漆陸 恋する鬼
1
紅葉は静先生の薙刀を拾った。
「私はあんたなんか知らない…」
「そうかね? 我はそなたをよく知っておる…」
鬼は静先生の口を借り、紅葉を挑発した。
血の涙を流し、静先生の顔が醜い鬼の表情で歪む。
「なぁ、これは昔々の話よ。我等は鬼ヶ城に集った。源頼光と渡辺源次に復讐せんが為。千を超える鬼がおった。そなたも、あの場におったよな…」
「知らないって」
紅葉は薙刀の先を鬼に向けた。
「そんな爪楊枝みたいな薙刀で、我を殺せると思うか?」
鬼は静先生の両腕を広げ、わざと斬られようとした。
咲良が紅葉を止めた。
「紅葉ちゃん! その人は静先生だよ!」
紅葉は静先生を斬りかかり、直前で止まった。
静先生の眸の奥に、闇の淵が映る。
鬼は静先生の折れた足を引き摺って、紅葉の前で胸を張った。
「うひひ、殺せ。畜生、殺せよ。ふひひ、…この女をぅ…」
鬼はヨダレを垂らした。
「う…」
紅葉の隙を突き、鬼の蛇の尾が薙刀の刃に巻き付いた。
鬼は易々と、薙刀の刃を砕いた。
「どうしよう。ヤバい…」
コマチが爪の先を噛んだ。
「ああ、そろそろ殺してくれよう。この女ども…」
静先生が呻き、ばったり倒れた。
鬼は再び大蛇となって、キッチンごと締め付けた。
キッチンがギシギシ軋み始めた。
静先生が頭を振り、眸を開いた。
元の綺麗な眸に戻っていた。
「ふぅ…」
静先生は息を吐き、苦痛に顔を歪めた。
「紅葉ちゃん…。この鬼は変幻自在。妖術を使う鬼。全てはマヤカシ…」
静先生は折れた足を触ろうとして、痺れて倒れた。
「どうすればいいんですか!?」
「こいつは人間の恐怖心や弱味につけ入って来る…。視覚に頼ってはダメ…」
静先生は声を振り絞った。
体中の傷から血が流れた。
天井がガタガタと崩れ始めた。
木屑と埃が落ち、窓ガラスが割れて降ってきた。
女の子達は部屋の真ん中で手を取り合って、ぶるぶる震えていた。
「この鬼は恐怖を現実に変える鬼…。だから、最悪の想像は最悪の結果をもたらす。悪い想像しちゃダメですよ」
静先生が女の子達に注意した。
みんな、恐怖心と戦った。
何も考えないよう、頭を真っ白にした。
けれど、紅葉はアパートがぺしゃんこに潰れて下敷きになったり、蛇に絞め殺されたりする想像を止められなかった。
「紅葉ちゃん。気が強いと思ってたけど、あなたが一番怖がりだったのね。人間は弱いものです。あなたは普通です。でも、もっと安全な方法があります」
静先生が言い聞かせた。
「あなたは剣道やってたでしょ。逃げ回るより、攻めた方が安全だったでしょ? 頭を下げて避けるより、しっかり竹刀をぶつけた方が、敵の攻撃をかわせたはずですよ」
静先生の言葉に説得され、紅葉は少しずつ落ち着いた。
鬼は部屋を締め付けてない。
ただ天井をギシギシ揺すって、紅葉達を怖がらせて遊んでいるのだ。
鬼が天井の隙間から、キッチンを覗いている。
「この鬼は…妖術を使うので、晴明なみの呪を使いこなして、戦わなくちゃならないんです…」
静先生が説明の途中で息切れした。
「山上さんか、武蔵がいれば…何とかやり過ごせる。呼んで来て下さい…」
「今、山上さんとは連絡が着かないんです」
紅葉達は絶望を感じた。
その時、天井が砕けて、鬼の赤い脚が降りてきた。
神社の鳥居かと思うほど太い脚に、すね毛がモジャモジャ生えている。
床を踏みしめ、部屋に生々しい地響きがした。
「これはマヤカシです」
静先生が断言した。
しかし、屋根が吹き飛ばされ、雨風が吹き込んだ。
大鬼がもう一度片足をキッチンに降ろして、シンクや冷蔵庫を滅茶苦茶に踏み潰した。
鬼の足が床にめり込んだ。
見上げると、鬼の頭は雲まで届きそうだ。唇から鬼歯がはみ出ていた。
「わぁ、歌川国芳が描いた鬼みたいだ…」
咲良は思わず声を上げた。
