玖弐 相討ち
1
愛宕の山々を稲光の点滅が浮かび上がらせ、また土砂降りの雨が愛宕の山々を掻き消す。
激しい雷雨が続く。
姫塚のてっぺんの杉を裂いた雷。
鼓膜が痺れ、聴覚が麻痺した。
紅葉は感電するのを恐れ、打刀・雷帝を投げ出した。
紅葉は泥水に膝を着いた。
咲良は錆び付いた鉄の古代刀を持ち、仮面のように固まった表情で、口をパクパクさせた。
紅葉には何も聴こえなかった。
彼女は咲良の口の動きを読んだ。
「紅葉。そんな軽い刀でどうせ持ちこたえられぬ。さっきのは、ほんのお遊び」
咲良が極厚の鉄刀を振り上げた。
咲良の中に、学瀛がいる。
紅葉は濁った水溜りを手で探った。
「雷帝さん、助けて!」
紅葉が雷帝に宿る刀匠の魂を呼んだ。
雷帝は泥水に沈んでいた。
「咲良ちゃん、待って…、殺さんといて…」
紅葉は惨めな気持ちだった。
彼女は咲良に命乞いした。
「私達…、なんで殺し合わんとあかんの? ほな、何の為にスミレちゃんは死んだの? スミレちゃん、咲良ちゃんの身代わりになって死んだんやで…」
「スミレ…?」
咲良が呟く。
「ああ、人柱になった娘か。自ら人柱になったのなら、仕方あるまい。私と共に行くことは、咲良が決めたこと。紅葉、すぐに楽にしてやろう。頭が真っ二つになって…、痛いと思う暇も無い…」
咲良は切れ味鈍そうな極厚の鉄刀で、紅葉の頭に狙いを定めた。
「咲良ちゃんは…私を殺して、その鬼と行くの…? そんなの、裏切りやん。うちのおにぃと…雨音くんと…静先生と…武蔵さんと雲林院くんを殺して…、そいつと行く…? お願い、嘘やって言うて…。旭さんも死んだのに…」
紅葉は悔しくて涙を零した。
姫塚に、東雲の太刀に自ら貫かれた、奇形の鬼の遺体がある。
旭は緑色のカビに覆われ、難破船の残骸みたいだった。
その時、古代刀を持つ咲良の手がぶるぶる震え、歯がガチガチ軋んだ。
「違う、紅葉ちゃ…ん…。裏切ったりしない…。私は…学瀛を…殺してほしくないだけ…だよ…」
すると、咲良と学瀛が多重人格者のように入れ替わり、
「咲良、おことは私を選んだ。この娘を斬れ!」
と、言った。
咲良はぱっと駆け出し、紅葉に刀を振り下ろした。
赤い血が、暗いモノクロの世界に飛び散った。
「咲良ちゃん!」
紅葉は遠い耳で、自分の叫ぶ声を聴いた。
咲良の体重が乗り、刀がぐっと引かれる。
紅葉はのけ反った。
額が熱い!
死んでしまう!
紅葉は咲良の青白い顔が驚愕で引きつっているのを、倒れる間際に見た。
咲良の可憐な顔に、紅葉の血の返り血が飛んでいる。
紅葉の手が泥水の中から雷帝をすくい上げ、咲良の鳩尾を突き上げていた。
紅葉の泥塗れの顔にも、咲良の血の返り血が飛んだ。
2
姫塚の下の小径。
餓車髑髏と化した主典が、
「グギギ、ギグァーッ…!」
雷鳴に負けない咆哮を上げた。
主典が背を伸ばして立ち上がる姿を、巨大なヒグマを見上げるように、蘇芳は苦々しく見上げている。
鬼の牙に、気絶した雨音が引っかかっている。
雨音は主典の骨格のせいで、いつもより小さく見える。
主典は坂の上の咲良に向けて、
「学瀛、待てよ。俺を鬼に喰わせ、鬼にしといて、肝腎の鬼がこんな死にかけの骸骨だなんて酷過ぎる。詐欺だ。マナブの次はおまえだ…」
と、唸った。
主典は姫塚の上がり口で、蘇芳を見下ろした。
「そこを退け。俺はあの女の子に憑りついた悪霊に用がある。…おまえ、見れば見るほど頼光に似てるな。もしかして、本物の頼光なのか? …源頼光。昔、俺の首を斬り落とした男の名前さ。…いや、話がおかしいな。俺は首を斬られてなんかない…。俺の名はカズチ。昨日、ここに着いたばっかりなんだ。あれ、一昨日だったかなぁ…」
主典の記憶は混乱している。
主典は頭痛と飢餓感で苛立った。
「ああ、腹が減った…。新鮮な肉を補充しなくちゃ、死んでしまう。俺の肉は、限りなくゼロに近付いてる…」
