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捌壱 悪魔を拾った男


 咲良が目が覚めた時、祖母と母親が枕元にいた。

「咲良、わかる? 病院にいるのよ。大怪我して、救急車で運ばれたのよ」

 母親が咲良の手を握った。

 母親は看護師なので、冷静に怪我の状態を把握していた。

 咲良は殆ど聞いてなかった。


 咲良はベッドからすぐ降りようとして、点滴のカテーテルに引っかかった。

「咲良、どこに行くの?」

「紅葉ちゃんに…言わなきゃ。大切な話があるの…」

 咲良の腹に痛みが走った。


 そこに、紅葉が入って来た。

「咲良ちゃん、まだ起きたらあかんのちゃう?」

「紅葉ちゃん。七日後に大きな地震が来る…」

 咲良は急いで伝えた。


「この前から、もう二日経ってるけど。もしかして、五日後?」

 紅葉は落ち着いて確認した。





 雨音と旭が山上と蘇芳の見舞いに訪れ、静先生の病室にも寄った。

 静先生は読書をして、退屈な時間を潰していた。

「みんながちゃんと勉強してるか、心配です。特に渡邊くんが」

 静先生が言った。

「ちゃんとやってますよ」

「心配です。どんどん、君が鬼に近付いているのを感じます。外側より、内側が…」

「もうすぐ終わりますよ。全部…」

 雨音が呟いた。



 雨音は咲良の病室の前で、足を停めた。

 戸の隙間から、咲良と紅葉の話し声が聞こえた。

「そっか。咲良ちゃん、意識が戻ったんだ。よかった…」

 雨音はしばらく耳を澄ました。


「よかったな。じゃ、行くか。俺達は兵隊。やることが決まってる」

 旭が新車のキーを取り出し、雨音の肩を叩いた。





 蘇芳がノックして、ドアを開けた。

 薄暗くもないのに、どこか陰気臭い部屋だ。

 白衣の男が回転椅子に座っている。


 その部屋は薬品の匂いがプンプンする。

 棚に、濁った液体が入った密封容器が並ぶ。

 白衣の男が振り返り、ビニル手袋とピンセットを作業台に置き、マスクを外した。

 向かい合う蘇芳は、鋭い眼で相手を凝視している。


 白衣の男は溜息をつき、詰まりながら喋り出す。

「どのぐらい前でしたかね…。そうですね、たぶん、もう二年近くになるかな…。俺は橋の上で、悪魔を拾ったんです…」

 彼は膝の上に素手を置き、手を震わせていた。


「俺は…愚かなことに、悪魔を手なずけようとしたんです…」

 彼は俯いて、ぼんやりと自分の手を見た。

「血だらけです…、俺の両手はもう……。悪魔に(そそのか)されたんです。悪魔は人間を喰らい、死体の一部を持ち帰って来ました。…面白かった…。誰にも知られず、自宅で解剖をすることは…」


 蘇芳は多少ゾッとしながら、

「人間の方が余程鬼やと、俺も長らく思ってましたよ。詳しく聞かせてもらえますか?」

 と、話した。


「はい。俺は…その悪魔と…一条戻り橋で出逢いました。いや、…そんな橋の名前も知らなかったんですけど。現代的な、普通の石造りの橋でした。俺は北陸の出身ですから、京都の伝承なんて知らない。魔性のものが出るような、気味悪い場所だとも思わなかった。春先の…肌寒い日…、雨降る夜です…」

 彼は夢を見るように話した。

 記憶の景色が、彼の脳裏によみがえってきた。



 雨がぽつぽつ降っていた。

 知人の家に行った帰り、バス停に向かうところ。

 彼はほろ酔い。

 橋に座り込む人影があった。


「悪魔は橋の欄干に座ってました…。びしょ濡れで…、捨てられた仔犬みたいに震えて。十八歳ぐらいに見えました。俺は声をかけ…、傘を差し出しました…」

 彼は記憶の中の悪魔に、傘を差し出す仕草をした。

 蘇芳は相槌を打った。

「鬼はそうやって、心の隙間に入り込んで来るんです。心優しい人は、ガードが甘い」


 すると、白衣の男は意外そうに、

「違います。俺は心優しい人なんかじゃない。俺は…未成年の…家出少年だと思って…、家に連れ帰って、監禁ではないですけど、ペットにしようと思ったんです。俺はその頃、心を病んでいて…、ストレスの吐き出し口がほしかった。言葉巧みに誰かを操って、俺の思い通りにして、暴力でストレスを発散したい…、そんな酷い妄想を抱えてました。俺は最低の男です」

