捌玖 夜叉王
1
最初、紅葉は戦っている相手を透明の鬼だと思っていた。
それは違った。
紅葉は何度斬っても空振りする鬼に、大刀は無駄だと判断した。
彼女は納刀した。
彼女は極小の鬼に切り刻まれ、血だらけだった。
小さな風が吹く。
虫けらほどに小さい鬼が、跳ねた証。
紅葉は無我夢中で、袴に挟んでいた剣道用の手拭いを引き抜いた。
ごく普通の手拭いで、正面に向かって風を叩いた。
彼女は極小の鬼を叩き落とした。
眼に見えなかった極小の鬼が、地面に叩き付けられて出血した。
その赤い血を見て、
「いた! 見えた!」
ノミほどに小さい鬼を、旭が踏み潰した。
「それでよい!」
雷帝の刀匠の魂が言った。
極小の鬼の最後は呆気なかった。
精根尽き果て、紅葉が座り込んだ。
旭が片足を引き摺って、ヨロヨロと近寄った。
旭はちぎれかけた左腕と左足の痛みで、顔をしかめていた。
「紅葉ちゃん、私は先に姫塚へ行きます…。スミレちゃんと静先生をお願いします」
旭がその場を離れた。
紅葉は月明かり射すコロッセウムを見回した。
無数の鬼の死体で、山が出来ていた。
壮絶な修羅場。
武蔵は体中に武器を突き立てられ、蘇芳と雲林院は鬼の死体の間に埋もれていた。
「おにぃ…!? スミレちゃん…、静先生…。みんな、死んだ…!? 嘘や…!」
紅葉は青い唇を震わせた。
「痛い…。私も死ぬ…」
袴の裾を捲ると、毒蟲の幼虫が這い回ったミミズ腫れが増えていた。
紅葉もとうとう、岩場に倒れた。
2
紅葉達が倒れた岩場の、すぐ裏側。
鬼御殿から峡谷を望むテラスがあった。
「学瀛様ー! 神王様が、源次に倒されました…!」
鬼の親衛隊帳・ナマズ侍が息を切らし、テラスに走り出た。
ナマズ侍は腰に太刀を佩くけれど、ずんぐりした体型と顔はナマズのまんま。
風に吹かれていた赤毛の鬼が、ナマズ侍を振り返った。
「神王め。京の大地震はこれでなくなったな!」
学瀛は狩衣を翻し、洞窟へ戻った。
彼は最上層から、騒がしいコロッセウムを見下ろした。
「学瀛様。鬼の本陣に侵入してきた頼光と武蔵に、出来る限り掻き集めた鬼をぶつけたんですが…。壊滅状態です」
ナマズ侍は長い二本の髭を揺らし、唾を飛ばして喋った。
学瀛は腕組みして、
「案ずるな。咲良にはカイチを向かわせた。カイチは私の片腕だ。咲良の神泉にも敗けはしない。頼光と武蔵には、相応しい刺客を指し向けた」
と、吐き捨てた。
「あの穢れの鬼ですか…。あんな連中をお呼びになるとは…」
ナマズ侍はそわそわと、コロッセウムの一角を窺い見た。
「好かぬのは、私も同じ。されど、刺客としてはうってつけ」
学瀛は岩から飛び上がった。
「私は主典を迎えに行く。主典は好物の胎児をたらふく喰って、さぞかし精気を養ったろう」
学瀛が一瞬で、雲の上に達した。
3
一方の、京都御所。
咲良は清所門を出たところで、雨音を見失った。
「雨音くん、どこ!?」
玉砂利の道と、瓦が載った漆喰の塀が長く続いていた。
咲良は神王を殺すことに反対したが、雨音は地震を阻止する為、神王を倒した。
咲良が思わず、
「雨音くんなんか、大っ嫌い…!」
と言ったら、雨音が怒って、先に清所門を出た。
「雨音くんはどこからでも異界に入れちゃうの? 置いてかないでよ。愛宕の鬼の本陣って、どうやって行ったらいいの?」
咲良は半ベソをかいた。
雨音は漆喰の塀の曲がり角に隠れていた。
「咲良ちゃんは来なくていいんだよ。そこで待ってて…」
雨音は喧嘩別れしたことで、逆にホッとしていた。
