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玖壱 餓車髑髏


 咲良は古代刀を引き擦りながら、じわじわと静先生に近寄っていった。

「姫塚で何をしている…? 祝部(いわいべ)どもの()には乗らぬ…」

 咲良は学瀛の低い声を発した。


「可愛い咲良。私の声が聞こえますね。さぁ、学瀛を連れて来なさい。彼は鬼。たくさんの人を苦しめ、殺したんです…」

 静先生がルイの背中から手招きした。

「静先生、お祓いを! 咲良ちゃんと学瀛を分離して下さい!」

 雨音が必死に頼んだ。


 鬼御殿の外で、俄かに空が掻き曇り、稲妻が連続して光った。

 たちまち、大粒の雨が岩肌を叩いた。



 ズン…。

 足音が地響きを伴った。

 何かが鬼の寝所から出て来た。

「マナブー。お腹が空いたよー。妊婦と胎児を二組喰った。児の父親とその親も、ついでに喰った。でも、まだ腹が空いてるんだ…。子供の匂いがする…。子供が食べたいよ…」

 主典に取り込まれたカズチの声がした。


 カズチは倒れた鉄格子を踏み付け、(とばり)を開いた。

 彼は元同居人のマナブが地面に倒れているのを見て、

「あっ! マナブ!」

 と、声を上げた。


 マナブの側に突っ立っていた雨音は、

「カ…カズチさん!? え…!?」

 と、巨大な餓車髑髏(ガシャドクロ)を仰ぎ見た。


 生身の肉は殆ど残っていなかった。

 白光りする骸骨、ぎらつく赤い眸があった。

 僅かにへばり付いた頬の筋肉で顎を動かし、カズチの声で喋った。

「あれ? 源次くんだっけ? ここで何してるの?」

 カズチは京都市内のスーパーで話した時みたいに、人懐こく微笑んだ。

 唇が無く、剥き出しになった歯茎が、雨音の目に付いた。


「主典…!?」

 雨音は無意識に呟いた。

 餓車髑髏(ガシャドクロ)は雨音の身長の二倍で、岩の天井で背を丸めていた。

 破れた狩衣から、左右の肋骨が露わだった。

「僕は…マナブさんに会いに、愛宕に来ました…」

「マナブはどうしたの?」

 ギシギシ骨を軋ませ、主典が俯いた。


「マナブー、返事してくれよ! 頭痛がひどいんだってばー。ねぇ、マナブー。薬をくれよー!」

 主典が気絶しているマナブを摘んで、揺さぶった。

 その時、彼はマナブと自分の規格(スケール)の違いと、自分が白骨化していることを初めて知った。

「うわわわぁー!! どーなってんだよ、俺!?」

 主典は自分の両手を見て、大声で喚いた。


 学瀛が咲良の口を借り、

「主典。おことは千年の封印から復活しても、肉が戻らなかった。肉塊という言葉があるが、おことは骨塊。その姿はいかにも不充分よな。主典、早う肉を喰って補え」

 と、しんみり答えた。


「その声は、学瀛か? ああ、こんなに苦しいのはどうしてなんだ? 教えてくれよ!」

 主典の息が荒くなった。

「死にかけておるのよ、主典。おことの元々の寿命が、この千年で尽きてしもうた…」

 咲良は悲しそうに目を伏せた。


「クァーキギィー!! キギィー!!」

 鳥が裂けて死ぬ絶叫のように、主典が叫んだ。

 主典の全身に、朱色の隈取が浮かび上がった。

 稲光が鬼御殿を照らし込み、落雷の轟音が鼓膜を震わせた。



 主典は足を踏み鳴らした。

 鬼御殿は地震のように揺れた。

 主典は号泣しながら、

「やっと鬼になったのに、このザマか。研究室の奴等全員に復讐してやろうと思ったのに、俺はもう死ぬしかないのか? 学瀛、俺を捨ててその女の子と行くのか? マナブの奴、俺を檻に閉じ込めてたな。マナブ! おまえを恨むぞ!」

 と、マナブの肉体を踏み潰そうとした。


 マナブの肉体がむくっと起き上がって、骸骨の足を避けた。

 マナブの赤毛が黒くなり、長い角が消えた。

 彼は鬼でなくなり、人間に還ったのだ。


 人間に還っても、マナブは嫌味な笑みを浮かべ、

「カズチ。最初から君は、大好きな主典をよみがえらす為の生贄さ。君んちに居候させてもらって、色々お世話になったよね。君はとても優秀な殺人鬼だったよ。どうもありがとう」