鬼はなまはげのような長い髪を風に靡かせ、金色の眸で咲良達を睨んでいた。
「今は何も考えちゃいけない。お経は知ってますか? ひたすら念じなさい」
静先生が言ったが、お寺の子の咲良だけが、ムニャムニャとお経を唱えた。
大鬼の肩の上で雷が閃いた。
大鬼は紅葉達を見下ろし、
「ぐふぁーふぅっ、はぁっはぁー…」
奇妙な嗤いを響かせた。
大鬼は赤い胸を反らせ、
「ぐふぁーふぅっ、はぁっはぁー…」
と、片足を振り上げた。
「踏み潰される!」
紅葉は頭を抱え、蹲った。
「紅葉! 悪い想像したらダメ!」
静先生が紅葉を呼び捨てた。
「いやぁー…」
赤鬼が片足を上げ、紅葉目指して踏み付けてきた。
紅葉は頭の真上で停止した、鬼の足の裏を見た。
咲良が軽々と、鬼の足の裏を受け止めていた。
「本当だー。想像した通り、受け止めれた…」
咲良が超ポジティブな笑顔で呟いた。
「よくやりましたね、咲良。君は100点ですよ」
静先生が褒めた。
「えいっ」
咲良は鬼の脚を押し返した。
大鬼は困った顔をした。
「恐怖を克服したら、マヤカシは通用しないってことですね…」
コマチが鬼のすねを、人差し指で鋭く突いた。
青い血がびゅっと出て、鬼はすねを抱えて跳んだ。
「ここは鬼の泣き所じゃあ…」
大鬼の姿が消滅した。
狭くて暗い、元のキッチンに戻った。
「また来ますよ。一角の翁は執念深い鬼です」
静先生は辺りを警戒した。
2
鬼の気配は途絶えた。
十分経過、二十分経過。
紅葉達は胸を撫で下ろした。
コマチは救急車を呼んだ。
「病院に行ったら、たくさんの人間が巻き込まれます」
静先生は嫌がったが、無理やり担架に乗せられた。
「何があったんですか? 何か爆発でも!?」
消防署の人達は驚いて、傷だらけの先生と壊れたキッチンを見た。
紅葉達も救急車に乗り込んだ。
静先生は固定されたストレッチャーの上で、毛布を被っていた。
血圧も低く、体温も異常に下がっていた。
「もう大丈夫ですよ。生徒さんも一緒ですよ。安心して下さい」
消防署の若い男が声をかけた。
道は混んでいたが、救急車はスムーズに走った。
「もうすぐあの世に到着しますよ…」
運転手が言った。
「え!?」
紅葉達は驚いて前を見た。
「ぐへへへへへ…」
消防士達は締まりのない笑い声で、後ろを振り向いた。
「ぐへへへ…。あの世から参りました。あの世に参りますよー」
運転手が片手でよそ見運転し、アクセルを強く踏み込んだ。
救急車が左右に揺れた。
「あー、苛々する。退くのが遅いヤツには、ぶち当ててやれよ…」
助手席の男が言った。
「オッケー。赤信号、救急車なら怖くない」
乱暴な運転だった。
救急車が暴走した。
「もうすぐ病院やー。たまには救急搬送の車寄せじゃなくて、正面ロビーから突っ込んでみるかぁー」
男達が笑い合う。
「翁…。この子達は返して。私一人で充分でしょ…」
静先生が呟いた。
「紅葉、咲良。危ないよ。横転するかも。シートベルトして、その辺に掴まって!!」
コマチが怖い顔で言った。
救急車が病院の正面ロビーに突っ込んだ。
風除室にガラスが飛び散り、二枚続けてガラスの自動ドアを破った。
幸い、ロビーは無人だった。
フロントガラスがひび割れ、男達も失神した。
衝撃で、紅葉達はしばらく動けなかった。
誰も駆け付けてくれなかった。
紅葉達は救急車を降り、
「誰か…助けて下さい。救急なんです。静先生を手当てして下さい…」
静まり返ったロビーを歩いた。
死の病院。あの世に到着したのか。
まだ午後六時ぐらいなのに、何故か消灯している。
救急病院なのに、建物の中は真っ暗だ。
紅葉達は静先生を残して、救急搬送口の方へ歩いた。
おかしな音がしていた。
「何の音?」
「変な匂いがする…。ゴムが焦げたみたいな…」
「火事とちゃう!?」
紅葉が気付いた。