咲良は困り果てた。
「愛宕は火の神様で、貴船が水の神様。安倍晴明は火、水、土、木、金の五行の力を活用して、鬼を千年封印したんだよね…」
咲良は紅葉に電話したが、電話は繋がりもしなかった。
愛宕山系の霊場はかなり広域で、しかも、交通が不便だ。
咲良は最初に来た路線バスに飛び乗った。
咲良を乗せたバスは、高雄に向かった。
高雄の神護寺は、平安遷都に尽力した和気清麻呂が建て、空海が十四年暮らした寺だ。
バスはどんどん山手に上って行き、バスの中は咲良一人になった。
日が傾き、晴れていた空が曇って、足元から寒さが上がってきた。
終点でバスを降り、川沿いの林に挟まれた石段を降りて行く。
清滝川に架かる朱塗りの高雄橋が見えて来る。
この川下の清滝トンネルから、紅葉達は鬼の結界に入った。
咲良は鬼の本陣から近いところまでは来ていた。
咲良は高雄橋を渡り、神護寺の参道の、段差が大きい石段を昇った。
楼門を抜けると、静かで広い敷地に伽藍が並んでいた。
咲良はキョロキョロして、異界の入り口がないか探した。
擦れ違う観光客もいない。
竹箒で掃く人が、
「紅葉の季節だったら最高なんだけどねぇ…」
と、微笑みかけた。
師走の日は短い。もうすぐ暮れてしまうだろう。
なのに、咲良はどこにも異界の入り口を見付けられず、本当に泣きたい気持ちだった。
彼女は金堂で薬師如来に拝んでから、和気清麻呂の墓と矢印された道へ入って行った。
獣道なみの細い道幅で、片側が崖。
ぬかるみ、滑りやすい道だった。
両側から木が生い茂り、薄暗かった。
飛鳥時代、和気清麻呂が宇佐八幡宮に参り、僧・道鏡が天皇になる野望を打ち砕く神託を受けた話は、咲良も聞いたことがある。
ここは和気氏の氏寺らしい。
「こんな奥まったところに、お墓作るんだぁ…」
咲良は荒い息をして、急な石段を昇った。
入り込んだ山奥の奥に、石造りの霊廟があった。
咲良は泣けてきて、霊廟の前で心が折れた。
「どうしよう。どこにも異界の入り口が見つからない。紅葉ちゃん、旭さん、みんな…、愛宕の鬼の本陣に行ったはずなのに。私も行きたい…」
咲良は地面に突っ伏した。
樹木の高い梢から、大きな羽音が聴こえた。
「愛宕の鬼の本陣へ…? おぬしは武蔵の仲間か…?」
頭上から、男の声が降ってきた。
フクロウのような翼を生やした男。坊主頭に赤いターバンを巻いている。
咲良は涙を拭き、目を凝らした。
「天狗? もしかして、愛宕太郎坊?」
「いかにも。鬼の本陣に案内致そうか。その後の命の保証はせぬ。自力で生きて還る他ないぞ」
愛宕太郎坊が咲良の側に舞い降り、彼女を抱き上げた。
太郎坊は大玉の数珠を首に掛け、一本歯の下駄を履いていた。
咲良は愛宕の大天狗に抱えられ、異界に入った。
4
鬼の洞窟。
静先生は穢れの鬼と向き合っていた。
鬼からどす黒い妖気が、目に見えるほど濃厚に、重みと圧迫感を伴って流れて来た。
妖気がドロドロと流れると、足元の岩の欠片が砕けた。
妖気は黒いタールのようだった。
その鬼は痩せた身に、黄ばみ、汚れた白装束をまとっていた。
甲当てと脚絆を付け、擦り切れた草鞋を履いていた。
腐乱による、吐き気を催す匂いが漂った。もし触れられたら、こちらまで腐ってしまいそうだ。
彼等は動く屍体。
「あなた達は墓地で死体を喰い、禁じられた穢れを撒き散らした」
静先生は松葉杖で後退していった。
「後がないぞ、静」
鬼が迫った。
鬼から漏れ出る妖気が物理的な力を持って、周囲の小石を押し潰し、木の枝を枯れさせた。