彼は白骨になった手指を眺めた。
蘇芳は蜘蛛切の太刀を抜いた。
蘇芳の口に、血の味が上がってきた。
数秒、むせた。
「主典。俺はあんたの思い出話に付き合ってる暇はない…」
蘇芳は蜘蛛切を中段に構えた。
「おい、雨音、起きろ。サボってる場合とちゃうぞ。俺はおまえごと、この鬼を斬るぞ…」
蘇芳は迷いなく、間合いを詰め始めた。
バケツを逆さにしたような、土砂降りの雨が皮膚を叩き付ける。
水飛沫を散らし、主典が拳骨を振り下ろした。
振動で、雨音が意識を取り戻した。
「蘇芳さん! 咲良ちゃんは!?」
「紅葉と戦ってる」
蘇芳が早口に答えた。
蘇芳の模範的な美しい突きが、主典の両腕を掻い潜った。
主典の拳骨は岩を砕いたが、既に蘇芳はいなかった。
瞬間、蘇芳は敵の懐へ飛び込み、髑髏の剥き出しの牙を突く。
蘇芳は針に糸を通すように正確に、雨音を引っかけている牙を突き砕いた。
雨音が地面に落下した。
蘇芳はそのまま、主典の口腔から脳幹を貫こうとした。
狙いは一撃。
けれど、主典の巨大な手が熊みたいに、蘇芳を薙ぎ払った。
蘇芳は吹っ飛んで、樹木にぶち当たった。
「蘇芳さん!」
雨音はすぐ加勢しようとした。
彼は鬼切から火を噴こうとしたが、ガス欠みたいに、黒い煤がもわもわ上がっただけだった。
雨音の体は、神王や夜叉王との戦いで限界が来ていた。
主典の拳が、雨音を崖下へ吹っ飛ばした。
「戻って来なくていい、雨音! 俺がやる…」
蘇芳は立ち上がったが、ゴホゴホと咳き込んで、また血を吐いた。
主典に変化が現れた。
髑髏がボコボコ割れ始めた。
剥き出しになる眼球。
「ヘァヘァ…、フグゥ…」
主典は喘ぎ、ヨダレを垂らした。
餓車髑髏が更に巨大化していく。
朱色の隈取が一層鮮やかに、主典を彩る。
「頭が痛い。割れる…」
主典の痛みが極限に達した。
「俺は…誰だ…? 誰でも…ない…」
主典の精神が崩れていった。
カズチの魂は暗闇を流れていた。
死。
消滅へ向かう、最後の旅路だ。
カズチは暗黒の河原から、小さな灯火を後方に見た。
彼は遠い過去の灯火を凝視した。
山奥の粗末なお堂。
格子戸も朽ち、片方が外れている。
胡麻壇の炎の前で、一人の山伏がブツブツ呟いている。
「こんなことはもうやめる…。私は人間だ…」
そのお堂の縁の下には、骸骨がたくさん転がっていた。
「こんなことは二度とすまい。どんなに腹が減ろうとも…、人を喰うことだけは、二度とすまい…」
山伏は骸骨を丁寧に磨き、そっと床下へ落とした。
「ああ。…生の胎児はどうしてあんなに甘いのか…。私は罪深いことをした…」
山伏は嘆きながら、味を思い出してヨダレを垂れた。
「生まれた日から、誰にも愛されることなく生きて来た…。ずっと孤独だった…。親に捨てられ…、鬼子と呼ばれ…、私はこの奥深い山へ、一人果てる覚悟をしてやって来た…。一人の女性と出会うまでは…。私は生まれて初めて、何にも換え難い、尊い愛を得た…」
山伏は泣き出し、床を叩いた。
「授かった児が逆子で…、産み月より早く生まれてきた…。妻が死に、鬼子が嗤う…。鬼子の子も鬼子であった…。角が三本、尻尾が一本、血のように赤い髪をしていた…。あの鬼子のせいで、妻は死んだ…。そう思うと、我が子を殺して喰わずにはいられなかった…」
山伏は若き主典だった。
主典は啜り泣き、
「それから…、因果だろうか。赤ん坊を喰いたくてたまらなくなった。特に生まれたての子、もしくは胎児。美味しくて、美味しくて…。邪魔をする者は母親も、その親兄弟も、みな喰った…。誰にも見られぬようしてきたが、そのうち、なりふり構わず村に押し入って、妊婦や赤ん坊を攫うようになった…」
と、回想した。
