捌伍 紫宸殿の炎鬼
1
色彩が失われた紫宸殿。
雷鳴が轟き、左近の桜が散りゆく。
雨が咲良と雨音の視界をぼやけさせ、言葉も掻き消す。
彼等は承明門の軒下から、紫宸殿の様子を窺った。
彼等と神王は、鞍馬の僧正ガ谷で会って以来。
神王の顔には、惨たらしい火傷跡がある。
火傷跡を隠すように、紅蓮の炎がまとわりついている。
魑魅魍魎が南庭に溢れ返る。
鞍馬の大天狗・僧正坊が、神王の傍にいた。
僧正坊は頭巾を被り、豪華な袈裟を付け、大珠小珠の数珠を巻き、扇子を持つ。
僧正坊は悲しみを込め、咲良を眺めた。
神王は踵を返し、紫宸殿の奥へ入ってしまった。
建物は他の棟と繋がっている。
神王が歩くと火の粉が爆ぜ、床から火が上がった。
紫宸殿が内側から燃えていく。
「待って、神王…」
咲良と雨音は魑魅魍魎を掻き分け、南庭を走った。
紫宸殿の簀子縁に続く階段で、護衛の鬼と揉み合いになる。
遠くから、ぼんやりとした影に見えた鬼は、間近で向かい合うと、恐ろしい姿をしていた。
鬼が咲良の腕を掴み、耳まで裂けた口の、ギザギザ尖った歯を剥いた。
咲良が噛み付かれる前に、雨音が鬼の腕を切り落とした。
大勢の鬼と揉みくちゃになりながら、彼等は十八段の階段を駆け上がった。
雨音は神王を見失い、暗い内部で天狗に蹴躓いた。
転倒した目の前に、空の玉座があった。
鳳凰の天蓋と、麒麟と龍の八角形の台座。
神王が座っていた熱がまだ残っていた。
「あなたの心の闇は深いんですね…」
雨音の胸がチクッと痛んだ。
咲良は簀子縁の曲がり角で、後ろ眼法師とぶつかった。
僧の顔に目が足りず、後頭部に目が開いている。
「咲良、久しぶりですね」
後ろ眼法師は咲良に、背と尻を向けて話した。
「後ろ眼さん、私、急いでます。地震を止めたいんです」
咲良が言った。
「無理ですよ。あなた方の言葉で申し上げるなら、あとは起爆スイッチを押すだけの状態です」
後ろ眼法師は淡々と話した。
「私、その起爆スイッチを止めに来たんです。通して下さい」
「お通りなさい。私はあなたを止める者ではありません」
後ろ眼法師が一歩下がった。
「ありがとう」
咲良が紫宸殿の中へ入ろうとした瞬間。
空が光った。
耳をつんざく雷。
咲良は耳を押さえ、落雷の音がした方を振り返った。
承明門の方角から、炎が噴き上がった。
「僅かに遅かったようですね」
後ろ眼法師が言った。
刹那、地面が揺れた。
そして激しく、大地が空を擦るように鳴動した。
2
「地震か!?」
雨音は戦慄した。
彼は突然、奈落の底に落ちた。
自由落下で、体が浮くように感じられた。
底まで落ちて、斜面の草むらを転がるみたいにバウンドした。
彼は必死に手を伸ばし、鬼切を持ってない方の手で何か掴もうとした。
どこまでも果てしなく転落してゆき、何も手に触れない。
気が付いたら、河原に転がっていた。
彼は最後に行き着く門の、重い木製扉を叩いた。
ギィー…。
扉が軋みつつ開いた。
川霧が隙間から噴き出した。
雨音は手探りで扉の向こうへ入った。
「咲良ちゃん、どこ?」
「ここだよ」
すぐ間近で、咲良の返事があった。
彼女は真っ暗闇で、小刻みに震えていた。
「咲良ちゃん、手を放さないでね」
雨音は咲良の手をしっかり握った。
彼女の手は華奢で、やけに骨っぽかった。
「細いな。痩せたのかな、咲良ちゃん」
と、彼は思った。
ロウソクの火が一つ、点った。
灯の中に酒井の顔が浮かんだ。
「酒井さん!?」
「ああ、俺だ。酒井だ。失敗して、死んでしもたけどな。雨音、おまえもか?」
酒井が半分壊れた顔で尋ねた。
彼の顔の半分は、黒い獣になっていた。
「酒井さん、ここはどこですか? 酒井さんがいるってことは、鬼の異界ですか?」
