人が接するに値する優秀な作品もある。それでもそれらの多くは妄想の度が過ぎて、ひどく子供じみていて稚拙なものばかりだ。取り分けマンガを実写化した映画などを見た際には、現実感がまったくなく、必ずある種のバカバカしさを感じて、それが実写に向いていないことが良く分かる。現実はもっと困難で生々しいものだ。今の人々はそれらに時間を費やしすぎだ。それより文字を読むべきだ。文字を読むことで脳を活性化することが出来る。
梁瀬と森本は、それらを大人になったら出来るだけ卒業するべきものと考えていた。大の大人がそれらを日本の文化や芸術などと認めるのは嘆かわしいと感じていた。『ヒューマノイド』は二人の研究の結晶であって、あくまでも知性に裏打ちされた確かな大人の現実であって、完成しても自由に市に出回ることはない。
科学技術省の最上階にある大臣室のドアがノックされた。それから一礼して、公設秘書の富永英二が大臣室に入ってきた。室内では遊佐義人科学技術大臣が、パターを手に、毛足の長いカーペットにゴルフ・ボールを転がしていた。
富永が、緊張感のかけらもない遊佐に一礼して伝えた。
「大臣。吉報です。先ほど『月邸』から連絡が入りました。今夜のチェン外交部長との会食に備え、新鮮な食材を入手したとの話です」
チェン外交部長とは、3日前に唐突に来日した、親日派で知られる中国共産党外交部長のチェン・タイロンのことだ。『月邸』というのは、青山にある和食をフレンチ・スタイルで食させる、現代の料亭に相応しい高級レストランのだ。遊佐はそれを聞いてホッと胸を撫で下ろし、大きく頷いて応えた。
「おお、そうか。そいつは良かった。なにしろ先方は急な来日だ。大使館にチェン・タイロンあてに内々に連絡を入れておいてくれ。私に身近な財界人を集めて、予定通りに会食が出来るとな」
「承知しました」
そう言って富永は一礼すると、数歩下がって、ハンディコムにテレビ電話の回線を開いた。
遊佐は窓辺に歩き出していって、そこから見える霞ヶ関のビル群を見渡して、富永の電話が終わるのを待った。
一日に何度眺めても、省社の最上階から見渡す風景は格別に気分が良い。実のところは大した仕事などやっていないのだが、ここから社会を見渡していると、日本という国を手に入れたような気分になる。とにかくそんな錯覚におちいる。そして遊佐は外界を見渡して、チェン外交部長と初めて会ったその日の出来事を思い返していた。
あれは昨年の夏前の午後だった。遊佐は科学技術省の大臣になって半年目に、初めて中国に渡り、国家間の科学技術の外交交渉にあたった。その時の相手のトップがチェン・タイロンだった。チェン・タイロンは、押しは強いが調整するための根回しが上手い遊佐のことが気に入ったのか、会議を終えた握手の際に、記者団の耳には届かないようその顔を近付けて話した。
「誰が生き、誰が死ぬのか、誰を外敵と見なし、誰を家族にするのかは、すべて我々が決める」
その時のチェンの表情は、唇がゆるく微笑んでいたが、その目の奥には鋭く獰猛な輝きを忍ばせていた。遊佐はそれを聞いて、金玉を強く握られたような気分だった。するとチェンがからかうように頷いて、こう続けた。
「心配するな。君は私の友人だ」
どうやら、その言葉はチェンのお得意の脅迫的な冗談だったらしい。それでもその一言で、遊佐はチェンに首根っこを掴まれたのも同然だった。
そしてその夜に、チェンに招待されて夕食に同席した。そして、その店で紹介された有名シェフの手料理には心底驚かされた。
生まれたてのネズミの踊り食い、子持ちヒツジの丸焼き(まもなく出産という妊娠中のヒツジを丸焼きにして、お腹の赤ちゃんヒツジに火が通ったところで取り出して子ヒツジだけを食べる)、サルの脳ミソ、最後にはもっと恐ろしい特別な料理が待ち受けていた。