「私を鬼と呼ぶか? 元から鬼だったわけではない。世間が私を鬼にした。私は山奥へ逃げた。孤独が私を鬼にした。誰も理解してくれる者とてない、と諦めていた私に、ただ一度射した光明。その、ただ一人の愛しい者すらも死んだ…。私は鬼になり果てた。最早、狂わずして生きていけない…」
しかし、主典は誓う。
もう二度と人を喰わないと。
そう考えた尻から、口の中には赤ん坊の血の味がよみがえり、衝動が抑えきれなくなった。
主典はお堂の明王像を蹴り飛ばし、血染めの刀を取り出した。
右手に抜き身の刀。
左手に鎌。
主典は夜道を走り出した。
カズチは過去の灯火が消えるのを見た。
同時に、カズチの魂の火も、風に吹き消された。
彼はこの世からもあの世からも、完全に消え去った。
主典は精神が崩れ、名もなき鬼になった。
巨身から発する紅蓮の炎で、周囲を火の海に変えた。
彼の骨には一切の肉もなく、眼窩には闇より濃い暗黒があった。
骨は鉄の鎧と化していた。
「あんなもん、斬れるか」
蘇芳が思わず、愚痴を言った。
蜘蛛切はもう刃こぼれだらけで、いつ折れてもおかしくない状態だった。
餓車髑髏は姫塚の周りの森を灰にした。
地獄の業火が、雷雨にも負けずに燃え盛った。
餓車髑髏は誰を敵と認識することも出来なくなり、我を忘れて、山を跨ぐように歩いた。
鬼も、人も、関係ない。
学瀛のこともどうでもよくなった。頭痛も消えた。
殺し、燃やし、喰う。
その執念だけで動き回った。
3
「紅葉ー!」
武蔵と静先生と雲林院は、紅葉が頭から血を噴いて倒れるのを目撃した。
「いかん…!」
武蔵は蒼白になった。
武蔵は双子の天狗の前に膝を着き、頭を下げた。
「ルイ、レイ、頼む…。この通りだ。他に方法が無い。スマン…」
武蔵の顔が歪んだ。
双子の天狗は、ここまで武蔵と静先生を護る為に、命を擦り減らしてきた。
彼等も傷付き、危ない状態だった。
「何言ってるんです、武蔵。私達はその為に来たんじゃないですか」
ルイは笑顔で答えた。
「武蔵、遂に私達の出番が来ました。謝らないで下さい。私達はとても光栄です」
レイも微笑んでいた。
ルイとレイが姫塚の祭壇に進む。
鬼一法眼の配下、奥鞍馬の天狗の生き残り。
本名は、累加童子と零減童子。年齢不詳。
いつもは黒スーツに黒ネクタイ。今日は山伏の格好。
ルイとレイは互いの手を取り合った。
「この結界は元から時空が歪んでいます。それを手繰り寄せ、揺さ振ってみます…。まぁ、それほど難しくありません。あとは武蔵が決めて下さいね」
ルイとレイが白く光りながら、一つに溶け合ってゆく。
愛宕の山に光が射した。
ルイとレイが小さな虹になり、するすると天へ昇っていく。
真っ黒の空を割るように、虹が立ち上がる。
愛宕の山が鳴動した。
大地が轟き、最初は大きく縦に揺れ、次に強く横揺れした。
「きゃあ! 武蔵!」
静先生が武蔵に抱きつき、雲林院は足元の岩に掴まった。
「地震か!? 京都御所の鬼はやっつけたんだろ!?」
武蔵達は動揺した。
「姫塚の祟りじゃ! 人柱を掘り返されて、巫女姫がお怒りじゃ!」
ナマズの鬼が現れ、喚いた。
「黙れ! 俺達の仲間を勝手に人柱にすんな!」
雲林院が走り出て、学瀛の側近・ナマズ侍を斬った。
ナマズ侍は切り身のようにスパスパ斬られ、塵になって流れた。
長い地震がやっと収まった時、雷雨も止んでいた。
暗い空が二つに分かれ、月まで虹がまっすぐ立っていた。
静先生は泣きながら、
「ルイ、レイ、あなた達を忘れません…」
と、手を合わせた。
黒い雲が両側へ流れていく。
この不思議な光景。
咲良は鳩尾から雷帝を引き抜いた。
大量に血が噴出した。
「これは?」
咲良の顔をした学瀛が、怪訝そうに空を仰ぎ見た。
フィルムを逆回転させるように、雨雲が遠ざかり、月明かりが戻ってくる。
武蔵は今夜、数百年の苦楽を共にしてきた仲間と死に別れる。
ルイとレイの命が、時間を逆さに巻き戻していく。
「ルイ、レイ。願わくば…、山上をよみがえらせてくれ…!」
