絡まる糸/それぞれの望み
政治家と公務員の使命感と責任感の欠如が決定的な原因になって、アメリカからの横槍も手伝って、日本政府は省庁の利害の調整に失敗し、ヨーロッパ的な福祉国家を成立することが出来なかった。国民は国家への希望と信頼を喪失し、将来に対する安心感を得られなくなった。そんな理由からか、人口と国力は減少の一途を辿るばかりだ。
政府はそんな国内において、人材の頭数でなく、わずかな人材であっても質の高さで国際競争を勝ち抜いて、多大な成果を産み出す科学技術の躍進に国家の活路を見出そうとしていた。頼りは一握りのサイエンス・エリートたち。そして彼らが造り出すシステムとAIと商工業用のロボットたち。目指すは科学技術による産業構造の再編にある。
そうした計画に基づいて、科学技術省の会議室では『ネクスト・システム』と称する、あらゆる産業と科学技術の展望を議論するための定例の有識者会議が行われていた。
会議は全体のバランスを把握する、根回しの得意な遊佐義人大臣を議長とし、カフェオレにゴディバのチョコをお供に、中里事務次官の進行で万事滞りなく進められていた。
仕立ての良いツイードのスーツ姿の白髪紳士、社会学者で東都大学の主席教授である根本勝博士が、その手を挙げて意見した。
「農業に対する機械化システムは農業従事者の重労働を軽減し、産業自体を天候に左右されない接しやすい構造に変えて、品質管理を目的に、人の目で見て、人の手で触れるべき行程に多大な雇用を産み出しています。輸出量も右方上がりで、軒並み良好な成果を表しています。サクランボはジャパニーズ・ルビー、梨はゴールド・フルーツ、いちごはレッド・ダイヤモンド、白桃はジューシー・オパールと呼ばれて、現在、中国やインドやアラブ諸国、欧米の富裕層を対象に、日本の農作物は口に入れる宝石と称されてその価値が認められ、卸値は最低でも国内の八倍以上に設定されています。海外での優位性を理解した先見性のある農家たちは、企業と合弁して、個々の作物についての知恵と知識を農業機械システムに学ばせて、ウイン・ウインの関係を築いて農地を拡大し、大規模農業に乗り出しています。もはや農協に役目はなく、現在では動脈硬化を引き起こすコレステロールのような組織でしかありません。機能的でない旧体制は解体あるのみです」
そんな意見に中里が口先を尖らせた。そして、懸念を表情に表わした。
「しかし、それでは官庁の役割が制限されてしまいませんか?」
すると根本が安心するようにと微笑んでみせた。そして、その問いに答えた。
「形骸化したシステムは出来るだけ早く解体して、新たなシステムをリードしてゆけば、官庁の権限が制限されることはありません。民間が活躍しやすい環境を再構築すれば、官庁はそれに伴った新しい役割を持ちます。関連産業に関しても、インフラ整備を拡大して全国に雇用を創出することが可能でしょう。責任は民間に持たせ、官庁はそれを管理するだけで良い。要は、政府は民間が提案する進歩的な計画を援助して、決してその足を引っ張らないことです。それが結局、お互いの利益へとつながる」
最近、人気の若手女優と再婚したばかりの、シティの若き旗頭であるヒューマン・ネットの長谷川純也社長が、それに続いた。
「国交省では、全国の幹線道路に配備しているバッテリー・ステーションを利用して、交通管制ステーションを開設し、光ケーブルを道路上に毛細血管のように布き詰めて、無人車専用のセンサーを設置する計画を進めています。これによって様々な形式の公共交通が考えられ、物流は画期的に活性化するでしょう」
頭の薄い経済学者の七瀬尚俊教授が、長谷川の話が終わるのを待って、それに続いた。
