捌陸 鬼の本陣
1
道路もない、ひっそりとした奥山。
原生林の枝が、光を遮る森。
ジメジメして、いろんなキノコが生えている。
地面の裂け目が洞窟の入り口。
水音が響いている。
天然の岩屋はところどころ、石が崩れている。
迷路の先の一つは、切り立った崖に繋がる。
「主典ー」
奇岩の絶景を見晴らすテラスに、白い狩衣を着たマナブが出て来た。
「主典ー。神王がびびってるからさぁ、絶対に地震起こさないと、そんなの裏切りだよって言ってやったんだー。やるって言ってたよー。明日、俺達は地震で混乱した京に攻め入るんだ。…主典?」
マナブは主典を探し、うろうろした。
武官装束を着けたナマズの鬼が出て来て、
「学瀛様。主典様はお腹が空いたとおっしゃって、市街の方へ飛んでお行きになりました」
と、告げた。
「食事? 主典の好物って…、人間のアレだろ。きっと大騒ぎになるね…」
マナブは残酷な想像をして、悦に入った。
2
カズチは元々、お洒落にとても気を遣う男だった。
それが今、泥だらけの服で構わず電車に乗る。
彼のボサボサに伸びた髪も、無精髭も、いつもと違い過ぎる。
彼はブツブツ独り言を漏らしている。
「マンションの鍵が無い…。財布はあったのに…。何があったのか、全然覚えてない…」
彼は車窓のガラスに映る自分を見て、しばらく動きを停めた。
「別人じゃないか、俺…」
彼は乗り換え駅の表示を見て、苛々した。
「俺はなんで、こんなとこにいるんだ…? 体が重い…。だるくて、死にそうだ…」
彼の頭の中は靄がかかったようにボンヤリしている。
彼は記憶の断片を繋いだ。
「…鶴とか言う名の、鬼の使いが来た。…俺はマナブみたいに、鬼になりたいと頼んだ。マナブを拾った経緯も話した。ペットを飼うように、マナブに愛情を注いだことも…。…俺は鬼になれたのか?」
彼はエスカレーターで気分が悪くなり、吐き気を感じた。
「大丈夫ですか?」
親切な人が話しかけた。
「…ちょっと疲れてるだけです。ありがと」
カズチは作り笑いをした。
でも、本当にしんどかった。頭痛と眩暈がした。
「俺は鬼と契約して、サインした…。その後、タクシーでどこかの山へ行った。…途中、交際してたカナを乗せた。…なんでカナが来たのか…、ちっとも思い出せない。…ともかく、俺達は…気が付いたら、山の中にいた。マナブ…もいたな…」
また頭の中に靄がかかってきた。
思い出すのも億劫になってきた。
「カナはどうなったんだろ。あんな女、どうでもいいけど。…研究室で一番可愛かったから…、キーホルダーのアクセサリーみたいなもんさ…」
カズチは電車を乗り継ぎ、大学院の研究室へ向かった。
時計は午後十時を指していた。
研究室には下っ端だけが残っていた。
「え! カズチさん、辞めたんじゃなかったんですか!?」
後輩が驚いた。
「おまえらに追い出されただけだろ。…他の奴等は帰った?」
カズチはいつもより粗暴な口調で喋った。
後輩は周囲を確認し、小声で返事した。
「何人も行方不明でしょ…。カズチさん、指名手配されてますよ…」
「はぁ、何のことだかわからないね。指名手配?」
カズチはとぼけた。
「教授が二人行方不明になって。あなたを告発した山田さんも、行方不明になって…、山田さんのアパートから遺体の一部と血痕が見つかって。…それで、今朝、あなたは指名手配されたんですよ。今も、警察が捜してますよ!」
