捌参 大禍の日
1
異界の鬼が空間を破り、咲良の病室に入って来た。
十本の角がある。舌は1メートルぐらいの長さで、蛇が鎌首を持ち上げた姿に似ている。
鬼が四つん這いで、ベッドに近付いてきた。
舌長と呼ばれる、十二の大鬼のうちの一匹だった。
咲良は何度か遭遇したことがあった。
「山上ぃ…。おぬし、安倍晴明から呪いの道具一式、授かったそうじゃな。つまり、おぬし一人殺せばよいと言うことじゃ…」
舌長の息は吐き気を催す刺激臭がした。
山上は心の中で、
「しまった。神剣・東雲をしゅとーん部の道場に置いてきた…」
と悔やんだが、顔には出さなかった。
雨音と旭をマナブ討伐に出したのに、入院している山上の方へ大鬼が来てしまった。
山上が懐から呪符を取り出した。
「無駄じゃ、山上ぃ。そんなものは」
舌長が嘲笑った。
山上は咄嗟に咲良を抱き抱え、病室の出口に走った。
「山上ぃ、おぬしの血と命、もらうぞ…」
舌長が虎の勢いでジャンプした。
舌長は山上に飛び乗って、押さえ込んだ。
「咲良ちゃん、逃げろ! 俺はいいから、逃げろ!」
山上は噛み付こうとする舌長の顎を、下から押し上げた。
「山上さん、神泉が枕の下に…」
咲良が戸口から叫んだ。
咲良は逃げようとしなかった。
山上が咲良のベッドに手を伸ばしたが、届かない。
戸口の壁に、人の形をした影が浮き上がった。
よく見たら、無数の小蜘蛛が蠢き、人の形を作っていた。
そして、人の形の頭部辺りで、双眸がぱっちり開いた。
「ブブ…、咲良…、ブ…。諦めろ…」
蚊の羽音に似た声がした。
小蜘蛛の集合で出来た影が、不気味に片手を持ち上げた。
全体で一つの意思を持つように。
咲良は山上のところに駆け付けたいのに、邪魔しようとしている。
「熱っ」
山上の皮膚が酸で溶けた。
舌長の舌先から、酸のヨダレが滴った。
床がジュッと焼けて、変色した。
山上の顔にも、舌長の熱いヨダレが落ちた。
「くそっ」
山上は舌長に力敗けした。
舌長の牙が山上の首筋に食い込み、肉を食いちぎった。
「さ…くら……、逃げ…ろ…!」
山上が血走った眸で、咲良を見上げた。
生きたまま喰われていく。
「ズズッ」
舌長は山上から溢れる血を、音立てて啜った。
山上は喰われながら、身を盾にして咲良を守ろうと、指先に全身の力を込めて戸を閉めた。
咲良は廊下に残された。
「山上…さ…」
咲良は言葉を失った。
戸の向こうから、蘇芳の友達の隆一が喰われた時と同じ、骨が噛み砕かれる音がした。
咲良は小蜘蛛の集合に通せんぼされていた。
小蜘蛛の影絵に開いた眸が、咲良を無表情に凝視していた。
「ブブ…、動くな…。ブ…、山上はもう助からない…」
どこからか、お経が聞こえてきた。
静先生と武蔵、それから双子の天狗のルイとレイの声だった。
「武蔵さん!」
咲良が武蔵に飛び付いた。
「咲良、無事か? 山上は?」
武蔵が薙刀を持って駆け付け、戸を開いた。
天狗のルイとレイが黒いスーツ姿で現れた。
ルイは静先生をおんぶしていた。
「チッ。鞍馬の天狗ども…。人間の味方をしくさって…」
口周りを血で汚した舌長が、山上の腹から顔を上げた。
静先生の読経が続き、異界の穴が少しずつ塞がっていく。
舌長は穴の僅かな隙間に、身を紙みたいに薄っぺらくして飛び込もうとした。
「山上、喰われたのか!?」
武蔵が激怒して、大薙刀を旋回させた。
薙刀が薄っぺらくなった舌長を、骨まで断ち切った。
「ぐがっ!!」
舌長の体が真っ二つに分かれ、飛んだ。
「おまえは千年封じられていた頃の姿に戻る」
天狗のレイが呟き、舌長は龍虎が描かれた古い水墨画になった。
水墨画は二枚に切り裂かれていた。
武蔵が口から火焔を噴いた。
水墨画が燃え上がり、あっと言う間に灰と化した。
