↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/12

湾岸アブダクション

 男はビルの最上階にある広いテラスに出て、表の夜景を見て立ち止まった。ビルの正面には夜霧に煙った恵比寿の西口の駅ビルとロータリーが見渡せる。男は微妙に灰色がかった街並を見つめて神妙な顔付きだ。そして虚ろに思ってその口を開いた。

「なあ。俺たちはいったい何を求めて生きているんだ?・・・この街に住んでいると、そんなことさえ分からなくなる」

 すると、窓際に立った在日中国人三世の孫大誠が、こんな風に答えた。

「それはあんたがこの国で生まれて育った日本人だからだよ。俺なんか、いつだって中国人と日本人の境目いるからさ。そんなことは考えたこともない。俺は中国人でもないし、日本人でもない。永遠にどっち付かずだからさ」

「これはこの国で生まれて育った日本人だけが抱えている贅沢な悩みなのかもな」

 男が呆れて大きく溜め息をついた。男は世間で『賞金稼ぎ』として知られている、私立探偵を稼業にする鬼方多生男。通称をTKOという。TKOは諦め切ったように振り返って、大誠に告げた。

「それじゃあ、俺は出掛けてくる。今度の事件は始まってしばらくが経っている様子だ。ちょっとばかり下調べが必要なようだ」

「分かった。俺は部屋に戻って眠っているからさ。必要だったら、いつでも起こしてくれ」

「ああ。そうする」

 TKOは愛用のヘッドギアを頭に、体にフィットしたトラックタイプのライダーズジャケットを身に着けて、『ヒカリ・ユニット』がホンダと共同開発したプロトタイプのエアロ・バイク『ホンダ・グリフィン』を夜の街中へと走らせた。

 麻布通りを北上していって、飯倉片町を右折して、東京タワーを正面に見ながら飯倉の交差点を左折していった。続いて国道一号に虎ノ門、霞ヶ関を通り過ぎていって、道なりに右折して日比谷方面へと向かう。

 山林や水源、高級住宅地、タワーマンションの上層階、空港や米軍基地の近くに位置する不動産を買い漁って、優秀な人材の引き抜きや企業買収など、日本を侵略している中国の日本買いは止まることがない。取りわけ東京の都心部での日本買いはひどい有り様だ。

 一方アメリカは、軍事力で日本を下支えすると見せかけて、日本の『思いやり予算』で極東アジアの軍事費を埋め合わせ、自国に都合が良いように日本政府をコントロールしている。

 中国共産党のリーダーとなった『第5世代』のエリートたちは、アメリカでの留学経験が豊富で、非常にスマートで、粉飾した経済力と軍事力をバックに、これまでの粗野で強引な中国とは違った新しいアプローチで世界を二分化するべくアメリカに対峙している。そして、あらかじめ分かっていたことだが、日本は成す術なく弱体化している。

 すべては政府と日本人の一人ひとりの理念の無さと、自覚の無さが原因になっている。さらには教育の劣化と少子化が理由で労働力が不足して、税収が不足して、他国から来る労働力の流入は歯止めが利かないでいる。

 日本人が内向きでひ弱なのに対して、外国人たちはハングリーで逞しい。生命力の問題だろうが、それに応じて犯罪も凶悪化・複雑化している。それなのに日本の警察には外国や外国人に関して知る者が少なく、例えば英語を理解する者たちさえほんのわずかで、外国人による組織犯罪にはひどく手を焼いている。あげくに政府は、自衛隊や他国の軍隊の経験を持った日本人に私立探偵のライセンスを与え、拳銃の所持を合法化した。

 移民たちはグループになって、それぞれの地域に根を張って住み着いて、マーケットやレストランを営業して移民街を作っている。そして近年、移民たちは重層化した東京を『シティ』と通称で呼んでいる。呆れてものが言えないが、この国のテレビや雑誌などのメディアは、そんな呼び名がオシャレだと言って、競って東京を『シティ』と呼んで喧伝している。人々は考えが浅く、現代のメディアは社会に対する役割をかえりみない、腹の底から軽薄な連中で作られている。