武蔵が呟く。
姫塚の周辺の森は灰になっていたが、餓車髑髏の地獄の鬼火が消え、森が元に戻った。
焼かれた冬の森が、春に芽吹くように緑を吹いた。
そこかしこで光が点滅し、景色が目眩しく変化した。
月にかかる虹、月虹。
黄色からピンク、ローズ色に変わり、紫がかって、光の三原色のブルーへと移り変わる。
満天の星が煌めき、薄い雲に反射する月光が虹の橋になって、天の川に架かる。
虹の橋が、地上と月を繋いだ。
「宇宙だ…」
武蔵は溜息をつく。
藍色の人影が、虹の橋を降りて来た。
薄ぼんやりとした人影が、形をなしてくる。
武蔵は星空に両手を広げた。
「山上、戻ってきてくれたのか…」
武蔵の目が潤んだ。
虎の鬼・舌長に殺されたはずの山上が、空から降りて来た。
「そんな、まさか…。山上さん!?」
雲林院はびっくりして、口が開いたままになった。
山上は半身に月明かりを受け、半身は藍色の影に包まれていた。
顔はやつれ、余り精気はなかった。
山上は無惨な旭に視線を向けた。
「旭、俺が頼んだこと、全部やってくれたな。ありがとう、旭…」
山上は目頭を押さえた。
武蔵は山上の半透明の姿を見詰めた。
「山上、足が無ぇのか。それじゃ、反閇出来ねーな…」
「足はあの世に置いてきた…。おまえの足を貸してくれ、武蔵…」
山上は地震で倒れていた、安倍晴明の呪術具を整えた。
「神火清明、神水清明、神風清明…」
山上が唱えた。
「もう一度、最初からやりましょう。臨、兵、闘、舎…」
静先生が九字を切った。
愛宕の山々は震動を繰り返した。
何かを産み出そうとするかのように。
武蔵と山上が並んで、姫塚の頂を九歩踏む。
「さぁ、愛宕の山が鍵を開く…。咲良。学瀛を連れておいで…」
山上が咲良を呼んだ。
4
咲良の心の中で、葛藤が起きていた。
咲良の魂と、学瀛の魂が言い争った。
学瀛は咲良の中で、左胸を押さえて蹲った。
「咲良。また私を裏切ったな。おことは…」
学瀛は咲良を睨んだ。
彼の心臓には、神泉が刺さっていた。
マナブが咲良に投げた神泉。
その神泉で、咲良は自分ごと学瀛の心臓を刺した。
「違うよ。私は誰も裏切らないよ。でも、紅葉ちゃんを殺したくない! どうして、好きな人と一番の親友を天秤にかけなきゃいけないの? 私、学瀛が好きだよ!」
咲良も左胸を押さえ、蹲った。
「一緒に死のう、学瀛。千年封印されたり、殺されたりするより、もうここで一緒に死のう。寂しくないよ」
咲良は学瀛に重なって倒れた。
学瀛は潤んだ片目から、一粒の光を落とした。
「咲良。何度裏切られても、おことを恨みきれぬ。これ以上おことの中にいては、おことが源次に首を斬り落とされような。咲良…」
学瀛は咲良を抱き締め、彼女のショートヘアーを撫でた。
彼の手は震えていた。
彼はそっと、咲良を自分から引き離した。
咲良に喪失感があった。
目を覚まし、辺りを窺った。
胸は痛かったけれど、血は流れていなかった。
「心臓の傷は学瀛が一人で引き受けました。今がチャンスです、咲良。学瀛を呼び寄せ、愛宕に封印するのです。愛宕の火伏の神が封じて下さいます」
神泉が女性の姿で現れ、血が付いた短刀・神泉を咲良の手に返した。
「学瀛! どこー!?」
咲良が飛び起きた。
雷帝の刀匠の魂が泥の中から立ち上がり、
「紅葉、起きるのじゃ。咲良が自分を取り戻したぞ。儂と神泉で、学瀛に深手を負わせたぞ!」
と、紅葉を揺さぶった。
紅葉は咲良のすぐ側で、目を覚ました。
「え…、ほんまに咲良ちゃんなの? 学瀛は?」
紅葉は額を撫でた。
額の刀傷が無い。
「紅葉ちゃん、生きてた!! よかった!!」
咲良が紅葉に飛び付いた。
「ルイとレイがギリギリで、時間を逆回転させたからの。あの天狗らが、紅葉の傷は無かったことにしてくれた」
雷帝の刀匠が伝えた。
「その代わり、ルイとレイは死んだ。月虹になった」
