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漆陸 恋する鬼


 紅葉は静先生の薙刀(なぎなた)を拾った。

「私はあんたなんか知らない…」

「そうかね? 我はそなたをよく知っておる…」

 鬼は静先生の口を借り、紅葉を挑発した。


 血の涙を流し、静先生の顔が醜い鬼の表情で歪む。

「なぁ、これは昔々の話よ。我等は鬼ヶ城に(つど)った。源頼光と渡辺源次に復讐せんが為。千を超える鬼がおった。そなたも、あの場におったよな…」

「知らないって」

 紅葉は薙刀の先を鬼に向けた。


「そんな爪楊枝みたいな薙刀で、我を殺せると思うか?」

 鬼は静先生の両腕を広げ、わざと斬られようとした。

 咲良が紅葉を止めた。

「紅葉ちゃん! その人は静先生だよ!」

 紅葉は静先生を斬りかかり、直前で止まった。


 静先生の眸の奥に、闇の淵が映る。

 鬼は静先生の折れた足を引き摺って、紅葉の前で胸を張った。

「うひひ、殺せ。畜生、殺せよ。ふひひ、…この女をぅ…」

 鬼はヨダレを垂らした。


「う…」

 紅葉の隙を突き、鬼の蛇の尾が薙刀の刃に巻き付いた。

 鬼は易々と、薙刀の刃を砕いた。

「どうしよう。ヤバい…」

 コマチが爪の先を噛んだ。


「ああ、そろそろ殺してくれよう。この女ども…」

 静先生が呻き、ばったり倒れた。

 鬼は再び大蛇となって、キッチンごと締め付けた。

 キッチンがギシギシ軋み始めた。



 静先生が頭を振り、眸を開いた。

 元の綺麗な眸に戻っていた。

「ふぅ…」

 静先生は息を吐き、苦痛に顔を歪めた。

「紅葉ちゃん…。この鬼は変幻自在。妖術を使う鬼。全てはマヤカシ…」

 静先生は折れた足を触ろうとして、痺れて倒れた。


「どうすればいいんですか!?」

「こいつは人間の恐怖心や弱味につけ入って来る…。視覚に頼ってはダメ…」

 静先生は声を振り絞った。

 体中の傷から血が流れた。


 天井がガタガタと崩れ始めた。

 木屑と埃が落ち、窓ガラスが割れて降ってきた。

 女の子達は部屋の真ん中で手を取り合って、ぶるぶる震えていた。

「この鬼は恐怖を現実に変える鬼…。だから、最悪の想像は最悪の結果をもたらす。悪い想像しちゃダメですよ」

 静先生が女の子達に注意した。


 みんな、恐怖心と戦った。

 何も考えないよう、頭を真っ白にした。

 けれど、紅葉はアパートがぺしゃんこに潰れて下敷きになったり、蛇に絞め殺されたりする想像を止められなかった。


「紅葉ちゃん。気が強いと思ってたけど、あなたが一番怖がりだったのね。人間は弱いものです。あなたは普通です。でも、もっと安全な方法があります」

 静先生が言い聞かせた。

「あなたは剣道やってたでしょ。逃げ回るより、攻めた方が安全だったでしょ? 頭を下げて避けるより、しっかり竹刀をぶつけた方が、敵の攻撃をかわせたはずですよ」

 静先生の言葉に説得され、紅葉は少しずつ落ち着いた。



 鬼は部屋を締め付けてない。

 ただ天井をギシギシ揺すって、紅葉達を怖がらせて遊んでいるのだ。

 鬼が天井の隙間から、キッチンを覗いている。


「この鬼は…妖術を使うので、晴明なみの(しゅ)を使いこなして、戦わなくちゃならないんです…」

 静先生が説明の途中で息切れした。

「山上さんか、武蔵がいれば…何とかやり過ごせる。呼んで来て下さい…」

「今、山上さんとは連絡が着かないんです」

 紅葉達は絶望を感じた。



 その時、天井が砕けて、鬼の赤い脚が降りてきた。

 神社の鳥居かと思うほど太い脚に、すね毛がモジャモジャ生えている。

 床を踏みしめ、部屋に生々しい地響きがした。

「これはマヤカシです」

 静先生が断言した。