「あなた達は元来、穢れを清める特殊な能力の持ち主だった。あなた達は怖れられ、やがて蛇蝎の如く忌み嫌われる存在になった…。それでも、その頃、あなた達は清浄そのものだった…」
静先生はコロッセウムの崖っぷちに来ていた。
鬼の顔が月明かりに照らされた。
穢れは目に見える形で、男の顔を緑色のカビ状に覆っていた。
マダラに緑色で、黄緑やオレンジや、紺色がかった部分もあった。
「我等は穢れと同じ扱いを受けた。我等は討伐される側になった。それ故、自ら穢れてやったのだ…。この穢れを返してやる為に…」
「あなた達が墓を掘り返して死体を喰ったり、風葬された都の人を夜な夜な喰ったりしたから…、討伐せざるを得なくなったんです、夜叉王…」
静先生は懐から魔除けの札をごっそり出した。
「ふふふふ。屍人喰。夜叉王。いい響きだ…」
リーダー格の鬼は満足そうに言った。
鬼が続々と、岩穴から降りてきた。
ひたひたと静かな足音を響かせ、手を前に垂らす。
屍人喰の行進。
「うぉぉぉ…」
鬼は言葉にもならない呻き声を上げ、ヨダレを落とした。
「静…、その体、食わせろ…」
鬼の毒された息が流れ、静先生は頭痛に苛まれた。
静先生は四方に護符を投げ、結界を張った。
穢れの鬼は結界を完全に取り囲んだ。
鬼は尖った短い歯を剥いた。緑色のカビが目玉まで浸蝕していた。
「静…」
鬼の手が結界を越えて来る。
静先生が護符を投げ付けた。
白い煙が上がり、鬼の手がジュージューと焼け爛れた。
焼け爛れた鬼の手が、静先生の腕を掴んだ。
「やめなさい!」
静先生は鳥肌立った。
静先生の腕が腐り、喪服の袂が溶けた。
静先生は薙刀で、鬼の腕を切り落とした。
しかし、また次の鬼の手が焼けながら、結界に侵入して来た。
穢れの鬼は死ぬことがないから、護符や薙刀を恐れない。
「静。おぬしの幼い息子を喰ってやったよな。生きたまま皮を剥ぎ、骨までしゃぶってやった。これ以上ないほど美味かっ…」
「黙りなさい!」
静先生が激昂し、鬼の肩に薙刀の刃を食い込ませた。
鬼はニヤリとして、硬い骨で受け止めた。
「静。息子の為に喪服を着て、仇討に来たか? ならば、生憎だな。我等は不死身。護符に焼かれようが、真言に縛されようが、刀剣で切り刻まれようが。この飢餓感、死に見放された外道を、誰にも止められぬ…」
夜叉王と呼ばれた鬼が、静先生を結界から引き摺り出した。
今度は静先生が焼かれる番だった。
彼女は濃厚な穢れに曝された。
「あっ!!」
静先生は喉や舌、目や鼻孔や粘膜が熱く爛れるのを感じた。
空気を吸うだけで、肺まで爛れる。
一匹の女鬼が静先生にかぶりつこうとした。
「我が獲物だ!」
夜叉王が女鬼を殴り飛ばした。
女鬼の脆くなっていた頭蓋骨が砕け、脳味噌が飛び散った。
女鬼は頭を半分潰されたのに、すぐに起き上がった。
「夜叉王ー、ちーぃっとばかし、分けておくれよ…」
「夜叉王…、こっちにも肉をくれ…」
他の鬼が集まって来た。
静先生はピラニアの群れに落ちた獲物みたいに、一瞬で食い尽くされそうになった。
静先生は目を閉じた。
「私はこの憎い鬼に喰われて死ぬのね。息子を食い殺した、この鬼に…」
静先生の頭に、夜叉王が噛みついた。
「痛いっ」
静先生は叫ぼうとしたが、舌がヒリヒリ爛れ、声が出なかった。
夜叉王はゴリゴリと、静先生の頭蓋骨を噛んだ。
静先生は心の中で、武蔵に向かって怒鳴った。