「死後の世界ってことや。おまえは死んだんや、雨音。横の女の子に聞いてみよし」
酒井が呆れたように答えた。
「どう言うことですか…!?」
雨音は酒井にロウソクを一本手渡され、揺れる小さな炎で、咲良の顔を照らした。
咲良の顔が腐り、半分白骨が覗いていた。
「雨音くん…。私達、地震の日、承明門の下敷きになって死んだよ…」
咲良が白骨化した頭部で話し、緩んだ歯をカタカタ鳴らした。
「うわっ!」
雨音は繋いでいた手を放し、後ろに引っくり返った。
咲良はショックを受けた。
「ひどい…。私の顔見て、そんなに驚くなんて…」
咲良が啜り泣いた。
「そんな…、信じられない。揺れは感じたけど…、死んだなんて…痛くもなかったし…」
雨音は変わり果てた咲良から飛び退いた。
酒井は咲良にもロウソクを渡した。
「ええか、咲良ちゃん。この火が消えたら、君らの魂は完全な死を迎える。元の世にも戻れへんし、あの世にも行けへん。生まれ変わることも出来ひん。ここで消えてしまう…」
そう言う彼のロウソクの火は、じりじり芯がなくなって、今にも消えそうになっている。
「これが…」
雨音は燭台をしっかり握り締めた。
「今、君らは鬼の世に引っ張られてる…。生前、鬼と深く関わり過ぎた。鬼が…君らの体内に芽生えてる。これからは鬼として、ひっそりと、幽玄の虚に暮らす…」
酒井が低く囁く。
時折、声が掠れた。
「嫌だ。そんなこと…。学校に戻って…俺は…!」
雨音が声を張り上げた。
「雨音、もう学校も潰れた。京都は壊滅状態になった。地震に火事、水害、伝染病。おまえは東京に帰るしかないぞ。薄々わかってるよな? おまえの保護者、あんまり歓迎してくれへん。あの人達はおまえが二十歳になったら、おまえの父親が残した遺産の、管理人の役目が終わる。勝手に遺産を使い込んでたことがバレる…。おまえの養父はいい人やった。そやけど、あの人の後妻が悪かったな。…おまえは家にいられなくなって…、京都の剣道の強豪校に転校することになった。…おまえの保護者は、おまえが東京に帰って来ることを、今でも望んでへん…」
酒井が囁いた。
雨音のロウソクの火が一瞬小さくなり、ジジッと黒い煤を出した。
「他に行くとこなんかない…。親戚もいないし…。どこからやり直せばいいんですか? どこから狂っていったんですか?」
彼の頭の中は真っ白になった。
「渡邊くん…」
静先生の声がした。
「静先生!? 死んじゃったんですか!?」
雨音は近付いて来る鬼火の、青白い光の中に、静先生を見た。
「これから、君の罪を裁きます…。いいですか。君はまず…逃げましたね。仲間を救いに、愛宕へ来なかった。君は無責任に咲良一人を選び、彼女を守る為に京都御所へ行った。そして、地震と落雷で死んだ」
静先生が冷たい声で言った。
「静先生、愛宕で鬼に殺されたんですか? 僕は愛宕に行こうと思ってました! 誤解です!」
雨音は慌てて、周囲をロウソクの炎で照らした。
滅多切りになった旭と、血塗れの雲林院が現れた。
「よくもまぁ、そんなことを言ってくれる。この際、言わせてもらう。雨音はいつも、単独行動ばっかり。格好いいとでも思ってんのかよ。咲良ちゃんを守る? 結局、俺達のことは見殺しで、京都の地震も防げなかったな。おまえの単独行動が悪いんじゃないのか?」
旭が雨音を罵った。
次に雲林院が、
「雨音ー。待ってたんやでー。おまえのこと、信じてた…。裏切られたわ。そんな男やったんか。雨音はいつも、何考えてるかわからへんかった。誰にも本心語らへん。こっちは友達やと思ってんのに。今思えば、おまえ、嫌なヤツやったな」
と、血を吐きながら毒づいた。
雨音は膝を折って、両手を地面に着いた。
「許してくれ。俺のせいで死んだのか…。ごめん…」
雨音は額を地面に擦り付け、謝った。