 しかし、屋根が吹き飛ばされ、雨風が吹き込んだ。

 大鬼がもう一度片足をキッチンに降ろして、シンクや冷蔵庫を滅茶苦茶に踏み潰した。

 鬼の足が床にめり込んだ。


 見上げると、鬼の頭は雲まで届きそうだ。唇から鬼歯がはみ出ていた。

「わぁ、歌川国芳が描いた鬼みたいだ…」

 咲良は思わず声を上げた。

 鬼はなまはげのような長い髪を風に靡かせ、金色の眸で咲良達を睨んでいた。


「今は何も考えちゃいけない。お経は知ってますか? ひたすら念じなさい」

 静先生が言ったが、お寺の子の咲良だけが、ムニャムニャとお経を唱えた。


 大鬼の肩の上で雷が閃いた。

 大鬼は紅葉達を見下ろし、

「ぐふぁーふぅっ、はぁっはぁー…」

 奇妙な嗤いを響かせた。


 大鬼は赤い胸を反らせ、

「ぐふぁーふぅっ、はぁっはぁー…」

 と、片足を振り上げた。


「踏み潰される!」

 紅葉は頭を抱え、蹲った。

「紅葉! 悪い想像したらダメ!」

 静先生が紅葉を呼び捨てた。

「いやぁー…」

 赤鬼が片足を上げ、紅葉目指して踏み付けてきた。

 紅葉は頭の真上で停止した、鬼の足の裏を見た。


 咲良が軽々と、鬼の足の裏を受け止めていた。

「本当だー。想像した通り、受け止めれた…」

 咲良が超ポジティブな笑顔で呟いた。

「よくやりましたね、咲良。君は100点ですよ」

 静先生が褒めた。


「えいっ」

 咲良は鬼の脚を押し返した。

 大鬼は困った顔をした。


「恐怖を克服したら、マヤカシは通用しないってことですね…」

 コマチが鬼のすねを、人差し指で鋭く突いた。

 青い血がびゅっと出て、鬼はすねを抱えて跳んだ。

「ここは鬼の泣き所じゃあ…」

 大鬼の姿が消滅した。



 狭くて暗い、元のキッチンに戻った。

「また来ますよ。一角の翁は執念深い鬼です」

 静先生は辺りを警戒した。





 鬼の気配は途絶えた。

 十分経過、二十分経過。

 紅葉達は胸を撫で下ろした。

 コマチは救急車を呼んだ。


「病院に行ったら、たくさんの人間が巻き込まれます」

 静先生は嫌がったが、無理やり担架に乗せられた。

「何があったんですか? 何か爆発でも!?」

 消防署の人達は驚いて、傷だらけの先生と壊れたキッチンを見た。


 紅葉達も救急車に乗り込んだ。

 静先生は固定されたストレッチャーの上で、毛布を被っていた。

 血圧も低く、体温も異常に下がっていた。

「もう大丈夫ですよ。生徒さんも一緒ですよ。安心して下さい」

 消防署の若い男が声をかけた。


 道は混んでいたが、救急車はスムーズに走った。

「もうすぐあの世に到着しますよ…」

 運転手が言った。

「え!?」

 紅葉達は驚いて前を見た。


「ぐへへへへへ…」

 消防士達は締まりのない笑い声で、後ろを振り向いた。

「ぐへへへ…。あの世から参りました。あの世に参りますよー」

 運転手が片手でよそ見運転し、アクセルを強く踏み込んだ。

 救急車が左右に揺れた。

「あー、苛々する。退くのが遅いヤツには、ぶち当ててやれよ…」

 助手席の男が言った。

「オッケー。赤信号、救急車なら怖くない」

 乱暴な運転だった。


 救急車が暴走した。

「もうすぐ病院やー。たまには救急搬送の車寄せじゃなくて、正面ロビーから突っ込んでみるかぁー」

 男達が笑い合う。


「翁…。この子達は返して。私一人で充分でしょ…」

 静先生が呟いた。

「紅葉、咲良。危ないよ。横転するかも。シートベルトして、その辺に掴まって!!」

 コマチが怖い顔で言った。



 救急車が病院の正面ロビーに突っ込んだ。

 風除室にガラスが飛び散り、二枚続けてガラスの自動ドアを破った。

 幸い、ロビーは無人だった。

 フロントガラスがひび割れ、男達も失神した。


