男たちはどこからやって来たのか?
翌日、TKOは昼過ぎに目覚めて、簡単にシャワーを浴びて気分が悪かった寝汗を流すと、拳銃と軍用ナイフの簡単な装備だけを身に着けて、ひどく苦々しい心持ちのまま、階下のオフィスに降りてきた。
昨夜はどうして篠田が襲われたのか?巡回に出たその夜に、いきなり彼女が襲われたというのはどうしても解せない。・・・ならば、どうして彼女が狙われたのか?彼女には犯人たちに標的にされるだけの理由が何かあったのか?・・・であれば、彼女が標的にされた理由とは何なのか?・・・いいや。奴らは警察の捜査を事前に察知して、もしかしたら捜査を指揮する滝川が狙われていたのかも知れない。・・・それとも、あれは単なる偶然の巡り合わせだったのか?・・・TKOは昨夜の事件を、そんな風に考えた。
TKOと大誠の仕事をサポートする、秘書であって事務所の広報を担当する島崎江梨子が、いつものカフェ・マキアートを片手に、背筋を伸ばして彼を出迎え、「おはようございます」と挨拶した。
江梨子が彼の手にカフェ・マキアートを手渡すと、昨夜の事件の後味が悪過ぎて、TKOは少し不機嫌そうに挨拶を返した。
「ありがとう。大誠はどこだ?昨夜逮捕した男の情報が湾岸署から届いているはずだ」
「大誠は、さっきからコンピュータ・コクピットにいます」
TKOが江梨子に頷いて、手にしたカップに口を付けながらオフィスのフロアを進んでいった。すると、大誠がコンピュータ・コクピットに居所を定めていた。大誠は早速、得意のハッキングを駆使して、インターネットに韓国軍のデータベースを呼び出して、顔認証と指紋の照合を試みて、昨夜逮捕した男のサイバー捜査を進めていた。
ハッキングして得られた情報は違法であって、証拠として法的には扱えない情報だが、捜査のターゲットを絞り込むのに格段に有効だ。表沙汰には出来ないが、実働的で、事件の解決を最優先にするTKOのオフィスでは、そうして得られる情報をいつでも積極的に活用していた。
メイン・モニターには顔認証と指紋認証のウインドウが開かれて、右手側には昨夜の男の顔写真が表示され、左手側にはそれと照合している韓国軍の兵士たちの顔写真が次から次へと読み込まれている。
TKOがそれを見て、大誠に尋ねた。
「どうだ、男の正体は割り出せそうか?」
「ちょっと前に男の情報が届いたところだ。相変わらず日本の警察の仕事は遅いね」
「それで?」
「現在、韓国軍と韓国警察、それと犯罪者たちをデータベースに照合しているところだ」
やがてはコンピュータに照合の解答が出た。結果はどれもが『不一致』だった。それを見て大誠が、その顔をしかめた。
「どういう事だろ。米軍の韓国系の兵士だってことかな?それともアメリカの犯罪者ってことかな?」
「いいや。それなら言葉に英語のイントネーションが出るはずだ」
大誠は首を傾げてパネルをクリックし、サイド・モニターに、晴海埠頭の近くで発生した事件当時の映像を呼び出した。倉庫や港に設置されている防犯カメラの映像がモニターに9分割に表示された。どれもが霧に包まれて灰色がかっているものの、そこには湾岸を歩く数名の黒っぽい服装の男たちの姿や、海上を横切って走る高速艇の動向が残されていた。
大誠がそれらを見て推察した。
「それなら特殊部隊ってことかもな。軍のファイルに乗せられないレベルのさ。部隊の存在さえ知られちゃいけないって奴らだよ」
「可能性はあるな。だけど、どうして韓国軍が日本人の若い女を誘拐するんだよ?・・・な、何のためにだ?」
大誠は両手の指を合わせて考え込んで、それから少しして閃きをその顔にした。
「ちょっと待ってくれ。こいつらは北朝鮮の特殊工作員かも知れない」
「何だよ?キム・ジョンウンの政権になって拉致事件が再発したっていうのか?新しい政権は拉致問題の解決に関しては取引次第だって聞くぜ」
「全部、死んじまった親父の責任にしているだけだろ。今のところは何ひとつ具体的じゃない。・・・だけど相手が北朝鮮ってことになると、情報を集めるのが難しくなる。セキュリティがどうのこうのって問題じゃない。軍にデータベース自体が無いからさ。何たって技術がお粗末過ぎるからね。俺が操る最先端の技術を受け付けてくれない」
