人コウモリ
TKOはエアロ・バイクを道路の低空に滑るように走らせて、聖マリア病院のある汐留を目指していた。広く、奥行きを感じさせる近代的な風景はゆるやかに夕闇に包まれて、湾岸地帯に聳え立った数々の高層ビルが人工的な照明のパノラマを作り出している。広告代理店が一押しのデジタル・サイネージの広告看板は光に集まる生体の特性を心得て、人の心をそそのかし、目先に転がった欲望に駆り立てる。通りでは途切れることなく光の河のようにEVカーが行き交って、人々はたいした不安もなくお喋りを続け、手っ取り早く買い物をして、ただただ薄っぺらい情報を消費しながら平安に過ごしている。この国には厳しい未来しか待ち受けていないのに、目の前には生温いものばかりが並んでいる。
昨夜の事件は警視庁が報道管制を布いたお陰で、今も世間に伝わってはいない。それでも、そんな都会の平穏はいつまで続くか分からない。いずれは必ず情報はリークされ、インターネットのゲリラ・スクープによって世の中に広がってゆくはずだ。その後にメディアがあらかじめ用意しておいた整理したコメントを発表する。先進国の中で、放送業界や出版業界に新規参入や倒産がないのはこの国だけである。新聞社がテレビ局やラジオ局や出版社を持っているのも、この国の特徴だ。そして親会社である新聞社の経営者の偏見がテレビのニュース番組に影響を及ぼす。それはなぜなのか?これはいたって現実的なギブ・アンド・テイクなのだ。政府や官庁や警視庁、そしてメディアの間には、俗にいう『あ・うん』の関係が築かれている。政府や警視庁はそんな関係をことのほか気に入っている。こうしたマニピュレート(情報操作)こそが、警視庁の第一課で指揮をとる細川警視の得意とする力技で、世論を巧みに沈静化させる独特の芸当だ。
日本の社会や民衆は『予定調和』を何よりも好む。どこか白けていて真剣さに欠けて、デモをするだけの野性味や闘争本能も無い。日本人は元来、シマウマやヌーといった草食動物に似た特性を持つのか?それが嘘であれ、稚拙であれ、とにかく長い物に巻かれて生きることを望むのだ。民衆は多数派という群れの中に溶け込んでいることが、とにかく気楽で、居心地良く感じるらしい。メディアはそうして現実を、あるいは真実を曖昧に伝え、民衆がまともな知識を持たないように知性と感性を麻痺させるのだ。しかし、それでは世の中には本物が産み出されず、本質がうやむやになって、社会を活性する刺激や驚きが生まれてはこない。いつまで経ってもスティーブ・ジョブズやイーロン・マスクは生まれない。それでも政府や省庁は、それこそが最善の戦略だと考えている。社会に変化が起きなければ、大衆に疑念が生じることはない。現代のガラパゴスと称されて、どれだけ世界の情勢から取り残されてしまおうと、彼らは後生大事に懐に抱えている甘い蜜を、可愛いベイビーを、金の成る樹を、いわゆる昭和の既得権益ってやつを、とにかく安泰に守り続けている。
この国に造詣の深い欧米人たちは『日本は世界で唯一成功した社会主義国』だと、からかう。欧米では努力を続けて、才能を磨いて、チャレンジすればチャンスは生まれると教育されてきた。社会は現実にそうなっている。彼らは、そんな自由でオープンな社会の基盤作りが遅々として進まない、企業の内部まで深く浸透している官制談合のシステムを茶化している。『官制談合』はより良い方策や、手に余る者たちを封殺する『究極の予定調和』だ。そして彼らは、将来この国は存在価値すら見失うだろうと語る。
すべては、この国の中枢にいる者たちの厚顔無恥さが原因だ。そして、認識が甘過ぎる国民のすべてに責任がある。この国には、もはや大義が無い。