「近代の経済を理解するには、世界を俯瞰で把握する必要があります。市場経済のからくりに注目するのです。バブルも不況も、結局は一握りの資産家や投資家が株や為替や相場を利用し、市場を操って作り出した異常でしかありません。現在の日本の株高や円高も、経済の実体がない以上、単なる虚構にしか過ぎません。市場経済は一般の投資家から見れば結構なギャンブルです。利益を産み出せば、大きな損失を被ることだってある。それでも大口の投資家にとっては打ち出の小槌に等しいものです。金であれ、石油であれ、水であれ、穀物であれ、彼らの資金が相場を操作しているわけで、ギャンブルは必ず親が勝つように出来ています。一般の投資家たちはそれに右往左往させられているだけです。そんな動向が容易く一国を窮地に追い込む場合だってあります」
黒いスーツをダンディーに着こなした長谷川は、プラチナのカフスを指先でいじり、生意気そうに唇を歪めて、遊佐に進言した。
「待っていたって誰もこの国の利益なんて考えてくれない。日本の問題は、他国から見ればしょせん他国の問題です。彼らは自国の利益のためにこの国を利用するだけです。アメリカだって、中国だって信用するに値しない。彼らはこの国が無くなったって、それに代わる適当な国を他に見付けます。結局、自分たちのことは自分たちで考えるしかない。そこのところを絶対に忘れてはいけません」
七瀬がその通りだと、大きく頷いて続いた。
「世界との競争力を意識して、簡潔にして便利な社会を目標に構築してゆけば、何もガラパゴス化を恐れる必要などありません。我が国は国土の狭さを利用して、他国をしのぐ進化を遂げて、他国とは一線を画した未来国家に成長すれば良い。農産物から食品やサービス業、運送システムに工業製品や建設業、エネルギー開発に至るまで、すべての分野において消費者が求める高度なスペック(仕様)を徹底的に追求するのです。何より使いやすく、利用価値が高ければ、どこの国の人々だって欲しがるに決まっています。私はそれがこの国の、強いてはこの国の産業全体の国際的価値を高める唯一の方策だと考えます」
すると根本が、憂慮するようにテーブルを指で叩いて、話し出した。
「私にはひとつだけ気掛かりがあります。メディアの方、特にこちらにおいでになる民放協会の椎名さんに伺いたい」
民放テレビ協会の副理事長である年配の椎名征一が、それに答える。
「私に質問とは何でしょうか?」
根本が、口元に余裕の笑みを浮かべてみせる椎名を見つめて、慎重に切り出した。
「メディアは大衆の意識や世論をコントロールする強力な装置のはずです。消費者物価指数や内閣の支持率がその例だと言えますね」
「その通り。根本さんのおっしゃる通りです。それが何か?」
「ところがメディアは絶大な影響力を分かっていながら使い道を誤って、物を知らず、物を考えない、サル並の人間ばかりを社会に生み出してきた。何かといえば社会の出来事を経済効果に置き換えて、ワイドショーさながらに政局ばかりを報道し、政策を扱わず、この国の政治を茶番にしてしまった。日本人からは理念や哲学が失われ、どこを見たって知識が浅くて損得ばかりを考える、幼稚な思考と安直な行動をくり返す者たちばかりです。彼らは誇りや恥がヒトにとって何を意味するのかさえ知りません。人々にある種の疑問を投げ掛けると、彼らは一番にそんな疑問が何の役に立つのかと考える。そんな人々が、いったい社会の何の役に立つのでしょうか?どうしてメディアは、そんな愚かな立ち位置を選んだのですか?」
椎名がそれを聞いていて一旦、顔付きを不愉快そうに紅潮させた。それでも気楽に微笑んで、テーブル上に両手を組んで、その問いに答えた。
「・・・日本人の欠点は臆病すぎるほどの自覚の無さにあります。粋がって見せるのも、バカをやって見せるのも、同調してくれる者たちがいるからこそ。一人きりでは何も出来ません。島国根性と言うべきかどうかは分かりませんが、周りを見なければ自分の行動を決められない特性があります。その代わりに、仲間がいれば何だってやります。それはもう、かなり非情なことまでもやってのける。それが日本人の本質であるならば、愚かしくも恐ろしくもあります。・・・メディアの人間性への影響については考慮してきたつもりです。当然、社会に対する責任についても熟考しました。・・・我々は、見聞を広め、知性や感性を養うための教養番組も数多く作ってきました。ですが、それでは視聴率が付いてこなかった。