「あま…ね…」
今度は山上の声がした。
「おまえ…、何やってたんや…。俺はマナブを斬れと命じた…。なんで殺さへんかった…?」
山上が雨音を責めた。
山上は闇をまとい、決してロウソクの光に照らされようとしなかった。
強い酸で溶かされた肉の匂いがした。
彼は血生臭い匂いと、焦げた髪の匂い、そして、ずるずると身を引き摺る音を出した。
山上は虎の鬼・舌長に喰われて死んだ。
「山上さん、すみません…。すみません…」
雨音は泣きながら頭を繰り返し下げた。
山上の葬式の時に出なかった涙が、堰を切ったように溢れ出た。
更に、折れた薙刀を担ぎ、武蔵が登場した。
「源次ぃ、そりゃないぜぇー。約束したじゃねーか。愛宕で合流すると…。一人でどこ行ってたんだ?」
武蔵が吠えた。
「頼りねぇーんだよ。てめぇ、さっさと鬼一匹ぐらい斬り殺して、愛宕に駆け付けろよ。こっちはどんだけの数の鬼と戦ったと思ってんだよ。俺は一人で千匹斬り殺して、立ったまま死んだぞ」
武蔵の怒号で、雨音のロウソクの火が揺れた。
蘇芳がやって来た。
「雨音。おまえ、何やってんの。なんで紅葉を守らへんの?」
蘇芳は妹のことで怒っていた。
彼は妹の遺体を、雨音の前に下ろした。
「紅葉はおまえの代わりに雷帝で鬼と斬り合って、死んでしもた」
雨音は紅葉のきれいな死に顔を見た。
青白い紅葉の顔。
胸に一つだけ、刺された傷跡がある。
「あ…」
雨音はふらふらと後退した。
彼の背中が、誰かとぶつかった。
咲良だった。
半分白骨の咲良が、雨音を迎えた。
「死ねば? 雨音くん。マナブを殺さないでほしいの。マナブが可哀相だから。代わりに雨音くんが死んでよ。私、その方がいいの」
咲良が短刀・神泉で、雨音の心臓を刺した。
「ぐぼっ」
雨音が血を吐いた。
赤い血と、鬼の青黒い血が斑に混じり合っていた。
「俺は死んでしまった方がいい…?」
雨音が咲良に聞き直した。
彼の眸が精気を失う。
「雨音くんなんか、死んじゃってよ…。前から嫌いだった。情容赦なく鬼を殺すし、可哀相な鬼と悪い鬼の区別しないし、鬼に憑かれた人も殺しちゃうし。私は忘れてないよ。何人殺したの? もういいんじゃない? 死んで」
咲良が答えた。
彼女の頬から、最後の紫色の肉が腐り落ち、歯茎が見えた。
「君に言われたら、俺はもう……」
雨音は絶望して、胸に刺さった神泉に手を添え、倒れた。
「死んでしまった方がいい……」
雨音が眸を閉じた。
永遠に眸を開きたくなかった。
「雨音、ロウソクの火が消えるぞ…」
酒井が囁く声が耳に届いた。
「さっさとくたばりなさいよ。見苦しいの。君は死んだ。消えてなくなればいい!」
静先生がローヒールの黒パンプスで雨音の顔を踏み付け、上から油を注いだ。
「燃やしてしまえ。こいつは裏切者だ」
武蔵が煽った。
「おまえなんか、最初からウザかった。山上さんの手前、面倒見てただけ…」
旭が呟き、山上も、
「利用しただけや、雨音。おまえは便利な兵隊やった。でも、もう要らん。死ね」
と、剣で雨音を突き刺した。
「クールぶってんの。勘違い系? 俺、ほんまは苛つくことが何回もあった。おまえって、面倒臭いヤツ」
雲林院が雨音を蹴飛ばした。
紅葉の遺体が起き上がり、
「私、女々しい男は嫌いなんやけど。はっきりしてほしかったわ」
と、雨音にかけられた油に、彼女が火を放った。
雨音はめらめらと燃え上がった。
蘇芳が死刑執行人のように蜘蛛切を振り被って、雨音の頭元に近付いた。
「雨音、剣道の試合の時のおまえは、ちょっとおかしかった。魔性に憑かれてると思ってた。おまえはほんまは鬼なんやろ? 俺が退治したる…」
「誰も反対しないし、彼を庇う気ないです」
咲良が蘇芳に言った。