後輩は緊張し、デスクに置かれたスマホに目を走らせた。
通報したい、そう考えているのがありありわかる。
「ふーん…」
カズチはデスクの上を払った。
資料やスタバのエスプレッソや、スマホが床に落ちた。
「カ…カズチさんの…、マ、マンションは…、警察が見張ってると思いますよ。こ、ここも危ないかも…」
後輩の眼鏡がずり落ちた。
カズチはいきなり、後輩の胸ぐらを掴んだ。
「じゃ、おまえの家に泊めてくれよ」
「ええっ。勘弁して下さいよ。僕、新婚なんですよ?」
後輩は涙で目を潤ませ、鼻水を垂れた。
「いいか、何でも教えてやる。教授のこともだ。でも、ここじゃ話せないな…。知りたきゃ、連れてけよ」
カズチが凄んだ。
「すごく喉が乾いてる…。さっき、あんなに水をがぶ飲みしたのに」
カズチは苛々して、何も落ち着いて考えられなかった。
後輩は慌てて帰り支度をした。
カズチは後輩と一緒に、研究室を出た。
3
後輩は大事な奥さんが待つ家に帰りたくなかった。
奥さんは妊娠九カ月目だった。
奥さんの両親はもう風呂を済ませ、奥の和室で寝ていた。
その隣りのリビングで、カズチと後輩は無言でビールを飲んだ。
対面式のカウンターキッチンから、奥さんが愛想を振りまいた。
後輩は奥さんから見える位置に、こっそり新聞を置いた。
K大研究室事件で逮捕状・指名手配という見出しが付いている。記事には、カズチの名前と顔写真が出ていた。
奥さんは天真爛漫な可愛らしい女性で、新聞の意味に気付かなかった。
「お話は伺ってますよー。カズチさんは天才タイプの方だってー」
奥さんはおつまみのチーズとサラミを皿に盛り、テーブルに出した。
「そんなことないんです。ただ真面目で、研究以外に何も興味ないんです。他に何か出来るわけじゃないし、流行のことも殆ど知らない。俺はクソつまんないヤツです」
カズチが言った。
後輩は俯き、唇が白くなるほど噛んでいた。
「そんな方がなんで研究室を辞めたんですか?」
奥さんは夫の隣に座った。
「…自分でも、よくわからないんです。鬼を拾った時から…段々、人間としての感覚が麻痺していった。鬼に感染するみたいに…、自分も鬼になっていったんだと思います」
カズチは本気で返答した。
「あら、鬼って…」
奥さんはコロコロ笑った。
鈴を転がすような声の持ち主だ。
後輩は顔に汗を噴き出し、膝の上で拳を握り締めた。
「鬼を拾ったって、どういう比喩なんですかー?」
奥さんの横で、突然、後輩が立ち上がった。
後輩は奥さんをソファーから引っ張り出した。
「逃げろ! これは本当のことだ! あの人は殺人鬼だ!」
後輩は奥さんをリビングから押し出した。
カズチはすまして、ソファーで脚を組んでいた。
「カズチさん、頼みます、出て行って下さい。警察を呼んだりしません。だから、僕の家族には何もしないでくれ!」
後輩が膝を着き、両手を合わせて頼んだ。
カズチは馬鹿にしたように見ていた。
彼の頭痛が収まり、脳内ですっきりと靄が晴れていった。
「思い出したよ。…俺、愛宕の奥の、遠い山の中へ連れてかれたんだ。そこに鬼の墓があった。俺はカナを殺して、生贄に捧げた…。俺は本物の鬼と一体になる為に、いくらか血を払わなきゃならなかった…。俺は墓穴に引き擦り込まれて…、千年前の鬼に喰われたんだ…」
カズチが告白した。
喰われた時の恐怖と痛みを思い出した。
ビールが半分入ったタンブラーが転がった。