 と、言った。


「くぅっ」

 主典が力いっぱい、マナブの腹を蹴り付けた。

 マナブは簡単に壁まで吹っ飛んで、逆さから落ちた。


 マナブは唇を切り、血が混じった唾を吐いて、狩衣の袖で口元を拭いた。

 内臓を損傷し、痛みに顔を歪ませた。

 彼は咲良に視線を向けた。

「学瀛。咲良と行く? 契約はどうなった? おまえ、誰に復活させてもらったんだ? 笑わせるなよ…」

 マナブは青白く燃える眸で睨んだ。


「さらば、マナブ」

 学瀛が冷たく、咲良の口で告げた。

「咲良は僕の姫だっ!」

 マナブが床に落ちていた神泉を抜き、咲良に投げた。

 咲良は心臓の手前で、片手で神泉の鍔を指に挟み、受け止めた。



 主典がのけ反り、喉から奇声を迸らせた。

「クギィー!! クギィー!!」

 主典の振り下ろした拳骨が、マナブの全身の骨を砕いた。

 マナブは血を噴いて倒れた。


「マナブ!」

 一瞬、咲良の口から咲良自身の声が出た。


「マナブさん!」

 雨音が走り寄って、マナブの頭を抱えた。

 マナブは頭部以外、グチャグチャだった。

 骨と腸を巻き散らし、特に腰から下は原型も無かった。


「源次…」

 マナブが薄目を開けた。口から血が溢れた。

「マナブさん! 渡邊です、剣道部の後輩の渡邊です! 中学の時ずっとお世話になった…」

 雨音が涙声になった。


 マナブはふと、表情を和ませた。

「な…んだ。君…か。君…は、素質がある…。頑張れ…よ…」

 急に、マナブが鋭く息を飲んだ。

 呼吸が停止した。

「マナブさん…、嘘でしょ…」

 雨音はマナブの上に被さって、肩を小刻みに震わせた。



 主典は悦に入り、手を叩いた。

「復讐だよ、マナブ。俺を鬼に喰わせただろ。今度は、俺がおまえを喰う…」

 髑髏の手がマナブの遺体に迫った。

 雨音が鬼切の太刀を抜き、髑髏の手に切り付けた。


 餓車髑髏(ガシャドクロ)は雨音の頭上に拳骨を構えた。

「源次、おまえは誰の味方だ? 俺は人間だ。俺の魂をこの死にかけの鬼から解き放ってくれるなら、おまえの命は奪わずにおいてやる…」


 雨音は問いに答えた。

「命なんかいらない。その覚悟で愛宕に来た。おまえは鬼だ。身も心も」

「そうか」

 主典は頭痛で苛々としていた。


「クゥグルル、クギィー!!」

 主典が雷鳴よりも激しく咆哮した。

 震動で岩にヒビが入り、粉がパラパラ落ちた。



「マナブ…! マナブを助ける為に、学瀛と分離してもらったのに!」

 咲良が飛び出しかけた。

 静先生が咲良の腕を捕まえた。

「咲良、来なさい。主典は渡邊くんと戦ってる。今のうちに!」

 静先生が護符で、咲良の目を塞いだ。

 天狗のレイが来て、咲良を担ぎ上げた。





 紅葉の真ん前で、一本角の鬼・カイチが狩衣の袖をぴんと張り、

「火の里へようこそ…」

 と、言った。


 突然、紅葉は暗闇に落ちた。

 遠くで武蔵と蘇芳と雲林院の声が聞こえ、

「月が消えた。真っ暗だ…」

 と、ボソボソ話しているのが聞き取れた。



 紅葉は柔らかな土に立っていた。膝まで草が茂っていた。

 風は雨の匂いを含み、雷鳴が聴こえた。

 雷帝の刀匠の魂が、

「紅葉、敵を見極めよ…」

 と、ボソボソ話した。


 紅葉は暗闇に目を凝らす。

 彼女の持つ雷帝の白刃が、急に青白く光り始めた。

 光る虫が群がっている。

「何、これ!?」

 紅葉は血振りをした。虫は落ちなかった。


 虫は刃をボロボロにしていく。

 よく見ると、紅葉の袴にも虫が(たか)っていた。

「また虫!?」

 紅葉は悪寒を感じた。


 袴に穴が開き、靴にも穴が開いた。

 虫じゃなくて、とても小さい鬼が貪欲に紅葉に食いついていた。