雷帝の刀匠の言葉に、紅葉と咲良はしんとした。
学瀛の魂は仕方なく、元の契約者であるマナブの体に戻った。
マナブは、首から下がグチャグチャの死体。
彼の腸が岩場に散乱している。
「死体では…動きが取り辛い…。早く人を喰み、深手を癒さなければならぬ…」
学瀛はマナブの片目をカッと開き、首だけでズルズル動いた。
学瀛はマナブの首で、空へ飛ぼうとしていた。
彼を乗せるはずの雷雲もなく、満点の星が見下ろしていた。
学瀛は舌打ちした。
学瀛は首だけで、ズルズルと岩場を移動していった。
学瀛は途中で動きを止めた。
袴とスニーカーを履いた足が、彼の行く手を阻んでいた。
「私はここで…千年余の命を終えるのか…。渡辺源次よ」
学瀛は感慨深く呟いた。
雨音は無言だった。
雨音の頭の中は真っ白で、立っているのもやっとだった。
彼はただ一度、鬼切を学瀛に打ちつけた。
鬼切がマナブの頭を貫通し、学瀛の魂が砕け散った。
マナブの頭は金色の炎を発し、めらめらと燃え上がった。
「学瀛! どこー!?」
咲良が涙混じりに呼ぶ声が、崖の上から聞こえた。
雨音は崖下から咲良を見上げた。
彼の、完全な片思いだとわかっている。
「また嫌われたかも…」
雨音は苦笑して、鬼切を鞘へ戻そうとした。
鬼切の刃が最後の役目を終え、切先から粉々に砕け散った。
泣きじゃくる咲良の肩を、紅葉がそっと抱いた。
「咲良ちゃん。これでいいのかもよ。学瀛はもう、千年も誰かを待たなくていいの」
咲良は、
「あれだけ好きって言われたら、鬼でも好きになっちゃうよ。紅葉ちゃん」
と、泣き続けた。
山上と武蔵は姫塚の頂から、学瀛の最後を見ていた。
彼等は頷き合い、次に蘇芳に呼びかけた。
「蘇芳くん、最後の鬼を連れて来てくれー!」
彼等の前で、愛宕の山が鍵を開く。
地震の地割れで出現した、暗黒の黄泉路。
最後の鬼を飲み込もうと待ち構える。
黄泉路から冷たい風が吹く。
蘇芳は刀に話しかけた。
「蜘蛛切。おまえの力を、俺に全部くれ。一滴残らず。俺は私欲から言ってない。例え、鬼に恨みが無かろうと、これが俺の務め」
刃こぼれだらけの蜘蛛切に頼む。
蘇芳は餓車髑髏を見据えた。
狂ったように愛宕の山を練り歩き、今、彼の前に戻って来ようとしている。
餓車髑髏の命は尽きかけ、鬼火は赤黒く鎮ってきた。
「俺は絶対にあの鬼の、鉄の鎧みたいな骨を斬らなあかん。蜘蛛切、頼んだぞ」
蘇芳は刀に話し終え、前へ飛び出した。
巨大な鬼が揺れながら、地響き轟かして迫り来る。
蘇芳は鬼の足元へ飛び込んだ。
蘇芳の蜘蛛切が、弧を二度描いた。
蘇芳は鬼の両足首を斬り、鬼を地面に引き倒した。
蜘蛛切の刃が、吸い付くように鬼の骨へ食い込んでいった。
蘇芳は倒れた鬼に飛び乗った。
餓車髑髏の長い骨指が、蘇芳を掴もうとする。
彼は鬼の手の下を掻い潜り、鬼の肋骨の上を跳ねて進んだ。
「武蔵さん、鬼の首取った…」
蘇芳が荒い息を一つ吐き、餓車髑髏の首を斬り落とした。
髑髏首がどーんと落ちた。
鉄みたいに硬い骨を、蜘蛛切が大根斬りに斬った。
「鬼よ、俺を呪いたかったら呪え。なんぼでも、相手したる」
蘇芳は言い放ち、鬼の頭の中心を突いた。
しかし、鬼の頭がしゅるっと動き出し、蘇芳の剣から逃れ、彼の背後へ回った。
「主典! 千年前と同じなんて、芸が無いな!」
首一つで喰いかかって来た髑髏の牙を、蘇芳が蜘蛛切で打ち払った。
途端に、蜘蛛切の切先から半分が、粉々に砕け散った。
「うわっ…、ヤバい」
蘇芳はヒヤリとした。
この刹那、餓車髑髏の首に、晴明の呪術具にあった青竜が噛み付いた。
祭壇に並んでいた、晴明の四神の白虎と朱雀が飛びかかった。
玄武が髑髏の首に噛み付いて、姫塚の方へ引っ張った。
「フギィー! グギィー!」
餓車髑髏が騒ぎ立てた。
置き物の神獣が巨大化し、餓車髑髏を愛宕の山に開いた黄泉路へ引き立てていく。