異界が完全に閉じた。
山上が壁の前に、おかしな角度で横たわっていた。
「ブ…、舌長様が…やられた…」
小蜘蛛の群れがばらばらに散った。
小蜘蛛は戸の隙間やエアコンの噴き出し口から逃げていった。
咲良は山上を揺り動かした。
「山上さん! 山上さん!」
山上は絶命していた。
静先生は涙ぐみ、山上の無残な遺体から目を逸らした。
「山上さん!」
咲良は山上の遺体に突っ伏した。
「カッハッハ…。俺は山上主税」
咲良は初めてしゅとーん部の道場で会った山上を思い出した。
髪を後ろで一つに束ねた、無精髭だらけの中年男。
豪快に朗らかに笑う。
最初、居合を習いたいと言った咲良を旭が断ったのに、山上は、
「面白い」
と言って、受け入れてくれた。
中学校で鬼が出た時も、クラスの仲間が憑りつかれた時も山上が相談に乗ってくれて、危ない時は必ず助けてくれた。
「山上はいつも命懸けで、他人の命を守ってきた。あいつは義を果たす為に、どんな犠牲も厭わない。自分の命も、仲間の命も。あいつは武士だった」
武蔵が呟いた。
2
しゅとーん部の道場で、山上の葬儀が行われた。
山上は独身で、父親が喪主になった。
ごく親しい友人と山上の設計事務所のスタッフと、しゅとーん部のメンバーが参列した。
棺の中の山上は、百合やランやバラ、色とりどりの花に埋もれていた。
顔は数カ所の火傷があるだけで、そうひどい状態ではなかった。
彼は頑固そうに、口を引き結んでいた。
「山上さん…」
旭は泣き崩れて、しゃくりあげていた。
雨音と雲林院は、無言で俯いていた。
「嘘や…。あんなに元気そうやったのに…」
紅葉とコマチも肩を落とした。
「これ、咲良さんと言う方に渡して下さい…」
紅葉は山上の父親から、本を一冊預かった。
山上の祖父が書いた、鬼伝だった。
山上の父親は田舎で神主をしている。
道場がある東雲神社は、山上が代理で管理していた。
山上の父親は跡継ぎに死なれ、途方に暮れていた。
彼は葬儀の後、
「鬼から京都を守ってきた…。山上の血も、これで絶える…」
と、嘆いた。
「東雲の太刀、貸してもらえませんか。必ず山上さんの仇を討って、お返ししますから」
旭が東雲を貸してもらった。
「鬼を倒して下さい。隔世遺伝なのか。私は何の力も有りませんので」
山上の父親が旭に頼んだ。
紅葉は病院にいる咲良に、電話した。
「このままやと大地震が起きてしまう。御所の鬼を捕まえて、地震を起こそうとしてる大鬼を先に封印しないと」
「うん。夢の中で捜すしかないよ。御所の鬼は、悪夢を操る死神だから」
咲良が答えた。
3
明日が予告された地震の日だ。
紅葉は雷帝の太刀を横に置き、眠りについた。
咲良も覚悟と神泉を抱いて、病室のベッドで消灯時間を迎えた。
コマチも山上からもらった護符を枕の下に敷き、寝た。
翌朝。
コマチは何事もなく目覚めた。
「ああ。御所の鬼、見つけられなかった。何も夢見なかった…」
コマチは部屋の時計を見た。
六時半。
窓の外は明るい。よく晴れている。
彼女は洗面所で顔を洗い、ふと思い出して、滅多に拝むこともない仏壇の前に正座した。
「今日、何事も起きませんように。怖い地震も起きませんように。ご先祖様、御守り下さい…」
コマチは祈り続けた。
仏間の隅で、がさごそ音がした。
「鬼かな?」
コマチは様子を窺った。
床の間の花器の向こうで、小さな生物がたくさん蠢いている気配がした。
「小鬼かな?」
コマチは床の間の方へにじり寄って、そっと覗いた。
黒い蟻がびっしりと何かにたかっていた。
「わっ…」
彼女はのけ反った。
障子の隙間から、蟻の行列が続いていた。
「何を食べてるの?」
蟻が細かく刻んだものを運んでいく。
花器にクッキーの欠片でも落ちていたのか?
