捌捌 穢れの鬼
1
目食いの鬼は死んだ。
紅葉達は鬼御殿に繋がる、洞窟の入り口を見つけた。
切り立った崖に吊り橋が架かっている。
鬼御殿の門番の鬼がいる。
冬枯れの木の根元から、雪を割って、鬼の腕がボコボコと生えて来た。
木々に妖怪じみた人面が現れて、
「ひょおおお…」
と、声を出して、枝を揺すった。
鬼が臍まで這い出て、紅葉の足を掴んだ。
「あっ…」
紅葉は咄嗟に、刀の鞘で鬼の眉間を突いた。
鬼は水風船みたいに弾け、悪臭を撒き散らして消えた。
鬼がボコボコと地面から這い出て、風船割りみたいに弾けていく。
悪臭が広がった。
再び、鬼が紅葉に掴みかかり、ドロドロ溶けて崩れていった。
この脆く腐乱した鬼は、紅葉に何か訴えようとしていた。
鬼の顔の肉がズルズル剥がれ、目玉が傾いた。
「聞いて…」
女の霊魂が言った。
「カラトン、カラトン……」
女は紡錘車を回す仕草をした。
「カラトン、カラトン…、この里は養蚕が盛んだった…」
女の濁った目玉が、遠い昔を懐かしんでいた。
「昔々、この里に神依る娘がいた…。娘は里の者の病を治した…。カラトン、カラトン…。この地を支配せし者が、娘を遠い処へ連れて行った…」
女は指を動かして、機織りの仕草をした。
「カラトン、カラトン…。神依る娘は里に帰りたがった。カラトン、カラトン…。娘は乱暴され、捨てられた。哀れな娘は、川に身を投げて死んだ…。祟りを怖れて、里に娘の墓を造った…」
女が視線で、鬼御殿の山の頂きを指した。
「姫塚と言う。カラトン、カラトン…。祟りが怖けりゃ、山へ入るな。姫塚の娘の涙が…、若い娘の死を呼ぶぞ…」
女が泡となって消えた。
武蔵と旭が走って吊り橋を渡り、天狗のルイとレイが跳ねて渡った。
紅葉が吊り橋に辿り着いた時、吊り橋は大きく揺れていた。
手摺の高さにロープがあったが、横もスカスカ、踏み板も隙間だらけで、谷底がよく見えた。
魑魅魍魎が、谷底に蠢いていた。
「こんなの、渡れへん…」
スミレの足が竦んだ。
鬼御殿の門番の鬼が大刀を振り上げ、吊り橋のロープを切ろうとした。
「急いで!」
雲林院が吊り橋の真ん中から呼んだ。
「行くよ、スミレちゃん…」
紅葉はスミレの手を取って、前に進んだ。
踏み板が凍って、ツルツルしていた。
「わっ…」
スミレが片足を踏み外し、太腿まで落ちた。
紅葉は引っ張られて、袴の膝を着いた。
谷底が二人の目に入った。
「重いで、あんたら…」
蘇芳がデリカシーのない言葉を吐き、スミレと紅葉を支えた。
吊り橋はブランコのように揺れた。
「落ちろ。ぺっちゃんこになる。鬼がおまえらを喰う…」
門番の鬼が紅葉達を嘲笑った。
「紅葉ちゃん、先に行ってて」
スミレが頼んだ。
「絶対、一緒に帰るからね。スミレちゃんが諦めたら、私も死ぬ。忘れんといて!」
紅葉がスミレを引っ張り、立たせた。
武蔵が門番の鬼を、拳一発で吹っ飛ばした。
紅葉達は何とか吊り橋を渡りきった。
武蔵が旭に、
「鬼御殿のてっぺんに、姫塚って小山と祠がある。おまえは先にそこへ行って、安倍晴明の陰陽道具を並べろ。おまえしか、山上の説明を聞いてねーしな」
と、囁いた。
「姫塚ですか。了解」
旭が頷いた。
2
洞窟の内部は鬼火が灯って、思ったよりも薄明るかった。
「意外にあっさり入れたけど、気のせいですかね?」
雲林院が旭に聞いた。
旭は顔色が悪く、しんどそうだった。
「旭さん、大丈夫?」
紅葉が心配した。
旭はここに来る前に、コマチが感染した鬼の血を浴びた。
「少し頭が痛いんですよね…」
旭は頭を振った。
静先生が何度も後方を振り返った。