救急側の扉を開けると、スプリンクラーの水が降り注ぐ、オレンジの炎が見えた。
「うわっ!!」
紅葉達は炎の激しさに怯んだ。
黒い煙が一気に吹き出た。
炎が揺れて、鬼の形になった。
「どこまで逃げても同じじゃ。あの世へ静を連れてゆく。そなたらは諦めて、ここに静を置いてゆけ…」
炎の鬼が脅した。
「嫌だ。静先生が死ぬなんて…」
紅葉達は首を振った。
「ならば、そなたらの誰か一人、代わりに死ね。我が妻となり、死の国へ行くのは誰じゃ?」
炎の鬼が問う。
みんな黙った。
「ほら、見ろ。人間とはそんなもの。我が身より可愛いものなどない。何度でも裏切る。どれだけ世話になった相手だろうと、友達だろうと、好きな相手だろうと、必ず見捨ててゆく。他人の為に死ぬなど、決して有り得ぬ…」
鬼が嘆いた。
紅葉達は引き返し、静先生をストレッチャーごと降ろした。
ストレッチャーを降ろすまで、かなり手間取った。
火が迫り、煙が天井から低い位置へ下がってきた。
ストレッチャーの車輪が何かに引っかかり、動かなくなった。
黒い煙が変化して、鬼の姿が現れた。
「よせ、よせ、早く逃げろ。そんな女に関わってると、煙に巻かれて死んでしまうぞ」
まるで同情するように、優しく言う。
紅葉達は必死にストレッチャーを引っ張った。
身長の高い静先生がぐったりしているので、背負うことが出来ない。
コマチはそれでも静先生を背負おうとして、膝から床に落ちた。
「無理、無理。意識のない怪我人を担ぐには、大人で三人必要じゃ。ほーら、逃げ遅れてしまうぞ…」
煙の鬼が言う。
「紅葉ちゃん、これ…」
咲良が車椅子を持って来た。
紅葉達は三人がかりで、静先生を車椅子に移した。
一方、煙がロビーに充満し、救急車の飛び込んできた穴から風が入る他は、視界が真っ黒になった。
紅葉達は必死で、病院から静先生を連れ出した。
雨降る駐車場に、たくさん人がいた。
火事から逃げた人と、患者を運び出した看護師や医師がいた。
その方向から五人ほど、こっちへ歩いて来た。
一人は警備員の格好をしていた。
一人は看護師の白衣を着ていた。
他の人達はパジャマ姿だった。
「どこへ行く? 病院へ戻れ!」
警備員が紅葉達に怒鳴った。
患者と看護師が鬼の形相で迫り、紅葉の肩を押した。
「おまえら、許さん。大罪を犯しながら、何故のうのうと生きているのか。おまえらは火の中へ戻れ。地獄の火に焼かれろ!」
「私達が何をしたって言うんですか!?」
紅葉は食ってかかった。
「紅葉…、もうええって」
コマチが紅葉の袖を引っ張った。
彼女達は警備員の横を、車椅子を押して走った。
病院前のバス停まで逃げた。
通りがかりの人達が殺気立ってきた。
「よくも、生きて出て来たわね…」
知らない主婦が紅葉に言った。
お婆さんが杖を振り上げ、車椅子の静先生に、
「あんた一人の為に、何人も男の人が死んだんやで。何回殺したの? あんたは自分を愛してくれた男の人を、その都度、冷たい態度で死においやってきた。それが殺人でなくて何なの?」
と、叫んだ。
静先生は眠っていた。
「好きになってくれた人を、好きになれなかったら罪ですか? そんなに重い罪ですか?」
紅葉が言い返した。
「あの鬼、そんなに静先生を…好き…?」
咲良は驚いた。
「そうやね。きっと、殺したいほど好きなんやろね」
コマチが頷いた。
気が付けば、紅葉達は人だかりの中心にいた。
通りすがりの人達は、怒りの表情ばっかりだ。
彼女達に酷い罵声を浴びせ続ける。
咲良は近くのビルの屋上に、鬼の姿を見い出した。
今日見た中で、一番弱々しい鬼の姿だった。
痩せ細り、老いて萎びて、縮んでいる。薄汚れ、悪臭を放ち、誰からも見向きもされず、寒風に曝されている。
鬼はむせび泣いている。
「ただ好きになっただけ…。孤独だったから…。ちょっとだけ、優しくしてほしかっただけ…」
