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玖弐 相討ち


 愛宕の山々を稲光の点滅が浮かび上がらせ、また土砂降りの雨が愛宕の山々を掻き消す。

 激しい雷雨が続く。


 姫塚のてっぺんの杉を裂いた雷。

 鼓膜が痺れ、聴覚が麻痺した。

 紅葉は感電するのを恐れ、打刀・雷帝を投げ出した。


 紅葉は泥水に膝を着いた。

 咲良は錆び付いた鉄の古代刀を持ち、仮面のように固まった表情で、口をパクパクさせた。

 紅葉には何も聴こえなかった。

 彼女は咲良の口の動きを読んだ。

「紅葉。そんな軽い刀でどうせ持ちこたえられぬ。さっきのは、ほんのお遊び」

 咲良が極厚の鉄刀を振り上げた。

 咲良の中に、学瀛(がくえい)がいる。


 紅葉は濁った水溜りを手で探った。

「雷帝さん、助けて!」

 紅葉が雷帝に宿る刀匠の魂を呼んだ。

 雷帝は泥水に沈んでいた。


「咲良ちゃん、待って…、殺さんといて…」

 紅葉は惨めな気持ちだった。

 彼女は咲良に命乞いした。

「私達…、なんで殺し合わんとあかんの? ほな、何の為にスミレちゃんは死んだの? スミレちゃん、咲良ちゃんの身代わりになって死んだんやで…」

「スミレ…?」

 咲良が呟く。


「ああ、人柱になった娘か。自ら人柱になったのなら、仕方あるまい。私と共に行くことは、咲良が決めたこと。紅葉、すぐに楽にしてやろう。頭が真っ二つになって…、痛いと思う暇も無い…」

 咲良は切れ味鈍そうな極厚の鉄刀で、紅葉の頭に狙いを定めた。


「咲良ちゃんは…私を殺して、その鬼と行くの…? そんなの、裏切りやん。うちのおにぃと…雨音くんと…静先生と…武蔵さんと雲林院くんを殺して…、そいつと行く…? お願い、嘘やって言うて…。旭さんも死んだのに…」

 紅葉は悔しくて涙を零した。


 姫塚に、東雲(しののめ)の太刀に自ら貫かれた、奇形の鬼の遺体がある。

 旭は緑色のカビに覆われ、難破船の残骸みたいだった。



 その時、古代刀を持つ咲良の手がぶるぶる震え、歯がガチガチ軋んだ。

「違う、紅葉ちゃ…ん…。裏切ったりしない…。私は…学瀛を…殺してほしくないだけ…だよ…」

 すると、咲良と学瀛が多重人格者のように入れ替わり、

「咲良、おことは私を選んだ。この娘を斬れ!」

 と、言った。


 咲良はぱっと駆け出し、紅葉に刀を振り下ろした。

 赤い血が、暗いモノクロの世界に飛び散った。


「咲良ちゃん!」

 紅葉は遠い耳で、自分の叫ぶ声を聴いた。

 咲良の体重が乗り、刀がぐっと引かれる。

 紅葉はのけ反った。


 額が熱い!

 死んでしまう!


 紅葉は咲良の青白い顔が驚愕で引きつっているのを、倒れる間際に見た。

 咲良の可憐な顔に、紅葉の血の返り血が飛んでいる。


 紅葉の手が泥水の中から雷帝をすくい上げ、咲良の鳩尾(みぞおち)を突き上げていた。

 紅葉の泥塗れの顔にも、咲良の血の返り血が飛んだ。





 姫塚の下の小径(こみち)

 餓車髑髏(ガシャドクロ)と化した主典(しゅてん)が、

「グギギ、ギグァーッ…!」

 雷鳴に負けない咆哮を上げた。


 主典が背を伸ばして立ち上がる姿を、巨大なヒグマを見上げるように、蘇芳は苦々しく見上げている。

 鬼の牙に、気絶した雨音が引っかかっている。

 雨音は主典の骨格のせいで、いつもより小さく見える。


 主典は坂の上の咲良に向けて、

「学瀛、待てよ。俺を鬼に喰わせ、鬼にしといて、肝腎の鬼がこんな死にかけの骸骨(ガイコツ)だなんて酷過ぎる。詐欺だ。マナブの次はおまえだ…」

 と、唸った。


 主典は姫塚の上がり口で、蘇芳を見下ろした。

「そこを退け。俺はあの女の子に憑りついた悪霊に用がある。…おまえ、見れば見るほど頼光に似てるな。もしかして、本物の頼光なのか? …源頼光。昔、俺の首を斬り落とした男の名前さ。…いや、話がおかしいな。俺は首を斬られてなんかない…。俺の名はカズチ。昨日、ここに着いたばっかりなんだ。あれ、一昨日だったかなぁ…」

