捌弐 鬼、腕を取り返すの巻
1
旭と雲林院が坂道を駆け上がり、血を流して倒れている雨音を起こした。
「雨音、何があった!?」
「雨音、蘇芳さんは?」
雨音は頭を振り、起きた。
「…蘇芳さんじゃなかった。あれは鬼だ…。なんでかわかんないけど、とどめを刺されなかった…」
「なんで!?」
旭と雲林院はわけがわからなかった。
「計画変更しなきゃ…。僕らがやろうとしてることが、鬼にバレた」
雨音は無理して歩き出した。
旭が車を運転し、雲林院が後部席で雨音の手当をした。
雨音の傷がみるみる塞がっていく。
「その回復力。まるで、鬼だね」
旭が気味悪そうに言った。
2
午後、咲良の病室に女の子達が集まった。
紅葉とコマチ、煌星、スミレ、静先生も車椅子で来た。
「私、あの鬼が誰かわかってる。おにぃとは違う」
紅葉が経過を女の子達に説明した。
「蘇芳さんと違うんやったら、誰?」
スミレが聞いた。
スミレは鬼が見せた悪夢で、咲良を刺してしまった。
そうしたら、現実に咲良が大怪我をした。
スミレは咲良の顔が見れない。
「あれは死神。御所の鬼。御所の鬼が人の夢を操って、怪我をさせたり、殺したりしてた。たぶん、千年前の京の人達に復讐しようとしてる。被害に遭うのは、観光客も留学生も含めた、現代の京都にいる私達だけど…」
咲良が布団の中から、スミレに話した。
「二日前の地震が鬼によるものだとしたら、よっぽど強い鬼ね。当然、私達が封印しようとしている大鬼でしょうね…」
静先生が考え込む。
「次の地震はもっと強いって、なんで予告して来たわけ?」
コマチは腑に落ちなかった。
「コマチ。私と武蔵と山上さんで、鬼を祓う祈祷をしてみるわ。夜中に、看護師さんの目を盗んで。ちょっと落ち着かなくて、嫌だけど」
静先生が言った。
「もしかして、あの鬼かな。安倍晴明が言ってた。最も怨み深い鬼が…神王…」
紅葉の言葉に、咲良ははっとした。
「それ、鞍馬で、私が封印を解いてしまった鬼?」
「咲良ちゃん、私達も祈ろう。祈ることぐらいしか、出来ひん」
煌星が手を組み合わせた。
その時、またぐらっと、地面が揺れた。
「キャッ」
鬼が話に呼応するように数秒揺れ続け、彼女達を怖がらせた。
「大丈夫、ただの地震。京都はこのぐらいの地震、しょっちゅうやん。震度1か、2?」
紅葉が声を張った。
みんな、心底震え上がっていたが、紅葉に励まされた。
「そうや。今は信じるしかない。何も起きずに、六日後の朝が来ることを」
スミレが咲良の手を握った。
咲良は残った片手を紅葉に差し出し、紅葉はコマチの手を取った。
コマチは静先生の手を。
そして、みんなで輪になった。
「私達は一人じゃない。鬼がどんなに脅かしてきても、怖がる必要はありません。みんなで戦うの。これは一生に一度だけの、大きな戦い。存亡を賭けた戦い。根性出しましょう」
静先生が言った。
「こまめに連絡しよう。何かあったら、私とコマチですぐ駆け付ける」
紅葉が全員の顔を見回して言った。
「そうよ。私は怖くない。みんな、私を呼んでよ!」
コマチが強気で言い、みんな笑った。
紅葉達は病院を出て、緩い坂の下から振り返った。
白い大きな建物が、低い雲の下で陰って、とても陰気臭く見えた。
病院そのものが、鬼の城みたいに思えた。
「紅葉。咲良ちゃんと静先生、大丈夫かな?」
不安がコマチの胸を締め付けた。
静先生はカーテンの側から、病院から出てゆく紅葉達を見詰めていた。
静先生は、紅葉達の足元に伸びる影が気になった。
日暮れ時の長い影に、鬼が潜んでいそう。
「紅葉、気を付けて。戦いはもう始まっているのよ」
静先生がカーテンを半分閉めた。
静先生は窓の方を向きながら、視線はガラスに映る自分の背後の、天井の一隅を睨んでいた。
エアコンの影で空気が澱み、そこだけ暗く濁っていた。
静先生はゆるゆると、残り半分のカーテンを閉めながら、口の中で呟いた。
「臨、兵、闘、者…」