 紅葉は1ミリぐらいの青白い鬼を摘み上げ、プチュッと潰した。

 青い汁が出た。

「前にも見た…。この小鬼…」

 紅葉はドキドキした。


 小鬼は土から這い出し、紅葉の袴や足を登ってきた。

 小鬼は1ミリぐらいの小ささで、額に二本の小さな突起…角があった。


「おにぃ、小鬼が(たか)ってくる…」

 紅葉が蘇芳を呼んだ。

「紅葉ー、どこにおるんー!?」

 遠くで蘇芳の声がした。



 紅葉の袴がどんどんほつれ、両足の皮膚が傷だらけで赤くなった。

 痛みはなかった。

「鬼が私の心を喰ってる。私の心はどこかに閉じ込められてる…」

 紅葉は辺りを見回した。

 走ろうとして、足がもつれた。

 何か柔らかい物の上に倒れた。


 暗闇にぼんやりと、土塗れのスミレの顔が浮かんだ。

 紅葉はスミレの遺体の上に倒れたらしい。

「スミレちゃん、ごめん…。助けてあげられなくて…」

 紅葉はスミレの顔を、丁寧に拭いた。


 スミレの眼が、カッと開いた。

 眸が薄いオレンジ色だった。

「紅葉ちゃん…」

 スミレの手が紅葉の腕を、強く掴んだ。

「紅葉ちゃん。鬼ごっこが始まる。捕まったら、紅葉ちゃんが鬼になる…。ほら、鬼が来るよ。ほら…」

「わ、わかった」

 紅葉は急いで立ち上がった。


 背後からザクザクと、土を踏みしめる足音が近付いてきた。

 振り返らなくても、わかる。

 彼女を追いかける鬼は、彼女自身と全く同じ顔をしている。

 服装も同じ、袴の破れ具合も同じ。


 ただ、鬼は髪が乱れてバサバサで、髪の間から極端に色の薄い眸でこっちを見詰め、ニタニタ嗤っている。

 締まりのない口元から、ヨダレが一筋流れていく。


 紅葉は全力で暗闇を走った。

 紅葉は何度も躓き、つんのめってこけた。

 崖があり、藪があって、剣道着が裂けた。


 紅葉と同じ顏の、髪を振り乱した鬼がどこまでも追いかけて来る。

 鬼に捕まったら、紅葉の心に入り込み、紅葉が次の鬼になる。

 紅葉は夜を彷徨って、獲物を狩ることになる。


 紅葉は山の中を走り続けた。

 靴が脱げ、裸足になった。

 沢沿いに出たのか、土の地面の感触が砂利に変わった。



 小鬼は増え続けて、彼女の袴はミニスカートのように短くなった。

 足の小指の爪が一つ剥がれた。

 小鬼は紅葉の皮膚に食いつき、侵入していった。

 小鬼に食い尽くされても、鬼になってしまう。


 紅葉は暗闇を駆け続け、冷たい川に入った。

 水が跳ねる感触があった。

 川の途中途中から深くなってきた。流されそうな勢いがある。

 体が芯から冷えていく。


 紅葉と同じ顏の鬼が、岸辺で待っている。

 ニタニタ嗤っている。

 紅葉は川から出られない。



「紅葉、言葉遊びをせぬか。おぬしが間違うごとに、私はおぬしの方へ近寄る」

 青い鬼火に包まれ、カイチが川面を滑るように歩いてきた。

 紅葉には一方的に不利なゲームだった。


 カイチは数メートルの距離を置いて、ゲームを開始した。

「一つ目。ここはどこか? 真理に関係なく、面白く答えよ。これは遊び」

 紅葉は数秒置き、

「この川が象徴してるのは、私の命の終わり。三途の川。あなたは彼岸(ひがん)から来た。あの世から」

 と、答えた。


 カイチは美しい顔を綻ばせ、

「なるほどな。面白い答えであったが、間違いじゃ。私は二歩進む」

 と、水上を二歩進んだ。

「二つ目。おぬしを喰う、その小鬼は何か。恥ずかしがることはない。正直に答えよ。誰も聞いておらぬ」

 カイチが問題を出した。


 紅葉は寒さに震えながら、

「心の弱さを象徴してる。メンタルが弱いほど、鬼に喰われてく。青い小鬼は最初にマナブが連れて来た。嫉妬と逆恨み、どろどろした感情…。前に、私はこの小鬼に喰われて、嫉妬の鬼になりかけた…」