蘇芳の構えた蜘蛛切が、咲良のロウソクの炎に照らされ、キラキラ光った。
逆に、雨音のロウソクの火は消えてしまった。
蜘蛛切の刃が雨音の首を切り落とす為、喉元まで落ちてきた。
雨音が人差し指と親指で、太刀の峯を摘んだ。
「実の兄に裏切られて、寺に火をかけられて死んだんですよね…。そりゃ、無念でしたよね…」
雨音が眸を開けた。
「神王…」
雨音が簀子縁で起きた。
承明門に雷が落ち、黒煙を噴き上げて燃えていた。
「まだ地震は起きてない。今なら間に合う。早く愛宕に行かなきゃ…。みんなが待ってる…」
雨音は鬼切の鞘を杖にして、立ち上がった。
3
咲良は地震で揺れる紫宸殿で、雨音を捜した。
「雨音くん、どこー!?」
咲良はうじゃうじゃ溢れる鬼を、両手で掻き分けた。
紫宸殿に火が回り始めた。
咲良は煙を吸い込み、ゴホゴホとむせた。
「お母さん、おばあちゃん、無事かな。地震のこと、言ってくればよかった…」
咲良は後悔した。
彼女の母親は、今日も病院で看護師の仕事をしている。
今朝、祖母のトキは朗らかに咲良を見送った。
「咲良、お早うお帰りー(いってらっしゃい)」
「うん。行ってきまーす」
まるで平凡な毎日が続くみたいに、普通の別れ方をした。
咲良は地震で家族が怪我をしたんじゃないかと思うと、心配で余計に息が苦しくなった。
彼女は煙を避け、姿勢を低くして進んだ。
「咲良ちゃん、出口はこっちだよ。早くしないと、焼け死んじゃうよ」
雨音の声がして、誰かが咲良の右手を引いた。
指が少し冷たいけれど、柔らかい手の感触。
「あれっ。雨音くんの左手、剣道のタコがあったような…」
咲良は違和感を覚えた。
しかし、声は確かに雨音の声。
とりあえず、咲良は雨音に任せ、素直について行った。
いつの間にか、天狗も鬼もいなくなっていた。
彼等は長いトンネルを歩き続けた。
トンネルの果てに、微かな光が見えた。
咲良はその光を受けて、雨音の横顔を見た。
まっすぐ前を見据える雨音が、
「ほら、出口だよ」
と、光が漏れ出る扉を開き、向こう側へ咲良を通した。
咲良は断崖絶壁に開いた縁側から、都を遥かに見渡した。
「わぁ…」
高層ビルもない、電線もない、新幹線の高架もない、京都タワーも東寺の五重の塔もない。
鴨川のうねり。碁盤の目の区画。
多過ぎる緑。ここは盆地の都を見下ろす、山のどこか。
「もういいだろ。ほら、行って」
雨音が咲良を縁から蹴落とした。
咲良は大声を上げた。
「きゃああ…」
夢で、階段を踏み外す感覚に似ている。
咲良は谷底すら見えない断崖絶壁を落ちた。
彼女は崖の木々の枝に皮膚を裂かれ、血だらけになった。
ボールのように回転し、頭が下になり、背が海老反りになった。
生きているのも不思議なぐらいで、やっと谷底に着いた。
「ここがどこだかわかるな? ああ?」
咲良は髪を掴まれ、背中に馬乗りに跨った相手に引っ張られた。
咲良は背を反って、手をばたばた振った。
雨音の息が耳にかかった。
「さぁ、わかってるな。おまえがこれからすることは、この都の民を全て、呪い殺すことだ」
「だ、誰?」
咲良は雨音に尋ねた。
「おまえを守る剣士様じゃないか。言うことをよく聞けよ…」
雨音は低い声で脅した。
咲良の髪がブチブチ抜けた。
彼は後ろ襟を掴み、咲良の喉を襟で絞めた。咲良の息が詰まった。
「何の為に内裏に来た? 鬼に命乞いをする為に? それは無理だろ。あの鬼は最早、正気なんか持ってないよ」
雨音はクックッと笑った。
咲良が聞いたこともないような笑い方。
「地震のスイッチをおまえが押すんだ。おまえの恨みが何の罪もない民を、百万人殺すんだ。咲良…」
雨音の手が少し緩み、咲良は荒い呼吸をした。
「どうして…」