コマチは母親が活けた花を見た。
造花っぽい、名も知らない花と実が挿してある。
焦げた骨のような、変わった樹皮の枝に、黒く血が固まったような花の蕾。
花びらは長く、苦しんでもがく人の指のように鉤状に曲がっている。
花びらの内側には、ちゃんと掌の皺みたいなものが刻まれている。
と言うか、人間の手である。
手前側の花は、遠目でモンステラの葉かと思っていたのに、近くで見ると、人間の手が幽霊のうらめしやのポーズのように指を垂らして、花器の縁を飾っていた。
二人分の両手。
「手や!!」
コマチはひっくり返った。
「だ、誰の手!?」
コマチは恐る恐る見て、一番長い手の骨に、母親の結婚指輪を見付けた。
「お、お母さん!?」
コマチは慌てて、母親がいるはずのキッチンへ向かった。
キッチンには誰もいなかった。
朝食の支度が半分出来ている。
炊飯器はタイマーが入っていて、今炊き上がったところだ。
味噌汁が鍋に入っている。
母親のエプロンが、椅子の背凭れに無造作に掛けられている。
「お母さんー!!」
コマチは母親を探した。
焦げ臭い匂いがオーブンから漏れていた。
魚を焦がしたのだろうか。
それにしても、この悪臭は。
コマチは恐ろしくて、オーブンを開けられなかった。
彼女が幼い頃、ライターの火で遊んで前髪の一分を燃やしてしまった時も、こんな匂いがした。
コマチは冷蔵庫のドアが半開きになっていることに気付いた。
ケチャップが零れ、床を汚していた。
彼女は冷蔵庫も、怖くて開けられなかった。
その時、食品庫の扉がひとりでに開いた。
濃厚な鬼の気配がした。
「うわっ」
彼女は慌てて、自宅から逃げた。
「私は何も怖くない…。みんな、私を頼って…」
コマチは強がったが、震えは収まらなかった。
彼女は旭に電話をかけた。
けれど、留守番メッセージが流れた。
「もう。こんな時に」
コマチはスマホを叩いた。
コマチの足は知らないうちに、紅葉の家に向かっていた。
「紅葉…」
ドアホンを押した。
紅葉の家は静まり返っている。
コマチが紅葉に電話をした。
呼び出し音が三回鳴って、紅葉が電話に出た。
「コマチ…」
紅葉は消え入りそうな、低い声で話した。
「紅葉…。今、紅葉の家の前なんやけど」
「コマチ、来たらあかん…。誰かいる…。たぶん、鬼が…」
紅葉の言葉が途切れた。
コマチは固唾を飲んで、紅葉の言葉を待った。
ガタン、ゴトン、何かが倒れる音がした。
何かが砕け、壊れる音が続いた。
コマチは勇気を振り絞って、門扉をそっと開けた。
音をさせないように注意しながら、家へ入って行く。
玄関の鍵はかかっていなかった。
スマホからはまだ乱暴な物音が聞こえている。
ドアをバットで叩く音。
コマチが家に入ると、二階からその音が聞こえてきた。
「紅葉が襲われてる…。助けなきゃ」
コマチは玄関クロークを開けた。
紅葉の父親のゴルフバッグから、金属製ヘッドが付いたクラブを引き抜いた。
コマチは紅葉の部屋へ行った。
ドアが打ち破られ、部屋の中は無茶苦茶に掻き回されていた。
紅葉も鬼もいなかった。
コマチは一階のリビングに入った。
ダイニングテーブルの上で、三人分の朝食が冷めていた。
紅葉の母親も父親もいなかった。
犬や猫もいなかった。
バスルームからシャワーの音がしていた。
コマチはシャワーのコックを閉め、湯を止めた。
湯で曇った鏡に、血飛沫みたいなものが残っていた。
スマホから、紅葉の荒い息遣いが聞こえた。
「コマチ…、家に入った…!? なんで入ったの!? 危ない、逃げて!」
「紅葉、どこにいるの?」
「コマチ…、今、どこ…!?」
「私はバスルーム。紅葉は!?」
「すぐ…近くにいるよ…。コマチ、逃げてぇ…」
紅葉が微かな声で頼んだ。
「待ってて。絶対助けたげる」
コマチはゴルフクラブを握り締め、バスルームから出た。
大きな洗面台と洗濯機があり、ルーバーの窓がある。
ブレーカーが落ちているのか、電気が点かない。
洗面所の隣は、トイレ。
トイレのドアがキイ…と鳴った。