中国人が下手物食いであることは分かっていたが、料理自体は美味かった。それは一種独特で、神か悪魔になってまるで世界を手の中に治めたかのような格別な味わいを持っていた。始めはチェン・タイロンの強欲さと道徳心の無さに吐き気を覚えたが、それでも、権力への執着が強い遊佐には、人間を超越したような高揚感が味わえ、どうにもその味が忘れられなくなった。行為は明らかに非合法だが、それ自体は麻薬ではない。とにかく、それにはすべての麻薬を凌駕する効力が備えられていた。それを食べれば、人間は神にも悪魔にもなれる。
そしてチェン・タイロンは、タイロン特製の一連のメニューを綺麗にたいらげた遊佐を気に入って、遊佐に彼流の外交哲学を授けた。
「美食は国家の影響力を表わし、経済力、文化力、そして芸術性の高さを象徴する。外国の交渉相手をおいしい食事に招いただけで、交渉は常にスムーズに運べるものだ。第一にオフィスよりずっと容易に世間話を始められ、落ち着いた状況で、そして対立しない雰囲気の中で相手と話すことが出来る。頑強な相手を懐柔し、争いを避ける手立てにもなる。とにもかくにも中国料理は美味なので、交渉相手は歓んで中国側へとやって来てくれる。外交交渉で重要なのは、スポーツ同様に『ホームでプレイする』ことだ。・・・美食外交が外交関係を一瞬にして変えることはないが、それでも美食は強力なソフトパワーであって、着実に影響力をもたらす。豪華にして印象的な晩餐。こうした催しを極めて意図的にできるのが中国だ」と。
1991年に起きたバブル経済の破綻から始まった日本の『失われた10年』は、リーマン・ショックのその余波とそれに対する政治家たちの無策によって『失われた20年』となり、人々は思考の転換が出来ず、やがては『失われた30年』を迎えようとしている。政治家の失策によって日本経済が失速し、長く停滞して、省庁の無駄遣いには抑制が利かず、巨額に税金が損なわれてきた。それなのに政治家たちは、そのツケを増税によって国民に支払わせてばかりいる。第一に、国民が大人しすぎるのが問題だ。声を上げて問題を提起しようともしない。とはいえ、金のなる樹がある訳ではないのだから、この国の政治家はまず、政治には金が掛かるという考え方を根本から断たなければならない。
実際にスウェーデンやデンマークでは、公共の役目として政治には出来るだけ費用を掛けないようにしている。人マネの上手い日本人なら、それ位は出来るはずだ。
その上、政治家たちは給与や手当を削減し、定数を大幅に是正すると言いながら、ほとんど実行されていない。自身の襟を正すことが出来なければ、役人の給与を下げることも出来ないし、彼らの首を斬ることも出来ていない。また、国民が積み立ててきた『国民年金』が浪費されたのは、高齢化や少子化が一義的な理由ではなく、政治家と役人がそれを止めどもなく浪費し続けてきたところに原因がある。浪費したのは国民でなく、すべての責任は、それを見過ごしてきた政治家たちとそれを実行した霞ヶ関の役人たちにある。それなのに政治家や役人たちは自分たちの年金を取り崩し、国民の損害を補って、破綻させた年金に当てようともしない。もとより罪を償った人間など何処にもいないのだ。
国民に損害を与えても、自分たちの利益には手を出さず、何の損傷もなく保全している。これでは責任の所在がどこにあるのかが分からない。これらはいったいどう言うことなのか?マスコミはどうして正しい方向に国民を煽動しないのか?せめて責任とは何なのかを理解している人間たちが、政治家や役人になるべきではないだろうか?