 と、答えた。


 カイチは腹を抱えて嗤い、

「なるほどな。正直に答えてくれたが、正解ではない。私は三歩進む…」

 と、水上を進んだ。


 彼は大きな鎌を取り出した。

「三つ目。紅葉よ、次に間違うと、この鎌がおぬしの頭上まで進むぞ。慎重に答えよ。おぬしの目の前に今対座する、この私は何者か?」

 カイチは鎌を振り上げた。


 紅葉は口を噤んだ。

 間違えたら、首を刈られる。

 紅葉は頭の中で、色々な事柄を思い浮かべた。


「何も答えぬか。ならば、間違いと見なす。鎌はおぬしの頭上に届く…」

 カイチがするする水上を滑って、紅葉に触れるほど近付いた。

 鎌はあの青白い小鬼の集合で出来ていた。

 ウヨウヨと蠢いて、輪郭が揺れていた。


「紅葉。おぬしは心の中で死ぬ。その死は肉体の死ではないが、おぬしの肉体は意思による行動を取れなくなり、やがて枯れた花のように萎んで死ぬ」

 カイチの鎌が、紅葉の首を刈り取ろうとした。


「待って! 一か八か言ってみる!」

 紅葉は思わず目を閉じ、

「名はカイチ。つまり、中国の一本角の神獣。昔、神社の狛犬も一本角があった。神社の狛犬は本来、獅子と高麗犬(こまいぬ)で一対。魔除けとして神社に配置された。たぶん、あなたは獅子の鬼・学瀛と対を為す鬼…」