コマチが触れる前に、ドアが開いた。
血だらけのスリッパがある。
倒れている女の人の足首が見えた。
女の人を跨いで、誰か出て来た。
コマチはゴルフクラブを構えた。
「なんで入って来たん…」
紅葉がトイレから出て来た。
紅葉は全身に返り血を浴びて、髪の毛が血で頬に張り付いていた。
「紅葉?」
コマチはゴルフクラブを振り下ろすのを停めた。
紅葉は手に、血に汚れた包丁を持っていた。
「あ、これ? 鬼が、うちの母親と父親になりすまして。今、やっつけたところ…」
紅葉は笑みを見せた。
コマチは鳥肌立ち、
「あ、そうなの? もう終わった?」
と言いながら、玄関の方へ一歩後退した。
紅葉は傷だらけのバットを廊下に投げ出した。
「終わったと思ったんやけど。もう一匹、残ってたわ…」
「も、紅葉…。何を言ってるの…? 私、わからへんけど…」
コマチは玄関の方へ下がっていった。
「鬼。どんなに上手に化けたって、狐の尻尾が見えてるわ。妖気でわかるんやで。この前はおにぃに化けた。今度は、コマチに化けた…。御所の鬼、あんたの化けの皮を剥いであげる…」
紅葉が包丁を構え、コマチに突っ込んだ。
コマチはゴルフクラブで紅葉の腕を打った。
「やめてよ。紅葉、私がわからへんの!? コマチやってば。小野真知やってば…」
コマチは必死に抵抗した。
「コマチ、退き!」
階段下の納戸の扉が開いた。
紅葉がもう一人いた。
納戸から飛び出た方の紅葉は、雷帝を持っていた。
紅葉が雷帝で、包丁を持った紅葉の面を打つ。
周囲に血が飛び散った。
偽物の紅葉とコマチが重なって、廊下に倒れた。
「コマチ、大丈夫!?」
本物の紅葉がコマチに近寄った。
「紅葉、やられた……」
コマチは潤んだ眸で見上げた。
「夢の中で刺された咲良ちゃんは、大怪我した。これは…御所の鬼の夢?」
コマチは胸を流れる、生温かい血を感じた。
コマチの右胸に、偽物の紅葉の包丁が刺さっていた。
包丁は注射器に変化した。
青黒い液体がコマチの静脈に流れ込んでゆく。
コマチのこめかみの静脈が異常に盛り上がって、ドクドク波打っていた。
「ふふふ…。紅葉、そんなとこにいたの?」
偽物の紅葉が額から血を流しながら、立ち上がった。
「御所の鬼、鶴の上。大江山・鬼ツアー以来やね…」
紅葉が鬼の名を呼んだ。
正体がバレた鬼は、開き直った。
「そう、私。蘇芳の顔を借りたのも、私…」
鶴の上は自分の顔をつるっと撫で、一瞬、元ののっぺらぼうに戻った。
のっぺらぼうでは話が出来ないので、また紅葉の顔になった。
4
御所の鬼が正体を見破られたので、悪夢が終わった。
紅葉の両親も、コマチの両親も無事だ。
紅葉は自室のベッドで、目を覚ました。
「コマチ、どこ…?」
紅葉は辺りを見回した。
紅葉のベッドには、鬼の血が付いた雷帝があった。
雷帝は役目を果たした。
鬼は致命的な一撃を喰らっていた。
鶴の上は死期迫るのを感じながら、最後の会話に応えた。
「紅葉…。目が覚めても悪夢が終わらないのは、コマチだけ。とある鬼の血を、コマチに注射してやった。これで、コマチは鬼になって狂う…。今後は美しい友情も無理かもね…。ふふふ…」
「鶴の上、なんで地震が必要なの? あなたと神王は大勢の人を殺して、怨みが晴れるの?」
紅葉は本気で不思議に思った。
「紅葉…」
鶴の上は紅葉の顔で、苦しそうに表情を歪めた。
「鶴の上。あなた達の悲しい最後は知ってる。美しい顔を潰されたあなた。無実の罪で幽閉されて、寺ごと焼かれた神王…。鬼になって結ばれた夫婦なんでしょ?」
紅葉は千年の恋をした鶴の上の気持ちがわかる気がして、とどめを刺すことをためらった。
紅葉も苦しい恋をしていたから。
雷帝に宿る刀匠の魂は、鬼を斬りたくてウズウズしていた。
刀匠の魂は紅葉に呼びかけ、
「紅葉、早く鬼を斬れ!」
と、迫った。
鶴の上が、
「紅葉…。私、…本当は…地震は嫌なの。私をとめて…、神王をとめてほしい…。本当はそれを言いに来た…」
と、紅葉に向かって手を差し出した。