それなら俺たちが先のことを考えても、どうしようもない。将来を恐れてどうなるものか?今は目の前にある現実に集中するのだ。逃げることなく正面に向き合って、そこにある問題を解決しなければならない。・・・
TKOは夕暮れの街中にエアロ・バイクを走らせながら街角を行き交う人々を横目に見て、そんな事柄を考えた。そして、やがては正面に高層ビル群が建ち並んで見えてきた汐留副都心に向かって真っすぐに進んだ。
TKOは聖マリア病院の正面側にある駐車スペースにバイクを駐車して、メイン・エントランスに向かった。
そして、ロビー・フロアにある3Dのインフォメーション・ボードに外科病棟のフロアを確かめて、その足でエレベーターに乗った。
すると一台の黒っぽい車が、病院の正面側の通りにゆるやかに停車した。車のフロントシートには黒っぽい二人の男たちの人影が見える。男たちはTKOを尾行してきたのか?助手席の男がハンディコムに電話連絡を入れている。運転席の男は狡猾な眼差しを称え、まるで防壁の薄い要塞のように建った近代的な病院の建物を用心深く見つめた。
TKOはナースに会釈して、ナース・ステーションの正面に位置するICU(集中治療室)にやって来た。するとその部屋では事情聴取を終えて、仕事を早引きした篠田が滝川に付き添っていた。篠田はTKOを見て、泣き出しそうになるのを唇を噛んでこらえた。そしてTKOに、丁寧にお辞儀した。
「どうも。・・・お見舞い、ありがとうございます。・・・」
TKOは危篤状態が続いている滝川の容態をベッド上に見つめて、表情を深刻にした。それから篠田へと応える。
「やって来ていたのか。・・・滝川はどんな様子だ?」
篠田が小さく頷いてから答えた。
「ずっと、こうして眠っているままで。・・・医師たちは治療を済ませて、絶対安静の状態が続いていると話していました。あとは患者の体力の回復を待つほかにないと」
「そうか。・・・そうなのか」
TKOは頷いて、自分が病室にやって来たことを伝えるように滝川の手を握った。力の無い友達の手を。そして壁際に常備するストレッチャーのその上に腰掛ける篠田の隣に腰を下ろした。それからしばらく黙り込み、篠田と二人で昏睡した滝川の横顔を見つめた。
篠田は、TKOが傍らにいることに安心したのか、上体を小さくして両腕で膝を抱き寄せ、滝川を見つめているTKOに話した。
「昨日は本当にありがとうございました」
「うん?」
「滝川さんは強い人だけど、とにかく多勢に無勢だった。・・・あの時、あなたがいなかったら、私はあのままどこかに連れ去られていました。・・・私は懸命に振り解いた。それでもあの時の男たちに掴まれた感触を思い出すと、今もこの体が震えてしまって」
「そうなのか?・・・そいつは怖かったろうな」
TKOは篠田の心細さを思いやって、かすかに震えている細い肩にその腕を回した。そして彼女の体をしっかりと抱き寄せた。すると篠田は緊張がほぐれ、急に感情が込み上げてきて薄っすらと涙目になった。それから困り果てたように呟いた。
「・・・昨夜はうまく眠れなくて。・・・音もなく、あの時の男たちが襲ってくるような、そんな気がして、・・・そんな気がしていて、・・・」
そう言って篠田は眠たくなって、TKOのその肩に側頭を預けた。TKOが彼女の現状を理解して頷いてみせた。
「良いぞ。・・・このまま少し眠ると良い」
篠田がもたれて目を閉じた。そして安らいだ笑みを浮かべて、ぼんやりと話した。
「・・・あなたには少し取っ付きにくいところがある。だけど、私には分かる部分がある。あなたは命を懸け、自分が強く信じている正義を守ろうとしている。・・・日本人はあまり物事を考えなくなった。そんな多くの日本人が失ったものを。・・・あなたにそれがあったから、私はあの時、助けてもらえたの。・・・」