「紅葉。私の一番苦手な鬼が、後ろから来ます…。集団でざわざわしています。足音が聞こえます。穢れの匂い、死の匂い…。ただの穢れじゃありません。地獄の蓋が開いた匂い…」
静先生は匂いを嗅ぎ、小刻みに震えた。
静先生が怯えるのを、紅葉は初めて見た。
紅葉達と距離を置き、特別な集団が迫っていた。
ゆっくりと重い液体が流れるように、小枝がパキパキ折れる音や、石が砕ける音を鳴らす。
紅葉も不快な気配を感じ取った。
先頭をゆく天狗のレイが、
「この先で、鬼が八つ裂きにされて、放置されてます。半殺しの状態でピクピクしています」
と、武蔵に報告した。
切り刻まれた鬼に、毒蟲がたかっていた。
鬼は鎖で繋がれ、細かな毒蟲の餌にされていた。
瀕死の鬼の口から、翅のある成虫が飛び立った。
「寄生されたら、私達もあの鬼と同じ。幼虫の餌になります」
静先生が早九字を切った。
「静先生! 冗談でしょ!?」
紅葉とスミレが抱き合った。
「生きているのも哀れだな。死んで安らかになれ!」
武蔵が口から火焔を吐いた。
「待って…くれ…。殺さないで…くれ…」
囚われの鬼が口から、蛾に似た成虫を吐き、掠れた声で叫んだ。
鬼の顔は闇に沈んでいた。
水分の少ない、粘つく涙だけがガラスみたいに光っていた。
武蔵は囚われの鬼に喋りかけた。
「死んだ方がマシだろ。もう動けねーじゃねーか。生きてる限り、痛みに苛まれる。地獄の責め苦みてーなもんだ」
「蟲は…おまえら…に…寄生する…。俺は…自由になる…」
鬼が言った。
「おいおい。死ぬのが何分か先になるだけだ。俺達が食われたって、おまえが助かるわけじゃないぞ」
「おまえらもどうせ…、じきに鬼に殺される…。俺は自由だ…、自分で死ぬ時を選ぶ。…放っといてくれ…」
鬼は干からびた唇を動かした。
「わかった。好きにするがいい。プライドの高い鬼だな。鬼の首領に逆らったか? 最後に聞かせてくれ。おまえをこんな目に遭わせた奴は誰だ?」
武蔵が尋ねた。
鬼は答えなかった。既に文字通り、虫の息だった。
武蔵は蟲の飛び交う中へ歩み寄り、薙刀で錆びた鎖を断ち切った。
「自由と言うなら、最後まで足掻け!」
鬼はふらり、立ち上がった。
そんな体力もないはずなのに、黒い血を垂れ流しながら、何とか立った。
鬼の体が錆びた鉄のように、縮んでいく。
鬼は立ったまま、間もなく死んだ。
鬼の遺体から、ぞろぞろと蟲が出て来た。
「クソッ」
武蔵が火葬の炎を吐いた。
天狗のルイとレイは松明を振り回した。
「嫌ー!」
紅葉とスミレは洞窟を引き返した。
彼女達は岩にぶつかった。いつの間にか、大きな岩が退路を塞いでいた。
蟲は人間の汗の匂いを嗅ぎ、紅葉達を狙った。
紅葉達は手足をバタバタさせた。
「服の中に入ったけど! この蟲、毒あるの!?」
雲林院が上着を脱ぎ捨てた。
「大丈夫!?」
スミレが素手で、雲林院の背中の蟲を払った。
「毒は大したことない。ちょっと腫れて、三日間熱が出る程度だ。それより、雌に挿されるな。卵を産み付けられるぞ! 走れ!」
武蔵が叫んだ。
紅葉達は岩がゴロゴロしている前方へ、全力で走った。
洞窟が広くなっている場所まで来た。
毒蟲の羽音が後方へ遠ざかった。
紅葉達の荒い息が、音楽ホールみたいに響いていた。
カラカラ、小石が崩れる音が混じった。
巨大な岩に押し潰されそうになっている鬼がいた。
「何をしてるんですか?」
天狗のルイが聞いた。
鬼は広場の天井を支える柱とも言える岩を、懸命に支え続けていた。
そして、巨岩の下敷きになって、もう両足が潰れていた。
このままでは、潰れて死ぬ。