「腹が立つ。武蔵、何をしてるの!? 何があっても、私を守ってくれるんじゃなかったの!? どうして、いつも先に死んでしまうの? あなたはどこまでも、あの人を追いかけて行くのね…」
静先生は生き別れた夫の顔を思い浮かべた。
夫の、凛々しい顔立ち。
夫は自ら鬼になり、悪しき鬼を狩る為に旅立った。
「あなたの捜す鬼が、ここにいたわ…。息子の命を奪った鬼よ。どうして、現れてくれないの? あなたは鬼の本陣にいないの?」
静先生は夫が現れるのを待った。
静先生は夫によく似た鬼の気配を感じ取った。
コロッセウムの上の林から、彼女を見下ろしている。
「もしかして…」
静先生はウサギのように赤い、充血した眼を開いた。
痛みのせいで涙が出て、視界が霞んだ。
コロッセウムの上から見ていた鬼が、口を開く。
「あれ、武蔵さんはどうしちゃったんですか? 僕、間に合いませんでした? みんな、死んじゃった?」
夜叉王が新たな視線に気付いた。
「源次ぃ…。おぬしが源次かぁ…?」
夜叉王は静先生の薙刀を拾い、雨音を仰ぎ見た。
雨音は穢れの届かない風上で、マスクを付けて立っていた。
雨音は静先生に、
「墓地の匂いがするんですけど。静先生、もしかして、ここはお墓ですか?」
と、尋ねた。
彼は落ち着いて、額の絆創膏を外した。
雨音の金色の第三の眼が、飛びかかった女鬼を燃え上がらせ、灰に変えた。
「…渡邊くんですか。ガッカリ…」
静先生が口の中で呟いた。
「ガッカリはないでしょ? 静先生、伏せて下さい!」
雨音が叫んだ。
静先生は腕を交差して開き、夜叉王の腕を払って、身を沈めた。
雨音の鬼切が火を噴き、周辺を炎の海に変えた。
渡辺綱に習った、地獄の火焔を噴き放つ。
ここは火の里。火の聖地。
火焔は力を増す。
不死身の鬼どもが枯草のように、簡単に燃え上がった。
夜叉王は岩窟のコロッセウムの最上層まで跳び、火焔から逃れた。
「火で清める? 甘いな、源次。ウジが湧くほど腐らせてやる!」
夜叉王が緑色の汚物を吐いた。
ゴボゴボッ。
腐敗と疫病の因子が緑色の吐瀉物となって、コロッセウムに撒き散らされた。
雨音は月明かりで、コロッセウムの最下層に倒れている紅葉と蘇芳と雲林院を発見した。
「やめろ、鬼!」
雨音が跳んだ。
夜叉王が薙刀を回し、雨音が鬼切を振り下ろした。
鬼切の刃が、夜叉王の延髄に食い込んだ。
しかし、ダイヤモンドのように夜叉王の頸椎が硬かった。
鬼切が骨に食い付いたところで、ピタッと止まった。
夜叉王の薙刀が、雨音の右手の人差し指第二関節から切り飛ばした。
血が滴り、傷口から穢れと疫病の因子が入り込んだ。
右手が瞬時に腫れ上がり、壊死を起こした。
「渡邊くん! 危ない!」
静先生が掠れた声で叫んだ。
「居合には、要らない指ですよね」
雨音は悔し紛れに言い返した。
「右腕全体が腐るけどな。ふふふふ…」
夜叉王が首に刺さった鬼切を、素手で押し退けた。
夜叉王は間近から、緑色の吐瀉物を雨音に吐きかけた。
ゴボゴボッ。
雨音は身を反らして避けた。
雨音の肩と左の袖に、緑色の吐瀉物がかかった。
彼の露出していた皮膚の部分、耳、手の甲や額が爛れた。
体に穢れが回り、心臓が衰えた。
雨音は意識が遠退くのを堪え、足を踏ん張った。
突如、息苦しくなった。
その時、岩のように固まっていた武蔵が、目をカッと開いた。
武蔵は死んでいなかった。
ビキビキとひび割れながら、武蔵の筋肉が目を覚ました。
「源次…、やっと来たか」
武蔵が深呼吸した。
武蔵は毒された空気を肺まで吸い込み、一気に火焔に換えて吐き出した。