静先生が早九字を切ると、天井の一隅がもわもわとけぶった。
天井に凝らしていた身を、鬼の姿に戻して蠢く。
灰色の小蜘蛛の群れ。
人の形に集まった。
蠢く蜘蛛が人の形をなし、微妙にずれた位置で二つの眼が開いた。
「ブ…ブ…、しず…か…、ブ…」
虫の羽音のような声を発する。
「散れ!」
静先生が命令した。
小蜘蛛の群れがぶわっと散った。
それらはドアの隙間から、ざらざらと流れ出て行った。
3
雨音と旭と雲林院は、マナブとカズチの住むマンションに引き返した。
彼等は近くのスーパーの二階の自動販売機コーナーの窓から、マンションを見張っていた。
ちょうどスーパーの閉店間際、マナブがマンションに帰ってきた。
蘇芳とカズチは一緒じゃなかった。
「マナブと同居してる男の人は、どうなったんだろう?」
雨音達は訝しんだ。
それに、鬼の結界の警備が手薄になっていた。
「罠だ。俺達の計画を聞いたに決まってる」
彼等はそう思ったけれど、これ以上のチャンスはなかった。
「行くんだ。俺達は兵隊だ。後のことは、山上さんに全部任す」
旭と雨音は頷き合った。
彼等は結界の境界を超え、早足でロビーに踏み込んだ。
無人のロビー。
白大理石の床を踏み締め、彼等の靴音が響く。
モンステラの濃い緑の葉が目に入る。
艶消しの黒いエレベータードア。
天井にヤモリのように張り付く、鬼がいた。
ぶよぶよした膚、点みたいに小さな眼、天井に顎を付け、ばさばさの髪を垂らしている。
「ドコに行く? ココをドコだと思ってる? ヒヒヒヒ…」
鬼が舌を出した。
「ドコだと言いたいんだ?」
旭が尋ねた。
雲林院がエレベーターのボタンを押した。
「ヒヒヒヒ…。ココはコノ世じゃないんだ。アノ世なんだぞー」
鬼が答え、飛びかかってきた。
「どうだってんだ!」
旭が雲林院の腰から竹俣兼光を引き、抜くと同時に斬っていた。
抜いてから斬ったのではなくて、抜きながら斬ったが正しい。
雷切兼光とも言うこの太刀は、恐ろしい切れ味で鬼を真っ二つにした。
鬼は活け造りのように、床に盛られてピクピクしていた。
「旭さん!」
エレベーターのドアが開き、三人が飛び乗った。
エレベーターの中で、魚顔の鬼が待ち伏せていた。
餌をねだる鯉を思わせ、口をパクパク開く。
「ココから先は、通さねぇー」
鬼の口から蟹のハサミが飛び出し、もう少しで雲林院の鼻をちょん切るところだった。
「通らせてもらいます」
雨音が鬼切で下から切り上げ、魚の頭部が壁まで飛んだ。
マンションの電源が落ち、エレベーターが途中の階で停止した。
非常扉の操作をすると、中からエレベータードアを開けられた。
途中で停止した為、廊下側の床が高い位置にある。
「急げ。気を付けろ、突然動くかも知れない。挟まれるなよ」
旭が床に懸垂するように昇って、身を屈め、エレベーターの中に手を差し出した。
雨音がその手を掴んで、素早くエレベーターから出た。
雲林院が旭の手に掴まった時、頭部のない鬼がもたもたと襲いかかってきた。
「待てぇー」
転がった魚の鬼の顔が叫んだ。
「待つわけないやろ」
雲林院は鬼を蹴飛ばして、エレベーターから廊下に這い出た。
エレベーターの電源が戻った。
エレベーターが魚人を挟み、上の階へ昇っていった。
雨音達は階段を駆け上がり、息を切らしつつ、マナブの部屋の前まで辿り着いた。
部屋の前では、河童が門番のように棒を持ち、腕組みしていた。
「遅かったな、おまえら。大したことなさそうやな…」
小柄な河童が緑色の顔でニタニタ嗤った。
河童が軽く棒を振ると、旭の頭のすぐ上を掠めて、コンクリートの壁に食い込んだ。
壁が割れ、粉が落ちた。
「どや? 危ないでぇー。当たったら、死ぬで」
河童が言った。
突然、玄関ドアが開き、河童の顔面にぶち当たった。
河童は鼻を押さえ、蹲った。
「何だ。おまえら、来たのか。カズチはここにいないよ。どんな用事?」
マナブが面白そうに言った。