 主典の記憶は混乱している。


 主典は頭痛と飢餓感で苛立った。

「ああ、腹が減った…。新鮮な肉を補充しなくちゃ、死んでしまう。俺の肉は、限りなくゼロに近付いてる…」

 彼は白骨になった手指を眺めた。



 蘇芳は蜘蛛切(くもきり)の太刀を抜いた。

 蘇芳の口に、血の味が上がってきた。

 数秒、むせた。

「主典。俺はあんたの思い出話に付き合ってる暇はない…」

 蘇芳は蜘蛛切を中段に構えた。

「おい、雨音、起きろ。サボってる場合とちゃうぞ。俺はおまえごと、この鬼を斬るぞ…」

 蘇芳は迷いなく、間合いを詰め始めた。



 バケツを逆さにしたような、土砂降りの雨が皮膚を叩き付ける。

 水飛沫を散らし、主典が拳骨(ゲンコツ)を振り下ろした。

 振動で、雨音が意識を取り戻した。

「蘇芳さん! 咲良ちゃんは!?」

「紅葉と戦ってる」

 蘇芳が早口に答えた。


 蘇芳の模範的な美しい突きが、主典の両腕を掻い潜った。

 主典の拳骨は岩を砕いたが、既に蘇芳はいなかった。

 瞬間、蘇芳は敵の懐へ飛び込み、髑髏の剥き出しの牙を突く。

 蘇芳は針に糸を通すように正確に、雨音を引っかけている牙を突き砕いた。


 雨音が地面に落下した。

 蘇芳はそのまま、主典の口腔から脳幹を貫こうとした。

 狙いは一撃。


 けれど、主典の巨大な手が熊みたいに、蘇芳を()ぎ払った。

 蘇芳は吹っ飛んで、樹木にぶち当たった。


「蘇芳さん!」

 雨音はすぐ加勢しようとした。

 彼は鬼切から火を噴こうとしたが、ガス欠みたいに、黒い(すす)がもわもわ上がっただけだった。

 雨音の体は、神王や夜叉王との戦いで限界が来ていた。

 主典の拳が、雨音を崖下へ吹っ飛ばした。


「戻って来なくていい、雨音! 俺がやる…」

 蘇芳は立ち上がったが、ゴホゴホと咳き込んで、また血を吐いた。



 主典に変化が現れた。

 髑髏がボコボコ割れ始めた。

 剥き出しになる眼球。

「ヘァヘァ…、フグゥ…」

 主典は喘ぎ、ヨダレを垂らした。


 餓車髑髏が更に巨大化していく。

 朱色の隈取が一層鮮やかに、主典を彩る。

「頭が痛い。割れる…」

 主典の痛みが極限に達した。

「俺は…誰だ…? 誰でも…ない…」

 主典の精神(こころ)が崩れていった。




 カズチの魂は暗闇を流れていた。

 死。

 消滅へ向かう、最後の旅路だ。


 カズチは暗黒の河原から、小さな灯火(ともしび)を後方に見た。

 彼は遠い過去の灯火を凝視した。


 山奥の粗末なお堂。

 格子戸も朽ち、片方が外れている。

 胡麻壇(ごまだん)の炎の前で、一人の山伏がブツブツ呟いている。


「こんなことはもうやめる…。私は人間だ…」

 そのお堂の縁の下には、骸骨がたくさん転がっていた。

「こんなことは二度とすまい。どんなに腹が減ろうとも…、人を喰うことだけは、二度とすまい…」

 山伏は骸骨を丁寧に磨き、そっと床下へ落とした。


「ああ。…生の胎児はどうしてあんなに甘いのか…。私は罪深いことをした…」

 山伏は嘆きながら、味を思い出してヨダレを垂れた。


「生まれた日から、誰にも愛されることなく生きて来た…。ずっと孤独だった…。親に捨てられ…、鬼子と呼ばれ…、私はこの奥深い山へ、一人果てる覚悟をしてやって来た…。一人の女性と出会うまでは…。私は生まれて初めて、何にも換え難い、尊い愛を得た…」

 山伏は泣き出し、床を叩いた。


「授かった児が逆子で…、産み月より早く生まれてきた…。妻が死に、鬼子が嗤う…。鬼子の子も鬼子であった…。角が三本、尻尾が一本、血のように赤い髪をしていた…。あの鬼子のせいで、妻は死んだ…。そう思うと、我が子を殺して喰わずにはいられなかった…」

 山伏は若き主典だった。


 主典は啜り泣き、

「それから…、因果だろうか。赤ん坊を喰いたくてたまらなくなった。特に生まれたての子、もしくは胎児。美味しくて、美味しくて…。邪魔をする者は母親も、その親兄弟も、みな喰った…。誰にも見られぬようしてきたが、そのうち、なりふり構わず村に押し入って、妊婦や赤ん坊を攫うようになった…」