TKOが思案しながら言った。
「KCIAなら、北の工作員の情報を結構正確に掴んでいるだろ?」
「KCIAじゃ、さすがに情報を提供してくれない」
「そうだな。・・・何か良い手は無いものかな」
大誠はサイド・モニターの映像をスチルにして、そこに映った朧げな男たちの風体に眼差しを向けた。そして、いくらかを考えた。それから思い付いたように提案した。
「どうだろうか?韓国警察のハン・ソンナムに問い合わせてみたら」
「ソンナム。MIT(マサチューセッツ工科大学)の同級生だったって、あいつか」
「ああ。奴は今、韓国警察の情報局にいる」
「なるほど」
「この国の外務省は、機密費だの外交官手当だのって、単に税金を無駄遣いしているだけだよね。笑い話みたいだけど、大使の公邸にプールなんかを作ったりしてさ」
「まったく笑えないけどな」
「おかしいよね。見栄やポーズで外交の何かが動くとでも思っているのかね。外交ってやつは武器を持たない戦争だ。見栄やポーズは、現実的に実行力のある脅威を持った存在がやって初めて効き目があるものだ」
「この国の官僚たちは根本的なところから勘違いしている。て言うより、表を向いていなければならない連中が内向きになって、自分たちの損得しか考えていない。交渉や駆け引きを考えるレベルに達していないってことだ」
「そんなところだね。米軍の基地問題やロシアとの北方領土問題、それから北朝鮮の拉致問題に、実行支配されている韓国との竹島問題、中国との尖閣諸島問題、どれをとっても何年経っても一向に良い方向に進んではいない。何をやっているのか知らないけどさ。外務省なんて無くたって良いくらいだ」
するとTKOが口元に笑みを浮かべ、それで決まりだと頷いてみせた。
「ハン・ソンナムか。悪くない。試してみる価値はあるな」
大誠は早速、コンピュータを操作して他人名義のスカイプに割り込んで、韓国警察の情報局に勤めるハン・ソンナムに、テレビ電話を使った連絡を入れた。
黒縁眼鏡のソンナムはハンディコムのデータに一切の痕跡を残さない、古い友人からの特殊な連絡方法をモニターに見て、口元に笑みを浮かべた。そして、その回線を開いてみた。すると、モニターに懐かしい大誠の笑顔が映し出され、それを見てソンナムが驚いたように言った。
「タイセイ。・・・懐かしいね。三年振りになるかな?いったい、どうしたんだ?」
「ごぶさた。じつは君にちょっとだけ力を借りたい仕事が出来ちまってさ」
「僕に力を借りたいって?嬉しいね。そいつはいったい何事だい?」
「添付したファイルにある男の身元を確認したいんだ」
ソンナムが頷いてみせ、ファイルにある顔写真を開いた。それを確認して、大誠が続けた。
「俺たちは、こいつを北朝鮮の工作員じゃないかって読んでいるんだ。ファイルには男の指紋が添えてある」
「で?こいつは何をしたんだ?」
「去年の夏から東京湾岸で頻発している、日本人女性の拉致事件に関与しているんだ」
「どういう事だよ?北の拉致が日本でまた始まったってことかい?」
「事件の中身は正確には分からない。だけど、すでに四十二人が姿を消しちまっている」
「なるほど。そいつは問題だ。て言うか、かなり深刻な大事件だね」
ソンナムは考え込むようにしながらそう言うと、小さく笑みを作ってみせた。
「それはそうと、TKOは元気かい?東京に行っていた時には、ずいぶんと世話になった」
大誠が明るく笑って、それに答える。
「彼については相変わらずさ。とにかく頑固で、切れ味が鋭いよ。ここのところは久し振りに信用に値する女に出会えたって、かなり良い調子でやっている」
「そうか。彼にもやっとステディが出来たのか。そいつは良かった。・・・君は本当に素晴らしいチームで働いているよな。何たってボスが凄い」
「まあね。ここの事務所が、東京でこんな形で成立しているって事自体が奇跡に近いからね。中小企業の技術者集団である『ヒカリ・ユニット』とのコラボにしたって、天才的なアイデアだった。そこから産み出される製品は、日本の彼らにしか作り出すことが出来ない人的技術の結晶だ」