「俺は研究室の奴等に…復讐してやろうと思って……よみがえった…」
カズチの眸が虚ろになった。
カズチが頭を掻くと、ボサボサの髪が抜けた。
頬が腐り落ちる。
全身が腐り、土に塗れていく。
腐臭漂い、紫色の爪が伸び、目玉がどろっと流れ出る。
「うわーっ!!」
後輩が叫んで、ひっくり返った。
カズチの流れ出た目玉の下に、金色の鬼の目玉があった。
顔に浮かび上がる、血のように真紅い鬼化粧。
「うわっ、うわわわ…!」
後輩は腰を抜かして、動けなくなった。
全身腐りかけた鬼が後輩を捕まえた。
鬼が軽く握っただけで、
「ギャー」
後輩の右手首が砕けた。
「おまえは後で殺す。先に…好物を食す…」
そいつはカズチとは似ても似つかぬ、低い声で唸った。
「退け…。血と肉が欲しい。喉が渇き、腹が減っている…」
鬼がカズチの後輩を投げ飛ばした。
後輩はキッチンまで飛んだ。
「やめてくれー!!」
後輩は包丁を出し、片足を引き摺って、鬼に迫った。
骨折した右腕は力が入らない。
彼は左手で包丁を握り締め、必死に鬼の背後から脇腹を刺した。
鬼は知らん顔をして、リビングのドアを建具枠ごと引き抜いた。
鬼は廊下で立ち聞きしていた、後輩の奥さんを見下ろした。
鬼の身長が脹れ上がっていく。
鬼は天井に頭を擦り、膝と腰を屈めている。
「ああ、あ…。お、鬼…? ほん…もの…?」
奥さんが可愛らしい声で尋ねた。
「いかにも、鬼じゃ。主典と申す男のなれの果て。我が好物は、人間の胎児。千年昔、夜毎、村々に呼びかけて回った。童はおらぬか、身重の娘はおらぬか、隠したとても匂いで知るぞ。家を木槌で叩き壊し、女子供を引き摺り出して喰った。嫁入り前の娘を見つけては、孕ませて、腹の児を喰った…」
鬼がぐわーんと響く声で答えた。
「やめてくれー! やめてくれー!」
後輩が鬼の背中で泣きながら、何度も包丁を突き刺した。
包丁はカズチの服を破り、鬼の肋骨にゴツンゴツンと当たっている。
彼の手が滑り、包丁の刃で自傷して血だらけになる。
「何やー!? どうしたー!?」
奥さんの両親が、隣りの和室から出て来た。
鬼が奥さんに手をかけた。
4
紅葉は静先生と電話で話した。
「コマチが鬼の血を輸血されて、鬼化したんです」
「そう。後は本人の精神力の問題ね。どこまで持つか…」
静先生は残念そうに溜息をついた。
「そんな…」
紅葉は言葉が詰まった。
よく晴れていたが、風は冷たい朝だった。
「紅葉。咲良はもう病院を出ましたよ。後で合流することになってます。あなたは私達と一緒に行きましょう。スミレもこっちに来てますよ。今、私達は嵐山にいます。渡邊くんは咲良と一緒。御所へ行ったはずです」
静先生が言った。
「雨音くん、咲良ちゃんと一緒なんですか?」
紅葉は兄の蘇芳を振り返った。
「おにぃ。地震が起きて、京都最後の日になるかも知れへんのに、雨音くんは咲良ちゃんと行っちゃった…」
紅葉は寂しく思った。
「ええやん、別に。紅葉も早く支度して」
蘇芳は紺一色の剣道着に着替え、黒いパーカーを羽織っていた。
長い日本刀が目立たないように、竹刀袋に入れている。
雲林院が走ってきた。
「蘇芳さーん、おはよーございまぁーす!」
雲林院も剣道着を着て、竹刀袋に刀を入れている。
「私もこれを着るかな」
紅葉も剣道着を着た。
コートとスーツでノーネクタイの旭は、運転席で、
「俺、剣道部の引率の先生みたいだな」