暗黒の黄泉路へ。
蘇芳はへたり込んだ。
「助かったわ。晴明さん」
彼は咳き込んで血を吐いた。
「相討ちかも知れへんな。俺はこの先も、血を吐き続けるやろ。今わかったけど、鬼切と蜘蛛切は、使えば使うほど、俺と雨音の寿命と精神を食っていく。呪いの刀・雷帝も同じや。俺達は鬼になるとこやった。…まぁ、負けへんけどな」
彼はその場に引っくり返った。
武蔵と山上は互いの手を重ねた。
「山上、どうだ。これでいいか? あの鬼の首は地下で、近いうちにくたばるだろう。おまえのやり残したことは全部済んだ」
「武蔵、ありがとう。これで安心して、俺はあの世へ戻れる。…雨音と旭と雲林院に伝えてくれ。シャーマンの血筋はいずれ途絶えるし、鬼を封ずることも出来なくなる。けど、今度は君らが、鬼が生まれることのない世を作ってくれ。君らがささやかな灯火となって、この世の片隅一つでも、明るく照らしてくれ…」
山上が固く手を握り返し、武蔵に頼んだ。
「わかった。伝える。…ん、旭にもか?」
武蔵が旭の遺体を見た。
緑色のカビに覆われた、難破船の残骸みたいな、異形の鬼の遺体。
穢れの鬼の外殻が、鱗が落ちるように、一つ一つ剥がれ落ちた。
彼は生まれ変わるように脱皮していく。
穢れの鬼の外殻の下に、色白で痩せ気味の、旭の体があった。
「旭くん、君って子は…」
静先生が顔を綻ばせた。
「東雲の太刀が邪気を祓った。旭はギリギリ、穢れの鬼にはならんかった。あいつのメンタルは、サラリーマン武士やからな」
山上が説明し、
「なるほど」
武蔵も笑顔で納得した。
「旭さん、よかった…」
「旭さーん!」
雲林院と、戻って来た雨音が旭に抱きついて喜んだ。
鬼の外殻が全部、旭から剥がれ落ちた。
旭は静かに息をして、眠っていた。
愛宕の山に開いた黄泉路が、夜明けとともに霞んでいく。
山上は薄くなった虹の橋を昇っていった。
鬼御殿は消えていた。
山麓に、武蔵の車が停まっていた。
静先生は紅葉と咲良を抱き寄せ、涙した。
「今日のことを忘れないで。私達は精一杯やった。さぁ、山を降りましょう。学瀛が死に、結界はなくなりました。このまま、京都市内へ帰れますよ」
「静先生…」
紅葉は静先生と抱き合って、生きていることを実感した。
咲良はスミレの死を知り、複雑な思いで言葉が出なかった。
武蔵達は担架を作り、静先生を載せた。
蘇芳と旭は病院に着くまで、目覚めなかった。
5
病院の看護師は蘇芳を見て、
「おや、まぁ! 何をどうしはったら、無断外泊一泊だけで、こんなボロボロになって帰って来はりますの!?」
と、呆れ返った。
蘇芳は紅葉をベッドから見詰め、
「俺、あんたを誇りに思うわ。紅葉」
と、言った。
紅葉は何となく嬉しくなり、
「おにぃ。私、もういっぺん剣道やる。それで、おにぃを負かす」
と、決意を伝えた。
「挑戦、受けて立つ」
蘇芳は大笑いし、腹と胸に走った痛みで、顔をしかめた。
紅葉は兄の病室を出るなり、雲林院の耳を引っ張った。
「雲林院くん、手伝って!」
「ええけど、俺の兼光もボロボロやで? 雷帝より悲惨やで!」
雲林院は病院の廊下を、紅葉について走った。
咲良も静先生も入院。
雨音と武蔵も入院。
紅葉と雲林院は、旭が入院した病室に入った。
旭は腕がちぎれかけていたはずだが、鬼の外殻が剥がれたら、腕がくっついていた。
旭は現在、点滴を受けていた。
「旭さん、ゴメン。今すぐ、その点滴のまま走って!」
紅葉が旭を引っ張って起こし、雲林院が点滴の細い台車を押した。
「コマチちゃんの家に行くの?」
旭は病院のガウンの寝間着でベッドから降り、スリッパを履いた。
紅葉も雲林院もまだ、ボロボロの道着を着ている。
「うん、心配だから今すぐ来て!」
紅葉と旭と雲林院は、病院からコマチの家に直行した。
タクシーを降り、紅葉と雲林院が旭を支えて、コマチの家の門を開いた。