TKOは鼻で笑って、黙ってうわ言を聞いていた。篠田は『シティ』に君臨しているTKOの存在に関心を持っているのか?彼の経歴や人柄を事細かく調べ上げたようだ。一方、TKOはそんな評価を気恥ずかしく思った。それでも篠田がウトウトと続ける。
「・・・あなたはいつも効果的に、臨機応変に動く。・・・それが出来るのは、ずっと訓練を重ねているから。普通の人たちじゃ出来っこない。・・・そんな特別な人」
意識が少し朦朧としてきた。それでも篠田は半分眠りながら呟いた。
「ありがとう。・・・本当にありがとう。・・・」
そう言って篠田は彼のぬくもりを傍らに、いくらかの間を、不安感に邪魔されない安息の眠りに落ち着くことが出来た。
それからしばらく経っていた。ICUは仄暗く、心電計の電子音だけが小さく鳴っていて穏やかな静けさに包まれていた。篠田は幼子のようにTKOの体に上体を預け、そんな篠田の寝息に誘われて、TKOもいつからか少しだけうたた寝してしまっていた。
元来、重症患者に割り当てられるICUは、看護の目に守られて、傷付いた患者の心身を癒し、回復を促す場所だ。篠田とTKOは滝川の見舞いに来て、そんなささやかな安息を、ほんのひと時、そうして穏やかに味わっていた。それでもいくらかがすると、TKOは瞼がヒクヒク動き出し、夢を見たのか?突然、忌まわしそうにその顔を歪めた。
天空に満月を見上げる深夜の森の深くには、そこを住処とする生き物たちの微かな気配に満たされていた。森の暗闇のあちこちでは、夜行性の生き物たちが音を静かに補食している。食べ物を求める者たちがいれば、片方では彼らの犠牲になる者たちがいる。これが世界の現実だ。ただし自然界には、人類のように自身の贅沢のために餌場を荒らす者たちはいない。
さらに森の深くに分け入ってゆくと、近くに水脈があるのか?浅い小川が流れていた。そしてその先にある、月の光の届かない洞穴の中には、寒々とした深い暗闇があった。
光沢に富んだ天井岩からは水の雫が滴り落ちている。洞穴は両生類の宝庫らしく、イモリや蛙、水底にはサンショウウオが這っているのが分かる。岩清水に洗われた砂粒が美しく、その場所は霊魂が漂い揺れる聖域かのようだ。
よく見ると、暗闇の奥にある岩壁の中頃には、何か大きな物体がクモの糸のような白い繊維に絡まって貼り付いている。
その物体の形状は、いつもどこかで見ているものと良く似ている。街に行き交い群れている生き物と同じだ。それはあなたが鏡の中に向き合う姿と同じようだ。・・・どうやら岩肌に抱かれるように捕えられているのは、大きく背を仰け反った人類の肉体だ。全身を覆った繊維は、何かの分泌液が乾燥してファイバー状になったものらしい。
体に付いた粘液に表皮がゴワゴワと毛羽立って見え、その表情は悲しみに心が捻り潰されたのか?頬が痩せ、両目が落ち込んで、肺に空気を一杯に吸い込む時のように大きくその口を開いている。喉の奥からは、今にも絶望の嘆きが聞こえそうだ。
なんとも奇怪だが、岩肌に支えられた肉体は、表皮が昆虫のサナギのように固まって核質化している。それでも微かに鼓動が脈打ち、腹や喉元が微妙に引きつって動くのが分かる。その人には今もわずかに生命が宿っているようだ。
しばらく経つと、それは苦しそうに上体を揺り動かし、固定されていた全身をギシギシと軋ませて、ゆっくりと前屈みにその体を折り曲げた。
突っ張った背中の厚皮が少しずつ、縦に一筋に裂けるように破れ、さながら蝶かセミの脱皮のように中から羽化した白っぽい生命体が全身をブルブルと震わせて、ゆっくりと上体を立ち上がらせてきた。