 変わりゆく街並や人々を見て、TKOはこの国の社会や日本人の全体を心から哀れんでいた。まったく何を考えているのか?いいや。奴らには目先の利益だけが大切で、何ひとつ事の成り行きを考えていない。そんな風に思って心の底から嘆き悲しんだ。


 TKOはエアロ・バイクを走らせて隅田川を渡って、海岸沿いの通りをしばらく走り抜けた。やがては晴海にある運河に向かったレストラン・カフェの正面に駐車した。

 ライダーズジャケットを片手に、TKOがレストラン・カフェの店内に入ると、店の奥側にある、湾が見渡せる薄暗い窓側の席に、旧知の仲である湾岸警察署の滝川刑事とグレイのワンピース姿の私服の女がいた。

 TKOがその女を見て、仕事に女を連れてくるとはと、眉をしかめて滝川に尋ねた。

「誰なんだ?この娘は」

 滝川が俺のことを疑うのかと、そんな顔付きで答えた。

「うちの署の篠田巡査だ。今夜の巡回に協力してくれることになってな」

 すると、女が小さくお辞儀して、行儀良くTKOに挨拶した。

「こんばんわ。初めまして、篠田冴といいます」

 女はゆるいウェイプのショート・ボブに面長な顔立ちを持って、涼しげな眼差しと白くて美しい歯並びが印象的だった。TKOはそんな女の顔付きを見て、困惑を表情にした。

 滝川がそんなTKOに促してみせた。

「まあ、良いから、そこに座ってくれ。お前から会いたいって言ってきたんだぜ。だからこの店で待ち合わせしたんだ。何か聴きたいことがあるんだろ?」

「ああ。そうだ」

 TKOは仕方がなさそうに頷いて、滝川の向かいの席にどっかりと座った。それからおもむろに滝川に話した。

「例の連続女性失踪事件についての話だ」

「そろそろお前たちが動き出す頃だって思っていたよ。話を持ってきたのは警視庁か?それとも検察か?」

「いいや。今回は珍しいことに自治省だ」

「自治省が?自治省が何のつもりだよ?」

「事件がメディアで取り上げられるようになってからっていうもの、世間じゃ、この事件がちょっとした問題になっているだろ。それを何とかやり過ごしたいのさ。政府がちゃんと動いているってところを見せたいんだ。政治家や役人どもがやろうってことは、いつだって白々しい見せ掛けばかりだ」

 TKOの白けた言い草に、滝川が苦笑いを浮かべた。それから真顔になって、指でテーブルを突つき、体を乗り出して、その顔を近付けて話した。

「一連の事件が始まったのは、・・・そう。最初のものと思われる事件が起きたのは去年の夏の初めだった。それから四十二人もの若い女が跡形もなく消え去っている。痕跡ひとつなく、まるで神隠しみたいにさ。男とどこかに逃げたとかって、そんな噂も耳にしていない」そう言ってTKOのその顔を見つめた。「資料はそっちにも行っているんだろ?」

 TKOが頷いて「まあな」と答えた。

 滝川が続けた。

「今月に入って四人が立て続けに姿を消している。聞き込みをくり返して分かったことだが、姿を消した女たちはいつもラインやSNSに夢中になっていて、携帯音源で音楽を聴いていたって話だ。周囲を無視して、まったく注意を払っていなかった」

「なるほど」

「そこらで見掛けるだろ?歩きスマホで前を見てない奴らがさ。俺なんか、しょっちゅうぶつかりそうになる。ラインをしたりYouTubeを見たいのなら、立ち止まって、邪魔にならないところでやれば良い。表を歩いている時は、前を見て歩くのが常識だし社会性ってものだろ。それに耳にイヤホンを入れて音楽を聴いていたら、周囲の物音が聞こえなくなる。分かり切っていることだよな。奴らはモニターに夢中になっていて、公共のマナーを忘れて注意力を失っていた。そんな不躾な、バカな奴らが唐突に消えちまっている」