昨日の朝、ここでコマチが暴れて、旭に穢れの鬼の血を浴びせた。
その結果、旭が鬼化したわけだが。
コマチの面倒は、クラスメートの新見と煌星に任せてある。
「コマチー!」
紅葉の心臓はバクバク早鐘を打って、息が詰まりそうだった。
「紅葉…!?」
二階のドアが開き、新見が顔を出した。
紅葉はホッとした。
新見は顔じゅう傷だらけだったが、どうやら無事だった。
「よかった。新見くんが生きてた。煌星は?」
「煌星は寝てるよ。コマチの側で…。煌星は大丈夫。紅葉、スミレと一緒?」
新見が聞いた。
紅葉はぐっと詰まった。
「新見くん、コマチちゃんは?」
旭が病院の寝間着を着ているので、新見は少し戸惑った。
旭は急いで、コマチの部屋に踏み込んだ。
そこらじゅう家具が引っくり返り、服が散乱し、台風が通過したみたいに荒れている。
「コマチは…死んだ」
新見が虚ろな声で答えた。
旭が部屋の奥へ走った。
ひっくり返ったベッドの向こう側に、コマチが聖母のような優しい微笑みで眠っていた。
横に添い寝するように目を閉じていた煌星が起きた。
「あ、紅葉…。コマチが……」
煌星が悲しそうに、親友のコマチの寝顔を振り返った。
紅葉はへたへたと、コマチの頭の側に座り込んだ。
「…紅葉。コマチはおまえらを待ってたよ。昨日、あれから滅茶苦茶暴れて、ほんまに鬼になって伝染病撒き散らすんかと思った。でも、夜ぐらいにおとなしくなって、俺らを襲わんように、自分をベッドに縛り付けてくれって頼んできた。俺もコマチが安心してくれるなら、と思って、コマチをベッドに縛って、布団掛けた。コマチは夜中、また鬼になって暴れた…」
新見が煌星の肩を抱き寄せた。
「俺は必死に煌星を守った。コマチの血をこいつに浴びせんように、俺が盾になった…。コマチはしばらく鬼と人間の間を行ったり来たりした。人間に戻った時は、何度も旭さんの名前を呼んで、旭さん、旭さん、旭さん…って、それが自分の理性を繋ぎ止める呪文みたいに繰り返してた」
新見は旭に話した。
旭はポタポタ涙を落としながら、コマチの頬を撫でた。
「…朝方、コマチは変なことを言い出した。旭さんが死んだ、死んだのが視えた、って。そしたら、急にグッタリしてきた。コマチは…自分が旭さんに血をかけたから、そのせいで旭さんが鬼になって死んだ、と言ってた。自分のせい、って苦しみ出して、自分で自分を傷付けて、搔きむしったり、鬼化して暴れたりした。それで、部屋がこんなになった」
新見はゆっくりボソボソ喋った。
「コマチは最後は人間に戻って、好きな人のとこへ逝くって言い残して、静かに死んだ。鬼化でエネルギー消耗し過ぎて、衰弱して死んだ感じ」
「コマチ…」
新見に煌星がしがみつき、泣き出した。
紅葉は呆然として、涙が眸の奥で止まっていた。
いつも元気いっぱいで、女王様みたいな、あのコマチが…。
コマチは旭に会うつもりで死んだから、安らかな表情をしていた。
醜い鬼の形相は消え、美しい死顔だった。
旭は涙が止まらなくて、コマチを抱き締めて号泣した。
「なんで? 戻って来るって言ったでしょ? なんで勝手に死んでるの!? 俺は何百年、君を待てばいいの? この前は俺が先に死んで、今度は君が先に死ぬの? 俺達は何回擦れ違うの?」
いつも冷静な旭が思いきり取り乱した。
「次は、俺が君を捜す…。絶対に見つける…」
旭がコマチの胸に顔を埋めた。
紅葉はふと気付いた。
「新見くんは全然どうもないの? コマチの血を浴びたのに…」
「うん、俺は大丈夫やった。もう丸一日以上も経つけど、何ともない」
新見の傷はカサブタが出来て、特に変化なかった。
彼の血液内に入り込んだ青黒い小鬼は、自然に消滅した。
「新見くんのメンタル、意外過ぎ」
紅葉はびっくりした。
「俺、煌星とコマチ護るのに必死やった。自分が鬼になるどころとちごた」