もう一つの地獄の炎が武蔵から吐き出され、地面を穢していた緑色の吐瀉物を焼いた。
「毒を以って毒を制す…。鬼は鬼が殺すしかねーんだよ。源次、てめーの中の毒も、火に換えて全部吐き出しちまえ! てめーの生命のありったけを、腹の底から絞り出せ!」
武蔵の声が、雨音の頭の中で響いた。
雨音は自分の命を全部炎に置き換えて、鬼切の刃から迸らせた。
頭の中が白くなり、目の奥がガンガン痛んだ。
酸素がなくなるほど、息を吐いた。
夜叉王が火に包まれた。
「そんな馬鹿な。我等の骨は金剛と同じ。鋼より硬く、地獄火にも燃えぬ!」
夜叉王が火を消そうともがいた。
彼の皮膚と着物が焼け落ちた。薙刀の柄も燃えた。
緑色に蝕まれた骨が残った。
夜叉王は骸骨になり、黒い煤を飛ばした。
「源次よ。人が人であるとは何なのか。いかに醜かろうと、卑しかろうと、おぬしらは人と呼ばれたいのか。おぬしらは鬼畜。鬼以下の存在だ…」
夜叉王の目玉がギラギラ光った。
「善人もいれば、悪人もいる。人には善と悪の両面があるし、体裁を保つ為に何でもアリなのは確かさ…」
雨音は首を傾げながら返答し、
「でも、だからって、最低限のルールはある。人は誰かと認め合えるし、許せるし、相手を思いやることも出来る。その限り、人は完全な鬼まで堕ちない」
と、きっぱり言った。
「我は人を許さじ…」
夜叉王は炎をまとい、雨音に掴みかかった。
雨音は命の限りを、火焔に換えた。
火焔が鬼切の刀身を渡り、夜叉王の骨へ吸い込まれる。
夜叉王の骨に火が点り、オレンジ色の点々が少しずつ増えていった。
「うおお…、何故だ…? 我は不死身のはず…」
夜叉王が喚いた。
彼の歯茎から、ウジがボトボト落ちた。
夜叉王の骨から緑色の小鬼が溢れ出し、全身の骨が溶けるように崩れた。
静先生は自分の目を疑った。
彼女の喪服は焼け焦げ、頭から血が出ていたが、痛みはどこにもなくなっていた。
全身に広がっていた重度の火傷、紫色に腐った部分も、滑らかな白い肌に戻っていた。
「これは…」
静先生の喉から声が出た。
静先生は松葉杖を拾い、立ち上がった。
「武蔵ー」
静先生が武蔵に近寄った。
「静…、無事か」
武蔵は痛みも忘れて、いかつい顔に笑みを浮かべ、静先生を抱き止めた。
雨音は鬼切を鞘に戻し、杖代わりにして、コロッセウムの底へ向かった。
鬼の死体の山は燃えた。
武蔵と蘇芳と雲林院、紅葉だけが、岩場に倒れていた。
雨音は這うように、紅葉に近付いた。
「紅葉ちゃん。君が死んだら…、俺は何の為にここまで来たか、わかんなくなる……」
雨音の指は一本欠けていたが、右腕の腐敗は消えていた。
彼は煤だらけの頬を、紅葉の血に汚れた頬に擦り付けた。
紅葉は虫の息だった。
雨音は紅葉の頬に、毒蟲のミミズ腫れを目撃した。
「紅葉ちゃん! これ、どうしたの!?」
「蠱毒の呪術師を殺すしかねぇんだ…」
武蔵が体に刺さった槍や刀剣を抜きながら、答えた。
雲林院が目を覚まし、頭を振った。
満身創痍、しかし、生きていた。
蘇芳は血を吐き、衰弱して起き上がれなかった。
「雨音、来たんか…。う…」
また血を吐く。
「おい、てめーら。命があるなら、次行くぞ。…スミレがいねーな。旭と先に行ったかな?」
武蔵が潰れた膝のせいで、大きくよろけた。
天狗のルイとレイが寄ってきて、武蔵を左右から支えた。
雲林院が蘇芳を担ぎ、雨音が紅葉を背負った。
岩のコロッセウムの正面に、彫刻で装飾された石の楼門があった。
鬼御殿だ。白い石段が続く。