 と、打ち明けた。


「悪魔は最初、可愛かった。綺麗な顔立ちで、痩せてるけど引き締まってて身長があって、俺の思う人形にぴったりでした。俺の服を着せてみたら、どれを着せてもよく似合って…。まるでペットに首輪を選ぶみたいに、俺は楽しんで服を買い与え、彼を飾り、食事を与え、俺の隣りで眠らせました。犬や猫に対するような愛情が湧きました。可愛い…。従順で純真で、無邪気に笑って、とても可愛いと…」

 彼の顔には、自分を嘲笑うような卑屈な笑みが張り付いていた。


「悪魔は俺の醜い心を見透かしてました…。悪魔は急に、どんな願いも叶えてやることが出来ると言い出しました。俺は笑って聞いてました。こいつ、頭がおかしい、って」

 彼は急に寒気を感じ、ぶるっと震えた。

 悪魔は今、留守だ。


 彼は話し続けた。

「悪魔は俺が愚痴る度に、その相手を殺してやろうか、その相手を喰ってやろうか、と言いました。俺は、きっとこいつはデリケートな思春期に何かあって、精神が壊れたんだろう、とか思ってました。それで、俺はとんでもないことを頼んでしまいました。迂闊にも…、自分の恩師の…S教授を殺してくれと頼んだんです」

 男は後悔し、苦悩していた。


「冗談のつもりでした。S教授は研究室の人間を、奴隷のように酷き使う。でも、研究熱心なだけで、親身になって生活のアドバイスをしてくれたし、御馳走になったことも何度かあったし、全然悪い人じゃなかった。俺はちょっと愚痴を言っただけです。あの悪魔は、たやすい御用だと答えました…」

 男は頭を抱え、髪を掻きむしった。

 抜けた髪が床に散らばった。


「死んだでしょ、その教授。あーあ、やっちゃいましたね…」

 蘇芳が隣りの椅子に座り、背凭れに反り返った。


「…ええ。それが最初の殺人です。そんなこと頼むんじゃなかった。その夜、彼は顔から血を流し、帰って来ました。片目を鬼に捧げたとか言って。自分で目を(えぐ)り、鬼に喰わせたって」

 彼は思い出し、震えた。

 窓が突風にガタンと鳴って、彼はびくびくして窓を振り返った。


「俺は彼の為に、救急車を呼ぼうと思いました。…でも、彼は突然、映画の悪魔に憑かれた人みたいに人格交代して、悪魔の声で話し出しました。ウウ、おまえの願いを聞いてやる…、ウウ、Sを食い殺してやるぞ…、そんな感じで…」

 彼は唸ってみせた。

 それから立ち上がり、部屋にあった冷蔵庫を開けた。


「これが、そのS教授のなれの果て。肺の細胞から作ったサンプルです」

 彼がシャーレを一つ取った。

「へぇ…。細かく刻みましたね。次の犠牲者は?」

 蘇芳は顔を背け、鼻を摘んだ。


 男は辛そうに答えた。

「後任のT教授です。俺が書いてる論文の一部をバカにして、学会で話を盛って話したんです。特に大したことじゃなかったけど、俺がそれを自宅で、悪魔に愚痴ってしまって…。悪魔はまた殺してやると言い出しました。…俺は悪魔の力が知りたかった…。S教授の事件は本当に悪魔の仕業なのか? だからあえて、悪魔を止めなかったんです」


「あんた、ほんまに後悔してるんですか? おとなしそうな顔と、怖ーい言動が一致してへん」

 蘇芳が指摘した。

 男はいよいよ辛そうに涙して、

「気がついたら、俺はT教授の遺体を解剖してました。T教授は以前から、自分が死んだら医学部の後輩達に解剖で使ってほしいと話していた方でした。でも、俺が…独占して解剖してしまいました」

 と、告白した。


「悪魔は実在しました。彼は本当に人を殺してたんです。彼が持ち帰った遺体は、本物のS教授とT教授でした。俺が解剖した次の日には、教授が二人続けて行方不明になってることがニュースになりました。俺も警察にいろいろ質問されました。…まさか、言えませんよね? 一部、うちの冷蔵庫に入っています、なんて」