「死ぬことを恐れない実行力があってのことだとは思うけど、彼こそ真の革命家だよ。腐った権力に立ち向かう本物の愛国者だ。最後のサムライ。日本のチェ・ゲバラだ」
「日本のチェ・ゲバラかよ?それはちょっと大袈裟だな。ソンナムがそう言って誉めていたって、彼には改めて伝えておくよ」
「何たって彼は、僕が唯一尊敬している勇気ある日本人だ。彼は第一に非凡な才能を見付け出す。それから相手の特性を理解して責任を持たせ、誉めようが罵ろうが、最大限に能力を発揮できるよう導いてくれる。世間の大人が彼みたいなら、世の中はもう少し変わっていただろうな」
ソンナムがそう言って微笑むと、明るく頷いてハンディコムに伝えた。
「了解した。これにある男の情報については、見付かり次第そっちに送る。とは言っても、うちの部署には内密でする仕事だ。ちょっとばかり時間が掛かるかも知れない」
「それは分かっている。とにかく情報を待っているよ」
「分かった。任せてくれ」
「よろしく頼む」
大誠はそう言って頷くと、コンピュータを操作してスカイプを切った。それから背伸びして大きく息を吐き出すと、感心したように微笑んで独りのんびり呟いた。
「一週間足らずの滞在だったっていうのに。MITきっての秀才だったソンナムにリスペクトさせちまっている。まったくTKOのカリスマってやつは強烈だ」
ソンナムが東京に来て、オフィスの上階にある大誠の住居に滞在していたのは、たった6日間だった。7日目の朝にはソウルへの帰路に着いた。そして、そんな6日間の間にソンナムはTKOの信奉者になった。
TKOはソンナムがオフィスに着いてすぐに、彼の頭脳の明晰さに興味を示した。そして、大誠を交えて食事をし、互いを理解できるよう様々な話をした。女の好みから趣味の話、韓国や日本の国家観、それから人生に対する考え方や生と死に関してを。下世話な話から人生の意義まで話し合った。そして、そうしてソンナムの人柄を理解すると、当時、捜査にあたっていたイラン人の組織による覚醒剤の密売ルートを壊滅するべく、移民たちが暮らす古マンションを占拠した覚醒剤精製工場に突入する際に、ソンナムの計算の速さを活用した。
上空を音もなく進む監視ドローンからの映像を見て、大誠が敵陣を分析した。そんな大誠のサポートとして、ソンナムに敵からの反撃についての予測解析をさせたのだ。
バッテリー弾を装填したグロック17を手に、TKOは単独で敵陣のただ中を進んでいった。彼の進路と後方の天井近くには無音の監視ドローンを飛ばしていた。TKOは抜群の動態視力と反射神経を備えていて、大誠とソンナムからの情報を頼りに、目に付く敵を片っ端から銃撃してバッテリー弾の電撃によって昏倒させていった。命をかけて敵の反撃に晒されているのは、TKO一人だけだ。
目まぐるしく状況は移り変わり、そのたびにTKOは危険との瀬戸際に直面する。視野の広さと判断の速さを持ち味にする大誠の形勢分析はいつものことだが、慣れない役割を与えられ、敵の行動を予測しているソンナムは必死だった。
緊張感に血はたぎり、吐き気がするほど心拍が高まっていた。それでも懸命になって集中し、監視モニターに情報を拾い上げ、解析して、生まれて初めて究極の責任とやりがいなるものを味わった。この時のたった一度の経験で、ソンナムはTKOに心酔した。命を投げ打つTKOから全幅の信頼を受けて、無事に役割をまっとうすることが出来たソンナムは、涙を流して感動さえ覚えていた。
あくまでも友と認める、きわめて限られた対象に向けてだが、TKOは前を向いて自らを露出する。そして彼らを行動させて、より良い世界を想像することを喚起する。それこそが人々を一喜一憂させ、人の心を掌握する、TKOだけが体現でき得るエキセントリックな才能だ。そして何より、ソンナムとの6日間を思い返した大誠こそが、TKOの剥き身の生き様に魅了されている一人だ。