「マナブさん! マナブさんに用事があって来たんだ。…死んでもらいます」
雨音が先頭に躍り出た。
「河童の餌になってなよ、源次」
マナブがいったん、ドアを閉めた。
河童の方が驚いて、
「え、俺がやるの?」
と、不満そうに呟いた。
鬼切が唸り、河童を袈裟に斬り下ろした。
旭が雷切で頭部を突くと、河童は紅蓮の炎に包まれ、黒い煤になるまで燃えてしまった。
雲林院がドアノブに触れた。
ドアが開いた。鍵は閉められていなかった。
「お邪魔します…」
律義な雲林院が、玄関で靴を脱ぐ。
「バカ。早く鬼を斬って来い!」
旭が雷切を雲林院に返した。
雲林院が雷切を片手に持ち、
「うぉ…」
続けて来る鬼を、右に左に斬り返した。
「マナブさん!」
雨音が鬼の四肢が飛び散った廊下を、一気に駆け抜ける。
マナブはリビングにいた。
万感の思いを込めて、雨音はマナブの前に立ち尽くす。
マナブはリビングの窓を開き、片足をベランダ側に踏み出した。
風が部屋に吹き込み、カーテンを大きな波のように揺らめかす。
「源次…」
マナブは不思議な微笑みを湛えている。
「マナブさん…。尊敬する、大好きな先輩を……斬らなきゃいけないなんて……」
雨音は言葉に詰まった。
「斬れるんだろ? ためらいもなく」
マナブは嫌味を口にした。
雨音は鬼切を構えたまま、マナブを見詰めていた。
マナブの右手には、錆のある古代刀があった。
ほぼ直刀、柄が短く、極厚で重そうだった。
刃長は2メートルぐらいありそう。鬼の金棒とと呼ぶに相応しい、人間の頭を簡単に粉砕しそうな鉄刀だった。
「この部屋でそんな長いもの、振り回せませんよ。切れ味悪そうな刀ですよね…」
雨音はマナブの刀を観察した。
「この刀は、学瀛の墓から持って来たんだ。マナブは学瀛に片目を喰わせ、一つになった。おもてがマナブで、中身は学瀛ってことさ…。おまえもそうだろ、源次? おもては高校生、中身は…鬼…源次のなれの果て…」
マナブの頬まで口が裂け、牙が露出する。
額から、二本の長い角が生え、曲がりながら空を指す。
旭と雲林院は小鬼を倒し、リビングの入り口で立ち止まった。
「雲林院。雨音には…事情があるんだよ」
旭が囁いた。
「源次。学瀛と源次として、話をしよう。避けられぬ、千年前の話を」
マナブの髪が獅子のたてがみのように広がって風に乱れた。
雨音は剣道の駆け引きと同じで、中段に構えて、相手の動きを見た。
マナブは手を降ろしたまま、一分の隙もなかった。
「あなたが人を喰わなければ…、あなたを殺そうとは思わなかった…」
雨音が初めて、源次として返事した。
4
話は千年前に戻ろうか。
時は、平安。
平将門の乱が鎮圧され、血で血を洗い、人を呪い合う権力争いの末。
藤原氏が政の中枢を独占するに至る。
まだ安倍晴明は無名で若く、源頼光と渡辺綱も若かった。
都は深夜ともなれば、灯り一つない漆黒の闇。
物怪や鬼が跳梁跋扈し、百鬼夜行が通りをめぐる。
後に渡辺綱と呼ばれる鬼退治の髭の武者、源源次は、仕える源頼光の一条屋敷に住んでいた。
頼光の父の満仲に従って、諸国に向かうこともあった。
満仲の本拠は、摂津の多田にあった。
源次の母親は彼が生まれてすぐ亡くなり、父親は彼が幼い頃亡くなった。
源次は武蔵国の箕田に住む嵯峨源氏の嫡流だったが、武蔵国に国司として赴任した満仲に連れられ、摂津に行く。満仲の娘が仁明源氏の源敦に嫁いでいて、子がなかったので、養子にしたと言う。
彼は実父の呼び名を継ぎ、源次と名乗った。
妻は知られていないが、一説によると、頼光の妹である。
頼光は源次より五歳上だった。
ある日、摂津の養母が源次を訪ねて、わざわざ京の一条屋敷へ来た。
源次は物忌みの最中だったが、嬉しくて対面する。
摂津の養母は、
「こちらに伺う途中、あなたが鬼の腕を斬り落としたと聞きました。鬼の腕など、滅多に見られるものではありませぬ。どうか、見せておくれ」