と、感想を言った。
旭の車が走り出した。
紅葉は車窓から、いつもと変わらない通学時間の街の様子を眺めた。
「みんな、大きな地震が来るなんて思ってへん…」
紅葉は何度も深呼吸した。
知らない誰かが、友達と一緒にバスに乗って行く。
誰かのお父さんが朝から疲れ顔で、駅の階段を行く。
遅刻ぎりぎりで走って行くあの子。
保育園の送迎バスに手を振るお母さん達。
商店街で重いシャッターが開き、店の前に停まったトラックから、慌ただしく荷物が下ろされる。
パン屋の前から、香ばしい匂いが流れて来る。
紅葉は胸をぎゅっと押さえた。
「明日、これが全部、ナイかも知れない」
切なくなった。
「雨音くんも咲良ちゃんもいない。私がやる」
紅葉は決心した。
旭は武蔵と電話で話しながら、嵐山方面に車を走らせた。
「愛宕の鬼を襲撃する。おまえらが鬼の世界に入るのは、それほど難しくないと思う。鞍馬の天狗のルイとレイが、愛宕の大天狗の太郎坊に話を通した。旭、山上から預かった荷物、全部持って来たな?」
武蔵がハスキーな声で囁き、電話を切った。
清滝トンネルの手前で、武蔵達が待っていた。
紅葉は車を降り、トンネルを見て焦った。
「ここって、前にコマチと煌星が幽霊見た場所ー?」
昼間でも、とても不気味だ。
スミレが走ってきた。
「紅葉ちゃーん、待ってたよー! 咲良ちゃんは遅れて来るってー。コマチと煌星はまだー?」
紅葉は明るいスミレの表情を見て、少し悩んだ。
「スミレちゃんは武器持ってないから、煌星達と待ってた方がよかったかな?」
「大丈夫ー。ちゃんと武蔵さんの後ろで見てるからー」
スミレが武蔵達を振り返った。
静先生が助手席のウィンドーを下げた。
静先生は死装束を思わせる、白無地の着物を着ていた。
喪服である。
「紅葉、大丈夫ですよ。トンネルはお祓いしました。ここからが敵の結界。結界の入り口を監視する鬼がいます。…あ」
静先生が固まった。
武蔵がトンネルで監視の鬼を捻り潰し、拳で壁に撃ち込んだ。
鬼はぺっちゃんこ。
監視の役目の蜘蛛の鬼は、金色の炎に包まれ、灰になった。
「紅葉。敵に、私達の襲撃を気付かれました。正面から結界に突入します」
静先生がにっこり微笑んだ。
双子の天狗のルイとレイが、今日は黒いスーツと黒ネクタイじゃない。
山伏姿で車に乗っている。
墨染めの僧衣に着替えた武蔵が、
「行くぞ。ついて来い」
と、クラクションを鳴らした。
紅葉達は旭の車へ戻った。
清滝トンネルの空気が異質なものへ変化する。
ネバネバと空気が膚に絡む。
トンネルを走る間、オレンジ色の光が窓の外を流れる。
始め、トンネルのライトかと思う。
けれど、違う。鬼の手形が窓にベタベタと付く。
「うわぁー」
雲林院が悲鳴を上げた。
ドアの隙間から鬼の手が入り込んできて、雲林院の兼光を引っ張った。
雲林院は鬼の紫色の手を蹴った。
「飛ぶぞ」
武蔵の声が、紅葉達の頭の中に直接響いた。
無数の鬼が二台の車にしがみ着いた。車の屋根がギシギシ軋み、屋根が凹んだ。
武蔵は車を急加速させた。旭もぴったり、後を追う。
対向車も来ない。他に車がない。
前方、トンネルの出口が青白い炎に包まれている。
「鬼火!?」
反射的に、旭はブレーキを踏もうとした。
「旭、アクセルを踏め!」
武蔵が言った。
二台の車は猛スピードで、青白い炎に飛び込んでいった。
車は異界へ突入した。
5