ソウル市内にある韓国警察本庁の情報局のフロアでは、コーヒーを手にしたソンナムがデスクに着いて、3台のコンピュータ・モニターにゆったりと向き合った。ソンナムはにやけた笑顔で両手の指を柔らかく動かした。続いて、さっきまで進めていた中国の民主化運動家についての調査・分析を右側のサイド・モニターに移動すると、左側のサイド・モニターにファイルをクリックして、転送しておいた男の顔写真と指紋などの情報を立ち上げた。ブラインド・タッチも軽やかに、北朝鮮軍の人員に関する膨大なデータを中央のモニターに呼び出した。個々のファイルをチェックして、諜報局と特殊部隊に所属する戦闘員のリストを選択した。それから男の顔写真と指紋をフィルターに設定して、スタート・パネルをクリックして男の照合を開始した。
ソンナムは二つのモニターに順調に始められている照合の動作を確認した。それから満足そうにコーヒーに口をつけ、周囲に不審がられないようコードを打ち込み、敢えてそれらのモニターをスリープ状態にした。
その頃、TKOは都内にエアロ・バイクを走らせて、隅田川を渡って、昨夜の事件現場となった晴海埠頭の近くへと向かっていた。
3Dゴーグルに表示されるカーナビの指示に従って突き当たりを左折して、エアロ・バイクは倉庫が並んだ海岸沿いへと走り出してきた。途中、TKOは昨夜にあった二台の車が今も同じ場所に駐車しているのを横目に見て、その前を通り過ぎた。
エアロ・バイクを駐車して、TKOはパトカーが駐車して並んだ、黄色いテープで規制線が貼られている事件の現場へと歩き出していった。
事件が起きた海に向かった倉庫の前には、滝川の生々しい出血の痕が残っていて、今も鑑識による現場検証が続けられていた。そして、そこには湾岸警察署の防犯課の本村刑事と、刑事課の安西警部とその部下たちがいた。どうやら今回の事件は、防犯課と刑事課の合同捜査になったようだ。その場所に彼らを見て、TKOには捜査がより良い方向に進んでいるように思えた。
警備に立った制服警官に、私立探偵のIDバッジを提示すると、警官たちが互いの顔を見合わせて、TKOを規制線の中に導き入れた。すると安西警部が振り返って、そんなTKOを見付けた。
「おお、やって来たな」
TKOは、そう言って頷いた安西警部の近くへと歩み寄った。そして路面に残った滝川の血痕を苦々しく見つめ、安西に尋ねた。
「滝川の様子は?」
「滝川は汐留の聖マリア病院に搬送されて、ICU(集中治療室)で看護されている。出血によるショック状態におちいってしまって、今も昏睡が続いている」
それを聞いて、TKOが「そうなのか。・・・」と悲痛な表情になった。
「何、奴の身体は頑丈に出来ている。今に何事も無かったかのように目を覚ましてくれるさ。俺たちはそう信じている」
「畜生。俺が付いていたって言うのに」
「仕方がない。多勢に無勢だった。そこまで組織的だったとは考えていなかったからな」
TKOは地表に残った血痕の前に片膝を付き、深刻になって静かに目を閉じ、滝川が無事に回復してくれることを祈った。それから目を開け、安西に尋ねた。
「逮捕したあの男はどんな様子だ?」
「黙りを続けている。完全黙秘を通すつもりかな。今のところは飯にも水にも口を着けていない状態だ。・・・顔認証で確認してみたが、男の移民登録は無かった。韓国系だってことだけは分かっているが、IDを持たず、外国人登録も持っていなかったことを考えると、不法入国の線が強いな」
安西の見立ては、自分たちの考えと同じ方向だ。いつもは警察とは一線を画して捜査に取り組むTKOだが、今回の事件に限っては、重傷を負った滝川の激励のためにも、彼らと協力し合うところは協力し合って、とにかく事件を解決することが第一だ。TKOはそう考え、安西の意見に頷いた。そして泰然と立ち上がって、安西に告げた。
「こっちで編集した防犯カメラの映像は、そっちに届いているよな?」
「ああ。見せてもらった」
「こっちに来てくれ」
TKOがそう言って、岸壁に向かって歩き出してゆくと、安西は部下の紺野に頷いてみせて、二人してTKOの後を追った。それからTKOに尋ねた。
「どうした?何かあったのか?」
TKOが海に面した岸壁を見下ろして話した。
「映像に映っていた高速艇が、ここの岸壁に船体を擦り付けていった。塗料から船の船籍や船体を特定できるかも知れない」