 と、回想した。


「私を鬼と呼ぶか? 元から鬼だったわけではない。世間が私を鬼にした。私は山奥へ逃げた。孤独が私を鬼にした。誰も理解してくれる者とてない、と諦めていた私に、ただ一度射した光明。その、ただ一人の愛しい者すらも死んだ…。私は鬼になり果てた。最早、狂わずして生きていけない…」

 しかし、主典は誓う。

 もう二度と人を喰わないと。


 そう考えた尻から、口の中には赤ん坊の血の味がよみがえり、衝動が抑えきれなくなった。

 主典はお堂の明王像を蹴り飛ばし、血染めの刀を取り出した。

 右手に抜き身の刀。

 左手に鎌。

 主典は夜道を走り出した。



 カズチは過去の灯火が消えるのを見た。

 同時に、カズチの魂の火も、風に吹き消された。

 彼はこの世からもあの世からも、完全に消え去った。



 主典は精神(こころ)が崩れ、名もなき鬼になった。

 巨身から発する紅蓮(ぐれん)の炎で、周囲を火の海に変えた。

 彼の骨には一切の肉もなく、眼窩には闇より濃い暗黒があった。

 骨は鉄の(よろい)と化していた。


「あんなもん、斬れるか」

 蘇芳が思わず、愚痴を言った。

 蜘蛛切はもう刃こぼれだらけで、いつ折れてもおかしくない状態だった。


 餓車髑髏は姫塚の周りの森を灰にした。

 地獄の業火が、雷雨にも負けずに燃え盛った。


 餓車髑髏は誰を敵と認識することも出来なくなり、我を忘れて、山を跨ぐように歩いた。

 鬼も、人も、関係ない。

 学瀛のこともどうでもよくなった。頭痛も消えた。

 殺し、燃やし、喰う。

 その執念だけで動き回った。





「紅葉ー!」

 武蔵と静先生と雲林院は、紅葉が頭から血を噴いて倒れるのを目撃した。

「いかん…!」

 武蔵は蒼白になった。


 武蔵は双子の天狗の前に膝を着き、頭を下げた。

「ルイ、レイ、頼む…。この通りだ。他に方法が無い。スマン…」

 武蔵の顔が歪んだ。


 双子の天狗は、ここまで武蔵と静先生を護る為に、命を擦り減らしてきた。

 彼等も傷付き、危ない状態だった。

「何言ってるんです、武蔵。私達はその為に来たんじゃないですか」

 ルイは笑顔で答えた。

「武蔵、遂に私達の出番が来ました。謝らないで下さい。私達はとても光栄です」

 レイも微笑んでいた。


 ルイとレイが姫塚の祭壇に進む。

 鬼一法眼(きいちほうげん)の配下、奥鞍馬の天狗の生き残り。

 本名は、累加(るいか)童子と零減(れいげん)童子。年齢不詳。

 いつもは黒スーツに黒ネクタイ。今日は山伏の格好。


 ルイとレイは互いの手を取り合った。

「この結界は元から時空が歪んでいます。それを手繰り寄せ、揺さ振ってみます…。まぁ、それほど難しくありません。あとは武蔵が決めて下さいね」

 ルイとレイが白く光りながら、一つに溶け合ってゆく。



 愛宕の山に光が射した。

 ルイとレイが小さな虹になり、するすると天へ昇っていく。

 真っ黒の空を割るように、虹が立ち上がる。



 愛宕の山が鳴動した。

 大地が轟き、最初は大きく縦に揺れ、次に強く横揺れした。

「きゃあ! 武蔵!」

 静先生が武蔵に抱きつき、雲林院は足元の岩に掴まった。

「地震か!? 京都御所の鬼はやっつけたんだろ!?」

 武蔵達は動揺した。


「姫塚の(たた)りじゃ! 人柱を掘り返されて、巫女姫がお怒りじゃ!」

 ナマズの鬼が現れ、喚いた。

「黙れ! 俺達の仲間を勝手に人柱にすんな!」

 雲林院が走り出て、学瀛の側近・ナマズ侍を斬った。

 ナマズ侍は切り身のようにスパスパ斬られ、塵になって流れた。



 長い地震がやっと収まった時、雷雨も止んでいた。

 暗い空が二つに分かれ、月まで虹がまっすぐ立っていた。

 静先生は泣きながら、

「ルイ、レイ、あなた達を忘れません…」

 と、手を合わせた。



 黒い雲が両側へ流れていく。

 この不思議な光景。


 咲良は鳩尾(みぞおち)から雷帝を引き抜いた。

 大量に血が噴出した。

「これは?」

 咲良の顔をした学瀛が、怪訝そうに空を仰ぎ見た。



 フィルムを逆回転させるように、雨雲が遠ざかり、月明かりが戻ってくる。

 武蔵は今夜、数百年の苦楽を共にしてきた仲間と死に別れる。

 ルイとレイの命が、時間を逆さに巻き戻していく。

「ルイ、レイ。願わくば…、山上をよみがえらせてくれ…!」

 武蔵が呟く。


 姫塚の周辺の森は灰になっていたが、餓車髑髏の地獄の鬼火が消え、森が元に戻った。

 焼かれた冬の森が、春に芽吹くように緑を吹いた。

 そこかしこで光が点滅し、景色が目眩しく変化した。


 月にかかる虹、月虹(げっこう)