「どうして? 俺はこの世全部を恨んできた。みんな殺してやろうって、ずっと思ってたよ。やっと、その機会を得た。平安・過去と、平成・現代に、同じ大地震を起こす。誰を殺すかではなく、どれだけたくさん殺すかが、今や問題なのさ」
雨音が答えた。
咲良は岩の上で身を捩った。
雨音は彼女の顔を手で塞ぎ、指先に力を込めた。
「どうだ。可愛らしい顔も必要ない。おまえを世に言うお化けにしてやる。おまえの本当の醜さを、俺が暴露してやる。咲良…、おまえは…」
「あ、雨音くん…」
咲良は耳を疑った。
「みんなに可愛いとか優しいとか言われたいだけの…甘ったれ…、本当は計算高い…ブス」
雨音は咲良を罵り始めた。
「ブスとか、女の子に言っちゃダメかな? でも、おまえが自惚れないように言っておくか。このブス、ふざけんな。素顔は紅葉の半分も可愛くないくせに、お高くとまってんじゃねぇ…!」
雨音が咲良の頭を掴み、岩に彼女の顔をぶつけた。
血飛沫が飛んだ。
「鬼が可哀相!? 頭おかしいんじゃないのか? 鬼がおまえに同情されたがってると思うか? 思い上がりも甚だしい。鬼を見下げてるからこそ、可哀相とか言ってるんだろ。おまえは心の優しい女の子、って言ってもらいたいだけのクズ。クダラナイ自己満足の為に、いつも偽善者ぶったことを言ってる。それで周りに構ってほしいと思ってる。紅葉や俺を振り回す。エゴなんだよ!」
雨音が立ち上がり、咲良の腹を蹴った。
咲良は大の字に転がり、紫色に腫れた顔を晒した。
「こっちはおまえの為に、何度も命を危険に晒して来たんだよ。もう面倒臭い。おまえのお守りはやってられないね!」
雨音が蹴って、咲良は岩から落ちた。
彼は昂ぶって、乱暴だった。
彼は咲良を捕まえて、胸ぐらを掴んだ。
「さあ、呪え。呪え。この世を呪え。おまえには惨めな死に方しかない。数日かけて、おまえの命も終わる。この世を丸ごと、道連れにして逝け!」
彼は都が望める場所まで咲良を運び、木に吊るして、彼女に都を見せた。
「咲良。おまえは絶望して、俺を恨んで死ぬ」
雨音は咲良を残し、立ち去った。
夜が明け、昼が来た。
日が沈んだ。
誰も来ない。
「雨音くん…」
咲良が腫れた唇から言葉を絞り出した。
夜が来て、朝が来た。
時間の経過がわからなくなってきた。
手足が痺れ、鬱血して、顔と体がパンパンに腫れ上がった。
数日経った。
孤独だった。
咲良は助けに来てくれない雨音を恨みたい気持ちになってきた。
空腹で何も考えられなくなった。
あと一眠りで死ねそうだった。
孤独はどうでもよくなった。
早く死にたいと思った。
最初の日は家族や友達の顔が浮かんだが、最後には疲れて、もう誰の顔も浮かばなかった。
その日もよく晴れて、京の都全体が見晴らせた。
梢で鳥が囀っていた。
花が咲き、美しい景色だった。
咲良は今日が命の限りと覚悟した。
不思議と心が落ち着いて、恨みも憎しみもなかった。
咲良は般若心経を口にした。
命が潰える直前、咲良は、鬼の物語のことを思い出した。
「鬼は、ひと。ひとは、鬼。違いなんてないんだよ。鬼は…ひとのかたちの一つ…」
咲良はぼんやり、死を待った。
木の枝が折れる音がした。
誰かが沢を降りて来る。
「最後に一口、水をもらえないかなぁ…」
咲良は誰かが木立から姿を現すのを待った。
雨音が来た。
咲良は身を硬くした。
「咲良ちゃん、信じて。俺、本物だから」
雨音が鬼切を抜刀した。
「信じる…」
咲良は答え、ぎゅっと眸を瞑った。
雨音が蔓を斬り、吊られていた咲良を降ろした。
「絶望した?」
雨音が聞いた。
「信じてた…」
咲良はめそめそと泣いてしまった。
紫宸殿で本物の雨音とはぐれてから、実は三十分ぐらいしか経っていなかった。
「顔腫れてるよ。誰かに殴られた?」
雨音が咲良を支え、彼女の腕を担いだ。