「蘇芳さん、遅くなって…スミマセン」
雨音が先輩の蘇芳に謝った。
「間に合ったで。ありがとう、雨音…」
蘇芳が微笑んだ。
雨音が見た京都御所の悪夢は現実にならず、彼は心から感謝した。
5
スミレはカイチという鬼に連れられ、楼門の石段を昇った。
楼門の奥はまた洞窟で、細かく枝道が分かれていた。
「咲良…。ここじゃ。着いたぞ」
カイチが立ち止まった。
彼は青白い鬼火を発し、端正な顔立ちがずっと薄暗がりに浮き上がっていた。
彼はスミレが咲良だと信じ、疑わなかった。
スミレは歯を食い縛り、痛みに涙を零した。
「痛い…。私はどうなってもいい。咲良ちゃんと紅葉ちゃんが好き…」
スミレは自分に言った。
足元に織物が敷かれ、穴が窓代わりの部屋になっていた。
黒装束の男が逆さに、天井からぶら下がっていた。
黒いビロードの翼と、長い尻尾があった。
「カダ」
カイチが呪術師に声を掛けた。
「カイチ、なんでここに…!? 誰を連れて来た!?」
呪術師の鬼が慌てた。
カイチは不満げに口を尖らせ、
「おぬしの蠱毒のせいで、関りなき者まで蟲が寄生して困っておる。呪いは終いじゃ。蠱毒の壺の蓋を閉じぬなら、おぬしを殺す」
と、早々に宣言した。
カダは床に降り、大きな壺を愛しそうに撫でた。
「何故、カイチに殺されねばならぬ? 我は学瀛様のご命令で、従わぬ者を餌にしただけだ。文句を言われる筋合はない」
「そうか。学瀛には私から申し上げる」
カイチは銀色の剣を閃かせ、抜刀から直線で一撃、カダの胴体を両断した。
「わっ」
スミレはびっくりして、尻餅を着いた。
カダの上半身は、
「そんなぁ…馬鹿なぁ…」
と呟きながら、数メートル飛んだ。
「うるさい」
カイチが素早く駆け寄り、カダの上半身が落ちる前にとどめを刺した。
カダは頭を割られた。
カイチはカダの壺も、剣で叩き割った。
空っぽの壺から、異臭が漏れた。
カダの壺は粉々になり、白い煙を出して縮んだ。
カイチはスミレを振り返り、
「咲良。もう痛くなかろう?」
と、聞いた。
スミレは痛かったお腹や背中を手で探った。
皮膚の毛穴から、黒いネバネバした液が出て来た。
そして、あの強烈な痛みが収まってきた。
「ありがとう、カイチさん!」
スミレは飛び跳ねて喜んだ。
これで、紅葉も助かったに違いない。
「喜ぶのは早い、咲良。これより、私はおぬしを殺す。学瀛の命令により…。おぬしは姫塚の霊を慰めんが為、生きたまま埋葬される。苦しかろうが、おぬしの宿命じゃ」
カイチがスミレを軽々と担ぎ、冷たい表情で告げた。
スミレは死を覚悟していたが、具体的なことを知ると怖くなった。
カイチはスミレを姫塚に連れて行った。
小山の頂が陥没して、大きな天井板石が石室内部に落ち込み、石棺を割っていた。
横穴式入り口の外に、深さ2メートルほどの穴が掘ってあった。
「かくして、世の悲しみは土の下へ。生ある者の為、弱き者が死す。生ある者は死す者との別れを乗り越え、幸せに生きていくぞ。おぬしはこれで、この地の水害を百年防ぐ。咲良、誇りに思え!」
カイチが無情にも、スミレを穴に突き飛ばした。
スミレは悲鳴を上げ、井戸みたいな穴に落下した。
「ああー! 咲良ちゃーん! 紅葉ちゃーん!」
スミレの悲鳴が、穴の壁に吸い込まれた。
カイチが穴を覗き込んだ。
「咲良が、己の名を呼んだ…? もしや、人違い? いや…、私の耳は何も聞いておらぬ…」
カイチは木製のシャベルを手に取った。
彼はザクザクと、穴に土を戻した。