鬼は逃げ出そうとせず、誇らしげに答えた。
「私がここの天井を支えている。早く通れ」
「見たら、わかる。何故、そんなことをしてる?」
天狗のレイが聞いた。
「自ら望んで、この重い岩を支えている。もう千年続けている。足は失われた。腰も砕けている。それでも、この指の最後の一本が砕けるまで、私はここを支え続けるつもりだ」
「何の為に?」
レイは苛ついた。
「誰の為でもないさ。私自身の為でもない。修行だ。つまらんことだがね」
鬼が微笑み、全部の歯にヒビが入っているのが見えた。
隆々盛り上がった腕の筋肉が、時々ぶるぶる震えた。
「最初の数カ月はきつかった。一年過ぎたら、どうということはなくなった。しかし、徐々に衰えが来た。千年、何も食ってない。もう間もなく、私の命は尽きるだろう。ここの天井も崩落する…」
鬼は満足そうに天井を仰いだ。
「なぁ、そこのお嬢さん。あなた方が人生かけてやっていることも、つまらんことさ。一生懸命なんて、他人から見れば、結構無意味なもんだろ?」
鬼が紅葉に話しかけた。
「鬼の話を聞いたらダメだ。早く行こう」
旭が紅葉を引っ張った。
「私達が戻って来るまで、ここを支えてもらえませんか?」
紅葉が鬼に頼んだ。
鬼は初めて、天井を支える意味を得た。
しかし、鬼は断った。
「やだね。私は何の意味も無しに、ここを支えている。誰とも約束はしない…」
「天邪鬼や、紅葉。放っとき」
蘇芳が囁き、紅葉を引っ張った。
「天邪鬼…」
紅葉は仏教の、四天王に踏まれる小鬼を思い出した。
悪さが過ぎた小鬼が、懲らしめの為に踏まれている。
「修行ちゃう。あいつは岩で封じられてんのや」
蘇芳が紅葉の同情をやめさせようとして、言った。
3
紅葉達は延々と洞窟を歩き続けた。
洞窟の上部が崩落し、外向きに縦穴が開いた場所に出た。
時間の経過がよくわからないが、藍色の空に冴え冴えとした月が出ていた。
縦穴の上部は森に囲まれ、月明かりに照らされていた。
何層も重なる空洞が、ローマのコロッセウムみたいだった。
スミレは背中を掻いた。
「紅葉ちゃん、痒いよー。何かモゾモゾする…。私、さっきの蟲に刺されたみたい…」
スミレが制服を捲った。
寄生虫が皮膚の下を這う、複数のミミズ腫れが出来ていた。
紅葉も太腿に痒みを感じ、袴の裾を捲ってみた。
「まさか…、これ…」
紅葉にもミミズ腫れが一つ出来ていた。
「さっきの毒蟲だな。最初は毒で痒くなる。一時間ほどで、幼虫が肉を食い荒らし始める。激痛が来るぞ。口とか鼻から蛾みてーな成虫が出て来て、雌はまた卵を産み付ける。短時間で、繰り返す」
武蔵が苦々しく言った。
静先生が魔除けの青い数珠を取り出した。
「大丈夫ですよ。蠱毒の呪術師を倒せば、この蟲も死にます。これは私の最強の御守りです」
静先生は長い数珠を二つに分け、紅葉とスミレの首に夫々巻いた。
静先生は武蔵に言った。
「武蔵、さっきの毒蟲に食われてた鬼が気になるんだけど。あの喋り方とか…」
「おまえの前の旦那じゃねーよ、静」
武蔵があかんべーした。
「そうね。でも、一応行って、確認して来ようかしら」
「死体は焼いちまったろーが。跡形もねぇや。第一、今戻ったら、あの毒蟲に刺されまくるぞ」
武蔵と静先生が押し合った。
蘇芳は月明かりで、紅葉の足のミミズ腫れを見た。
彼は絶句した。
「おにぃ、どうしたらいい?」
紅葉は頭が真っ白になった。
スミレは蟲がぞわぞわ動く感触に、鳥肌立った。
「紅葉。ほら、鬼がお出ましですよ。今、充分な手当は出来ません。君も戦力。命ある限り戦うんです!」
静先生がルイの背中から降り、松葉杖をついた。