しばらくの間、白く灼けた眩い世界で、紅葉達は目が回るのを感じた。
車ごと浮遊するような感覚。
少しずつ、車が沈んでいく。
「大丈夫か!?」
旭が車内を見回し、確認した。
「一応、大丈夫っす…」
雲林院が打った頭を擦り、答えた。
シートベルトをしていなかった蘇芳は、天井に浮かんで、ルームライトにしがみ着いていた。
空気は水のようにねっとりと重くなった。
紅葉は泳ぐように空気を掻いて、酸素を探して息を吸った。
ズズン、と地響きがした。
車が大地に降り立った。
紅葉はどきどきして、窓の外を見た。
昼間の光が射し、よく晴れていた。
「鬼がいっぱい集まって来る前に、早くマナブを見つけて殺さないとな」
旭がトランクを開けた。
彼は山上の遺品が入ったリュックを背負い、白い絹で包まれた東雲を手に持った。
「どうやって帰るんですか? はぐれてしもたら、終わりですやん」
「絶対はぐれるなよ」
蘇芳が顔をしかめ、雲林院を小突いた。
紅葉は緊張しながら、雷帝を抱えて降りた。
彼女は仙人が住みそうな奇岩の絶景を見渡した。
「ここから先は鬼の巣窟で、太郎坊様も命の保証はしない、とおっしゃっています」
天狗のレイが言った。
ルイとレイは天狗の力を増し、眼が炯々と光っていた。
彼等の背中には黒い翼が生えていた。
武蔵と彼等は、この世界にどことなく馴染んで見えた。
静先生はルイに背負われて、先に進むことになった。
ルイは重さも感じないように、軽々と跳ね、道なき道をゆく。
武蔵は無言で鉈を振り、沢沿いを進む。
深い森に飲み込まれていく。
静けさの中、時折、野鳥の囀りが響く。
「どうなるんだろうね…」
スミレが紅葉の横を歩く。
紅葉と蘇芳と雲林院は剣道の袴を履いているが、スミレだけ中学の制服を着て、襟元にリボンを結んでいる。
「スミレちゃん、気を付けてね」
行く手は急斜面で、どんどん険しくなる。
「待って、紅葉ちゃん…」
スミレは息を切らし、早足で紅葉を追いかけた。
心地よいせせらぎの音が響き、マイナスイオンがいっぱいで、鬼の気配もない。
木々は高くそびえ、その樹皮にキノコが生え、長い螺旋階段のように連なっている。
突然、武蔵が立ち止まった。
「そら、第一号の鬼が出た…」
武蔵が無銘・吉光の薙刀を抜いた。
旭は先が両刃で途中から片刃になる神刀、東雲を抜いた。
蘇芳は蜘蛛切の太刀を抜いた。
雲林院は竹俣兼光を抜いた。
紅葉が最後に、打刀の雷帝を抜いた。
辺りの眩い光が萎んでいき、闇が湧いてきた。
闇の濃いところに、青白い鬼火が浮かび上がった。
「初めに参り来たる鬼、学瀛様の秘蔵の剣、凍てつく大地に晒す骨、無情の空より降りる霜の声と申します…」
鬼火が名乗り、一陣の旋風から姿を現した。
長い髪、青白い顔の少年で、白い狩衣を着ていた。
無表情で、心の芯まで冷たい感じがした。
彼が現れると、その場が急に冷えた。
日が陰り、今にも雪が降り出しそうなほど寒くなってきた。
「雑魚の相手はしてらんねぇ。おまえは弱そうだ。ましてや、今は昼間だからな。鬼の時間じゃねーんだよ! さっさと、大将のとこまで案内しな!」
武蔵が怒鳴った。
相手は無言だった。
「霜の声って、静寂って意味ですからね」
旭が呟いた。
「クァー…」
梢で一羽のカラスが鳴いた。
凍てつく大地に晒す骨、無情の空より降りる霜の声が、細身の剣を抜いた。
「来るか」
武蔵が薙刀の先を上げた。