そんな事もはっきりと出来ないこの国は、法の整備も整わないまま、労働力の補填のために海外からの移民たちの流入が相次いで、日本政府は極東アジアにおける米軍の戦略的再編と、中国による企業や土地の買収にうろたえてばかりいる。悲しいかな、それがこの国の現状だ。ところが、いくら国政が破綻に近い状態にあっても、民間企業は生きるために日本経済の復興を求め、つまずきながらも前進を続けてきた。
それから15分ほどがすると、科学技術省きっての仕事人と言われている中里晃事務次官が、大きな歩幅でフロアを歩き抜けてきた。そしてフロアの中央南側にある大臣室のドアをノックすると「入ります」といってドアを開け、室内に歩み入った。
遊佐が意気揚々としている中里を見て、不可解そうに尋ねた。
「どうしたのかね?中里君」
中里は丁寧に一礼すると、頭の切れの良さをその眼差しに浮かべ、明瞭に告げた。
「たった今、テクノポリスにあるマイクロメカニック社という電子機械系の会社の内部情報を手に入れました。それによるとマイクロメカニック社は『ヒューマノイド』と呼ばれる、本格的なヒト型ロボットの生成を進めている様子です」
「ヒューマノイド?」
それは科学技術省の大臣でありながら、権力にしか興味のない遊佐が初めて耳にした言葉だ。現実的な中里はそれを無視して、小さく頷いて答えた。
「はい。計画通りであれば、そのロボットは人間の皮膚に良く似た素材で作られていて、話し掛けたり、体の一部に触れたりすることで相手の望みを理解して、反応して行動することが出来るようです。これは画期的な開発になります」
「そうか。それは本当なのか?」
「はい。ロボットの身体は、世界に先立った素晴らしいアイデアで一杯らしいです」
「そうなのか。それは良い。そいつが上手く行けば、その会社をテクノポリス構想の成功の象徴に仕立てることが出来るな。これで構想が無駄遣いだったと言われることはない」
嬉しそうな遊佐を見て、ハンディコムのメールに食事会の出欠を確認していた富永が、同調して伝えた。
「思わぬ成果ですね」
敬虔なクリスチャンである遊佐は、胸に小さく十字を切りながら言った。
「そいつがこれからの日本を背負って立ってくれることを神に祈りたいものだ。技術が技術なら、世界の方向性を一変させる大きな貢献を果たすかも知れない」
遊佐の口から出た『祈り』という言葉を聞いて、中里は思った。政治家とは、事を現実に動かしてこそ政治家といえる。それが世界にいる政治家たちの標準だ。それなのに、神様に縋るとは何事か?この世には、見返りを求めずに助けの手を差し出す第三者など何処にもいない。この国の専門的知識の薄い政治家たちは、誰も現実に物事を動かそうとしない。いいや。その人に能力や方策が無いから出来ないだけである。だから、この国では官僚たちが利益を確保して、勝手し放題にのさばっている。とにかくこの国の中枢は、誰一人として国家や国民の方にその顔を向けていない。
中里が同意するように頷いて、そんな遊佐をおだててみせた。それから、やり方次第では、もっと旨い利益が自分たちにもたらされるはずだと、アイデアをレクチャーした。
「公表の仕方と、その後の展開を上手く操れば、大臣。大臣は時の政治家として、日本の歴史にその名を残すことになります」
遊佐はとにかく、今まで耳にしたことがなかったマイクロメカニック社という会社が作る『ヒューマノイド』なるロボットに、日本企業の起死回生の一歩となる期待感を胸にした。新世代ロボットの斬新な技術には、託すべき望みが山のようにあった。それでも左手首のハンディコムに、午後7時28分になる現在時刻を確認すると、クロゼットからツイードのコートと、カシミヤのマフラーを取り出してきて、富永に頷いた。
すると、富永が急ぎ足で秘書室へと歩き出していった。遊佐はそれを見送って、オフホワイトのステンカラーのコートをゆったりと身に着けた。
名誉欲の権化というべき遊佐にとっては極めて興味深い話の途中だったはずだが。そんな遊佐を見て、中里が不審げに尋ねた。
「どちらかに、お出掛けになるんですか?」
「ああ。残念だが、今日のところはこの話は終わりだ。明日にでも、ゆっくりと計画を立てよう」
「それで、どちらへ?」
「これから青山の『月邸』で、チェン・タイロンとの小さな会合を主催しているんだ。どうだね?君も来るかね?一名分なら特別に用意させるぞ」
「よろしいんですか?」