「平和ボケ、安全ボケって奴らだな。それなら自業自得だな。自分は無防備ですって周囲に報せているようなものだ。何が起きたって、おかしくない」

「とは言え、女たちが犯罪に巻き込まれているとしたなら、なんとか犯人を捜し出して、とっ捕まえなければならない。行方知らずの連中の安否くらいは確かめてみなきゃあな」

「そうだな。そいつで俺たちはメシを食っている」

 滝川がTKOのその顔を覗き込み、茶化すように話した。

「俺は、お前たちみたいに稼いでいないけどさ」

「嫌みを言うな。ほんのたまにだが、メシくらいは奢っているだろ」

 呆れたようなTKOの口ぶりに、滝川が失笑を浮かべた。

「まあな。ずいぶんと楽しい酒も飲ませてもらっている」

 ここにいる滝川という男、名前をロベルトというイタリア人とのハーフで、見掛けはちょっと無骨だが、これでも現代の警察には珍しい、他人のために自身を犠牲にすることをいとわない尊い精神の持ち主だ。TKOは基本的には人間嫌いで、特に日本の役人の全体を毛嫌いしているが、この刑事についてだけは数少ない友人の一人だと認めている。

 滝川が真顔に戻って、事件の説明を続けた。

「女たちの失踪は、ほとんどが海に近いこの周辺で起きている。竹芝、築地、勝どき、晴海、豊洲、有明、台場に新木場。ここら辺りには失踪者の多くの住まいや職場があってさ。そうでない者たちも、失踪当日にこの周辺に出向いていたらしい」

 それを聞いて、TKOの片眉がピクリと動いた。それから想像力を働かせて尋ねた。

「事件が犯罪かどうなのかは、今のところ不確かなんだよな?・・・」

「ああ。この国では毎年八万人以上が姿を消している。届け出があるだけでそれだけの数だ。届け出がない分を併せると十万人ってところかな。そのうち二十代だけで一万五千から二万人を超える。そんな中でも、四十二人の失踪時の状況だけが特別に似通っているんだ。四十二人だぞ。この数じゃな」

「だよな。そう考えるべきだよな。・・・一連の事件が犯罪だとしたら、犯人が船で移動していたって可能性が高い。目的が何なのかは定かではないが、もしも事件が誘拐なら、犯人は女たちを街中に連れ去ったんじゃない。海に連れ去ったんだ。船乗りたちを海に誘い込む『サイレン』みたいにさ」

「誘拐事件だって言うのかよ?それにしては身代金の要求がないが」

 滝川がそう言って頭を傾げた。すると、二人の話を聞いていた篠田が、話の中身を噛み砕いて理解するように頷いてから、その口を挟んだ。

「それでも犯人が船で行動しているって可能性はありますね。海岸付近の巡回の指示が出たことも頷けます。・・・だけどサイレンだなんて、ずいぶんとロマンチックですね」

 篠田がTKOに目をやって、呑気に鼻で笑ってみせた。TKOがそんな篠田を煙たそうに横目で見た。それから滝川にこう続けた。

「・・・そのたびに女たちを殺害して、海に沈めたってことかな?」

 すると滝川が、女たちの無事を信じていたいのか、その首を横に振って異議を唱えた。

「お前のお得意の戦略的洞察ってやつか。それなら四十二件も起きていて、ひとつも遺体が上がってこないってのは有り得ないだろ?」

「それは沿岸に遺棄した場合だろ?船で沖まで出ていって、外洋に流したら、遺体が見付かる可能性なんてゼロに近い。海上でミンチにして捨てたかも知れないしな。きれいに魚たちが食べちまえるようにさ」

「それはいくら何でも大袈裟だ。現実ってやつは、案外、地味なところに転がっているものだ。行方を暗ますには、それなりに理由ってものがあるはずだ」

「女たちは、どうして帰って来ないんだよ?どこで何をやっているんだ?中国で売春でもさせられているのか?それとも、どこかのカルトに洗脳されちまったかな?・・・失踪前の女たちには何かの共通点があったのか?例えば同じ出会い系とか、ネット上の特殊なサークルに登録していたとかさ」