白くて表皮が柔らかく、シワシワになった、全身がブヨブヨと浮腫んだそんな生き物には、両手で物を掴み、二足で歩行するための四肢がある。ほんの一瞬、TKOにはそれが束縛に喘いだ若い自分の姿のように思えた。すでに死去して何年にもなる、日本型の組織に従順だった父親のその殻を破って、横並びの世間に左右されず、誰にも邪魔されず、その足で自由な世界に踏み出そうとしていた若い頃の自分のようだった。
それは一見、ヒトの姿と変わらなかった。それでも少しずつ表皮が乾燥し、体の構造が分かるようになると、全身が艶を失って黒ずんで、肩甲骨の辺りからは天使と見間違う、いいや、それとも悪魔のものか?いきなり両の翼を大きく開いて、わずかに羽ばたいてみせた。震えるように呼吸するその顔はひどく醜悪で、頬骨が高く、窪んだ小さな目がギラギラと輝いている。顔の横には大きくて尖った両耳があって、口の中には三角の小さな歯が並んでいて、豚のように上を向いたその鼻をヒクヒクとさせている。何かに例えるなら、そこに目覚めた存在は『人コウモリ』といったところだ。
巡回のためにやって来た若いナースが、入り口の壁を小さくノックした。TKOはその音にビクッと首を動かして、そんな奇怪な夢を見ていて青ざめて目覚めた。夢や希望を見ることが出来なくなった現代社会で、TKOはDNAに持った生存本能と闘争本能といった潜在的な能力の強さから、今も眠るとこうして夢を見ることが出来た。
「お邪魔しますね」
そう言って、ナースがICUに入ってきた。それに気付いて、篠田もぼんやりと目を覚まし、慌ててよだれを垂らしていないかと口元を拭った。
TKOが小さく微笑んで、そんな篠田に話した。
「どうだ、少しは眠れたか?」
「ええ。どうもありがとうございます。お陰で楽になりました」
ナースが笑みを作って、そんなTKOと篠田に言った。
「患者さんの経過を確認します」
「よろしくお願いします」
篠田が少し恥ずかしそうに答えると、TKOが篠田に促すように小さく頷いた。
「俺はそろそろ帰ろうと思う。お前はもう少しいるんだろ?」
「はい。今週いっぱい休暇をいただいたので、消灯の時間まではいようかと」
「それなら彼女がここにいる間に、コーヒーでも買いに出ないか?軽く何かを腹に入れるのも良い。おごってやるからさ」
TKOのそんな言葉に、篠田が屈託なく笑って調子良く頷いた。見掛けも雰囲気もそれなりに女っぽい篠田だが、こんな風に陽気であっけらかんとしたところが実にチャーミングだった。
TKOは物言わぬ滝川の手を握って今夜のところの別れを告げ、近い日の再会を約束すると、ショルダーバッグを肩へと掛けた篠田を促した。それから滝川のバイタルをチェックし始めたナースへと話した。
「それじゃあ、彼のことをよろしくお願いします」
「分かりました。完全看護で最大限の努力をします」
そうして挨拶を交わし、TKOと篠田はナースに滝川の看護を任せて、二人して廊下へと出ていった。
TKOはヘッドギアを頭に着け、病院内の一階にあるスターバックスへとやって来た。そしてカウンターで二人分のカフェ・マキアートを買い求め、ひとつを篠田に手渡した。すると篠田が、彼に改めて感謝して微笑んだ。
「さっきは、どうもありがとうございました。・・・短い時間だったけど、ぐっすり眠れました。お陰で気分が楽になりました」
「うん?そうか」
TKOがカップのマキアートに口を着け、軽く微笑んだ。篠田が続ける。
「あなたが一緒にいてくれると、心から安心していられる。恐くないって思えるの。あの時の嫌な感触を思い出さなくて済む。・・・私は昨夜から助けられてばかりです」
TKOが悪戯っぽく笑ってみせ、篠田に試すように話した。
「セックスのパートナーが欲しい時には、遠慮しないで電話をくれ。お前は可愛いよ。お前だったら、いつだって相手になる」
「だけど、それは」