「もちろんだ。その代わりに、ちょっとした覚悟が必要だがな。一緒に来るなら、手早く支度を済ませてくれ」
そう言い終わる前に、富永がトレンチコートを身に着けて秘書室から戻ってきた。そして中里を誘う遊佐を見て、意味深に頷いた。
TKOは夜の臨海にエアロ・バイクを走らせて、新たな事件の被害者となった秋川芽以が試合をしていた有明のテニス場から、打ち上げをしたレストラン・バーへと注意深くその経路を辿っていた。
カーナビを航空写真にして周辺の立地を俯瞰で見てみると、湾岸地域はどこもそうだが、比較的大きな建物が疎らに距離を持って建てられていて、それでいて歩行の際の視野については意外に遮蔽物が多く、思っていた以上に見通しが利かない所が多いことが改めて分かった。
それから彼女のハンディコムが発見された海浜公園にやって来た。すると警察からの勧告もあってなのか?周辺にはまったく人影が無かった。
TKOは海に向かってバイクを横付けに、夜霧に煙った漆黒の海上を見つめた。そしてバイクから降り立つと、海岸沿いへと近付いていって、海に向かって言葉もなく、注意を巡らせて立ち止まった。
TKOには、あの時に見た黒っぽい高速艇が、人々の心の隙を狙って、目の前に広がる暗黒の海のどこかに今も潜伏しているように思えた。そんな風に考えれば、安全神話と平和ボケの呪縛から解かれることのない日本人のその心は、見事なまでに隙ばかりだ。
日本の国民はアメリカの計略による、あるいは、それによって育てられてきた、金儲け一辺倒で、国家の将来について危惧することのない、この国の大人たちによって『未来の衝撃』に洗脳され続けてきた。
『未来の衝撃』とは、人間が吸収し切れないほどに止まることを知らない、立て続けに押し寄せる情報によるショックをいうのだが、人間の精神が処理できる変化の量や性質には明らかに限界がある。テレビや雑誌は人間性を劣化させ、人々をコントロールし易くするために、好んで軽薄で価値観の薄い情報を日々大量に垂れ流してきた。その上、インターネットには無知で無秩序の情報が溢れ返っている。このようなショックが続いた後では、ターゲットとなった大グループは、いわゆる民衆はそれ以上の選択が出来なくなって、代わって無関心が蔓延るようになる。
こうして日本人は知性と感性を欠落させて、メディアを見る目そのものを失って、情報を識別することもなく、鵜呑みにして、新聞やテレビの報道やインターネットの投稿を総じて正しいものだと信じ込むようになった。
TKOは現代の日本人についてそんな風に考察した。すると、左手首のハンディコムに着信音が鳴った。TKOは誰かと思って、モニターに発信元が篠田であることを確認した。投射モニターを立ち上げて、通話パネルにタッチした。
「どうした、こんな時間に?」
「こんな時間って、まだ9時を過ぎたところですよ」
「確かに」
「私は今、銀座8丁目の三井ガーデン・ホテルにいるの」
篠田の話した言葉の意味が、TKOには今ひとつ理解できなかった。すると、モニターの篠田が小さく震えて息を飲み込んで、こんな風に続けた。
「この間、あなたが話してくれたこと。・・・言葉の通りに受け止めたって構わないんでしょ?だって自信が有りそうだったもの。・・・」
TKOはそれを聞いて、頭を傾げた。すると篠田が勇気を出して決意して言った。
「セックスの相手が必要になったら、いつでも連絡して来いって。あなた、そう言ったでしょ?覚えています?」
「そう言うことか。それなら、これから逢いに行くよ。待たせちゃ悪いからな。それで、部屋の番号は?」
「704です」
「分かった。今の時間なら20分くらいで到着出来るはずだ。それじゃあ、後でな」
TKOはそう言って、ハンディコムの通話を切った。それからアクセルを絞り込んでエアロ・バイクをUターンさせると、ビル群の照明に彩られて見えている対岸を目指して、晴海通りに向かって、人気の少ない海岸通りに速やかに走り出していった。
それから、晴海通りに左折して出てくると、TKOは風の抵抗を抑えるべく上体を低くして、アクセルを絞り上げ、エアロ・バイクを一気に急加速させた。
その時のTKOは、篠田からの誘いを受けて、冷酷でいて殺伐とした現実をすべて忘れ去って、とにかく今だけは彼女のところに逃げ出したい気分だった。とにかく真っすぐに通りを走り抜けてゆくTKOのエアロ・バイクは、弓から放たれた矢のようにまっしぐらだった。