・・・学校の教育が考える力を養うためでなく記憶する一辺倒になって、国民の方が先に崩壊を始めたのです。1970年代に、高度成長に煽られてラットレースそのままの受験戦争が始まりました。それがストレスになって浅薄な群れを作り、平気で弱者を虐げるようになった。いわゆるイジメです。やがては中学校や小学校でも受験が始まって、子供たちは塾に通うようになった。野や山を駆けることをやめ、自然を相手に遊ばなくなりました。子供たちは、本来なら学校でやるべき勉強を塾でやるのです。こうして情操観念を養う時間が競争に割り当てられた。そして生き物たちの生き死にを考えて、星空を見上げて夢を膨らませ、自然の摂理を直感的に学ぶことよりスマホやゲームで時間を費やすようになった。・・・受験を終えて大学に入ると、学生たちはこれまでの束縛を振り払うかのように遊びに呆けて、三年になるとすぐに就活を始めます。二年の学生に将来は何をやりたいかと尋ねると、ほとんどが分からないと答えます。それが就活を前にすると、人並みにやりたいことをそれらしく答えるようになる。奇妙なことに、就活にもマニュアルや教室があると言います。若者たちのそんな考えを本心だと受け止められますか?・・・どうしたって彼らの夢や心の訴えだとは理解できない。それに何より、そんな若者を御社で雇いたいと思いますか?」
そんな話の中、遊佐の公設秘書の富永が、頭を低く会議室へと入って来た。そして室内に張り詰めた深刻なムードに気が引けて、遊佐の後方に畏まって立ち止まった。それからテーブルを囲んでいる知識人の重たげな表情を見渡した。
椎名はそんなことなど気にせずに、淡々と持論を続けた。
「これが海外なら、やりたいことが分からないような人間が大学に入ること自体が不可解なはずです。大学は子供だった彼らを大人に成長させ、専門知識を充分に学ばせて経験を積ませ、意味ある社会人にするための訓練の場所です。それらをクリア出来なければ卒業は出来ません。決して幼稚な子供たちを集めるための、憩いの施設ではありません。私はハーバードに留学していたので、その差を悲しいほどの現実だと理解しています」
富永が椎名の話に耳を傾け、恐縮しながら遊佐の背後に歩み寄ってきた。それから遊佐の肩を小さく叩いて、小声で耳元に報告した。
「大臣」
「何だね?」
「青山の『美食クラブ』から、新しい食材が調達できたとの連絡が入りました」
「よろしい。椎名さんの話が終わり次第、一旦、休憩を挟むことにしよう。その間に、いつものメンバーにこの話を伝えておいてくれ」
「承知しました」
富永が遊佐の横顔に小さく一礼した。テーブルでは、近代の社会とメディアの変節を語る椎名の話が佳境へと入った。
「それはバブル景気に湧いていた1980年代の後期から始まりました。その時代から、世間の浮かれように同調して、国民は楽なモノばかりを好むようになった。人々は哲学や議論に代表される真剣にして深みのある考えをネクラ(根暗)とあざけて中傷して、プロの現場であったホステス業に女子大生が進出し、芸能界ではアマチュア指向が広がって、良い大人が青臭い女たちをもてはやすようになった。女たちはパリやミラノでブランド物を買い漁って、男たちはフィリピンで女を買い漁った。私は大学を卒業して二十代で帰国して、この業界に就職したばかりだったので、その頃の日本人を強く覚えています。・・・そして国民は、物事を深く考える番組や読書を極端に嫌うようになった。それはもうひどくね。それからテレビでは旅行と食べ物とお笑いが主流になり、雑誌はカタログ写真とゴシップ記事ばかりになった。・・・そこで我々は考えました。彼らが望むように下らない番組を作り、情けない雑誌を編集して、国民の関心をコントロールしやすいように堕落するところまで堕落させようと。そうしておけば、疑うことなく国民はいつでもメディアの思うままにコントロール出来る。さらには政府でさえ恐れる強力な武器になると。・・・ところが時代は進んでいって、今ではそんな社会で育った連中が我々の会社でも責任あるポストに就くようになって、意図も知らずに、それらが業務の基準になってしまっている。それはもはや後戻りが出来ないことを意味しています。今さら後悔は先に立ちません。もちろん我々にだって疑念や葛藤はありました。美術や文学、歴史や神話を一括りに十頭身のマンガにしても許されるものかと。人生とはもっと生々しいものです」