「なるほど」
見下ろすと、岸壁の中程に横に一線に削られた傷跡があって、そこには確かにダークグレイの塗料らしき色素が残されていた。それを見て、紺野刑事が安西と顔を見合わせ頷いて、鑑識長を呼んだ。
「長さん!」
紺野の呼び声に、倉庫の脇に落ちていたタバコの吸い殻を拾い集めていた鑑識長が、採取袋をしっかりと閉め、安西と紺野のところに歩き出してきた。そして岸壁の近くにやって来ると、そこにいるTKOに軽くお辞儀して、安西に尋ねた。
「何です?何かあったんですか?」
紺野が岸壁の中程を指差して伝えた。
「見てください、ここの所を。ここにあるのは犯人たちが使っていた高速艇の傷跡です。船の塗料もしっかりと残っています」
「なるほどね。こいつはりっぱな物証だ。たいした落とし物を拾えていなかったから、これはずいぶんと役立つよ」
鑑識長が岸壁に残った傷跡を見下ろしてそう言うと、TKOが尋ねた。
「めぼしいと思える拾い物には、どんな物があるんだ?」
鑑識長がこいつは警察の人間じゃないと、TKOを用心深く見つめた。すると、安西が頷いて促した。
「良いよ。話してやってくれ。こいつは現場に居合わせた彼からの情報だ」
鑑識長がそれに頷き、TKOに伝えた。
「そうさな。犯人が使用した実弾は37口径。気になる拾い物は、中国元の値札だ。それと中国製のニワトリの薫製の空き袋くらいだな」
それを聞いてTKOが思案する顔付きになった。
「中国のモノなのか?北朝鮮じゃないのか?」
「ああ。さっき見付けたタバコの吸い殻も中国製の紅塔山ってやつだった」
TKOのそんな顔付きを見つめて、安西が尋ねる。
「何だ?お前たちは犯人の目星を北朝鮮の連中だって考えているのか?」
TKOがその問いに、頭を傾げて頷いた。
「まあね。だからと言って、これだと言える確証はないんだが」
韓国警察本庁の情報局のフロアでは、ソンナムがチュッパ・チャプスを口に入れ、右側のコンピュータに向かって、引き続き中国の民主化運動家に対する、表面化しない援助の方策を分析していた。すると、ソンナムの左側のモニターがチャイムを鳴らして、画面を明るく立ち上げた。ソンナムは椅子を動かし、パネルをクリックしてモニターを通常状態に戻し、そこに解答されている照合の結果を見定めた。解答は『不一致』だった。男は韓国警察が知り得る北朝鮮軍の諜報部員でも特殊工作員でもないようだ。
ソンナムはそれを見つめて、思案して独り言を呟いた。
「どうしたものかな?・・・男は軍の部外者だってことなのか?」
いくらかを考えた。次の瞬間、明かりが灯ったように閃きをその顔にした。
「そうか。部外者だってことは、脱北者ってことなのかも知れない」
ソンナムはブラインド・タッチも鮮やかに、中央のモニターに把握でき得る脱北者のリストを呼び出した。すると確認されている分だけでも脱北者は大量で、ソンナムはそれを見つめて小さな驚きを感じた。支援する組織に頼らずに単独で逃亡した、調査の届かない者たちを加えると、きっとその数は1・2倍ほどに膨らむはずだ。
「これじゃあ、北の体制はいつまで保つか分からないな。・・・いいや。そんなことを言いながらも、ずっと今日まで続いている」
それからパネルをクリックすると、ソンナムは再度コンピュータに男の照合を試みた。
TKOは安西警部や紺野たちの現場検証に役立つようにと、出来るだけ正確に立ち位置を移動しながら、昨夜の状況を説明した。この場所でTKOと滝川は男たちと格闘を始めた。男たちは格闘術を心得ていて、驚くほどに手強かった。そんな中、一発の銃声が鳴って、男と揉み合っていた滝川が重傷を負った。
その時の状況を出来るだけ詳細に安西たちに説明すると、TKOは二人の男たちが現れ出してきた倉庫の脇を見つめて、突然、何かを思い出したかのように眼差しを細めた。鑑識長の話によると、その場所からは何本ものタバコの吸い殻が見付かっている。TKOは記憶をさかのぼるよう、やって来た方向に振り返ると、来る途中に駐車されていた二台の古びたEVカーを通りの先に見つめた。