 彼は白衣の袖で、溢れる涙を拭いた。


「その後も、悪魔は食欲を満たす為に、人を襲いました。喰い残した遺体は俺に渡しました。大概は頭部が潰れ、首や肩が喰われていて、心臓がありませんでした。俺は警察に通報しなかった。新鮮な遺体…、俺はほしい部分だけ切り刻んで、残りを骨ごとカレーやシチューに入れて、彼に喰わせました。俺も一口食べてみたことが…」

 彼は吐きそうになった。

 その後に、彼は力なく微笑んだ。

「ちょっと、美味かった…」


「喰ったんですね? カズチさんも?」

 蘇芳はニヤニヤした。


「最後に、同じ研究室のМさんです…。彼女が製薬会社の人からお金を受け取っていたことが、学部の偉い人にバレた…。あの娘は俺のせいに(なす)り付けて逃げました…。俺は研究室を辞めなきゃならなくなった…。研究職の就職もパアです。…それで、これがМさんです」

 カズチが冷蔵庫から、別のシャーレを取り出した。


「カズチさん。あんたは鬼になる資格充分ですよ。学瀛(マナブ)が見つけ出した逸材、素晴らしいな」

 蘇芳が椅子から立ち上がった。

「カズチさん。あんたを鬼にしてあげます。それも、とびきりの鬼に。普通はなれへんのやけど、あんたはマナブの同居人で、推薦があるから特別です。ほな、ついてきて下さい。マナブが待つ鬼の本陣へ、今から行きましょう…」

 蘇芳が先に廊下に出て、カズチを促した。


 カズチは白衣を脱ぎ捨てた。

「俺を裏切った研究室の人間を全員…、殺してほしいんです。俺はあいつら全員を解剖し、実験に使いたいと思います。マウスじゃ意味がない。人間の新鮮な細胞で、俺の研究を完成させる…。それが俺の復讐であり、科学です」


「悪魔が悪魔を拾いよった。ふふふ…」

 蘇芳が堪えきれず、口を隠した手の下で、含み笑いを漏らした。



 二人はエレベーターで、マンションの一階に降りた。

「カズチさん。あんたを鬼の本陣がある、愛宕(あたご)に連れて行きます。奥愛宕に、あんたにちょうどぴったりな鬼の墓があるんです…。その鬼をよみがえらせ、あんたに降ろします…。マナブは鬼に片目を捧げたけど、あんたは鬼に何を差し出す?」