と、源次に頼んだ。
「他ならぬ母上様。されど、危のうございますので、おやめ下さい。鬼の腕は毛むくじゃらで醜く、頑健な人の何倍も大きく太く、切り落とされてもまだ精気溢れて、指が動いております」
源次は養母を止めた。
しかし、養母は何度もせがんだ。
遂に、源次は世話になった義理の母の為に、護摩壇の前に置かれた箱を紐解き、鬼の腕を見せた。
養母はしゅうしゅうと白い煙に包まれ、屋根を突き破って、大きな鬼となった。
「我が腕を返してもらうぞ、源次…」
獅子のたてがみのような髪を振り乱し、長く曲がった角が天を指す鬼。
鬼が自分の腕を掴み取り、傷口にくっつけた。
鬼はひらりと、雲に乗った。
「茨木…め…」
源次は歯軋りして、地上から追う。
雲が流れ、鬼の高笑いが届いた。
「源次、捕まえてみろ。そなたの得意の弓で、私を射落としてみろ」
鬼が言った。
「思い出したか、源次。初めて逢った日から、おまえは敵。おまえは我が腕を切り落とした」
マナブが目を細めて言った。
彼は混乱する記憶を辿り、曖昧な景色を見ていた。
「それは物語だ。学瀛は源次より世代が一つ二つ古い鬼で…、元は優秀な学僧だったけど、既に鬼となって人を喰い散らし、正気を失っていた」
雨音がマナブの見る景色を壊していった。
砂利だらけの峠道を、薄汚い、破れた僧衣の男が走っていく。
鷲掴みしているのは、人間の死体から抉り出した内臓だ。
それを貪り喰いながら、顔じゅう汚して、伸びた爪で肉を引きちぎる。
男の周りには小鬼達、親なし児が鬼となったもの…が続き、こぼれ落ちた肉を喰らう。
男は山道を通りがかった山伏や僧、旅人を襲い、喰った。
その噂は都まで届いた。
源次が焚火にあたっていると、火の照らす世界のぎりぎり外、闇の中に、狼の唸り声が聴こえた。
その唸り声の一つに、たまらなくやるせない、虚しく哀しい響きがあり、
「おいで。火にあたったらいい。寂しいなら、少し話そう」
と、声を掛けた。
狼は唸りながら、火に近付いてきた。
火に近付くほど、人の形になり、やがて、ぼろぼろの僧衣を着た若い男の姿になった。
「死にきれぬ亡霊なら、話を聞こう。話せ」
源次は視線を向けずに、炎の踊るのを眺めながら言った。
僧衣の男は、
「どうして鬼になったのか、よく覚えておらぬのです。腹が減って仕方ない故、人を襲って食むのです。この身は狼と同じ。卑しいものになってしまいました。初めは復讐の為、身内を殺した相手を食んだのですが、人の血の味が私を狂わせ、気が付いたらこの有様でした」
と、話した。
源次は男が、昔は僧であったことに気付いた。
「仏門に入られた御身が鬼に堕ちるとは、悲しい話です。けれど、この世の理不尽さがそうさせたのかも知れません。この世はどんなに努力したとしても報われるわけではなく、権力に媚びる者が勢いを増し、正しい口を封じてしまいます。努力は徒労に終わり、一度空回りし始めると、坂を転がり落ちるように人は自信を失い、自分を見失い、そして人生を失うのです。あなたは悪ではない。可哀相な人です」
源次は鬼に同情し、並んで温かな火にあたった。
しかし、いくらも経たないうちに、鬼は唾が湧いて来るのを感じた。
源次は若く瑞々しく、美味そうだった。
「あなたの馬をいただけませんか。腹が減って死にそうです。このままでは、あなたを襲ってしまいます。私に優しい言葉を下さったあなたを喰らうわけには参りません」
鬼は理性で自分を抑えようとした。
しかし、鬼には理性などなかった。
「よいでしょう。私の馬を食んで下さい」
源次は快く馬を譲った。
鬼は馬を襲うふりをして、源次の背後から襲いかかった。
鬼の直刀を避け、源次が太刀を抜いた。
鬼の肩腕が切断され、地面に落ちた。
鬼は痛みに唸った。
源次は鬼の胸に刀を突き立てた。
「あなたが私を食おうとしなければ、このまま見過ごそうと思ったものを。私は鬼の討伐を頼まれて、この山にやって来たのです」