犯人たちは拉致する標的を前もって決めていたのか?もしも男たちがじっくりと時間をかけて、あらかじめ特定しておいた獲物を捕獲するために、クモの巣を張るように待ち伏せしていたとしたら。なんとも非効率には思えるが、それでも犯行を表沙汰にしないようにするためには、それが一番の方法かも知れない。くり返し犯行を重ねるには、そうして安全性を担保していた可能性が強い。そんな風に考察をすると、犯人の男たちと、駐車されたままになっている車の存在がリンクして感じる。
安西が、どうしたのかとTKOの傍らに立ち止まった。すると、TKOは小さく舌打ちして、そんな安西に告げる。
「もうひとつ、気にかかる事がある」
「何だ?」
「この先にある倉庫の前に、車が二台停まっているだろ」
TKOに促されて、安西が90メートルほど先に駐車してある古臭い二台のEV車を見つめる。「ああ、確かに」安西がそう言って、伺うように頷いてみせた。
TKOが忌まわしそうに伝える。
「俺の記憶ではあの二台は、昨日の夜からあの場所に停まったままだ」
「何だって」
「ひょっとしたら、犯人たちがここに来るのに乗ってきた車かも知れない。もしもそうなら、車内から指紋や何かの残留物を見付け出すことが出来るはずだ。うまく行けば、犯人の手掛かりを見付け出せるかも知れない」
それを聞いて安西が納得の笑みを浮かべた。すぐさま紺野が歩き出してきて、安西に伝える。
「俺は警官を集めて、規制線を張らせます」
安西が、動きの速い紺野にしっかりと頷いた。紺野は近くにいた三名の警官を呼び集めて、指示を与えて、規制線のテープを手に、一足先に車のところへと歩き出していった。安西は、ボートに乗った鑑識官たちに岸壁に付着した塗料の採取を指示している鑑識長を呼んだ。
「長さん!」
鑑識長はやれやれと言ったその顔を上げて、指示を与えて、そこでの仕事を部下に任せると、安西のところへと歩き出してきた。刑事の本村と拝島も何があったのかと、彼に続いた。
吹き始めた北風に襟を立てて、上着のボタンを首元までしっかりと留めて、鑑識長が安西の傍らにやって来た。そうして厄介そうに安西に尋ねる。
「今度は何事だね?何か目新しい物証でも見付かったのか?」
「ああ。まあな」安西がそう言って、満足そうに頷いた。
影が大地に長く貼り付いて、空気がほんの少しだけ肌寒くなって感じた。陽光は黄色味を帯びていて、見晴らすと、夕日がすでに西空へと傾いていた。野生に棲息する生き物たちは、厳しい冬を乗り切って生き残るために懸命に身体に栄養を蓄えている。ここのところの一日の短さは、人の身にもそんなストレスを感じさせている。TKOは数歩だけ歩き出していって立ち止まると、ハンディ・コムに時刻を確かめて、鑑識長に指示している安西に告げた。
「今日のところはもう良いよな。俺はそろそろ帰らせてもらうぜ。ロベルトの見舞いに行きたいんだ」
「不明な点が出てきたら、話をまた聞かせてくれ」
「ああ。いつでも連絡をくれ」
安西が頷いてみせるTKOを見つめて、困ったように口元に笑みを過らせた。TKOって男は、はなから虫の好く男ではない。何かあればいつだって警察の仕事を見下す言動をする。それでも、滝川が傷付いたのはこの男の責任じゃない。彼が一緒にいなければ、滝川は射殺されて、篠田は今ごろ誘拐されていた。目撃者も証言する者もいなかった。こうして事件の報告を受けることも出来ず、事件の様相は今も明らかにされていなかったはずだ。事件はきっと謎のベイルに包まれたままだった。・・・安西はそう考え、背中を向けたTKOにあえて明るく労うように告げた。
「それにしても、ずいぶんと痛め付けたもんだな。・・・逮捕された男の面を見たかよ。今もボッコボコに腫れ上がっているぜ」
TKOは背中にそれを聞いて口元を歪め、そのまま規制線を通り越していって、エアロ・バイクのところへと向かった。
TKOはドラバーズ・シートに跨がって、親指の静脈認証でバイクのPCとエンジン・モーターを起動させ、すました顔をしてヘッドセットに尋ねる。
「大誠、聞いていたか?」
オフィスでは、コンピュータ・コクピットに着いた大誠が、五つのモニターに事件現場の周辺にある防犯カメラの配置図を呼び出していた。そしてTKOに答える。