 TKOの疑念はもっともだ。それでも現代社会は欲望に満ちていて、複雑でいて冷血な構造を持っている。そんなことを言いたげに、滝川がニヤケて唇を尖らせた。

「相手は今時の女だからな。昨今の現実に不満を抱えている奴らばかりだよ。洋服だの、食事だのって、物質的に満たされることばかり考えている。それに、金の匂いを嗅ぎ分けることだけは取り分けて上手い。・・・そうだろよ。努力をしたって報われない不確かな今の社会の在り方も悪いが、世の中にはちょっとしたチャンスさえあれば、退屈な日常からおさらばしたいって連中が山のようにいる。そんな奴らがフッと消えちまったって、何ひとつおかしくない。そんな奴らがあれこれと痕跡を残すかよ。・・・お前はよほどの母親の愛情過多か、愛情不足で育ってきたんだな。いつだってイライラしていて、何かに怒りをぶつけていないと気が済まないんだ」

 滝川のからかうような口振りに、TKOは少しだけ苛立ちを感じた。篠田がそんなTKOの横顔に目をやって、もう一度鼻で笑った。するとTKOは白けたように溜め息をついて、滝川を睨みつけて話した。

「確かに怒りは抱えている。だけど理由はそんなんじゃない。・・・あんたこそ楽観的過ぎるよ。事件は始まってから一年以上が経っているんだ。その間に、あんたたちは何をやっていた?失踪者届けを受理して、女たちが戻ってくるのを待っていただけか?警察なんていう恐竜みたいな組織でやって行くには、そんな風に気楽に考えていないとやって行けないかも知れないけどさ」

 TKOと滝川は互いに揚げ足を取って、自分の立場と見識と、意地とをかけて少しの間を睨み合っていた。世界は桁違いに強欲な、ほんの一握りの富裕層たちの冷徹なマネーゲームで成り立っている。そんな世界には、彼らの儲けに見合った分だけの損失が生じていて、彼らの儲けの犠牲となる大量の人々が必要となる。世界にあるお金の量は決まっていて、どこかで誰かが利益を得た場合には、それ以外のところでそれに見合った分だけの損失が出る。バランスシートとはそう言うものなのだ。子供でも分かる簡単な算数だ。そんな人間の社会が自然の環境に与える損害はもっと計り知れないものだ。それから企業やメディアなどの錆びて古びた権力者たちは、彼らより社会の表層に居座っていて、商業的に人々を楽しませ、実のところは人々を傷付けて苦しませ、悲しませながら既得権益を堅持し続けている。企業は利益を守るためなら下請けの首を絞め、労働者たちの首を切る。メディアは下らない情報ばかりを垂れ流して、国民を腑抜け同然にしている。

 それよりも程度の悪い、国民をだまして税金を貪る、年金をダメにしながら自分たちの利益だけは姑息に守り続けている政治家や官僚たちがいる。彼らは箱物や独立法人に無駄に費してきた税金や年金についていまもって責任を取っていない。税収が足りないからといって税率を上げるばかりだが、それでは誰がそれらの損失を補うべきなのか?本来ならそれらはすべて政治家と公僕の連帯責任で、まずは自分たちの給料や手当や年金を切り崩して国民に与えた損害を埋め合わせるのが真っ当なはずだ。役人や政治家たちにはそれだけの罪と責任がある。それでも民衆は各々の欲望ばかりに目を向けて、心がバラバラな方に向かっている。

 ネット上では、排除されるべきロリコンや変態どもが寄り集まって勢力を拡大し、社会の秩序を捩じ曲げている。時の自民党政権は企業を優遇するために雇用形態を悪化させ、この国に格差を作り出してきた。非正規労働者は自分一人が生きてゆくだけで精一杯で、結婚も出来ず、子供を作ることも出来ないでいる。少子化や高齢化は何十年も前から分かり切っていた事実なのに、政府は何ひとつ対策を講じてこなかった。それもそのはず、専門的な知識を持たない政治家が大臣になって何の仕事が出来るというのか?あげくに少子化を招いて、親たちは少なくなった子供たちを甘やかし、教育レベルは低下して、使い物にならない人間ばかりを産み出している。とにかく、ダメになった大人たちが将来を担うべき子供たちを大切に育ててはいない。そして政府や役人は国家の在り方や将来を展望することもなく、明日のことは次の担当者に先送りして、目先にある問題にしか対処してこなかった。それもかなりいい加減な方法でだ。もはや誰も同じ未来や理想を見ようとはしない。正義はそんな弊害によって曖昧になってしまっている。