 黄色からピンク、ローズ色に変わり、紫がかって、光の三原色のブルーへと移り変わる。

 満天の星が煌めき、薄い雲に反射する月光が虹の橋になって、天の川に架かる。

 虹の橋が、地上と月を繋いだ。


「宇宙だ…」

 武蔵は溜息をつく。


 藍色の人影が、虹の橋を降りて来た。

 薄ぼんやりとした人影が、形をなしてくる。

 武蔵は星空に両手を広げた。

「山上、戻ってきてくれたのか…」

 武蔵の目が潤んだ。

 虎の鬼・舌長に殺されたはずの山上が、空から降りて来た。


「そんな、まさか…。山上さん!?」

 雲林院はびっくりして、口が開いたままになった。



 山上は半身に月明かりを受け、半身は藍色の影に包まれていた。

 顔はやつれ、余り精気はなかった。

 山上は無惨な旭に視線を向けた。

「旭、俺が頼んだこと、全部やってくれたな。ありがとう、旭…」

 山上は目頭を押さえた。


 武蔵は山上の半透明の姿を見詰めた。

「山上、足が無ぇのか。それじゃ、反閇(へんばい)出来ねーな…」

「足はあの世に置いてきた…。おまえの足を貸してくれ、武蔵…」

 山上は地震で倒れていた、安倍晴明の呪術具を整えた。


神火清明(しんかせいめい)神水清明(しんすいせいめい)神風清明(しんぷうせいめい)…」

 山上が唱えた。

「もう一度、最初からやりましょう。(りん)(ぴょう)(とう)(しゃ)…」

 静先生が九字を切った。


 愛宕の山々は震動を繰り返した。

 何かを産み出そうとするかのように。


 武蔵と山上が並んで、姫塚の頂を九歩踏む。

「さぁ、愛宕の山が鍵を開く…。咲良。学瀛を連れておいで…」

 山上が咲良を呼んだ。





 咲良の心の中で、葛藤が起きていた。

 咲良の魂と、学瀛の魂が言い争った。


 学瀛は咲良の中で、左胸を押さえて蹲った。

「咲良。また私を裏切ったな。おことは…」

 学瀛は咲良を睨んだ。

 彼の心臓には、神泉が刺さっていた。

 マナブが咲良に投げた神泉。

 その神泉で、咲良は自分ごと学瀛の心臓を刺した。


「違うよ。私は誰も裏切らないよ。でも、紅葉ちゃんを殺したくない! どうして、好きな人と一番の親友を天秤にかけなきゃいけないの? 私、学瀛が好きだよ!」

 咲良も左胸を押さえ、蹲った。

「一緒に死のう、学瀛。千年封印されたり、殺されたりするより、もうここで一緒に死のう。寂しくないよ」

 咲良は学瀛に重なって倒れた。


 学瀛は潤んだ片目から、一粒の光を落とした。

「咲良。何度裏切られても、おことを恨みきれぬ。これ以上おことの中にいては、おことが源次に首を斬り落とされような。咲良…」

 学瀛は咲良を抱き締め、彼女のショートヘアーを撫でた。

 彼の手は震えていた。

 彼はそっと、咲良を自分から引き離した。



 咲良に喪失感があった。

 目を覚まし、辺りを窺った。

 胸は痛かったけれど、血は流れていなかった。

「心臓の傷は学瀛が一人で引き受けました。今がチャンスです、咲良。学瀛を呼び寄せ、愛宕に封印するのです。愛宕の火伏(ひぶせ)の神が封じて下さいます」

 神泉が女性の姿で現れ、血が付いた短刀・神泉を咲良の手に返した。


「学瀛! どこー!?」

 咲良が飛び起きた。


 雷帝の刀匠の魂が泥の中から立ち上がり、

「紅葉、起きるのじゃ。咲良が自分を取り戻したぞ。(わし)と神泉で、学瀛に深手を負わせたぞ!」

 と、紅葉を揺さぶった。

 紅葉は咲良のすぐ側で、目を覚ました。

「え…、ほんまに咲良ちゃんなの? 学瀛は?」

 紅葉は額を撫でた。

 額の刀傷が無い。


「紅葉ちゃん、生きてた!! よかった!!」

 咲良が紅葉に飛び付いた。

「ルイとレイがギリギリで、時間を逆回転させたからの。あの天狗らが、紅葉の傷は無かったことにしてくれた」

 雷帝の刀匠が伝えた。

「その代わり、ルイとレイは死んだ。月虹になった」

 雷帝の刀匠の言葉に、紅葉と咲良はしんとした。




 学瀛の魂は仕方なく、元の契約者であるマナブの体に戻った。

 マナブは、首から下がグチャグチャの死体。

 彼の腸が岩場に散乱している。

「死体では…動きが取り辛い…。早く人を()み、深手を癒さなければならぬ…」

 学瀛はマナブの片目をカッと開き、首だけでズルズル動いた。


 学瀛はマナブの首で、空へ飛ぼうとしていた。

 彼を乗せるはずの雷雲もなく、満点の星が見下ろしていた。

 学瀛は舌打ちした。

 学瀛は首だけで、ズルズルと岩場を移動していった。