「ああ。二台の車だね。正確にいうと、車の色はどんなだい?」
「両方とも艶消しのメタルグレイだ。車種は二台ともEVマキーナ」
「わかった。艶消しのマキーナだね。防犯カメラに足跡を探してみる」
TKOはそいつを聞いて納得し、ハンディ・コムの電話回線を切った。TKOはそうしてハンディ・コムを通話状態にして、オフィスにいる大誠に、現場検証における物証などの情報を伝えていた。それからアクセルを軽く絞って、エアロ・バイクを緩やかに浮上させると、車体を軽く傾けながら、元来た道へと走り出していった。
大誠はメイン・モニターに、車の現在地に一番近い防犯カメラの映像を呼び出した。続いて4つのモニターを、その場所から近い順番に4機の防犯カメラへと振り分けた。それからオフィス内に声を高く、江梨子の名を呼んだ。
「江梨子!ちょっと来てくれ!」
「何?どうしたの?・・・何かあったの?」
江梨子がそんな風に質問しながら秘書室から出てきた。それからオフィスの通路を歩いて、フロアの中央近くに配置されている、大誠が缶詰になっているコンピュータ・コクピットにやって来た。
「大誠さん、どうしたの?」
江梨子が尋ねると、大誠がいたずらっぽく口元に笑みを浮かべた。
「帰りは車で送ってゆくからさ。ちょっとだけ手伝ってくれよ」
そんな大誠の頼みに、江梨子が品の良い笑顔で頷いて答える。
「ディナーもセットにしてくれるなら、構わないわよ」
「わかった。それじゃ夕食もおごるからさ。帰りに何か食べに行こう」
大誠はそう言ってサイド・シートを引き出して、江梨子をその場所に腰掛けさせた。それからキーを操作して、すべての防犯カメラの映像を、昨夜の事件発生の時刻となる午前1時20分過ぎにまで早送りした。そして江梨子へと伝える。
「ここにあるのは、昨夜の事件現場の近くにある防犯カメラの録画映像だ。これから4倍速で、ここにあるすべての映像をリワインド(巻き戻す)するからさ。モニターのどれかに映るだろう二台の黒っぽいEVマキーナを探し出してほしいんだ」
「分かったわ。二台の黒っぽいマキーナね」
「良いね。車は、いつ現れるか分からない。だから、しっかり注意して見ておいてくれ」
「了解」
江梨子が真顔になって頷いて応える。大誠は頷いて返し、そこから時間をさかのぼるよう、すべてのモニターの映像を4倍速でリワインドした。大誠も江梨子も真剣な眼差しになって、すべてのモニターに注意を傾けていた。ところが、映像に表示された時刻が二時間と少しが経っても、どのカメラにも二台の車は映り込んでこなかった。タバコの吸い殻の本数を考えると、犯人たちはやはりその場所で数時間を待ち伏せしていたのだろうか?大誠はモニターを見つめて考えを巡らせて、退屈そうにその首を傾げた。
やがては映像上の時刻が3時間を過ぎた。昨夜の22時が過ぎたところだ。映像はどれも夜霧のせいで薄らと灰色がかって見えている。
それからさらに30分と少しが経った。すると、月島方面へと続く北側のカメラの映像に、連なって走る二台のマキーナらしい漆黒の車影が映り込んでみえた。
大誠がそれを見付けて「いたぞ!こいつだ!」と思わず声を上げた。
江梨子は車影が見付けられずに、少しだけ焦りを感じた。
大誠が手早く防犯カメラの配置図を呼び出して、さらにその後方にある防犯カメラをクリックして、それらの映像をモニターに呼び出してみた。そうして大誠は、二台のマキーナをさかのぼってモニターに待ち伏せをした。すると江梨子も次のカメラの映像に、二台のマキーナらしい黒っぽい車影を見付けた。
「あった!私にも見付けたわ!」江梨子が喜び余ってガッツポーズをした。
大誠は続いて4機のモニターに防犯カメラを選出した。倉庫の前に駐車している二台のマキーナは、TKOが洞察した通り、犯人たちが使用していて、突然食らった反撃のためにその場所に放置せざるをえなかったようだ。問題は何者がそれに乗り込み、どこからその場所にやって来たのかだ。それが分かれば犯人たちを割り出す大きな手掛かりになる。
大誠はそう考えて、自らに言い聞かせた。
「・・・二台はやっぱり行動を一緒にしていたな」