その夜、青山の幹線道路沿いにあるダイヤモンド・ビルの車寄せに、黒塗りのハイヤーが次から次へと到着した。そして遊佐大臣と筆頭秘書の富永、椎名、根本、七瀬や長谷川、官僚の中里などの十二名を降ろし、そのビルのワンフロアを占める『月邸』という日本食をフレンチ・スタイルで食させる料亭内に予約した、蓮の葉と花と白鷺の柄のシルクの壁紙の装飾が美しい大テーブルの個室に集合した。
一方、TKOと大誠は、江梨子を誘ってオフィス・ビルの最上階にあるリビング・スペースに集まって、馴染みのイタリアン・レストランにケータリングを注文して、リアナのためのささやかな歓迎パーティーを催した。そこでリアナに、これまでの事件の経過と捜査の詳しい状況を伝え、今後の捜査の方向性について綿密に打ち合わせした。
ビールを片手に、ピザやカルパッチョを分け合って食事を進めるTKOのチームは、リラックスしながらも拳銃や射撃についての知識や経験を交換し合って、依頼されてくる事件の選別の難しさや、コンピュータのネットワークやハッキングについての醍醐味を語り、事件や捜査についての見解を率直に、分け隔てなく話し合った。大誠と江梨子は、リアナがやって来て、久し振りに穏やかな表情になったTKOを間近に見て、ちょっとした安心感を分かち合いもした。
それから次の日の朝に、リアナは漆黒の喪服に身を包んで、TKOに付き添って、カトリック麻布教会で行われる滝川ロベルトの告別式に出席した。これがリアナがシティにやって来てからの初めての仕事になった。
リアナはTKOから「告別式に集まった出席者たちを撮影して、彼らの動向を第三者の目で冷静に観察しておいてくれ」と依頼され、クラッチバッグに小型カメラを仕込み、オフィスでモニターしている大誠と連絡が取り合えるよう片耳にイヤホンを装着した。そうしてTKOから少し離れて、教会内での出席者たちの様子を注意深く撮影した。
教会内には、陽気だったロベルトの日頃の親交を表して、日本人の男女に混じってハーフの女性や外国人たちが混在していた。湾岸警察の安西警部たちも時間が許される限り出席をしていた。それから警視庁の細川警視が哀悼のために、ほんの短時間だけその場所を訪れた。また、長く片親だったローマ生まれの母親は、ロザリオを手に、愛する長男を失って悲しみに打ち拉がれ、気丈なロベルトの三人の妹たちに慰められながら、周りも気にせず涙が涸れるまで泣きじゃくっていた。
すると教会の片隅に、奇妙に冷めた眼差しをしている一人の女がいた。周囲には一人も知り合いがいないらしく、女は自分と同じにその場所に集まった出席者たちを用心深く観察しているように伺えた。大誠の見立てでは、洋服の着こなしや髪型から、女はどこか日本人ではないように思えるが、だからと言って北朝鮮出身の女工作員とは思えなかった。もしかしたら、色男だったロベルトにふられた女の一人なのかも知れない。
そんな中、一人の中年男が弱々しく、TKOの傍らへと歩み寄ってきた。リアナはそれを見て注意を傾け、隠し持ったワルサーPPKを手に取るべくクラッチバッグに右手を掛けた。ところが男はTKOの知り合いらしく、大誠からの報告で、拉致被害者となった篠田冴巡査の父親だと分かった。リアナはイヤホンにTKOと男の間で交わされている挨拶を聞いて、ホッと胸を撫で下ろし、クラッチバッグからその右手を離した。
篠田の父親は無精髭を生やし、なんとも疲れ果てた様子だった。そして、棺に納められたロベルトの遺体を見つめて涙目になって、大変に辛そうにその体を震わせた。それから唯一の頼みだと思うTKOだけに心の嘆きを言葉にした。