刹那、ギロチンの刃が落ちて来て、鶴の上の首を刎ねた。
のっぺらぼうの首が飛び、紅葉の前に落ちた。
首は現実味なく、ボールみたいに転がった。
何も造作のない顏から、涙の滴が散らばった。
「裏切者め」
誰かが、鶴の上の頭部に剣を突き立てた。
鶴の上の全身が細かな塵になって、消えた。
紅葉は呆然とした。
鬼が一匹、現れた。
「鶴め、何回失敗したら気が済む? 源次を殺す最大のチャンスでも、どとめを刺さなかった!」
鶏冠の赤鬼が苛々して言った。
「源次って…雨音くんのこと?」
紅葉が赤鬼に尋ねた。
「そう。源次は蘇芳に化けてた鶴と、ばったり出くわした。源次はまんまと騙されて、鶴にノコノコついて行った。鶴はもう少しで源次を殺せたのに、殺さなかった。何故か、鶴!?」
鶏冠の赤鬼が唾を吐いた。
「鶴は源次を殺そうとした。源次が心臓を押さえて苦しんで、その際、女の名を口にしたので…、鶴は源次を殺せなくなってしまった。女とは、何と浅はかなものか。鬼になっても情に振り回され、神王様の命令にも背いた!」
赤鬼は呆れ、身震いした。
「仲間を殺すなんて、酷い!」
紅葉は赤鬼を睨み付けた。
赤鬼は、
「鶴はもう死ぬところだった。むしろ、楽にしてやっただけだ。おまえも死ぬ」
と、剣を振り上げた。
その剣とは、蜘蛛切の太刀だった。
「あっ、蜘蛛切…」
目敏い紅葉が気付いた。
「この剣を神王様に捧げる。もし妻の鶴が裏切ったら殺せと、神王様が俺にお命じになっていた。鶴はこの役目を、最初から嫌がっていた」
「鶴の上は最後まで、神王を愛してたのに…」
紅葉は鬼女に同情した。
紅葉の部屋のドアが開き、蘇芳が立っていた。
「俺の蜘蛛切を返せ。ショボい雑魚」
蘇芳が竹刀を持ち、入って来た。
「ゲッ。源頼光…!」
赤鬼が慌てふためき、蜘蛛切で斬ろうとした。
長過ぎる太刀に不慣れで、うまく使うことが出来なかった。
電光石火の蘇芳の突きが、鬼の口から飛び込んで、頭を打ち砕いた。
赤鬼が消滅した。
「…おにぃ、退院したん?」
紅葉が聞いた。
「今日なんやろ? 鬼どもの命日は?」
蘇芳が蜘蛛切を拾った。
5
コマチは悪夢から目覚め、苦しくて喘いだ。
「紅葉…、助けて。鬼になりたくない…」
彼女の顔色が死人のように青白くなってゆく。
紅葉からすぐ電話がかかってきた。
「そこで待ってて。今から、おにぃとそっちに行く」
「紅葉、ありがとう…。でも、来んといて。私…、鬼になって、紅葉を襲ってしまいそう…。私…、もうおかしくなってきた…」
コマチの血と混った鬼の血が、狂おしく騒ぎ立てた。
コマチはベッドから起き上がり、何か喋っている紅葉の声に、別れを告げた。
「バイバイ、紅葉」
「ちょっと…コマチ、待って!」
プチン。
コマチが通話を一方的に切った。
「お腹空いた…。人間食べたい…」
コマチは無意識に呟き、自分の言葉にゾッとした。
「どうしよう。誰か、助けて。…人間食べたい…。誰かの内臓食べたい…。助けて…」
コマチは情けない気持ちで、ヨダレを拭った。
泣きたい気持ちより、不安と焦りでいっぱいになった。
このままでは、誰かを襲ってしまう。
まずは家族を。
次に、通りすがりの人を。
「死んだ鬼の血を注射された…。この血は腐ってる…。しかも、伝染する…」
コマチはブツブツ喋った。
「旭さん、助けて…」
コマチは夢遊病のように、パジャマのまま、外へ出た。
彼女は朝日の眩しさに目を細めた。
そして、牙を剥き、
「ぐぅるるる、ぐがぁああ…」
獣の咆哮を響かせた。
道の数メートル先で、旭が手を振った。
「コマチちゃん、おはよう。人類最後の日かも知れないから、来たよ。君、言ってたよね。人類最後の日は恋人と一緒にいたいって。…そんな時には一緒にいてやれと、山上さんが言ったんだよなぁ…」
旭が笑顔で近寄って来た。
「あれ? 顔が青くない? 浮腫んでる? 寝不足?」
旭が立ち止まった。
美しかったコマチの顔が変わり果て、白目を剥き、焦点が定まらない。
「シャーッ!!」
コマチが旭に飛びかかった。