 と、答えた。



 静寂があった。

 紅葉の頬を雨粒が叩いた。

 紅葉が目を開けたら、月明かりの空はどす黒く曇り、稲妻が閃いていた。


「紅葉。カイチは嘘を付かない誓いをした鬼神でな、おまえが正解したから立ち去った。この雷を聞け。学瀛が来る。あいつは雷神だ」

 武蔵が紅葉の肩を叩いた。


 紅葉の足元に水溜りがあり、雨で細波が立っていた。

 暗闇を流れる、冷たい川は消えた。

 彼女は姫塚のてっぺんにいた。





 彼等はずぶ濡れになった。

「紅葉、見てみ。あれ、咲良ちゃんやろ?」

 蘇芳が指差した。


 鬼御殿の方から、双子の天狗が静先生と咲良を連れて来る。

 その背後を、巨大な髑髏が追いかけてきた。

 森から髑髏の頭が一つ、飛び出ていた。地響きがした。


「静、マナブはどうした? あれが十二の大鬼のラスボスか? でけぇじゃねーか…」

 身長2メートルある武蔵が、餓車髑髏に驚いていた。


「あっ、雨音が髑髏の口に…」

 雲林院が雨音を見つけた。

 髑髏の下の犬歯に雨音の帯が引っかかり、彼は鬼切を手に握り締めたまま、宙吊りになっていた。

 雨音は意識がなさそうだった。


「グギィー!」

 髑髏が吠え、拳骨で双子の天狗に襲いかかった。

 ルイが跳ぶ前の場所を、拳骨が叩いて岩が割れた。

「ああっ!」

 静先生が手にしていた護符が破れ、咲良が両目を開いた。


 天狗のレイに抱き抱えられていた咲良が、重厚な古代刀をぶんと振った。

 レイの首が両断され、頭部が飛んだ。

 レイの首から下が咲良を手放し、大きくジャンプして、自分の頭部を拾った。

 レイは頭部を前後逆に載せ、その後、半回転させて定位置に嵌めた。



 紅葉は雷帝の刀匠が言った言葉を思い出した。

 敵を見極めよ。

「咲良ちゃんが…敵?」

 紅葉は咲良の尖った目頭、吊り上った目尻、赤い眸を見た。

 咲良の回転させた古代刀が、鈍い切れ味で静先生の腰を叩き折った。


 静先生はルイの背中から墜落した。

「私はもう一生立てないでしょう。武蔵、私はここから九字を切ります。あなたが反閇(へんばい)して!」

「おう!」

 武蔵が姫塚の、旭が命を賭して配置した祭壇に向かった。

 静先生に髑髏の足の裏が迫った。


「静先生!」

 紅葉は悲鳴を上げた。


 双子のルイとレイが髑髏の足を下から食い止め、全身の力を振り絞って耐えた。

 彼等の両腕の筋肉が震えた。

「頼光、今世こそ、主典の首を奥まで刺し貫いて、未来永劫消し去って下さい!」

 ルイが蘇芳を呼んだ。

「でも、雨音が…。咲良ちゃんが…」

 蘇芳は戸惑った。



 雲林院は髑髏の足の裏の下に飛び込んで、静先生を背負おうとした。

 静先生は腰が折れ、激痛で動けなかった。

「私は大丈夫。臨、兵、闘、舎…」

 静先生は鬼の形相で、九字を切り始めた。

 武蔵が呼応して、反閇の九歩を歩き始める。



「おにぃ、咲良ちゃんは私に任せて」

 いつの間にか、紅葉の口からその言葉が飛び出していた。

 これが自分に課せられた役目だと思った。


 紅葉は赤い眸の咲良と対峙した。

「一生、いい友達でいられますように…って、下賀茂の相生神社で、絵馬かけたよね。咲良ちゃん…」

 紅葉が囁きかけた。

「祝部ども…」

 咲良は恐ろしい目付きで、紅葉を睨んでいた。



「紅葉、咲良ちゃんは任せた。あの子を殺さんといてや」

 重傷を負う蘇芳が、一人で主典に向き直った。


 主典は蘇芳に気付き、静先生から足を退けた。

「おまえ。その顔は見覚えがある…。誰だったかな…。俺が昔、山伏から怨霊に成り果てた頃…。いや、違う。腹が減って、考えられない…。俺は…K大の研究室にいた…。俺は教授を解剖した…」

 主典は混乱した頭を左右に振った。

 髑髏の歯をカタカタ鳴らし、両手で固めた拳骨を振り上げた。


「雨音、何寝てるねん。そこ、鬼の首を切り落とすのに一番邪魔なとこや…」

 蘇芳が苦々しく呟く。

 主典の首の高さは3メートル以上ある。




 一方、武蔵は九歩の反閇を歩き終えた。

 後は一心に祈るだけだ。

 激しい雷、土砂降りの雨。

 稲妻に照らされる愛宕の山並み。


 貴船で八尾の狐を封じた時と違い、何も起こらない。

 天狗のルイとレイも大地に身を投げ出し、一心に祈った。


 静先生はここに来て、お祓いの祝詞(のりと)を唱えていた。

 この地のエネルギーが、静先生にそうさせた。

 神々に語りかけようとすると、静先生は痛みを忘れた。

「…祓い清め給えと(もう)すことを聞召(きこしめ)せと、(かしこ)み恐み(もう)す…」

 静先生は自分の声が山に吸い込まれていくように感じた。


 ルイは愛宕山を見て、付け加えた。

神山(かむやま)(いま)阿多古(あたこ)主人(うし)よ、禍事(まがごと)、罪、穢れを焼き祓い、清め給えと曰すことを聞召(きこしめ)せと、恐み恐み曰す…」

 雲林院は間近で聞いていた。

「何も起こらねぇ。山上、俺達じゃダメなのか!?」

 武蔵は焦った。




 咲良が紅葉に対し、極厚の鉄刀を振ってきた。

 まさに金棒。

 彼女の華奢な腕にそんな怪力があろうはずもないのに、軽々と振る。

「紅葉。この女を斬れ。愛しい男が自分一人のものになるぞ…」

 咲良の口から、学瀛の声がした。


 紅葉は納得した。

「そーゆうことか。咲良ちゃん、マナブを殺したくないから何か取引したんやね? 学瀛、言っとくけど、私はもう恋なんてせぇへんの!」

 紅葉が咲良の重過ぎる刀を避けた。

 傍にあった石が割れた。


「咲良ちゃんの首を切り落して、脳幹を突けば、学瀛を殺せる。…でも、そんなことは絶対出来ひん…。静先生、お願い。早く学瀛を封印して…」

 紅葉は雷帝を中段に構えただけ。

 あの刀をまともに食らったら、重さで吹っ飛ばされる。

 ひたすら逃げるしかない。


「咲良ちゃん、私よ。紅葉。なぁ、目を覚ましてぇ…」

 紅葉が話しかける。

 切なくて、涙が込み上げる。

「紅葉、おことの兄が死ぬぞ。頼光が主典に殺される。千年前の報復。見よ…」

 学瀛が咲良の口で嘲笑する。


 咲良の全身から藍色の鬼火が溢れ出し、紅葉の顔に青く反射した。

 電気がバリバリ言い始めた。

 姫塚の頂上にあった杉の木に、雷が落ちた。

 轟音が紅葉の耳を襲った。

 紅葉は感電するかも知れない恐怖で、一瞬、雷帝から手を放した。


 連続して、愛宕の山に雷が降った。

 轟音が耳を麻痺させた。





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