「・・・滝川さんは遺体があるから、まだマシです。こうして別れを告げられる。・・・ところが冴は、・・・娘は今もどこにいるのかさえ分からない。もしもどこかで死んでいたとしても遺体すらありません。・・・親にとって、これほど悲しいことはない」
TKOはそんな父親の肩に同情するように手をやった。それから辛い現状に負けないようにと、父親を慰めて勇気付けた。
「俺たちは犯人グループを逮捕できるよう全力を尽くしています。なんとか冴さんを見付けられるように。・・・あなたが体を壊していては元も功もありません。どうか、お気持ちをしっかりと持ち続けてください」
拉致被害者の家族や親たちは、透明のナイフで我が身を切り刻むような痛ましい虚しさと苦くて底深い悲しみを抱いている。事件が漠然としすぎていて怒りをぶつけられず、手を尽くせるだけの手立てすらない。それよりもなお、辛くて厳しい戦いをしている。そこで唯一、被害者家族の心の支えになれるのは、全力で彼女たちを探そうとしている、現実にそれを実行している戦士たちがいることだけだ。よって日本の政府は何の救いにもなっていない。弱者や被害者たちに対して過酷なほどに冷淡なのが、この国の政府と役所の実情だ。政治家や役人たちは単純に鈍感なだけなのか?それとも根っからのバカなのか?なぜか自分や家族の身に起きていたらという想像力が働かないらしい。被害者たちを自分の身内と思えないから、やり切れないほどの怒りや憤りが込み上げてはこないのだろう。
悲哀を研究する精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスによると、自身に死が迫っていたり、大切な人を亡くした人間は、『五段階の悲しみ』を経験するらしい。まずは死を『否認』する。死など考えられず、現実とはとても思えないからだ。そして、やがては『怒り』が込み上げてくる。それは、止めどもない怒りである。死なずに済んでいる人たちや、生きている自分自身に対して、そんな不条理さに、訳の分からない怒りを感じるのだ。そして次には神や運命に『取引』ができないかと願う。取引を持ちかけるために祈り続けて、懸命に懇願する。後一日でも生かしてくれたら、持てる物のすべてを差し出し、自身の魂すら捧げても構わないと。そして取り引きすることもかなわず、怒りも維持できなくなった時に『抑うつ状態』におちいって、絶望する。そして最後に、できることはすべてやったと認めざるを得なくなって諦め切るようになる。諦めて、ようやく死という現実を『受容』するのだ。
TKOは遠い日に混沌とした、そんな苦しみを味わっていた。そして、マルセイユにあるその街を後にした。彼には戦いの技術が備わっているからこそ、その事件は現在も後悔の瘡蓋となって彼の心にこびり付いている。そんな良く似た経験があるために、TKOには被害者家族の心情を我が身のことのように理解することが出来た。そして可能な限りに戦って、彼らの心の痛みを少しでも和らげたいと考えていた。
材料物性の研究アプローチに精通する森本博士は、3年前に人工レアアースの精製実験に画期的な成功を修めた芦田彰良博士とは、大学時代からの先輩後輩の仲で、東都大学の教授時代にはそれぞれに研究室を持った同僚ということもあって、基礎研究の段階では芦田博士の相談役を務めていた。肝心な部分を非公開に、この実験は『アシダ型人工レアアース』と称されて世界中から絶賛され、これが安定的に精製されるようになれば日本は資源大国に変貌して、日本再興の起爆剤になるだろうと、芦田の研究は日本中の期待感を一身に集めていた。
一方、森本は、梁瀬に請われてマイクロメカニック社の副社長となり、ヒト型ロボットの材質と形成を担当して、腐食と劣化に耐性を示す、緊張と緩和を伝達する復元力に秀でたポリマー細胞の精製に成功していた。そして森本の手によって開発されたポリマー細胞は、人工組成だが多能性幹細胞の名前を借りて『iPSポリマー』と名付けられ、完成された『ヒューマノイド』の自然な動作や人間的な表情を最大限に考慮して、体の機能を形成する人工筋肉を、人体とおおよそ同じ構造に創作することを決定していた。骨格と筋肉がほぼ同じ構造で、皮膚が自然で美しい素材であれば、『ヒューマノイド』の外観は人間にそっくりになるはずだと。