「雨音くん、私のリュックに鏡が入ってる…」
雨音が咲良のリュックの外ポケットから手鏡を取り出し、彼女に渡した。
咲良は自分の顔を映した。
咲良の顔はやや腫れていたが、目立つ傷はなかった。
彼女はしばらく、鏡に見入った。
「どうしたの? 心配しなくていいよ。跡が残るような傷はないから。いつもと一緒。可愛いけど」
雨音がくすくす笑った。
いつもの優しい笑い方だった。
「雨音くん、紫宸殿に戻ろう。神王は地震を起こす気なんてないんだよ!」
咲良が雨音を急かした。
「はいはい」
雨音は咲良の右手を引っ張って、元来た道を返した。
彼の左手の薬指の下に、剣道のタコがあった。
4
紫宸殿の棟に雷が落ちた。
稲妻が鉤状に閃き、瓦が弾けた。
紫宸殿が炎上している。
火の粉が南庭に舞う。
「神泉!」
咲良が腰から神泉を抜く。
神泉の神霊が、人間の姿で現れた。
異界では、神泉は男装の武士の形を取る。
「咲良、鬼を斬りましょう」
神泉が言った。
「神泉、ここの雷気を全部吸い取って」
咲良が頼んだ。
「そんなことは出来ません。神王は火の鬼、雷神です。彼の雷は尽きない。…でも、ここの魑魅魍魎を吹き飛ばすぐらいなら…私にも出来ます」
神泉は雷気を吸い込み、頬を膨らませた。
そして、鬼どもを一息に散らす雷を発した。
雨音は回廊の、月華門の屋根に飛び乗った。
鞍馬の大天狗・僧正坊が彼の行く手を阻んだ。
「なりませぬ…。源次、我等は千年待ったのです。神王のお帰りを…ひたすらに」
僧正坊が閉じた扇子で、鬼切の刃を受け流した。
「なんで静かに暮らしてくれないんですか? そうしたら…、僕らは戦わずに済むのに」
「源次。この千年の思いを象徴する出来事が…必要でした…。源次は誰が、かの大鬼を鎮めることが出来るのか、おわかりでしょう?」
僧正坊が扇子を振った。
僧正坊の数珠の大珠小珠が飛んで、ボタンのように、雨音の袴を瓦に閉じ付けた。
咲良はリュックから、紙袋を取り出した。
「神王、聞いて…」
咲良は紙袋から、自宅のお寺から持ち出した仏具を出した。
表面の色が剥げ、緑青を生じている容器。
鳳凰が浮彫りされ、梵字が刻まれている。
僧正坊が慌てた。
「あれにまた千年封印するつもりか、咲良!?」
火の鬼・神王は安倍晴明によって、水の聖地・鞍馬に封印されていた。
咲良は仏具の蓋を開いた。
お香の薫りが漂った。
「仏様は慈愛に満ちたお心で、私達の罪を赦して下さる。…と、おばぁちゃんが言ってました」
咲良は地面に容器を置いた。
燃え上がる紫宸殿から、神王が出でた。
憤怒の表情で、咲良を焼き殺しそうだった。
暗雲が南庭の上に垂れ込め、稲光がバチバチと光った。
「待って下さい、神王。あなたも一度は仏門に入った身…」
雨音が咲良の前に転がり出て、身を盾にした。
咲良は死を覚悟して、容器に山盛りの、人の形に切り抜いた紙を詰め込んだ。
彼女はお寺にあったマッチを擦って、紙人形を燃やそうとした。
だが、風が強過ぎて、マッチの火が消えてしまった。
紙人形が散らばった。
「神王。人の命をお供えすることは出来ません。せめて、あなたの憎い人を思いながら、この紙を焼きます。あなたが身近な人の裏切りに、どんなに心を痛めたか」
咲良が散らばった紙人形を拾い集め、容器に戻した。
「さっき、私と雨音くんが感じた以上の絶望だったと思います。あなたの気持ちを理解してくれたのは、きっと、奥さんの鶴の上だけだったんでしょう…」
咲良は再びマッチを擦った。
マッチの火は儚く消えた。
咲良は今朝方、鶴の上が神王の命令で殺されたことを知らない。
「火が必要なの?」
雨音が人差し指と親指を輪にして、指先からボッと、炎を生じさせた。
ロウソクの火ぐらいの大きさで、彼の火は強風にも消えなかった。