 学瀛は途中で動きを止めた。

 袴とスニーカーを履いた足が、彼の行く手を阻んでいた。

「私はここで…千年余の命を(つい)えるのか…。渡辺源次よ」

 学瀛は感慨深く呟いた。


 雨音は無言だった。

 雨音の頭の中は真っ白で、立っているのもやっとだった。

 彼はただ一度、鬼切を学瀛に打ちつけた。


 鬼切がマナブの頭を貫通し、学瀛の魂が砕け散った。

 マナブの頭は金色の炎を発し、めらめらと燃え上がった。



「学瀛! どこー!?」

 咲良が涙混じりに呼ぶ声が、崖の上から聞こえた。


 雨音は崖下から咲良を見上げた。

 彼の、完全な片思いだとわかっている。

「また嫌われたかも…」

 雨音は苦笑して、鬼切を鞘へ戻そうとした。

 鬼切の刃が最後の役目を終え、切先から粉々に砕け散った。




 泣きじゃくる咲良の肩を、紅葉がそっと抱いた。

「咲良ちゃん。これでいいのかもよ。学瀛はもう、千年も誰かを待たなくていいの」

 咲良は、

「あれだけ好きって言われたら、鬼でも好きになっちゃうよ。紅葉ちゃん」

 と、泣き続けた。



 山上と武蔵は姫塚の頂から、学瀛の最後を見ていた。

 彼等は頷き合い、次に蘇芳に呼びかけた。

「蘇芳くん、最後の鬼を連れて来てくれー!」

 彼等の前で、愛宕の山が鍵を開く。


 地震の地割れで出現した、暗黒の黄泉路。

 最後の鬼を飲み込もうと待ち構える。

 黄泉路から冷たい風が吹く。



 蘇芳は刀に話しかけた。

「蜘蛛切。おまえの力を、俺に全部くれ。一滴残らず。俺は私欲から言ってない。例え、鬼に恨みが無かろうと、これが俺の務め」

 刃こぼれだらけの蜘蛛切に頼む。


 蘇芳は餓車髑髏を見据えた。

 狂ったように愛宕の山を練り歩き、今、彼の前に戻って来ようとしている。

 餓車髑髏の命は尽きかけ、鬼火は赤黒く鎮ってきた。

「俺は絶対にあの鬼の、鉄の鎧みたいな骨を斬らなあかん。蜘蛛切、頼んだぞ」

 蘇芳は刀に話し終え、前へ飛び出した。


 巨大な鬼が揺れながら、地響き轟かして迫り来る。

 蘇芳は鬼の足元へ飛び込んだ。

 蘇芳の蜘蛛切が、弧を二度描いた。


 蘇芳は鬼の両足首を斬り、鬼を地面に引き倒した。

 蜘蛛切の刃が、吸い付くように鬼の骨へ食い込んでいった。


 蘇芳は倒れた鬼に飛び乗った。

 餓車髑髏の長い骨指が、蘇芳を掴もうとする。

 彼は鬼の手の下を掻い潜り、鬼の肋骨の上を跳ねて進んだ。


「武蔵さん、鬼の首取った…」

 蘇芳が荒い息を一つ吐き、餓車髑髏の首を斬り落とした。

 髑髏首がどーんと落ちた。

 鉄みたいに硬い骨を、蜘蛛切が大根斬りに斬った。


「鬼よ、俺を呪いたかったら呪え。なんぼでも、相手したる」

 蘇芳は言い放ち、鬼の頭の中心を突いた。


 しかし、鬼の頭がしゅるっと動き出し、蘇芳の剣から逃れ、彼の背後へ回った。

「主典! 千年前と同じなんて、芸が無いな!」

 首一つで喰いかかって来た髑髏の牙を、蘇芳が蜘蛛切で打ち払った。

 途端に、蜘蛛切の切先から半分が、粉々に砕け散った。


「うわっ…、ヤバい」

 蘇芳はヒヤリとした。


 この刹那、餓車髑髏の首に、晴明の呪術具にあった青竜が噛み付いた。

 祭壇に並んでいた、晴明の四神の白虎と朱雀が飛びかかった。

 玄武が髑髏の首に噛み付いて、姫塚の方へ引っ張った。

「フギィー! グギィー!」

 餓車髑髏が騒ぎ立てた。

 置き物の神獣が巨大化し、餓車髑髏を愛宕の山に開いた黄泉路へ引き立てていく。

 暗黒の黄泉路へ。



 蘇芳はへたり込んだ。

「助かったわ。晴明さん」

 彼は咳き込んで血を吐いた。

「相討ちかも知れへんな。俺はこの先も、血を吐き続けるやろ。今わかったけど、鬼切と蜘蛛切は、使えば使うほど、俺と雨音の寿命と精神(こころ)を食っていく。呪いの刀・雷帝も同じや。俺達は鬼になるとこやった。…まぁ、負けへんけどな」

 彼はその場に引っくり返った。



 武蔵と山上は互いの手を重ねた。

「山上、どうだ。これでいいか? あの鬼の首は地下で、近いうちにくたばるだろう。おまえのやり残したことは全部済んだ」

「武蔵、ありがとう。これで安心して、俺はあの世へ戻れる。…雨音と旭と雲林院に伝えてくれ。シャーマンの血筋はいずれ途絶えるし、鬼を封ずることも出来なくなる。けど、今度は君らが、鬼が生まれることのない世を作ってくれ。君らがささやかな灯火(ともしび)となって、この世の片隅一つでも、明るく照らしてくれ…」