紅葉は天然のコロッセウムを見上げた。
無数の敵が現れた。
大きさも強さもバラバラな、鬼の大軍。
「待ち伏せされたか。京に攻め込む鬼の群れに出くわしたか?」
武蔵が武者震いした。
「武蔵。生きていたら、姫塚で会いましょう」
静先生が天狗のルイから、自分の薙刀を受け取った。
「おまえは後ろの鬼を。俺は前の鬼を。じゃな、静」
武蔵の眉間と鼻に皺が刻まれ、鬼の姿に帰っていく。
彼の腕と肩が異様に盛り上がっていく。
戦いが始まる間際、旭はこの寒空の下、汗びっしょりだった。
彼の心臓がバクバク言って、彼の中の鬼の腐った血が騒いでいた。
戦いの火蓋が落ちた。
僅かな風が、紅葉の髪を一筋揺らした。
途端に、旭が吹っ飛んだ。
「旭さん、どうしたの!?」
紅葉は仰天した。
紅葉には、旭を吹っ飛ばした相手が見えなかった。
紅葉の側を、また風が流れた。
次の瞬間、雲林院が吹っ飛ばされ、岩に激突した。
雲林院は気を失った。
「何が起きたの!?」
紅葉は眸を見開き、耳を澄ました。
ただ普通に、彼女の頬を風が吹き抜けた。
武蔵の薙刀が金属音を発した。
「紅葉、視力に頼るな!」
叫んだ直後、あの武蔵が血を噴いて沈んだ。
「フーッ…、フーッ…」
荒い鼻息が、紅葉の間近で響いた。
「紅葉!」
蘇芳が助けようとして、横から飛ばされた。
スミレは洞窟の隅まで後退した。
彼女の手が、何か柔らかいものに触れた。
「紅葉ちゃん…。お、鬼が…ここにもいるよ…」
スミレが人差し指で、何かを突いた。
プ二プ二した弾力のある感触、生温かい体温が指先から伝わった。
鬼の湿った鼻先だ。
「スァー…」
鬼が息を吸い込む。
音から推測すると、人間の頭を丸飲みに出来る大きさの口を持っている。
ガチン。
鬼のごつい歯が鳴った。
紅葉が飛び付き、スミレを押し倒した。
鬼は直前で、スミレを食い損ねた。
紅葉の肩に、鬼のヨダレが数滴落ちた。
天狗のルイが鬼に吹っ飛ばされ、動けなくなった。
足を骨折している静先生に、透明の鬼の鼻息が迫っていく。
「ぐひゃもー」
鬼の間抜けな咆哮が響いた。
「危ない、静!」
天狗のレイが旋風となり、見えない鬼に突進した。
敵を切り刻むはずの百の刃が砕かれ、微塵と散った。
レイが血だらけになり、地面に落ちた。
透明の鬼の鼻息が、紅葉とスミレの方へ向き直った。
紅葉の刀を持つ手が震えた。
「ぐひゃもー」
鬼の息が吹き付けた。
蘇芳は立ち上がろうとして、血を吐く。
彼は病院を抜け出して来ている。内臓を痛めている。
旭は頭痛でよろめいた。
「旭。どこで鬼の血を浴びて来た? おまえ、それ、致命的なんじゃねーか?」
武蔵が怒鳴った。
「どうってことないですよ」
旭は強がりを言った。
「狂った鬼になりかけてるじゃねーか。それ、後ろから来てる奴等と同じ、穢れた血だな…。鬼の中でも、一番最悪だぜ!?」
武蔵は顔をしかめた。
「ぐぉっしゃああー!」
武蔵が雄叫びを上げ、薙刀を旋回させた。
何トンもありそうな透明の鬼が地面に倒れ、コロッセウムに地響きがした。
透明の鬼が死んだ。
その瞬間、武蔵は逆方向から誰かに斬られた。
「グボッ」
武蔵自身が血飛沫を噴き上げ、倒れた。
紅葉の刀に宿る、刀匠の魂が現れた。
「紅葉、闇雲に斬っても、あの鬼には当たらぬぞ。あの鬼の正体を考えるがよいぞ」
しかし、考える暇もなく、紅葉はすぐ敵と交差した。
風が紅葉の頬に触れた。
紅葉の雷帝の切先は、空を切った。
旭の左腕が半分ちぎれ、鮮血が迸った。
「うわああ!!」
旭は落ちそうな左腕を抱え、蹲った。
紅葉は風が吹く方向へ突き込んだ。