容器の中で紙が燃え出した。
煙りは線香のように渦巻きながら、空へ昇った。
「神王。鬼には鬼の悲しみがあるんですね。鬼を見下げて、可哀相って思ってたんじゃないんです。あなたの怒りと悲しみを、ここに封じてしまいたい。辛い過去も痛みも、虚しさも、晴れることのない心の闇も…。あなたを自由してあげたいんです」
咲良は紙が燃え尽きるのを見届け、蓋を閉めた。
「これはお寺に持って帰って、供養します」
咲良が灰の容器をリュックに入れた。
「咲良…」
僧正坊が項垂れた。
「神王。あなたは大事なものを全て失いました。大切な人と生き別れました。ささやかな幸せ一つ、手にすることが出来ませんでした。…でも、…だからと言って、…悲しみを無限に増やさないで下さい…」
咲良は震えながら、最後まで話した。
「何をやってるんですか。斬りなさい、咲良!」
神泉が急かした。
神王は階段を数段、降りてきた。
彼の顔から火焔が消え、火傷で黒ずんだ素顔が現れた。
風雨が止み、南庭に突如、静けさが訪れた。
一匹の小さな火ネズミが走り出て、咲良に彼の思いを伝えた。
「采女様。神王様は死んで鬼となられてから、たった一つ、心の燈火を得ました。…しかし、今朝、それすら失ってしまわれました」
神王は階段の途中で座り込んだ。
彼は頭を抱えた。
「他に代えがたいものでしたが、怒りという制御しきれない感情が、その燈火を消してしまいました。悔やんでも、どうにもなりませぬ。呪うべきは己自身か。この上は都を滅ぼし、塵となって消えてしまいとうございます。最早、地震は止められませぬ。もう少し早く、采女様の話を聞きとうございました」
火ネズミがちょこんとお辞儀して、走り去った。
雨音が声を荒げた。
「地震を止められないって言うんですか!? 方法がないって!?」
「雨音くん、やめて!」
咲良が雨音の腕に抱き着いた。
雨音は彼女を振り解いた。
「君に嫌われても構わない。俺はこの鬼を斬って、地震を止める!」
「やめて! 可哀相だよ! この鬼、可哀相なひとだよ!」
咲良が泣きながら、雨音にすがった。
雨音は咲良を乱暴に払い、前に飛び出した。
神王も剣を抜き、迎え打った。
南庭の階段の前で、二人の剣が交差した。
雨音の鬼切が、神王を貫く。
鬼の後頭部から、鬼切の切先が突き出た。
神王の剣は雨音の右腕を掠めただけで、外向きに外れた。
神王には戦う気力がなかったのかも知れない。
神王が膝を着いた。
塵となり、頭部からサラサラと崩れていく。
咲良は呆然とした。
空から、無数の火ネズミの雨が降った。
周囲が火の海になった。
紫宸殿と回廊が炎に包まれ、焼け落ちていく。
「咲良、神王の結界が解けました! 早く逃げて! 異界に飲み込まれますよ!」
神泉が咲良を引っ張り、承明門へ連れていった。
火の海で、雨音と僧正坊が向かい合っていた。
「僕を恨んで下さい…」
雨音が呟いた。
「源次…。恨まずにはいられませぬ…。我等は…どこまでも愚かで弱い……」
僧正坊の涙を、大天狗の黒い翼が隠した。
承明門の敷居を跨ぎ、咲良は激しい眼差しで雨音を睨んだ。
「雨音くんなんか、大っ嫌い…!」
雨音はムスッとして、
「これで地震は起こらない」
と言い返し、先に承明門を出た。
咲良と雨音が出て来たら、京都御所のガードマンが飛んできた。
「大丈夫ですか!? 紫宸殿と回廊に雷が落ちたんですよ!」
咲良と雨音は振り向き、この世の紫宸殿も炎上しているのを見た。
消防車のサイレンが聞こえてきた。
「信じられへん。朝からあんなにいい天気やったのに。まさに文字通り、晴天の霹靂ですわ。何か意味があるんですかね。呪いか何か。…縁起悪い。くわばら、くわばら…」
ガードマンは興奮していた。