 山上が固く手を握り返し、武蔵に頼んだ。


「わかった。伝える。…ん、旭にもか?」

 武蔵が旭の遺体を見た。


 緑色のカビに覆われた、難破船の残骸みたいな、異形の鬼の遺体。

 穢れの鬼の外殻が、(うろこ)が落ちるように、一つ一つ()がれ落ちた。

 彼は生まれ変わるように脱皮していく。

 穢れの鬼の外殻の下に、色白で痩せ気味の、旭の体があった。


「旭くん、君って子は…」

 静先生が顔を綻ばせた。

東雲(しののめ)の太刀が邪気を祓った。旭はギリギリ、穢れの鬼にはならんかった。あいつのメンタルは、サラリーマン武士やからな」

 山上が説明し、

「なるほど」

 武蔵も笑顔で納得した。


「旭さん、よかった…」

「旭さーん!」

 雲林院と、戻って来た雨音が旭に抱きついて喜んだ。

 鬼の外殻が全部、旭から剥がれ落ちた。

 旭は静かに息をして、眠っていた。



 愛宕の山に開いた黄泉路が、夜明けとともに霞んでいく。

 山上は薄くなった虹の橋を昇っていった。


 鬼御殿は消えていた。

 山麓に、武蔵の車が停まっていた。


 静先生は紅葉と咲良を抱き寄せ、涙した。

「今日のことを忘れないで。私達は精一杯やった。さぁ、山を降りましょう。学瀛が死に、結界はなくなりました。このまま、京都市内へ帰れますよ」

「静先生…」

 紅葉は静先生と抱き合って、生きていることを実感した。

 咲良はスミレの死を知り、複雑な思いで言葉が出なかった。


 武蔵達は担架を作り、静先生を載せた。

 蘇芳と旭は病院に着くまで、目覚めなかった。





 病院の看護師は蘇芳を見て、

「おや、まぁ! 何をどうしはったら、無断外泊一泊だけで、こんなボロボロになって帰って来はりますの!?」

 と、呆れ返った。


 蘇芳は紅葉をベッドから見詰め、

「俺、あんたを誇りに思うわ。紅葉」

 と、言った。

 紅葉は何となく嬉しくなり、

「おにぃ。私、もういっぺん剣道やる。それで、おにぃを負かす」

 と、決意を伝えた。

「挑戦、受けて立つ」

 蘇芳は大笑いし、腹と胸に走った痛みで、顔をしかめた。



 紅葉は兄の病室を出るなり、雲林院の耳を引っ張った。

「雲林院くん、手伝って!」

「ええけど、俺の兼光(かねみつ)もボロボロやで? 雷帝より悲惨やで!」

 雲林院は病院の廊下を、紅葉について走った。


 咲良も静先生も入院。

 雨音と武蔵も入院。

 紅葉と雲林院は、旭が入院した病室に入った。

 旭は腕がちぎれかけていたはずだが、鬼の外殻が剥がれたら、腕がくっついていた。

 旭は現在、点滴を受けていた。


「旭さん、ゴメン。今すぐ、その点滴のまま走って!」

 紅葉が旭を引っ張って起こし、雲林院が点滴の細い台車を押した。

「コマチちゃんの家に行くの?」

 旭は病院のガウンの寝間着でベッドから降り、スリッパを履いた。

 紅葉も雲林院もまだ、ボロボロの道着を着ている。

「うん、心配だから今すぐ来て!」

 紅葉と旭と雲林院は、病院からコマチの家に直行した。



 タクシーを降り、紅葉と雲林院が旭を支えて、コマチの家の門を開いた。

 昨日の朝、ここでコマチが暴れて、旭に穢れの鬼の血を浴びせた。

 その結果、旭が鬼化したわけだが。