梁瀬の要請を受けて、梨々は3週間前から週末になると、葉月を伴って筑波のマイクロメカニック社にやって来るようになっていた。そんなお陰で、金曜の夜から月曜の朝までは、ここ半年間とにかく忙しかった父親とずっと一緒にいることが出来た。加えて、梨々にとって週末の来社は3D撮影をじかに体験できる、極めて興味深い学びの機会だった。
一夜が経って土曜の朝、3D撮影のプログラマーたちに混じって、梁瀬がスタジオの前室で待ち受けていた。すると、梨々と葉月がスポーティーな全身タイツの姿になって更衣室から出てきた。梨々は興奮して少しばかりはしゃいでいたが、梁瀬は頷いて、葉月のことを近くに呼んで、感謝の気持ちを小声で伝えた。
「済まないな。君にまでこんな格好をさせてしまってさ」
「そうね。正直言って、かなり恥ずかしいわ」
「済まない。本当に申し訳ないと思っている。梨々が一人では違和感を感じるだろうってさ。君までこんな風に巻き込んでしまって」
「仕方がありません。だって、あなたのお仕事のためですもの。だけど、お返しは高く付くわよ」
全身タイツが決して似合っているとは思えない葉月は、ちょっとばかり不機嫌だった。ところが梁瀬は心では本当に済まないと思いながらも、記念といって葉月の姿を写真に撮って、ふざけて笑ったりもしてみせた。
葉月と梨々が身に着けたタイツには、体の動きを読み取るためのモーション・キャプチャー用のマーカーが全身に付いている。プログラマーたちの手によって、筋肉に沿って二人のその顔に細かく、正確に二十数個のマーカーが貼り付けられた。そして次には、二人の表情を読み取るための小型カメラが二人の顔の正面に設置された。
すべてのセッティングが終了すると、二人は十六方がキャリブレーション・ポールに囲まれた、リビングルームとダイニングを模して作ったスタジオ内へと入った。そして、モニタールームで観察する梁瀬のアナウンスに従って、極力自然に半日分の日常生活を始めた。
二人の会話を録音して、モーション・キャプチャーによって顔の表情や全身の動きが、刻々とコンピュータに読み込まれてゆく。梨々と葉月は互いの格好を見て笑い合ったり、テレビでジブリのアニメ映画を見たり、葉月に英語と理科の勉強を手伝ってもらったりして、やがてはそんな格好もほとんど気にはならなくなった。
時には運動不足を解消するために小型のバドミントンで遊んでみたり、ある時は軽食を作ってそれを食べたりもした。
センサーは梨々と葉月の身体の動きだけでなく、二人の口元や眉や頬の動きなど、彼女たちの細かい表情までを正確にマッピングしている。そして彼女たちがその時、何を考えているのかが、MRIに検出されてくる脳内血流に読み取られ、二人の表情や全身の動作がデータ化されて記録されてゆく。それらを梁瀬とプログラマーたちが16台のコンピュータ・モニターに確認する。
時に梁瀬もスタジオに入って、梨々を抱き上げてみたり、肩を抱いたりして、豊かな表情や全身の動きを導き出しもした。そして土曜日の夕方までと日曜の午後までをかけて、出来るだけ多くのデータを蓄積した。
金曜日と土曜には、夕方になると梨々たちは子供のいない森本夫婦の山荘に呼ばれて、温泉付きのその家の客室に梁瀬と葉月の三人で泊まった。
梨々はそこで「叔父ちゃん」「叔母ちゃん」と呼んでいる森本夫婦と食事をしたり、家族団欒で温泉を楽しむのを殊のほか気に入っていた。また、森本家の愛犬である、とても大きなグレートデンの『ボス』と遊ぶことも楽しみにしていた。
ウイークデイになると、梁瀬はプログラマーたちと一緒に、コンピュータに蓄積されているデータを分析して、そこに表されている人体の筋肉の連動を観察した。それらを再度データ化して人体を再認識すると、人体が非常に緻密な精密機械であって、それらが満遍なくコントロールされていて、連動しながら働いている事実を今さらながら再確認した。そして病気やケガを負うことが、それらのコントロールを部分的に妨げている状態であることを具体的に理解した。