「独りぼっちじゃ淋しい時がある。今の世の中、男も女も孤独過ぎるからさ」
そう言って、TKOがウインクした。確かに、この国の社会は、四方を海に囲まれて国境についての実感が希薄だったせいか、外交能力に格段に欠けていて、中国やアメリカやロシアやヨーロッパの外圧の影響をもろに受けやすく、あまりに不安定になった。外務省なんて税金を無駄使いするだけで、無くても良い位だ。企業や社会は為替や株価に反応ばかりして容赦なく労働者たちを切り捨ててきた。それでは人心や社会のシステムを、福祉や教育を、公僕たる役人たちを、さらには、この国の構造そのものを信頼できなくなる。と言うより、この国の在り方自体を不審にさえ思う。
世間を見渡せば、テレビや雑誌で紹介される下らない流行ばかりが並んでいる。人々はそんなものを本心では欲していない。もっと心に響く何かを望んでいる。愛も友情もあからさまに表面的で、打算的で、おおむねすでに形骸化している。そして国家として冬の季節を迎え、この街に住む人々はそれぞれに孤独になった。
篠田は開けっぴろげな誘惑に、ちょっとだけ恥ずかしくなってその顔を赤らめた。すると、TKOが片手を上げて呆気なく告げた。
「それじゃあ、俺は帰るよ。良いな、連絡をくれ。分かったな」
TKOはそう言って背中を向けると振り向きもしないで、そのままコーヒーを片手に、エントランスに向かって歩き出していった。
・・・TKOはいつも言いたいことだけを言って、人の心を弄ぶのか?これでは、今の言葉が本気かどうなのか分からない。代用品で処理して、直接、セックスを求める男たちが少なくなった。篠田はあまりに唐突な誘惑に唖然としたが、そんなことを考える余裕すらなく、TKOの後ろ姿を見送った。
TKOはライダーズ・ジャケットのジッパーを上げて、エントランスから出て来ると、エアロ・バイクのところへと歩いた。それから顔を上げ、変わった様子は無いだろうかと周辺を見回した。
夜の9時過ぎという時刻と、モノレールの駅が近くにあることもあって、通りには会社を後にして帰路に向かう者たちや、映画や夕食を楽しむ若者たちが行き交って、危機感の欠片もなく、ずいぶんとのんきに賑わっていた。
病院の正面側に見渡す汐留の副都心には、充分なスペースを擁して高層ビルが建ち並んでいて立体的な佇まいが広がっていた。三階部分までは建物と建物をつなぐ高架式の通路があって、地上とつなぐ階段があって複雑に入り組んでいる。全体的には美しくモダンだが、この地で戦闘が起きたとすると、なんとも厄介なデザインだ。ここには視界をさえぎる、狙撃や待ち伏せに適当な隠れ場所があまりに多過ぎるからだ。・・・
TKOはそんなことを考えてエアロ・バイクに跨がると、コーヒーカップをホルダーに収めて、親指の静脈認証でバイクの電源を入れた。バイクのコンピュータが起動して、フロント・モニターに連動してTKOの3Dゴーグルの視界の右上にOSのサインが立ち上がった。そして様々なソフトやネットワークのシステムが展開され、ゴーグルを通した視界に蛍光カラーにレイアウトされた。すると、海側から頬を撫でる涼しい風が吹き抜けてきた。建物の間に溜まっていた薄モヤがゆるやかに押し流されていった。
少しずつ周辺の見通しが効くようになった。通りに停車していた男たちの車は、とうにどこかに消え去っていた。
夜の闇に包まれた海岸線に立ち尽くした安西警部の左手首のハンディコムに、着信音が鳴った。安西は送信元が警視庁の細川警視であることをモニターに確認すると、疲れていたがパネルにタッチして、投射モニターを立ち上げた。