 コマチの面倒は、クラスメートの新見と煌星(あかり)に任せてある。


「コマチー!」

 紅葉の心臓はバクバク早鐘を打って、息が詰まりそうだった。


「紅葉…!?」

 二階のドアが開き、新見が顔を出した。

 紅葉はホッとした。

 新見は顔じゅう傷だらけだったが、どうやら無事だった。


「よかった。新見くんが生きてた。煌星は?」

「煌星は寝てるよ。コマチの側で…。煌星は大丈夫。紅葉、スミレと一緒?」

 新見が聞いた。

 紅葉はぐっと詰まった。


「新見くん、コマチちゃんは?」

 旭が病院の寝間着を着ているので、新見は少し戸惑った。

 旭は急いで、コマチの部屋に踏み込んだ。

 そこらじゅう家具が引っくり返り、服が散乱し、台風が通過したみたいに荒れている。

「コマチは…死んだ」

 新見が虚ろな声で答えた。


 旭が部屋の奥へ走った。

 ひっくり返ったベッドの向こう側に、コマチが聖母のような優しい微笑みで眠っていた。

 横に添い寝するように目を閉じていた煌星が起きた。

「あ、紅葉…。コマチが……」

 煌星が悲しそうに、親友のコマチの寝顔を振り返った。


 紅葉はへたへたと、コマチの頭の側に座り込んだ。

「…紅葉。コマチはおまえらを待ってたよ。昨日、あれから滅茶苦茶暴れて、ほんまに鬼になって伝染病撒き散らすんかと思った。でも、夜ぐらいにおとなしくなって、俺らを襲わんように、自分をベッドに縛り付けてくれって頼んできた。俺もコマチが安心してくれるなら、と思って、コマチをベッドに縛って、布団掛けた。コマチは夜中、また鬼になって暴れた…」

 新見が煌星の肩を抱き寄せた。


「俺は必死に煌星を守った。コマチの血をこいつに浴びせんように、俺が盾になった…。コマチはしばらく鬼と人間の間を行ったり来たりした。人間に戻った時は、何度も旭さんの名前を呼んで、旭さん、旭さん、旭さん…って、それが自分の理性を繋ぎ止める呪文みたいに繰り返してた」

 新見は旭に話した。

 旭はポタポタ涙を落としながら、コマチの頬を撫でた。


「…朝方、コマチは変なことを言い出した。旭さんが死んだ、死んだのが視えた、って。そしたら、急にグッタリしてきた。コマチは…自分が旭さんに血をかけたから、そのせいで旭さんが鬼になって死んだ、と言ってた。自分のせい、って苦しみ出して、自分で自分を傷付けて、搔きむしったり、鬼化して暴れたりした。それで、部屋がこんなになった」

 新見はゆっくりボソボソ喋った。


「コマチは最後は人間に戻って、好きな人のとこへ逝くって言い残して、静かに死んだ。鬼化でエネルギー消耗し過ぎて、衰弱して死んだ感じ」

「コマチ…」

 新見に煌星がしがみつき、泣き出した。

 紅葉は呆然として、涙が眸の奥で止まっていた。

 いつも元気いっぱいで、女王様みたいな、あのコマチが…。


 コマチは旭に会うつもりで死んだから、安らかな表情をしていた。

 醜い鬼の形相は消え、美しい死顔だった。


 旭は涙が止まらなくて、コマチを抱き締めて号泣した。

「なんで? 戻って来るって言ったでしょ? なんで勝手に死んでるの!? 俺は何百年、君を待てばいいの? この前は俺が先に死んで、今度は君が先に死ぬの? 俺達は何回擦れ違うの?」