 事務所のパートナーである大誠が言うには、中国は、21世紀中に日本が無くなると考えているらしい。共産党体制がいつまで続くかは分からないが、中国はいずれ日本を実行支配して、いわゆる植民地化して、積年の恨みを晴らすつもりでいる。だからこそ水源や森林を買い漁っている。そして、邪魔だったアメリカ軍を日本の国土から追い払って、太平洋のハワイから西側をアメリカ側に委ね、それと引き換えにハワイから東側の海を完全に支配しようと計画を立てている。そうして中国が長期的展望に立って、計画的に、そして着実にその計画を実行しているのに対して、日本人はいつも浮ついてばかりいて、取り分け政治家や官僚たちはいったい何を考えているのか?これでは明日、そんな未来が現実になっても何も不思議じゃない。そんな事を考えると、TKOはすべての日本人に対して強い怒りと憤りを感じずにはいられなかった。


 TKOは滝川と篠田の晴海の湾岸の巡回に、しばらくの間、付き合うことにした。

 夜霧に煙った湾岸地帯は波音が静かだった。ほんのちょっと肌寒く、対岸には都心の街灯りが滲んでみえ、街中では感じることのない独特な風情と情緒を漂わせていた。交通の便が整ったこの地域を、若い女性たちが好んで住む場所に選び、富裕層を気取ったカップルたちがデートにやって来るのが分かるような気がした。

 滝川が少し前を歩いて、TKOが篠田と並んでその後を歩いていた。篠田の態度はいくらかお気楽に思えたが、思っていたより長身で、グレイのワンピースの上に着た、水色のステンカラーのコートがずいぶんと似合っていた。世間で人気のステレオタイプを気取ってはいるようだが、彼女は何かが少し違っていて、笑顔が不思議と可愛いとさえ思えた。

 そんな篠田がTKOに尋ねた。

「TKOはフランスの外人部隊を退役して、その後、傭兵になって、アラブやアフリカの戦地にいたんですって?」

「何でそんなことを知っているんだ?軍事オタクか何かなのか?」

「以前に資料を読んだことがあって。・・・かなり危険な地域だと思うけど。どうして、そんな戦地に身を投じていたんですか?」

「うん。まあな」

 TKOはそう言って頷くと、少しだけ顔付きを固くして答えた。

「あの頃は、ちょっと精神がまいっていてさ。とにかく死にたい気分だったんだ。それとは逆に、自分は絶対に死なないっていう根拠のない自信もあった」

 篠田が少し悲しげな表情になって、注意深く尋ねた。

「どうして?・・・何がそんな風に思わせたの?」

 するとTKOは溜め息を吐き出して、小さく頷いてから答えた。

「部隊が滞在していたマルセイユの街で、厄介なトラブルに巻き込まれちまってさ。事件の際に愛していた女性を失った。・・・今ではもう昔の話だ。自分が正しいと感じていた事実から目を背けていたせいなんだ。それから俺は恐怖を感じなくなった」

「そうですか。・・・そんな事があったんですね」

 篠田が深刻な顔付きになった。すると滝川が立ち止まって、振り返って篠田に告げた。

「篠田。20メートルほど前方を歩いてもらえるか。俺たちが後方から監視する」

 そう言う滝川に、TKOが意見した。

「彼女を囮に使う気か?そいつはやめとけよ。ちょっとばかり危険だぜ」

 すると篠田がTKOを制止して、待っていましたと、その目を輝かせてみせた。

「やらせてください。こんな風に三人でいたって、犯人は現れてこないでしょ」

 そう言ってクラッチバッグを手で叩いて、「いざとなったら、拳銃があります」と、明るく微笑んでみせた。

 それから2時間近くを海岸に沿って歩いていた。周辺には海と倉庫しかなく、真夜中をとうに過ぎていたためか、ほとんど人影がなく、辺りは深い静けさに包まれていた。

 ネオンサインがあでやかな、海岸沿いにあるバーのその前を歩き抜けてゆくと、一台の車が後方から走ってきて、三人のその横を音を静かに通り過ぎていった。車はそのまま霧の中へと消え去っていった。