 蘇芳が尋ねた。


 カズチは一瞬首を傾げ、すぐに思いついて答えた。

「研究室に恋人がいます。その女を捧げます。煮るなり焼くなり、好きにしてもらっていいですけど」

 蘇芳は呆れ、舌打ちした。

「はぁ、酷い男やわ、あんた。ほな、その女を呼び出して下さい」

「はい。わかりました」

 カズチはスマホを取り出し、恋人に電話をかけた。





 雨音と旭と雲林院は、車の中から、マナブとカズチが棲むマンションを見上げていた。

 学瀛配下の鬼どもが結界を守っている。


「何度も様子を見に行って、気付いたんですよ。鬼はマナブさんを警護してるけど、同居してる男の人のことは警護してないって。だから、その人を狙ってみたらどうかって」

 雨音が言う。

「人質か。だけど、マナブがあっさり同居人を見殺しにする可能性もある。マナブにとって、どのぐらい価値がある人なんだろーな?」

 旭はハンドルに頬杖を着く。


 マンションの玄関から、カズチが出て来た。

 蘇芳と一緒だった。


「蘇芳さん!?」

「本当だ。蘇芳くんだ。なんでこんなとこに…。ついさっき、病院にいたのに!?」

 雨音と旭は蘇芳の姿を見て、目を白黒させた。


 蘇芳とカズチはタクシーに乗り込んだ。

 旭もすぐ、自分の車を発進させた。

 蘇芳達が乗ったタクシーは、駅前で停まった。若い女性がそのタクシーに乗る。

 旭はロータリーを回って、車をタクシーの横に並べた。


「蘇芳さん!」

 雨音と雲林院が窓から手を出し、呼びかけた。

 蘇芳が雨音達に気付き、ニヤリと嗤った。


「おまえら、こんなとこで何してるん!?」

「蘇芳さんこそ、何してんですかー?」

 雲林院が叫び返す。

「ついて来いよ。今から、マナブに会いに行く。この人達に応援してもらう…」

 蘇芳が大雑把に説明した。

「蘇芳くん、体は大丈夫なの? 八尾の狐にやられたのに…」

 旭は半信半疑で、タクシーに続いて車を走らせた。


 蘇芳が雨音に電話をかけた。

「雨音、鬼切の太刀と蜘蛛切の太刀、持って来たか?」

 蘇芳が乾いた唇を、やたら長い舌で舐めた。


 カズチの恋人は長い黒髪をいじりながら、

「カズくん、この人達、誰?」

 と、聞いた。


「雨音。カズチさんを使って、俺がうまいことマナブを誘い出すから、おまえは正面から斬れ。俺が後ろからマナブを斬る…。愛宕には鬼がぎょうさんいてる。手前でマナブを呼び出すから、俺に蜘蛛切を寄越せ…」

 蘇芳が雨音に命令した。



 今宮神社の前で、彼等は一旦、車を降りた。

 小雨を肩に受けながら、蘇芳は向かいの船岡山を見上げた。

「船岡山…。あの向こう側が、平安の世の内裏が在った場所や…」

 蘇芳は今宮神社に視線を移し、

「千年前、ここで御霊会があった…。我等の疫神は封じられた…」

 と、呟いた。


 旭の車が停まった。

 雨音が刀を持って、降りてきた。

「蘇芳さん、大丈夫ですか? この太刀振れるほど、腹筋使えます?」

「はよ渡せっ!」

 蘇芳はひったくるように、雨音の手から蜘蛛切を奪った。


「雨音、船岡山に古代の磐座って言われてる場所あるの知ってるか? そこにマナブが来る。待ち伏せするぞ…」

「はい、わかりました」

 雨音と蘇芳は坂道を上った。

 旭と雲林院は、車を目立たない場所に停めてくるように言われた。


 雨音の後ろを歩いていた蘇芳は、手に入れた蜘蛛切を満足そうに撫で回していた。

 そして、突然抜刀し、後ろから雨音を突いた。

「あ」

 雨音は短い叫びを発して、前につんのめった。


「死ね」

 蘇芳が浅く刺さった切先を引き抜き、振り被った。

 雨音は転がって、斬り下ろしを避けた。


 雨音は信じられない思いで、蘇芳を見詰めた。

 蘇芳は嗤っていた。

「ふふふ、名乗ってやろう。俺は死神。咲良を斬ったのは、この俺…」

「蘇芳さん? どうしたんですか?」

 雨音は痛みを堪えて鬼切を抜き、蘇芳の斬撃を受け流した。


「おまえほど目障りな部員はおらんかった。雨音、わかってるやろ? 俺はおまえをずっと嫌ってた。俺の親友の隆一は、おまえのせいで鬼に喰われて死んだ…。俺がおまえに殺意を持つのは、仕方ないと思わへんか?」

 蘇芳が言い放つと、雨音はショックだった。

 雨音の胸の奥がズキズキと痛んだ。


「心臓が苦しいか、雨音。おまえなんか、死んでしまえ」

 蘇芳が囁く。

 雨音の心臓が搾られるように痛んだ。





 カズチが乗るタクシーに、すぐ蘇芳が戻って来た。

「お待たせ。ほな、行こう」

 蘇芳は蜘蛛切を持って、カズチの隣りに座った。


 ルームミラーに映るタクシーの運転手、顔は青黒く、上向きの牙が閉じた唇からはみ出している。

 白手袋と黒いスーツの間に、青い鱗が垣間見えた。

 タクシーのルームライトは、何故かイモリみたいな気味悪い形をしていて、尻尾が点灯した。

 シートは動物の腹みたいに柔らかで、ふわふわの毛皮に包まれていた。


 カズチは腹を括った。

「俺は悪魔の身内になるんですよね。早くそうなりたかった気もします。人間であることを捨てることに、何も恐れは感じません。マナブの力が羨ましかった。彼は欲望に純粋で、何にも縛られず、あっけらかんと悪に生きてる。俺には魅力的な生き方だとも思えます。あの悪魔は人間を喰うけれど、人間だって、牛や豚や鳥や魚を食う。同じですよね?」