紅葉は新見の答えが、鬼になる・ならないの境目だと思った。
今度は紅葉が話す番になった。
「スミレも…死んだ。咲良ちゃんの身代わりになって。自分から咲良ちゃんのフリして、鬼に殺されてしもた」
「ここにいいひんってことは、死んだんやろなと思ってた。そうか、スミレらしいな」
新見と煌星はまた落ち込んだ。
「絶対また会おう。生まれ変わって、みんなで集まろう。コマチちゃんも、スミレちゃんも。鬼退治とか、そんな理由はいらない。好きだから、また会いたいから、絶対に会おう」
旭が呟いた。
「ここで、来世も、その次の来世も…」
雲林院が言い添えた。
みんな俯いて、首を縦に振っていた。
6
咲良が静先生の車椅子を押していると、静先生は読みかけの本を膝に置いて、にっこりした。
「咲良。わかってますよね? 誰が一番、頼まれもしないのに命懸けで、何度も何度も助けに来てくれたのか。忘れちゃダメですよ。あなたは彼に、お礼を言わなきゃ。…まだ喧嘩してるんですか?」
咲良は病院の屋上から、京都市街を眺めた。
「わかってるんですけど…」
災禍を免れた京都は、平凡な幸せの人々が、平凡な時を刻んでいた。
咲良が蘇芳の病室の前を通りかかった。
蘇芳の話し声が聞こえたので、来ているのが紅葉かと思って、病室の前で待っていた。
出て来たのは、今日退院する雨音だった。
「あ、咲良ちゃん。元気? 咲良ちゃんももうすぐ退院するんだってね。よかった…」
雨音は初めて会った時と変わらず、にこにこして言った。
「あ、うん」
咲良は言葉がうまく出て来なかった。
咲良と雨音は並んで歩きながら、進路の話をした。
「雨音くん、東京の大学受けるんでしょ。帰っちゃうんだよね」
「ちょっと家がゴタゴタしてて。どうなるかわかんないけど、たぶん帰る。帰っても、一人暮らしすると思う。僕、また剣道をやることにしたよ。もう一度、最初からやり直す」
雨音は心の整理がついているらしく、爽やかに前を向いて話した。
「へぇ…。居合はどうするの?」
「山上さんも酒井さんもいないからね。しゅとーん部行っても、寂しいよね。これからも、僕は旭さんと武蔵さんに習うつもりだけど。咲良ちゃんも、また一緒に稽古出来たらいいね。…とにかく、僕は大学行ったら剣道する。警察官になりたいって思ってるんだ。酒井さんみたいな」
雨音が言うと、咲良は笑ってしまった。
「酒井さんみたいな? 酒井さん、警察官っぽくなかったよね。変わってた…」
「そこがいいんだよ。咲良ちゃんはどうするの?」
雨音はやっと咲良が笑ってくれて、嬉しかった。
「私、神社の神主さんになろうかと思ってるんだ。うちのおばあちゃんが言ってたの。おじいちゃん、神主だったけど後継ぎがいなくて、小さな祠だけになっちゃったって。山上さんちの神社も、山上さんが死んで、後継ぎいないよね。今、神主さんが全国で不足してるんだって。そしたら、神様はどうなっちゃうの? 忘れられちゃうの? ずっと何世代も、私達のご先祖様を守ってきてくれたのに?」
咲良は自由研究のパワスポマップを作りながら考えてきたことを、初めて誰かに打ち明けた。
その相手が雨音になったことは、自分でも意外だった。
「え、咲良ちゃん、巫女さんじゃなくて神主さんになるの? それ、いいかもね…。…てか、神主さんになるのって、東京の大学じゃない? 東京来るの?」
雨音が幾分興奮気味に聞いた。
咲良はそんなこと、わからなかった。まだ、中学二年だし。
「咲良ちゃんがもし東京の大学来たら、いろいろ連れてってあげるね…」
病院の正面玄関で、雨音が咲良に手を振った。
「うん…。大学はわからないけど、紅葉ちゃんと遊びに行く。きっと、行く。待ってて…」
咲良は雨音と仲直りの握手をして、別れた。
7
鬼は、心のおもてか、うらか。
鬼は、器のおもてか、うらか。