声にならない叫びが、咲良に伝わってきた。
バスが来た。
バスから、バットや鉄パイプや木刀を持った人々が降りてきた。
「おまえら、これで最後や。ドブネズミめ」
先頭の男が吐き捨て、鉄パイプを振り回した。
紅葉と咲良はうまくかわした。
コマチは手を叩かれて、蹲った。
寝ている静先生が無防備になった。
3
「やめてもらえますか?」
雨音が鉄パイプを振り回す男の肘を掴んだ。
雨音が間に合った。
彼の制服は、雨でずぶ濡れだった。
「ああ、何や!?」
鉄パイプの大柄な男が凄んで、上から雨音を見下ろした。
「雨音くん!」
紅葉が叫んだ。
「僕らには大事な人ですから。やめて下さい。お願いします」
雨音がぺこっと頭を下げた。
「はあー!?」
鉄パイプの男は腕を払い、睨み返した。
「そうなんです。大切な人なんです」
コマチが目に涙を浮かべ、車椅子の前に立った。
「静先生は悪い人じゃありません。何も知らないのに、言わないで下さい」
紅葉が言った。
「今日も、その女は罪もない男子生徒を刺し殺したんやでぇー!!」
お婆さんが喚いた。
「たぶん、何かの間違いですよ」
雨音が穏やかに言い返した。
「紅葉ちゃん、行くよ」
雨音が紅葉の背中に手を掛けた。
紅葉は急いで、車椅子を押した。
バスから降りてきた人達は、その場で固まっていた。
紅葉達は人だかりから逃れた。
駅前の繁華街まで来て、雨音が静先生に呼びかけた。
「静先生、起きて下さい。座ったままでいいから、手を貸して下さい」
静先生はうっすら眸を開けた。
「渡邊…くん…」
「そうです。一角の翁が来てますよね。可哀相な鬼です。孤独な老人が美しい女に、報われない恋をした。殺すことによって、その女への思いと結ばれようとしてる。あの鬼は最後には、静先生を喰うんです。多くの美女を喰った鬼です。あいつを殺るしかないです」
雨音はビルの屋上の、痩せて枯れ枝みたいな鬼を仰ぎ見た。
「殺すんだ…。あの鬼を」
咲良は雨音の厳しい表情を見て、口を噤んだ。
「僕も丸腰なもんで、正直、静先生を守り切れるか、自信ないです」
「君は…他人の為に死ねる…のですか? 渡邊くん…」
静先生が夢うつつで言った。
雨音は何も言わず、額の絆創膏を剥がした。
鬼眼が金色に変わり、白目と瞳孔が巴型になった。
彼は全身から、不気味に青い光を発した。
特に双眸と鼻と口から青い光がぼうっと漏れ出た。
ビルの屋上の鬼は、雨音に気付いた。
「源次…。おお、こんなことが起きるとは。源次…、本当におぬしなのか…? 我を千年封じた…晴明と…頼光と…源次ぃ…」
鬼は眸の奥で、黒い炎を燃やした。
「雨音くん。山上さんと旭さんは?」
コマチが聞いた。
「山上さん達は八尾の狐に追われてる。貴船にいるよ」
雨音は答えた後、急に跳んで、繁華街のビルの外壁を駆け上った。
「てことは、おにぃも!?」
紅葉は兄の蘇芳を思った。
「八尾の狐に…旭さんが…!」
コマチは旭を心配して、胸が張り裂けそうに思った。
雨音がビルの屋上に着いた時、そこに鬼の姿はなかった。
鬼は向かいのビルの屋根に移動していた。
一角の翁と雨音の視線が合った。
「源次ぃ…」
一角の翁が皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにして、泣きたいのか、怒っているのか、複雑な表情をした。
雨音は道路の向かいまで飛び移れないので、商店街のアーケードの上に跳んだ。
一角の翁は雲に乗っているように、すーっと滑らかに動いた。
雨音は足音を響かせ、アーケードの屋根を走った。
見上げる通行人の視線は憎々しげで、周囲は鬼に毒されていた。
紅葉達は見ているしかなかった。
車椅子の中、急にガクンと静先生の首が前へ傾いた。
「静先生!?」
静先生が死んだみたいに冷たくなった。