「同じやで。むしろ、人間の肉の方が美味い。狩りも簡単やし。その辺にいる奴等をちょっと捕まえて、皮を剥いで、パクッと喰うだけや」

 蘇芳が応じた。


「ねぇ、それって、何の話ー? 悪魔になるって、何ー?」

 カズチの恋人が甘えた声を出した。

「おまえは俺の血と肉になるんだよ。よかったな。一心同体だよ」

 カズチは冷たく彼女に言った。


「手順を説明する。カズチさん、あんたはその女を殺して、内臓を取り出し、鬼の墓に供える。たっぷりと血を地面に吸わせる。それから、あんたも少しばかり血を払う」

 蘇芳は鬼の契約書を取り出し、カズチにサインを求めた。

 カズチは黙ってサインし、親指を切って、血判を押した。


「私を殺すって、何ー? カズくん、その非科学的カルトな話、やめてぇー。宗教なの? ヤダ、ダサいー。私が大学病院に配属決まって、自分が研究職取り消しになって、自棄(やけ)になり過ぎなんじゃないー?」

 女はきついことを言った。


 蘇芳はカズチに短刀を渡した。

「着いた。奥愛宕や。鬼のタクシーは速い。さぁ、これで、その女を殺せ」

 女は暴れたが、鬼どもに担がれ、鬼の墓に連れて行かれた。

 小さな丸い塚で、一本の落葉樹が塚の頂に生えていた。


 鬱蒼として暗い山の中。もちろん、街灯も無い。

 黒い影絵のような鬼どもの、ひしめくほどの数の息遣いが聞こえる。


 カズチは短刀を逆手に握り締め、恋人を追いかけ回した。

 恋人は腕に何ヵ所も切り傷を負った。

「やめて! カズくん、何するの!? やめてー!」

 女は逃げ回った。

 パンプスで山の中は走りにくく、何度も転んだ。

 その度にカズチが刃物を振りかざした。


「俺の手にするはずだった栄光、俺の手にするはずだった将来、俺の手にするはずだった幸せ…。何も残ってない。おまえの死の感触を、せめて楽しませてくれ!」

 カズチが叫ぶ。


「悪魔、悪魔とうるさいわ。あんたが悪魔や。その己の姿を見たらわかるのに」

 蘇芳が嘲った。


 空からマナブが降りて来て、

「ご苦労様。僕の可愛いカズチは、うまく鬼の器になった?」

 と、蘇芳に聞いた。

 蘇芳は恭しく頭を垂れ、マナブを出迎えた。

「今からです。獅子鬼・学瀛」


 マナブはカズチに声をかけた。

「僕の可愛いカズチ。素直で純粋で、糞真面目な研究者で、研究以外に面白味もなく、人間味もなく、他人を利用して上り詰めることや、他人を言い訳にすることで頭がいっぱいの、可愛いカズチ。今まで飼った、どんな犬や猫より可愛かったよ。さぁ、早く、僕の大事な相棒をよみがえらせてくれ。おまえの命を僕の相棒にくれ、カズチ」


 カズチはぽかんとして、マナブを振り返った。

 マナブは眩しいほどの笑顔を向けていた。

 カズチの顔は恋人の血で汚れていた。


 血が鬼の塚に沁み込み、鬼の塚が血で潤った。

 女は死に、死体から流れ出した血が、眠る鬼の口へ注がれた。


 鬼の塚から異様な臭気が噴き上がった。

 中で石棺が崩れ、カズチの足元の地面が割れた。

 カズチは墓穴に落ちた。


「ギャッ…」

 男の悲鳴が聞こえた。

 骨がボキボキ砕ける音がした。

 大きな獣がむしゃぶりつき、骨ごと噛み砕いて、喰らう音がした。


 墓穴から地面に、土混じりの手が出た。

 白く美しい手だ。女か。


 いや、男の手だった。

 細く長く優美で華奢な指、刀など持てなさそうな手だ。

 破れた狩衣が手にまとわりついている。


 長い髪を振り乱し、口に人間の骨をくわえた鬼が、墓穴から這い上がって来た。

 顏には歌舞伎のような、朱色の隈取(くまどり)

 そして、額に二本の角があった。


「お帰り。待ってたよ。僕の最愛の鬼、しゅてん…」

 マナブが駆け寄り、鬼に抱き着いた。

「ガク…エ…イ…?」

 鬼が呟いた。

 口からポトリと、人間の骨が落ちた。


 悪魔をペットにした男、或いはそのつもりになっていた男の、手首と指の骨だった。





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