警察の内部にあって、身内をかばったり、上層部の面子を立てたりすることは常識の内だ。上層部は上層部で、配下に気遣ってもらって、持ち上げられることを人徳だと考えている。法の番人でありながら警察はそのために、時として正義を度外視することがある。庶民たちの案件などは、身内のそれに比べれば無に等しいものだ。また、間違ったことだと分かっていながら、時には成功者や権力者たちに恩を売ることだってある。すべては組織の結束を固めるためだ。警察では、権限と腕力があってこそ正義を発揮することが出来る。いささか困惑を覚えるが、それを上層部は権力や利用価値を踏まえた、双方の立場を考慮した清濁を飲み分けた大人の対応だと自慢する。いかにもそれが理性ある者の行いだと言わんばかりにだ。彼らはそれを立派で誇らしい知的な判断であるかのように例える。
モニターに映った細川が少し横柄な口振りで、早速、話を始め出した。
「どうですか?昨夜の事件の現場検証の進捗は?」
「どうも。・・・」
駐車車両のナンバーが廃車のモノであることが判明すると、二台のレッカー車が少し離れた倉庫の前に到着して、車の牽引の手続きを始めている。安西が片付けを始めている鑑識たちを見渡して、細川に答える。
「ちょっと前に、現場検証を終えたところです。これから署の方に帰ろうかと」
「珍しく自治省が横槍を入れてきたようですが。私立探偵はどんな様子ですか?」
すると紺野が近くにやって来て、安西に伺いを立てるような顔付きをした。安西は意味深に頷くと、聞き耳を立てる紺野を向かい側に、細川に続けた。
「奴なら午後になって現場に出頭してくれました。事件の現場に居合わせた証人ですからね。お陰で事件の詳細について、いろいろと知ることが出来ました」
「なるほど。あの男は協力的でしたか。気味が悪いですね」
「撃たれた滝川は奴の友人です。それが理由でしょう。現場検証にはしっかりと協力して、犯人グループに直結すると思えるいくつかの物証を提示してくれました」
「ほう、そうですか。・・・」
「ええ」
「よろしい。出だしは上々と言ったところですね。君たちの活躍に期待しています」
「分かっています。うちの刑事が一人倒されていますからね。湾岸警察の面子にかけて必ず犯人グループを突き止めてみせます」
「分かりました。第一課にはいつでもサポートの準備があります。よろしく頼みます」
細川がそう言って大きく頷いてから、テレビ電話の回線を切った。すると安西はハンディコムにスカイプを切って、正面にいる紺野にやれやれといった顔付きをして、小言を言った。
「キャリアのお偉方は、相も変わらず駆け引きばかりに熱心だ」
「確かに。・・・まあ、現場の俺たちには関係ありませんけどね」
紺野が呆れて頷いた。そして現場から引き揚げるべく安西と二人して歩き出してゆくと、事件の現場を封鎖するよう横向きに駐車しておいたパールブラックの覆面パトカーに乗り込んだ。
鮮やかな紅葉の山々を愛でる科学技術の聖地、テクノポリス。筑波の丘の中腹に位置するマイクロメカニック社の開放的なロビー・フロアからは、清々しい朝日を浴びた自然のパノラマが展望でき、晴れていれば毎日のように、心が芯から洗われる新鮮な一日の始まりをその身に体感することが出来る。
まだ暗い午前六時を前にした早朝、梁瀬のパートナーである森本は『森本班』の技術者たちと予定していた作業を無事に完了し、ブルーの医療着にバンダナ・キャップのまるでドクターのような格好のまま、今では一箱千円以上になって金持ちだけの嗜好品と化したタバコをくゆらせ、そんな夜明けの風景を東のスカイラインに見渡した。そうして緊張感を伴った、長くて精密だった作業を終えて、紫煙を吐き出し、ひとりでゆっくりと一息をついた。