 三人からは見えない倉庫の向こう側の通りを、一台の車のフロントライトがゆっくりと進んできて、その先に見えてきた人気のない交差点を海岸方面に曲がった。

 海岸沿いからカップルらしい若い男女が歩き出してきて、さっき通ったバーへと向かって競い合って駆け出していった。周辺は相も変わらず薄霧に包まれてはいたが、20メートルほど先を歩いている水色のコートの篠田の姿ははっきりと目視できていた。それから、いくらかを進んでゆくと、とある建材系の倉庫のその前には、二台の黒っぽい古臭い乗用車が停まっていた。車には誰も乗っていなかった。

 篠田から着かず離れず、数百メートルを歩いた。気が付けば、海風に運ばれてやって来たのか?夜霧が急に煙って深まって感じた。それでも篠田の姿は、ぼんやりと目視することが出来た。すると倉庫の陰から、外国人らしい黒っぽい服装の二人の男が歩き出してきた。二人は人の気配に気が付いて、滝川とTKOの姿にチラリと目をやって、慌ててよそよそしく歩き去ろうとした。

 不審に思って滝川が、そんな二人に言葉をかけた。

「そこの二人、ちょっと待て」

 すると二人が立ち止まって、滝川に人懐っこい満面の笑みで応えた。

「どうも。俺たちに何か用ですか?」

「お前たちはこんな場所で何をしているんだ?」

 そう言って、滝川が警察バッジを手に、歩き出していった。TKOは立ち止まって、滝川の後方から二人の様子を見定めていた。前方を一人で歩いている篠田のことも気に掛かった。すると一人が、会釈してみせた。

「そこの倉庫で、残っていた仕事を片付けていたんです」

 癖のある日本語の発音からは、男たちが韓国系であることが分かった。滝川がそんな男の正面に立ち止まった。そして男の風体を見定めて、尋ねた。

「お前たちは倉庫の従業員なのか?IDカードを見せてくれ」

 男がカードを取り出す素振りをして、ズボンのポケットに左手を入れた。次の瞬間、いきなり滝川の下腹を強く前蹴りで蹴り上げた。油断していたのか?滝川が腹を抉られ、「うっ!」と呻き声を上げた。瞬時に、TKOはガードを高く身構えて、もう一人の男の正面へと向かった。

 すると男が素早く全身を旋回させ、体重を乗せたテコンドーらしい鞭のような後ろ回し蹴りをくり出してきた。TKOは踏み込んで、距離を縮めて衝撃をゆるめ、その蹴りを左のガードでしっかりと受け止めて、同時に、捻りの効いた右のフックを男のレバーに打ち込んだ。続いて腰を入れ、同じ拳で男の顔面を右フックで撃ち抜いた。男は頬に拳を食らいながらも、咄嗟にヘッドスピンでその衝撃を弱めた。するとTKOが素早く右足を踏み込んで、左のストレートを男の顎に叩き入れた。当たりは少し浅かったが、男は脳髄を揺らしたらしく、ダメージに頭を振りながら後退していった。・・・TKOには、ファースト・コンタクトで男が格闘術の優秀な使い手であることが分かった。

 一方、滝川はガードを固く身構えて、続け様に打ち抜かれる男の左右のストレートを躱し切ると、隙を見て右のストレートと左アッパーで応戦し、男の右のミドルキックを左のヒジでがっちりと受け止めた。

 男たちはどこかの軍隊の出身者なのか?男たちが体得するのは、テコンドーやボクシング、レスリング、柔術などを合体した、骨を砕いて筋肉を切断する、敵兵を殺傷することを目的にした戦闘用の格闘術のようだ。