そして梁瀬は、『ヒューマノイド』が限りなく自然に動作するよう、人工筋肉に埋め込んだ表情や運動を作り出すデバイスのマーカーをバランス良く、注意深く調整した。それから最後にシステム全体を検証し、さらに再検証して、一切のトラブルが見付からないとする『オールクリア』の解答をコンピュータに得ると、ハードディスクに集積されたすべてのデータをバックアップを含めた9枚のハードディスクとクラウドにダウンロードした。
梁瀬は1日をかけて、デバイス・マーカーの調整とバックアップのダウンロードを終えると、モニタールームから意気揚々と出てきた。
クリーンルームで両手を洗って、ラテックスの手袋を着けた。それから防塵ルームを通り抜け、工房内へのそのドアを開けた。
すると工房の中央にセットされているスタンドには、技術者たちに囲まれた、人工筋肉の貼り付けが進められ、すでに作業も終盤に差し掛かっている一体の少女の『ヒューマノイド』が目を閉じて、もたれるように立て掛けられていた。
森本がニッコリ笑って、工房内に現れた梁瀬へと話した。
「モーション・キャプチャーによるデバイス・マーカーは完成したみたいだな」
「ああ。完璧の一言に尽きるよ。エクセレントだ」
梁瀬は『ヒューマノイド』の正面に立ち止まって、感極まってそれを見つめた。
『iPSポリマー』を使用して作られた人工筋肉は、赤みを帯びて生々しく、技術者たちの手によって骨格と筋肉同士の貼り付けが進められ、非常に順調に、そして精巧に、梨々の全身を形作るまでに至っていた。
表皮は無いものの、顔面部の造作にはすでに梨々の面影が伺えた。なにより四肢の長さや頭の大きさや首の長さや肩幅などの全身のバランスが梨々そのものだ。ここまで来ると、その存在は無気味なくらいに生々しく、生命の尊厳なるものを感じさせて、さながら『人体の不思議展』に見る、解剖された娘をその目にしているかのようだ。
森本がそんな梁瀬に目をやって、両手を組んで、頷いて話した。
「こちらもおおよそスケジュール通りだ。来週の頭には、君の班に仕事を引き渡すことが出来る」
「いよいよだな。本当にいよいよだ。ここまで来れば、彼女が生命を宿す時はそれほど遠くはない。私たちは自らたちを信じて良くやって来た。私たちを支えてくれた家族やスタッフたちに感謝したいよ。・・・私たちは、私たちはようやくここまでやって来た」
続けて『梁瀬班』が、人工筋肉に指令を伝えるデバイスを設計通りに全身に埋め込んで、6枚のAIチップを人工知能内にセットした。
そこから先は、科学的というより人間らしさや美しさを追求する形成班に担当が移り、人工皮膚を全身に貼り合わせて、人工頭髪や眉毛や睫毛を植毛して、仕上げに表皮を生きているヒトと同様に形成するだけだ。
『ヒューマノイド』は間違いなく完成に近付いている。肋骨の内側にセットしたチタンニオブ系酸化物のリチウムイオン電池は、ワイヤレスで充電され、耳の後ろにあるスイッチさえ押せば、半永久的に稼働を始めることになる。
梁瀬はそれを見つめて、喜びや悲しみなどの感情が渦巻いて感じる、倒錯を帯びた高揚感に打ち震えた。今はまだ空っぽの容器のような物体でしかないが、やがてそれは微笑んで、声を上げて笑って、喜んで、話しに答えて、触れると反応して、すねたり悲しんだりするようになる。そこにあるのは単なる人間の模造品でなく、生命を宿して動く梨々の分身だ。
梁瀬は深く感動して息を飲み込んで、森本にひとつ提案した。
「な。どうだろうか?彼女を『リリィ一号』と名付けても構わないかな?」
「もちろんだ。そうか。そうだな。『リリィ一号』か」
「ああ。彼女は梨々の分身だ。私の二番目の娘だよ」
「分かりやすくて良い名前だ。その名は人類のロボット工学の歴史に永遠に刻まれる。敬意を持って後世の科学者たちに語り継がれてゆくことになる」