しかし、霜の声は後ろに下がり、幽霊みたいにスーッと消えていった。
「さぶ…」
無意識に紅葉は肩を縮込ませ、腕を組み合わせた。
気温がずんずん下がり、彼女の吐く息が白かった。
「何、これ…。凍ってきた…」
スミレは自分の服や、木々の枝先に付いた白い結晶を見た。
仲間の髪の先にも、白い結晶の粒かキラキラ光った。
「霜や」
蘇芳がぶすっとして答えた。
地面が冷えて固くなった。冷えて、足の指先が痛くなった。
手がかじかんできて、紅葉は思わず、自分の息を指に吹きかけた。
「はよ鬼出て来てくれ。冷えるー」
雲林院が見回した。
鬼は出て来ない。
「俺はどうってことねぇがな。あの鬼の出番は終わりか。一匹ずつ来るつもりか?」
武蔵はマナブの匂いを求め、鼻をふがふが動かした。
「異界は時間の経過が違います。急がないと、私達が元の世に帰るまでに百年経ってしまいます。浦島太郎みたいに」
レイがみんなを急かした。
少し先で、次の鬼がしんどそうに沢の石に座っていた。
疲れ切った様子の少女は、最初の鬼と風貌が似ていた。
「今度の鬼は誰だ?」
武蔵が問いかけた。
「凍てつく大地に晒す骨、ひとひらの雪と申します…」
鬼が答え、上目使いに武蔵を見た。
「戦う気はありません…。どうぞ…、お好きにお斬り下さいまし…。私は一抹の物語をお話しさせていただきとうございます…。ほんのしばらく…、お足をお停め下さいますなら、光栄でございます…」
しんどそうにゆっくり喋るので、みんな、可哀相に思った。
男達は無抵抗の少女の鬼を斬る気になれなかったので、足踏みして寒さを堪えつつ、話を聞いた。
少女は息を継ぎながら、更にゆっくりと話した。
「これは…鬼の里の昔語りでございます…。むかし、むかし…。ある鬼の里に、人間がやって来ました…。人間は乱暴の限りを尽くし、鬼を殺しました…。女子供を攫い…、人間の世界に連れ帰って監禁しました…。娘達は無理やり子供を産まさせられ…、子供は酷き使われ…、病で早死に致しました…」
「昔話の、人間と鬼が入れ替わってる…」
紅葉は思った。
「むかし、むかし…。山を越えて、鬼の里に人間がやって来ました…。人間は里の長を殺し…、長の娘を連れ帰りました…。人間は鬼を捕まえて、首を刎ね…、遺体を埋葬することもなく…、鬼の首を国境に並べて晒したのでございます…。抗う者は身内をみな殺され…、長く土牢に閉じ込められ…、やがて餓死してしまいました…。ああ、残酷なお話…」
少女が咳き込んだ。
少女は石の表面に、ポタポタと赤い血を吐いた。
とうとう雪が降り出し、ひとひら、ふたひら、舞い降りてきた。
「むかし、むかし…。鬼の里に人間が来て、支配地にしました…。鬼は酷く働かされ…、鬼が敬う呪術師は、人間に惨たらしく殺されてしまいました…。人間は鬼のように恐ろしい顔をしておりました…。鬼は人間よりも、美しい姿をしておりました…。鬼と人間は入り交じり…、やがて人間は鬼に、鬼は人間となって…、今の世を迎えます…」
少女の鬼の話が終わり、スーッと姿が消えた。
「しもた。体が完全に冷えたわ。長い話、聞かんかったらよかった」
蘇芳がガチガチ震えた。
「おにぃ、刀が抜けへん…」
紅葉は固くなった鯉口にびっくりした。
「もう動きが鈍ってきたな。低体温症になるぞ…。急げ!」
武蔵が紅葉を背負い、レイがスミレを背負った。
彼等は森を走り出した。
雪がしんしん降る。
鬼の世界に雪が降る。