ヒト型ロボットの基礎研究に関しては、梁瀬と森本のパートナーシップを緊密に、社内の研究室と実験室で充分に重ねられてきた。ヒト型ロボットは人類を超越する存在を創るものではなく、身近な人間の代替えを目標としている。梁瀬はロボットの知覚・認識システムを担当して、森本は材質と構造に注力して、でき得る限りに本物に近い人体を形成する。それも双方に、将来的には広く汎用化される画期的な特許技術を携えている。その朝は、梨々の身体スキャンからすでに18日目を迎えていた。
年長者である森本は、さすがに疲れ果てていた。そしてハンディコムに日報を起こして語りかけ、そこに「トラブル無し。予定していた通りに、午前四時三十七分に『ヒューマノイド』の骨格を無事に完成した」と書き記した。そして、待ち切れなさそうに笑みを浮かべて、「私は今日から一週間の休暇を採る。疲れを取るために妻と二人で山荘に出掛けようと思う。人工知能とナーヴァス・システムの埋め込みを梁瀬君に頼む」と続けて、あらかじめ撮影しておいた数枚の写真を添付してメール送信した。
寝室のサイドテーブルに置かれていたハンディコムに、メールの着信を報せる小さな電子音が鳴った。それでも梁瀬はベッドで眠ったままでいる。夢や希望を持たない人間にとって、眠りは心を苛む悲痛な時間でしかないが、それでも志や希望を持った者たちにとって眠りは、消耗したエネルギーを充電する非常に心地良い休息だ。
それから40分ほどが経って、朝日が明るくカーテン越しに差し込むようになると、梁瀬はいつもより早くに目覚めて、ハンディコムに森本からの日報を確認した。添付されている数枚の写真を見ると、心臓がドキドキと高鳴って胸が震える感覚を覚えた。梁瀬はそれを見て、自身がこの世界に生きているという歓びを実感した。
梁瀬はiオートを運転して、人気の少ない早朝の会社に出勤した。その足で社長室に直行して、早速、医療着とバンダナ・キャップに着替えると、階下にあるクリーンルームで手を洗って、両手にラテックスの手袋を着けた。それから生成工房に向かって防塵ルームを通り抜けた。生成工房にやって来ると、梁瀬はフロアの中央近くに立ち止まって、そこにある施術テーブルを感無量になって見つめた。
表情は幸福そうに微笑んでみえた。テーブル上にはヒト型ロボットの基礎体型となる、梨々のものと寸分違わないチタン製の骨格が、骨と骨とを間接球でつなぎながら見事に人体を形作って並べられていた。人工骨にはわずかにロボット的なデザインが伺えるものの、人類という生物が進化の過程で必然としてきた骨格が完全に再現されていて、子供の人骨そのものだ。少しの無気味さを称えている。いいや。銀色に艶めいた人骨は、それほどリアルに感じられないかも知れない。頭蓋骨などの部位によっては分解することが出来、頸椎から脊椎にかけてに、設計通りに神経ワイヤーで連結・貫通する小さな穴がいくつも正確に空けられている。
その日は梁瀬にとって特別な一日になる。その日を現実に迎えると感激はひとしおだ。『森本班』は素晴らしい仕事をしてくれた。それを土台に、梁瀬がこれまで人生を捧げて取り組んできた研究が、現実となって実を結ぶ。梁瀬はその場所に組み立てられた人工骨を目の当たりに、そんな感慨を深く噛みしめ、込み上げる感動に心を震わせた。
スクール水着の梨々がひとり、水色の水中に飛び込んできた。梨々は速やかに水中を進んで水面に上がると、手先と足先をピンと伸ばして、全身に注意を配って淀みなく泳ぎ出す。梨々は将来、シンクロナイズド・スイミングの選手になることを夢見ていて、こうして週に三回、学校前に芝公園のプールで泳ぐことを習慣にしている。
梨々は体を横に向け、頭が小さくて四肢の長いスマートな体格を一杯に利用して、ゆっくりと円を描くように泳いでゆく。全身が水に溶け込み、足を上げ、速やかに旋回して、その泳ぎはまるでイルカのように滑らかだ。梁瀬と森本はスムーズな動作と質感に注意を払って、このように滑らかな人体を人工的に作り出すことを目指している。