けれど、何度斬り込んでも空振りだった。
伸びていた雲林院が起き上がり、
「くそー。やってやらぁー」
と、滅茶苦茶に刀を振り回した。
「バカ。おまえが斬り付けたのは、この俺だ!」
武蔵が叫んだ。
「紅葉、どこや!?」
蘇芳が叫んだ。
「ここよ」
紅葉は何も言ってないのに、誰かが紅葉の声音で答えた。
「おにぃ…、今のは私とちゃう…」
紅葉が叫ぶより先に、
「紅葉。今、助けたるから…」
蘇芳は妹を助けようとして、敵に背中から斬り付けられた。
彼はまた深手を負った。
月明かりに照らされた、ごつごつした岩場。
コロッセウムを駆け回る、異形の鬼ども。
獣の体に人面の鬼。
獣のような毛むくじゃらで、異様に長過ぎる手足の鬼。
手足が何本もある鬼。
首がヘビのように長い鬼。
鎧より硬い甲殻を持つ鬼。
狂気走った眼差しの鬼。
骨が無い、ヌメヌメした軟体鬼。
四つん這いで駆ける鬼。
ブーメラン代わりに生首を飛ばす鬼。
毒キノコ三兄弟。
地面を這い回る、赤黒い乳児の鬼。
人の姿も獣の姿も持たない、輪郭すら曖昧な鬼。
吸盤がある鬼。
そして、大きな顔だけのお化けが、ふわふわと飛んでいる。
「紅葉、冷静に考えろ」
彼女は自分に言い聞かせた。
風がまた、左頬の前を流れた。
紅葉は反射的に、袈裟斬りに斬り込んだ。
また空を切った。
「…小さい。よくわからへんけど、私の戦ってる相手、めっちゃ小さい…。当たらへん」
紅葉はやっと気付いた。
「息の続く限り、斬りまくる」
武蔵が手当り次第、鬼を斬って片付けた。
旭も左腕を体に縛り付け、右手一本で戦った。
「旭さん、先に行って下さい。姫塚へ…」
蘇芳は妹を守れない自分を、歯痒く思った。
武蔵はその場で、数百の鬼を斬った。
血煙が上がった。
旭は左手が使えない割に善戦し、先を目指した。
蘇芳は数十匹を斬り殺したが、力尽きた。
雲林院は斬りまくって、返り血で真っ赤に染まった。
紅葉が戦う極小の鬼は、彼女を嬲るように、徐々に切り刻んでいった。
彼女は全身の傷から血を流し、血塗れになった。
「紅葉、考えよ。おぬしは針の先ほどの小さき鬼を斬る為に、二尺三寸もある刀を振り回しておるのじゃぞ。馬鹿馬鹿しいとは思わぬか!?」
刀匠の魂が言う。
「紅葉よ。鼻息の荒い鬼は透明じゃが、図体がでかいだけで、体当たり以外は何も出来ぬ。あやつが人間を食う為には、相棒の小さき鬼の攻撃が必要じゃった。この小さき鬼の方も、鼻息の荒い鬼をうまく使って、敵の目を欺いておった。二匹で一匹のフリをしておったのじゃ。それがどういうことか、考えよ!」
刀匠が紅葉の耳元で言った。
紅葉の息が切れる。
暗闇に、鬼の断末魔が響く。
武蔵が鬼の肉と骨をぶち斬る音、誰かの剣と剣がぶつかり合う音。
腹を空かせた鬼が、仲間の鬼を食い始める。
骨を噛み砕く音。
「わからへん。このまま、みんな死んでしまう…」
紅葉は手の汗を袴で拭き、いったん納刀した。
武蔵は片膝を砕かれ、腹に折れた刀が刺さり、背に斧が二本刺さっていた。
鬼の歯形が全身に付き、あちこちの肉が食いちぎられていた。
武蔵は静先生を庇い、立ち続けた。
「俺も立ったまま死んでやる。鬼の武蔵だからな」
武蔵は歯を食い縛った。
スミレは毒蟲が背中を這い回る痛みに襲われた。
「痛いー。痛いよー。誰か助けてぇ…」
スミレは地面に倒れ、ゴロゴロ転がった。
「紅葉ちゃん、私を殺してぇ。あの成虫が…口から出て来る前に…」
スミレは猛烈な痛みに泣いた。
成虫がまた卵を産み付けたら、地獄の痛みが繰り返され、数時間かけて惨たらしく死ぬのだ。
とても怖かった。