 いつも冷静な旭が思いきり取り乱した。

「次は、俺が君を捜す…。絶対に見つける…」

 旭がコマチの胸に顔を埋めた。


 紅葉はふと気付いた。

「新見くんは全然どうもないの? コマチの血を浴びたのに…」

「うん、俺は大丈夫やった。もう丸一日以上も経つけど、何ともない」

 新見の傷はカサブタが出来て、特に変化なかった。

 彼の血液内に入り込んだ青黒い小鬼は、自然に消滅した。


「新見くんのメンタル、意外過ぎ」

 紅葉はびっくりした。

「俺、煌星とコマチ護るのに必死やった。自分が鬼になるどころとちごた」

 紅葉は新見の答えが、鬼になる・ならないの境目だと思った。


 今度は紅葉が話す番になった。

「スミレも…死んだ。咲良ちゃんの身代わりになって。自分から咲良ちゃんのフリして、鬼に殺されてしもた」

「ここにいいひんってことは、死んだんやろなと思ってた。そうか、スミレらしいな」

 新見と煌星はまた落ち込んだ。


「絶対また会おう。生まれ変わって、みんなで集まろう。コマチちゃんも、スミレちゃんも。鬼退治とか、そんな理由はいらない。好きだから、また会いたいから、絶対に会おう」

 旭が呟いた。

「ここで、来世も、その次の来世も…」

 雲林院が言い添えた。

 みんな俯いて、首を縦に振っていた。





 咲良が静先生の車椅子を押していると、静先生は読みかけの本を膝に置いて、にっこりした。

「咲良。わかってますよね? 誰が一番、頼まれもしないのに命懸けで、何度も何度も助けに来てくれたのか。忘れちゃダメですよ。あなたは彼に、お礼を言わなきゃ。…まだ喧嘩してるんですか?」

 咲良は病院の屋上から、京都市街を眺めた。

「わかってるんですけど…」

 災禍を免れた京都は、平凡な幸せの人々が、平凡な時を刻んでいた。



 咲良が蘇芳の病室の前を通りかかった。

 蘇芳の話し声が聞こえたので、来ているのが紅葉かと思って、病室の前で待っていた。

 出て来たのは、今日退院する雨音だった。

「あ、咲良ちゃん。元気? 咲良ちゃんももうすぐ退院するんだってね。よかった…」

 雨音は初めて会った時と変わらず、にこにこして言った。

「あ、うん」

 咲良は言葉がうまく出て来なかった。


 咲良と雨音は並んで歩きながら、進路の話をした。

「雨音くん、東京の大学受けるんでしょ。帰っちゃうんだよね」

「ちょっと家がゴタゴタしてて。どうなるかわかんないけど、たぶん帰る。帰っても、一人暮らしすると思う。僕、また剣道をやることにしたよ。もう一度、最初からやり直す」

 雨音は心の整理がついているらしく、爽やかに前を向いて話した。


「へぇ…。居合はどうするの?」

「山上さんも酒井さんもいないからね。しゅとーん部行っても、寂しいよね。これからも、僕は旭さんと武蔵さんに習うつもりだけど。咲良ちゃんも、また一緒に稽古出来たらいいね。…とにかく、僕は大学行ったら剣道する。警察官になりたいって思ってるんだ。酒井さんみたいな」

 雨音が言うと、咲良は笑ってしまった。


「酒井さんみたいな? 酒井さん、警察官っぽくなかったよね。変わってた…」

「そこがいいんだよ。咲良ちゃんはどうするの?」

 雨音はやっと咲良が笑ってくれて、嬉しかった。


「私、神社の神主さんになろうかと思ってるんだ。うちのおばあちゃんが言ってたの。おじいちゃん、神主だったけど後継ぎがいなくて、小さな祠だけになっちゃったって。山上さんちの神社も、山上さんが死んで、後継ぎいないよね。今、神主さんが全国で不足してるんだって。そしたら、神様はどうなっちゃうの? 忘れられちゃうの? ずっと何世代も、私達のご先祖様を守ってきてくれたのに?」


 咲良は自由研究のパワスポマップを作りながら考えてきたことを、初めて誰かに打ち明けた。

 その相手が雨音になったことは、自分でも意外だった。


「え、咲良ちゃん、巫女さんじゃなくて神主さんになるの? それ、いいかもね…。…てか、神主さんになるのって、東京の大学じゃない? 東京来るの?」

 雨音が幾分興奮気味に聞いた。

 咲良はそんなこと、わからなかった。まだ、中学二年だし。


「咲良ちゃんがもし東京の大学来たら、いろいろ連れてってあげるね…」

 病院の正面玄関で、雨音が咲良に手を振った。

「うん…。大学はわからないけど、紅葉ちゃんと遊びに行く。きっと、行く。待ってて…」

 咲良は雨音と仲直りの握手をして、別れた。





 鬼は、心のおもてか、うらか。

 鬼は、器のおもてか、うらか。





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