 衝撃で、紅葉達はしばらく動けなかった。

 誰も駆け付けてくれなかった。

 紅葉達は救急車を降り、

「誰か…助けて下さい。救急なんです。静先生を手当てして下さい…」

 静まり返ったロビーを歩いた。


 死の病院。あの世に到着したのか。

 まだ午後六時ぐらいなのに、何故か消灯している。

 救急病院なのに、建物の中は真っ暗だ。


 紅葉達は静先生を残して、救急搬送口の方へ歩いた。

 おかしな音がしていた。

「何の音?」

「変な匂いがする…。ゴムが焦げたみたいな…」

「火事とちゃう!?」

 紅葉が気付いた。


 救急側の扉を開けると、スプリンクラーの水が降り注ぐ、オレンジの炎が見えた。

「うわっ!!」

 紅葉達は炎の激しさに(ひる)んだ。

 黒い煙が一気に吹き出た。


 炎が揺れて、鬼の形になった。

「どこまで逃げても同じじゃ。あの世へ静を連れてゆく。そなたらは諦めて、ここに静を置いてゆけ…」

 炎の鬼が脅した。

「嫌だ。静先生が死ぬなんて…」

 紅葉達は首を振った。


「ならば、そなたらの誰か一人、代わりに死ね。我が妻となり、死の国へ行くのは誰じゃ?」

 炎の鬼が問う。

 みんな黙った。

「ほら、見ろ。人間とはそんなもの。我が身より可愛いものなどない。何度でも裏切る。どれだけ世話になった相手だろうと、友達だろうと、好きな相手だろうと、必ず見捨ててゆく。他人の為に死ぬなど、決して有り得ぬ…」

 鬼が嘆いた。



 紅葉達は引き返し、静先生をストレッチャーごと降ろした。

 ストレッチャーを降ろすまで、かなり手間取った。

 火が迫り、煙が天井から低い位置へ下がってきた。

 ストレッチャーの車輪が何かに引っかかり、動かなくなった。


 黒い煙が変化して、鬼の姿が現れた。

「よせ、よせ、早く逃げろ。そんな女に関わってると、煙に巻かれて死んでしまうぞ」

 まるで同情するように、優しく言う。


 紅葉達は必死にストレッチャーを引っ張った。

 身長の高い静先生がぐったりしているので、背負うことが出来ない。

 コマチはそれでも静先生を背負おうとして、膝から床に落ちた。


「無理、無理。意識のない怪我人を担ぐには、大人で三人必要じゃ。ほーら、逃げ遅れてしまうぞ…」

 煙の鬼が言う。


「紅葉ちゃん、これ…」

 咲良が車椅子を持って来た。

 紅葉達は三人がかりで、静先生を車椅子に移した。

 一方、煙がロビーに充満し、救急車の飛び込んできた穴から風が入る他は、視界が真っ黒になった。

 紅葉達は必死で、病院から静先生を連れ出した。



 雨降る駐車場に、たくさん人がいた。

 火事から逃げた人と、患者を運び出した看護師や医師がいた。

 その方向から五人ほど、こっちへ歩いて来た。

 一人は警備員の格好をしていた。

 一人は看護師の白衣を着ていた。

 他の人達はパジャマ姿だった。


「どこへ行く? 病院へ戻れ!」

 警備員が紅葉達に怒鳴った。

 患者と看護師が鬼の形相で迫り、紅葉の肩を押した。

「おまえら、許さん。大罪を犯しながら、何故のうのうと生きているのか。おまえらは火の中へ戻れ。地獄の火に焼かれろ!」

「私達が何をしたって言うんですか!?」

 紅葉は食ってかかった。


「紅葉…、もうええって」

 コマチが紅葉の袖を引っ張った。

 彼女達は警備員の横を、車椅子を押して走った。

 病院前のバス停まで逃げた。


 通りがかりの人達が殺気立ってきた。

「よくも、生きて出て来たわね…」

 知らない主婦が紅葉に言った。

 お婆さんが杖を振り上げ、車椅子の静先生に、

「あんた一人の為に、何人も男の人が死んだんやで。何回殺したの? あんたは自分を愛してくれた男の人を、その都度、冷たい態度で死においやってきた。それが殺人でなくて何なの?」