シティにやって来てからのリアナは、TKOの習慣に従って午前10時に目覚めると、最上階のトレーニング・ルームに集まって、一時間半ほどをゆっくりとストレッチと筋力運動に費やして、いわゆるウォーミング・アップを念入りに、呼吸を整え、汗を流してから、ランチを採るようにしていた。こうして二人は常に肉体を軽快に保って、緊急事態に即応し、瞬発的に動けるように心身を備え、捜査に出る前の毎日の日課とした。
それから小銃や防弾ベストなどを装備して、だだっ広いガレージに降りてくると、そこには『ヒカリ・ユニット』が完成させた、シルバーのボディも重厚な、前線用のグランド・コントロール装甲車、GC2020型が納車されていた。リアナがそれを見て感心して、驚きと微笑みが入り交じって、TKOに告げた。
「凄いわね。これじゃ、まるで軍隊の装備じゃない」
「ユニットはいつだって俺たちを驚かせてくれる」
TKOはそう答え、装甲車の間近にやって来ると、リアナと一緒に、軍用の装甲車のような大きくて威圧的なボディを見ながら車の周りを一周した。銃撃されてもバンクしない分厚いコンバット・タイヤ。密閉度の高い油圧システムのハッチ式のドアに三対のキセノン・ライトとフォグ・ランプ。防弾ガラスの個々のウインドウは視界が広く設計されている。リアナが、特殊加工されたボディの表面を指で触れて確かめてみた。
すると、TKOが二回、手を叩いて、声を高く天井に大誠を呼んだ。
「大誠っ!」
それに応えてモニターが入力し、オフィス内にいる大誠が映し出された。
「何だい?」
「こいつは、たいした届け物だな」
「午前中の間に、中溝さんが届けに来てくれた。例によって江梨子とお喋りして、ゆっくりとコーヒーを飲んでいったよ」
そう言って大誠が、近くにいる江梨子に鼻で笑ってみせた。
TKOが苦笑した。
「まったく奴は懲りないな」
大誠がファイルをクリックして、モニターにGC2020の設計図とマニュアルを呼び出して説明を続ける。
「これは通称をトータス(陸亀)と言って、車内にはオフィスと同等のコンピュータ・コクピットが搭載されている。頑強なボディは『メタマテリアル』で加工されていて、ステレス機能で姿を消すことが出来るそうだ」
リアナがそんなボディに触れながら、大誠に確認するように尋ねた。
「光学迷彩なの?」
「そう言うことだね。他にも監視ドローンの発射システムや、市街戦に応じたいろんな装備が整っているみたいだ。これがあれば突入の際に、君たちのなるだけ近くから戦闘状況を管制することが出来る」
TKOが納得して頷いて言った。
「より迅速に。より正確にだな」
「そう言うことだね」
「こいつを実働させる前に、ドライブ・シュミレーターを使って、しっかりと学習しておいてくれ。良いな」
「分かっている。ユニットが最高の道具を作ってくれたんだ。これは大きく俺の能力を引き出してくれるはずだ。しっかりとシュミレーションして楽しませてもらうよ」
「頼んだぞ」
「もちろんさ。分かっている」
「それじゃあ、俺たちは捜査に出掛けるよ」
TKOがそう言うと、大誠の頷く表情を最後に天井近くのモニターが消えた。
TKOがエアロ・バイクのその前にやって来ると、改めて自分は幸運だと思って、笑みを浮かべて頷いた。それからリアナの上体を引き寄せて、彼女の唇にキスをした。リアナがTKOのそんな唐突な行動にポッと頬を赤らめた。
TKOがバイクに跨がって、バックシートに跨がってきたリアナへと告げる。
「お前は俺の喪失感を忘れさせてくれる。お前がここにいてくれて、俺は幸せだ。人を愛せるってことは本当に気分が良いよ」
ガレージの帷子型のシャッターが引き上げられていった。リアナは後部座席に跨がって、TKOの腰に両腕を回して、頬を背中に押し当てて嬉しそうに微笑んだ。すると、TKOがバイクのエンジン・モーターを起動して、アクセルを握り、そんなリアナへと告げた。
「行くぜ」
「準備は出来ているわ」
TKOがアクセルを絞ると、エアロ・バイクは緩やかに旋回しながら低空に上昇し、太陽光が差し込んでみえるガレージの表へと速やかに走り出していった。そして恵比寿の駅前のロータリーに出てくると、山手通りの方面に向かってスピードを上げた。