鬼は刀に手をかけ、恥じて涙を流した。
「惨めです。欲一つに抗うことも出来ません。今後は獣を狩って暮らします。誓って、もう人を襲いません。どうか、私を見ないで下さい…」
鬼は刀に胸を刺し貫かれたまま、山の奥深くに逃げて行った。
雨音の見る景色を、マナブも感じた。
マナブは苦笑いした。
「そんなこともあったっけ…」
雨音は残念そうに溜息をついた。
「あなたはその後も、我慢出来ずに人間を襲い続け、僧を百人喰らって、大鬼に昇格した。それから、都の姫達を攫って子を産ませた。そして、大江山の大鬼・主典と組んだ…」
「しゅてん…」
マナブは愛しそうに、相棒の名を呼んだ。
「酒呑童子?」
旭と雲林院が口を挟んだ。
「修験者の主典…、天狗です」
雨音が答えた。
ベランダの間近から、ヘリコプターのローターが回転するような、激しい雷鳴が聴こえた。
稲光が真っ白に部屋を灼いた。
マナブが一瞬の隙に雨音の顎を掴み、
「我慢出来るものではないんだよ。一度人間を喰らった時から、地獄に堕ちる宿命。あの味は麻薬のように、脳にこびりついて離れない。どんな人間も狂わせ、鬼にしてしまう。昔、おまえが言うような泣き言を言ったとしても、別に恥ずかしいとも思わない。惨めなんかではないさ。解き放たれる快感。このちっぽけな世の中で、自分だけが完全なる自由。全ての欲を解き放つ。禁忌は一つもない。この世は全て快楽…」
と、囁いた。
マナブは雨音を突き放し、雷鳴の中に飛び込んだ。
彼は雲に包まれた。
「源次。五日後、会おう。奥愛宕で待っている…。咲良を連れて来てくれ」
マナブの声がした。
その後は、雷鳴で何も聞こえなくなった。
鼓膜が破れそうなほど、雷だけが鳴り続けた。
マナブがこのマンションに帰って来ることは、二度となかった。
5
咲良の病室に、山上が来た。
「いよいよ、最後の戦いが始まる。地震のことは心配せんでええよ。俺と武蔵と静先生で何とかするわ。咲良ちゃんは俺達の巫女さんやな。君は神泉の剣神の神託を受ける巫女さんや。たぶん、鬼を封印出来る、唯一の巫女さんな。うちの祖父さんが書いた鬼伝に、そんな話があったのを思い出した…」
山上は記憶を辿り、何度も眉をしかめた。
彼は病院で髭を剃られてしまったので、違和感があるが、意外に若々しい。
「巫女の名前は載ってへんねん。ただ、斎院の采女って書いてある」
山上が思い出して言う。
咲良は気まずくなって俯き、
「きっと、稚桜姫だ。平安時代の、私と同じ顏の女の子…」
と、心の中で呟いた。
「君には重要な役をやってもらう。危ないけど、君しか、学瀛をおびき寄せられへん。学瀛は君をお姫様と呼んで、執着してる。君に恋してて、君を殺すことは出来ひん。…まぁ、うまく行けば、今頃、旭と雨音がマナブを殺してるはずやけどな」
山上は何度もスマホを見た。
旭からの成功の連絡は、まだ来ない。
「マナブを殺したんですか!?」
咲良は思わず叫んだ。
「君はマナブが可哀相って言ってたね。鬼が悪いとは限らないと。あんだけ噛まれてるのに…」
山上は首を傾げた。
「俺は学瀛ら三つ子の鬼の血を引く者として、あの鬼の始末を宿命付けられた、しゅとーん部の…、いや、祝東雲流と山上神社の跡継ぎとして、やらねばならんことがある。これは一族のけじめなんや」
山上が窓を振り返った。
激しい雷鳴と共に、稲光が窓を白く灼いた。
「あの稲光は、雨音とマナブが戦ってるんやろ。君はどっちを心配する? 咲良ちゃん」
山上が聞いた。
咲良ははらはらして、胸を押さえた。
「雨音くんと…マナブが…」
雷がしばらく続いた。
雷に気を取られている間に、異変が始まった。
部屋の一画が、ばりばりと紙が破れるみたいに破れ始めた。
この壁を壊して、薄紫と朱色の混じった鬼の異界が覗く。
卵が腐ったような匂いが流れ出した。
「あっ」
咲良が叫んだ。
壁の向こうから、十本の角を持った鬼が侵入して来た。