 柔道3段の滝川は、距離を縮めて男のミドルキックの威力を殺すと、素早く奥襟を掴み取って、体側に腰を入れ、払い腰の一発で男を地面に叩き付けた。それから、そのまま男の上体を横四方に押さえ込み、脇腹にヒザ蹴りを続けざまに叩き込み。グラウンドでの攻防を始めた。

 TKOは男の右ストレートを右腕で打ち払い、瞬時に左手でその腕を引き込むと、肩から振り降ろす右のヒジ打ちで男のコメカミを打ち抜いた。鋭利な衝撃に、男の左の眉の上がザックリと割れた。続いて振り抜かれた大振りになった右フックを、TKOは上体を低くスウェイだけで躱し切って、がら空きになった男のミゾオチにショートレンジの右ストレートを叩き込む。

 男がぐらつきながら一歩後退した。次の瞬間、TKOは素早く軸足を踏み込んで、それでも負けまいと右パンチを振りかぶってくる男の側頭に、右のハイキックをカウンターでクリーンヒットさせた。男の顔面が衝撃に歪み、少し遅れて腰の力が抜け切って路上に仰向けになって倒れた。

 TKOはすぐさまマウントに、男の腹の上に鍵を掛けるように馬乗りになると、すぐさま全身の力を振り絞ってストレートとヒジ打ちを男の顔面に打ち降ろした。血まみれになった男の頬と額にヒジがめり込み、同時にアスファルトに後頭部を強打して、こことばかりの圧倒的な攻勢に、男は意識が朦朧となって、グッタリして白目を剥いた。それでもTKOは、止めを刺そうと容赦なく男の顔面にパンチを叩き込む。

 一方、滝川は男の喉に前腕を押し込んで、腰のホルスターから拳銃を抜き出して、反抗する男へと告げた。

「手前、大人しくしやがれ!このままブタ箱に叩き込んでやる!」

 銃口を見て男の表情が一瞬だけ凍り付いた。それでも男は反抗を止めず、咄嗟に上体を左右に捻った。男は特殊な訓練を受けているらしく、次の瞬間、発砲が出来ないよう拳銃のスライダーを強く握ると、その手を掴んで上体をねじって地面を蹴って、滝川の体を撥ね除けようとした。拳銃を奪おうとする男の体を押さえつけ、滝川は男の体を突き飛ばして懸命に上体を起こそうとした。そうして二人は拳銃を取り合って揉み合った。

 すると通りの先から唐突に、篠田のものらしき女の悲鳴が聞こえた。続いて一発の銃声が、霧に煙った暗闇に鳴り響いた。

 突然の銃声に、TKOは通りの先へと振り返って、すぐさま腰のホルスターからグロック17を抜き出して、立ち上がった。相手の男は顔面を血まみれに、すでに完全にノックアウトされて意識もなく気絶していた。

 次には、絡まり合った男と滝川の体の真ん中で一発の銃声が鳴った。

「畜生!」

 そう言って、滝川が腹を抱えながら地面に転がった。TKOは咄嗟に滝川のところへと向かい、拳銃を手に、ふらつきながらも立ち上がってくる男の顔面に、思い切りの良い前蹴りを叩き入れた。男は顔面を強烈に蹴られ、脳髄が揺れて大の字になって昏倒した。

 TKOは男の手にあった拳銃を蹴り飛ばし、銃撃を腹に受けて地面で丸くなっている滝川に尋ねた。

「大丈夫か?」

 滝川が苦痛に歪んだその顔を上げ、血の気を荒く、腰から手錠を取り出して答えた。

「ああ。・・・こっちは大丈夫だ。頼む。篠田を見てやってくれ」

「分かっている」

 TKOは頷いて、上体を低く、篠田がいる通りの先へと駆け出していった。その場所へと近付いてゆくと、霧の向こうに篠田を連れ去ろうとしている三人の男たちの人影が見えた。水色のコートのお陰で、篠田がそこにいることだけはしっかりと認識できた。