葉月は同じ頃、虎ノ門の家のキッチンに立って、梨々のためにランチ用のサンドイッチを調理していた。始めの頃は梨々のことをプールに送り、そのままその場所に留まって、彼女の泳ぎをずっと近くで見守っていた。夏場には一緒にプールに入ることもあった。ところがある時、そんな梨々を見ていて、少しだけ複雑な心境になった。
大学時代までシンクロナイズド・スイミングの選手だった香月を母に持つためか?梨々は運動神経が抜群だ。幼い割に持久力も備わっている。そこには他の少女には見ない、天性なるものを感じた。それに比べて葉月は子供の頃から運動が得意ではなかった。そんな理由もあって料理上手になったわけだが、いつも明るく躍動する姉の姿を羨むように見続けてきた。それが一番のコンプレックスでもあった。母親代わりに梨々の日常の面倒を見て、彼女のことを大切に想い、実の娘のように可愛がっているが、そんな彼女を見ていると、時おり姉の香月の存在を見ているような気がして、そんな自分の想いを疎ましく感じた。ちょっと根深い、双子がゆえの嫉妬だ。そんな理由から、今では梨々をプールまで送ると、一旦すぐに自宅に戻って、そんな消極的な想いを持たなくて済むよう、梨々のために得意の料理を作ることにした。
梁瀬は一旦、手袋を外して、キッチンにやって来ると、クイーンメリーの紅茶葉を選んで温かいレモンティーを作り、買い置きのクッキーを二枚ほど摘んで、ホッと一息をついた。そうしてほんのわずかな手違いさえ起こさないよう細心の注意を払い、今日の一日の、そして今後のスケジュールを可能な限り詳細に想い描いた。
我われは少女にモノを見る両目を与え、モノを聞く両耳を与えて、モノを話す口を与える。物事を記憶して、知識として蓄積し、それを理解するだけの頭脳を与える。そして体感した物事に適切に反応する肉体を与える。最近、街中で見掛けるようになった、余計な欲望に惑わされ、歪な感情や意志を独りよがりに振り回してばかりいる、自制の利かない生身の人間たちよりもマシな、統制のとれた親しみやすい存在を作るのだ。
元来、日本人は情緒が豊かで、そのような不節操な人種ではなかった。社会も現在のように無縁でなく、それぞれが微笑んで家族や近隣に気を配っていた。多分、自民党の小泉政権下とその少し前に、社会の構造や企業の在り方を表面的にアメリカ型に変えようとした試みが、そもそもの間違いだった。・・・日本の現代史に関心を持って、そんな風に考察して、梁瀬には礼節を心得た元来の日本人としてのプライドがあった。
梁瀬は目先の小さな利益には目を貸さず、信頼に値する実直な森本の協力を得て、大きな理想を掲げている。確かに、ヒトは生活するために仕事をして金を稼ぎ、金は人生を豊かに過ごすためには必要不可欠な要素だ。それについてはまったく否定する気はない。それでもヒトは決して金だけが目的で生きているわけではない。
浪費家だった妻の香月と離婚したことが、それを強く決心させる一因にはなったが、梁瀬はそんな理想を、日本の子供たちに広く知らしめたいと考えていた。大人たちに変化を求めることは無理だとしても、子供たちの考えが変われば、彼らの成長と一緒に社会もおのずと変わって行くはずだと。それが移民たちに負けない国際人を作り出すための一歩になる。なにより娘の梨々には、人生に夢を持つことを伝えたいと願っている。多分、梨々も幼いながらにそのことを理解してくれている。それゆえ梁瀬は研究者の道を選んで、決して証券マンにはならなかった。そしてその日は、梁瀬にとっての新しい夜明けとなり、新しい一日となって、新しい人生の始まりとなった。