 と、叫んだ。


 静先生は眠っていた。

「好きになってくれた人を、好きになれなかったら罪ですか? そんなに重い罪ですか?」

 紅葉が言い返した。


「あの鬼、そんなに静先生を…好き…?」

 咲良は驚いた。

「そうやね。きっと、殺したいほど好きなんやろね」

 コマチが頷いた。


 気が付けば、紅葉達は人だかりの中心にいた。

 通りすがりの人達は、怒りの表情ばっかりだ。

 彼女達に酷い罵声を浴びせ続ける。



 咲良は近くのビルの屋上に、鬼の姿を見い出した。

 今日見た中で、一番弱々しい鬼の姿だった。

 痩せ細り、老いて萎びて、縮んでいる。薄汚れ、悪臭を放ち、誰からも見向きもされず、寒風に曝されている。

 鬼はむせび泣いている。

「ただ好きになっただけ…。孤独だったから…。ちょっとだけ、優しくしてほしかっただけ…」

 声にならない叫びが、咲良に伝わってきた。



 バスが来た。

 バスから、バットや鉄パイプや木刀を持った人々が降りてきた。

「おまえら、これで最後や。ドブネズミめ」

 先頭の男が吐き捨て、鉄パイプを振り回した。


 紅葉と咲良はうまくかわした。

 コマチは手を叩かれて、蹲った。

 寝ている静先生が無防備になった。





「やめてもらえますか?」

 雨音が鉄パイプを振り回す男の肘を掴んだ。

 雨音が間に合った。

 彼の制服は、雨でずぶ濡れだった。


「ああ、何や!?」

 鉄パイプの大柄な男が凄んで、上から雨音を見下ろした。

「雨音くん!」

 紅葉が叫んだ。


「僕らには大事な人ですから。やめて下さい。お願いします」

 雨音がぺこっと頭を下げた。

「はあー!?」

 鉄パイプの男は腕を払い、睨み返した。


「そうなんです。大切な人なんです」

 コマチが目に涙を浮かべ、車椅子の前に立った。

「静先生は悪い人じゃありません。何も知らないのに、言わないで下さい」

 紅葉が言った。


「今日も、その女は罪もない男子生徒を刺し殺したんやでぇー!!」

 お婆さんが喚いた。

「たぶん、何かの間違いですよ」

 雨音が穏やかに言い返した。


「紅葉ちゃん、行くよ」

 雨音が紅葉の背中に手を掛けた。

 紅葉は急いで、車椅子を押した。

 バスから降りてきた人達は、その場で固まっていた。

 紅葉達は人だかりから逃れた。



 駅前の繁華街まで来て、雨音が静先生に呼びかけた。

「静先生、起きて下さい。座ったままでいいから、手を貸して下さい」

 静先生はうっすら眸を開けた。

「渡邊…くん…」

「そうです。一角の翁が来てますよね。可哀相な鬼です。孤独な老人が美しい女に、報われない恋をした。殺すことによって、その女への思いと結ばれようとしてる。あの鬼は最後には、静先生を喰うんです。多くの美女を喰った鬼です。あいつを殺るしかないです」

 雨音はビルの屋上の、痩せて枯れ枝みたいな鬼を仰ぎ見た。


「殺すんだ…。あの鬼を」

 咲良は雨音の厳しい表情を見て、口を噤んだ。


「僕も丸腰なもんで、正直、静先生を守り切れるか、自信ないです」

「君は…他人の為に死ねる…のですか? 渡邊くん…」

 静先生が夢うつつで言った。

 雨音は何も言わず、額の絆創膏を剥がした。

 鬼眼が金色に変わり、白目と瞳孔が巴型になった。

 彼は全身から、不気味に青い光を発した。

 特に双眸と鼻と口から青い光がぼうっと漏れ出た。



 ビルの屋上の鬼は、雨音に気付いた。

「源次…。おお、こんなことが起きるとは。源次…、本当におぬしなのか…? 我を千年封じた…晴明と…頼光と…源次ぃ…」

 鬼は眸の奥で、黒い炎を燃やした。



「雨音くん。山上さんと旭さんは?」

 コマチが聞いた。

「山上さん達は八尾の狐に追われてる。貴船にいるよ」

 雨音は答えた後、急に跳んで、繁華街のビルの外壁を駆け上った。


「てことは、おにぃも!?」

 紅葉は兄の蘇芳を思った。

「八尾の狐に…旭さんが…!」

 コマチは旭を心配して、胸が張り裂けそうに思った。



 雨音がビルの屋上に着いた時、そこに鬼の姿はなかった。

 鬼は向かいのビルの屋根に移動していた。

 一角の翁と雨音の視線が合った。

「源次ぃ…」

 一角の翁が皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにして、泣きたいのか、怒っているのか、複雑な表情をした。


 雨音は道路の向かいまで飛び移れないので、商店街のアーケードの上に跳んだ。

 一角の翁は雲に乗っているように、すーっと滑らかに動いた。

 雨音は足音を響かせ、アーケードの屋根を走った。

 見上げる通行人の視線は憎々しげで、周囲は鬼に毒されていた。


 紅葉達は見ているしかなかった。

 車椅子の中、急にガクンと静先生の首が前へ傾いた。

「静先生!?」

 静先生が死んだみたいに冷たくなった。





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