 両手で拳銃をしっかりと構え、狙いを定めて、TKOが篠田へと告げた。

「篠田!伏せてくれ!」

 すると男の手を振り払って、その体を押し退けて、地面に転がった篠田の動きが霧のその中に見えた。その時、TKOの存在を知って男が二発、拳銃を発砲した。同時にTKOが男たちの影に向かって、続け様に拳銃を三発、発砲した。

 臨戦時におけるTKOの射撃の正確さはプロのレベルを超えている。また、彼が使用する拳銃の銃弾は通称を『ライトニング』といって、『ヒカリ・ユニット』が開発した、標的に強烈な電気的ショックを与えるバッテリー弾で、そんな銃弾が男たちに命中して、雲の中にみえる稲光のように弾け散って青白く発光してみえた。

 そんな中、海の方から排気量の大きい一隻のボートのものらしい、けたたましいエンジン音が響き渡って聞こえてきた。TKOはその音に耳を傾け、拳銃を構えて、注意深く篠田のところへと進んでいった。すると、一隻の濃灰色の高速艇が、聞き覚えのないサイレンを発しながら岸の間近に急速に接近してくるのが分かった。TKOはそれを知って、拳銃のマガジンを手早く実弾に入れ替えた。

 高速艇が岸壁に船体を擦り付けながら、こちら側へと進んできた。すると、バッテリー弾に倒れていた男たちが、電撃に麻痺する体を引き摺るように起こし、海へと向かって次から次へと懸命に走り出していった。そして岸から目一杯にジャンプして、タイミング良く高速艇へと飛び移っていった。TKOは姿勢を低く反射的に、船上に着地した男たちを狙って続け様に八発、連射した。その中の一名が脇腹に、もう一名が胸に、さらにはもう一名が頭に銃弾を喰らって倒れたのがみえた。

 続いて、滝川と揉み合って気絶して倒れていた男が、なんとか意識を取り戻し、ふらつきながらも立ち上がってきた。そして岸の間近を走り抜けてゆく高速艇のデッキに向かって思い切ってジャンプして飛び乗った。高速艇は一気に速度を上げ、誘拐犯と思われる四名の男たちを船上に乗せ、霧に閉ざされた夜の海上へと消え去っていった。

 TKOは、地面に伏せてガタガタと震えている篠田の無事を確認すると、そんな篠田に喝を入れるように告げた。

「滝川が傷付いた!救急車だ!今すぐ救急車を呼んでくれ!」

「は、はい!」

 篠田がそう答え、突然、目覚めたように頷いた。そして慌てて左手首のハンディコムに119をダイヤルした。

 滝川は、下腹に負った傷口からの出血がひどいようだが、TKOが気絶させた男の手首に手錠を掛けて、呼吸を荒々しく地面に仰向けに横たわっていた。意識は朦朧としていたが、腹を傷付けた銃弾は幸い背中へと貫通していた。

 TKOは彼の傷口に篠田のストールを強く押し当て、捕縛用のブスチック・テープでしっかりと締め付けて、取り急ぎの応急処置をした。そして篠田から受け取ったハンカチで、血まみれになった自身の両手を丁寧に拭った。それから彼女にジャケットのポケットからカフェイン・シガレットを取り出してもらって、それを口にくわえて軽く息抜きした。

 10数分の後、救急車がサイレンを鳴らしてその場所へと駆けつけてきた。救急隊員は傷付いて憔悴し切った滝川の容態を確認して、彼をストレッチャーに横たえると、手早く救急車の車内へと搬入した。

 そうこうしているとパトカーもやって来て、制服警官が篠田に指示され、まずは滝川が逮捕した男をパトカーの後部座席に閉じ込めた。それから篠田が滝川に付き添って救急車に乗り込むと、救急車は湾岸からほど近い救急指定の大病院を目指して、サイレンを鳴らして走り出していった。TKOは心配に思ってそれを見送った。そして、制服警官に事件の経緯を簡単に説明して、翌日には湾岸署の刑事課に事情聴取に出向くことをその場所で約束した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。