紅葉も激しい痛みに襲われていた。
鬼と戦っている最中なのに、片足が痛くて動けなくなった。
ナイフでザクザク切り刻まれるような痛みが来た。
紅葉の額の前を、しゅっと風が吹き抜けた。
彼女は何も考えられず、反射的に動いた。
4
スミレは誰かの視線を感じ、泣き止んだ。
花のお香が漂って来た。
「おや、蟲に寄生されたのか。あれは蠱毒の鬼が仕掛けたもの…。京に攻め入ることに反対した者は、あの蟲に殺された。おぬしに関わりないな。助けてやろうか?」
優しそうな声が言った。
「薬、持ってるの!?」
スミレは鬼に問うた。
「あれは蠱毒じゃもの。薬なぞ無い。蠱毒の鬼を殺せば、呪いが解ける。あやつは気に入らぬから、私が殺して来てやろうか?」
藍色の鬼火が、この鬼の輪郭を浮かび上がらせた。
若い男の鬼で、美しい顔立ちをしていた。
鬼は短い銀髪で、頭頂部に一本、短い角があった。
「私はカイチ。おぬし、咲良を知らぬか? 私は咲良と申す乙女を殺すよう、獅子鬼・学瀛に命じられた。…もしや、おぬしが咲良か?」
カイチは長い睫毛を瞬かせ、スミレの首の青い数珠を見た。
静先生が掛けてくれた御守り。
霊力の高い護符が、カイチの判断の基準になった。
「咲良を…殺す」
スミレはぼんやり聞いていた。
それから、彼女は笑顔になり、鬼にこう言った。
「うん。私が咲良! 咲良よ! 私は死んでもいいから、その蠱毒の鬼、殺してくれる? 友達の紅葉ちゃんも、あの蟲にやられたの!」
「そうか。おいで、咲良」
カイチがスミレを抱き上げた。
5
静先生は背後から迫り来る鬼に備え、薙刀を構えた。
「穢れの鬼。死者を墓から掘り出し、虫が湧いた屍肉を喰らう。穢れに触れ、取り込むことは、これ以上ない最大の穢れとされた。生者はこの鬼に、意識がある状態で骨まで喰われると言う…。この世に死の穢れを蔓延させる鬼、こいつらを、何としてもここで足止めしなくてはなりません」
静先生は早九字を切った。
静先生は洞窟に入る前に、雨音のスマホにメッセージを送っていた。
しかし、雨音から返事は来なかった。
「何をやってるの? 渡邊くん、京都御所の鬼に、そんなに手間取ってるの!?」
洞窟に入った今は、電波さえ繋がらなかった。
ひたひたと鬼の集団の足音が迫る。
洞窟の足元を、ドロドロと何かが流れて来る。
落葉も枯れ枝も潰され、石が砕けていく。
「私は殺されるでしょう。どうやっても勝ち目はありません。あの穢れの鬼に、打つ手などありません。この身を餌に与えて、ほんのしばらく足止めするしかありません…」
静先生は覚悟を決め、前を毅然と睨んだ。
静先生はコロッセウムで、武蔵達の命の光が弱くなっていくのを感じた。
「まずいことになってますね…」
静先生は紅葉に希望の視線を向けた。
「まぁ、紅葉。運が悪い。その鬼は手強いですよ。頑張ってね」
静先生は他人事みたく呟いた。
その時、ふいに頭上の岩が穴開いた。
黒い影が一つ落ちて来て、逆さにぶら下がり、静先生の髪を長い舌で舐めようとした。
静先生は松葉杖で飛び退いて、薙刀を振り上げた。
鬼はのけ反り、薙刀を避けた。
「ふふふ。喪服を着て、いい度胸の女だな。…と思ったら、おぬしか。静…」
旧知の鬼が囁いた。
逆光で、黒い人影に見える。
「おぬしのような美女を苦しみ抜かせて喰えるとは、愉しくて仕方無いな…。早速、我が一番に穢してやろう…」
鬼の口から、穢れたヨダレが数滴落ちた。
大地が穢れた。
静先生は息を詰め、喪服の袂で口と鼻を押さえた。
鬼の全身から死臭が漂った。
「死んでる鬼は…殺しようがない」
静先生は口惜しそうに言った。




