漆伍 鬼の双璧・狐と翁
1
識神・武曲が現れた。
中国映画の三国志に出て来そうな武人の格好をしている。
「識神に何が出来る?」
八尾の狐が嘲った。
今や、満員の車両内にいた乗客の殆どが頭痛で倒れた。
吐いている人もいる。気を失った人もいる。
子供は泣く力もなく、ぐったりしている。
人が折り重なり、僅か三十秒で地獄と化した。
「旭、もうすぐ次の駅に着く。ドアが開く…」
武曲が旭を呼ぶ。
旭の意識がない。
「他の人間も救ってやりたいが、私一人では難しい。鬼を引き付けることなら出来る」
武曲が旭に話しかけ、彼の口の中に溶け込んだ。
電車が次の駅に入り、ドアが開く。
この駅でも、車両トラブルによる遅延で混雑していた。
ドアが開いた途端、列の先頭にいた人々は驚愕して車内を見た。
「テロか!? みんな倒れてる!!」
戸惑う先頭の人、後ろから何も知らずに押す人、叫ぶ駅員。
混乱の中を、武曲が支配した旭が飛び出した。
彼は飛ぶように階段を駆け、混雑の波を泳ぐように掻き分けた。
「仲間に知らせます。巨門、破軍、禄存、文曲、貪狼、簾貞に…」
武曲は言った。
「待て。鬼ごっこのルールを説明する。私がおまえを捕まえたら、おまえを喰ってもいい…」
八尾の狐が旭の脳内に話しかけ、追いかけて階段を走った。
彼女の小さな体は人の波に押され、旭と少し距離が開いた。
救急車が次々と駅に到着した。
武曲は八尾の狐と戦わず、まず旭の体を避難させた。
旭は会社に戻ったところで、意識を取り戻した。
「旭。八尾の狐は特殊な感覚で、おまえを追っている。逃げられないと思う。おまえの祖父の軍刀で、八尾の狐を倒すことは不可能だ」
武曲は旭の車のトランクに入っている刀のことを話した。
「武曲。どんな刀でも、あんな鬼に勝てないって」
「源頼光の蜘蛛切の太刀か、鬼切の太刀なら斬れる」
武曲が助言した。
「ああ、そうか。蘇芳くんと雨音の刀か。R高はもう放課後かな…」
旭は会社に早退届を出し、自分の車に乗った。
雨がしとしと降り、フロントガラスのワイパーが飛沫を上げた。
2
雨音は教室の自分の席で爆睡していた。
先輩の蘇芳に顔を叩かれても起きない。
「雨音、起きろ!! おまえ、何やってんねん!! 静先生が警察に連れてかれたやろ!!」
蘇芳が怒り、雨音の椅子を蹴った。
「静先生が…どうしたんですか?」
雨音がやっと目を覚まし、寝惚け眼を擦った。
「雨音、大変や。静先生が鬼坂を刺して、警察に連れてかれた。鬼坂、死んでしもた!!」
雲林院が説明し、雨音は唖然とした。
「雨音。おまえ、肝腎な時になんで爆睡してんねん。あの静先生が生徒を刺すわけないやろ!」
蘇芳は怒鳴りながら、雨音の顔や唇の傷を見た。
「何かあったんやろけど…」
蘇芳はトーンダウンした。
雨音は急いで、現場の渡り廊下へ向かった。
野次馬が警察に押し返され、辿り着けない。
黄色いテープが張られ、立ち入り禁止になった廊下に、血溜まりの跡があった。
「鬼坂は静先生にフラれて逆上して、刺そうとしたらしい。凶器のナイフは鬼坂の。静先生はパニくって、意味わからんことをブツブツ言ってたって」
雲林院が目撃した生徒に聞いた話をした。
「静先生、いつか刺されそうなタイプだったけど。刺す方じゃないと思う」
雨音は首を捻った。
「そうやなー。刺される方は有り得るー」
雲林院も同じことを思った。
「雨音。静先生はヤバいことになるぞ。きっと、マスコミが騒ぎ立てる」
蘇芳は頭を抱えた。
3
旭はスマホのマイクで山上と通話しながら、車を運転していた。
「来やがったんですよ、八尾の狐が!!」
「小童女が?」
「山上さん、そんな可愛い名前であの魔女を呼ばないで下さい!」
旭はハンドルを大きく回した。
ドアミラーに後方の、長い髪を束ねた少女が映った。
「旭、ちょっと待ってくれ! すぐ用意するし。晴明さんから預かった…陰陽道の術具を持って来る…」
電話の向こう側で、山上がドタバタ走る音がした。
「ええか、旭。待ち合わせ場所はな…」
「いいですけど! そこまで私の命が持つなら、ですけど!」
旭は怒鳴り返し、通話を切った。
車の天井がピキピキ音を立て、中央が車内に向かって凹んで来た。
やがて、凹みが金属の人型となり、少女の顔のレリーフに変形した。
車の屋根に乗った八尾の狐が、車内に顏だけめり込ませて、眸を開いた。
「ふふふ…。見ぃ付けたぁ…」
鬼ごっこに夢中の子供のように、八尾の狐は満足げだった。
「八尾の…」
旭はハンドルを握ったまま、ルームミラーに映る悪魔と視線を交えた。
「いい車だな、クソガキ…。ふふ、これで人混みに突っ込んでみようか…」
八尾の狐が車内を眺め、ニタリと嗤った。
「俺よりガキな外見しやがって…何を言う」
旭は左手でゴソゴソ、何かを探した。
「私は二千年生きてる。おまえの方がよっぽどガキだよ。…さぁ、おまえは我が毒に痺れろ。もう一度のたうってみようか。吐く用意はいいか?」
八尾の狐が瘴気を吐き出す為に、大きく深呼吸した。
「これでも吸ってな!!」
旭が振り返り、左手でスプレーした。
平凡なアロマスプレーだったが、八尾の狐は激しく咳き込んだ。
「ゴボゴボッ!!」
「プルメリアの香りだってよー。てめー、こんなトロピカルな空気吸ったことねーだろがー!!」
旭が数回スプレーした。
八尾の狐の顔が消え、天井は元に戻った。
「やった。狐の鼻を壊してやった」
旭はドリフトターンのように急ブレーキで曲がり、R高の正門前に到着した。
雨音と蘇芳と雲林院が傘を差し、並んで校門から出て来た。、
旭が白いワゴンのウィンドーから身を乗り出し、
「すげータイミング。蘇芳くんもいるんだ!? よかった、すぐ乗ってくれ!」
と、早口に叫んだ。
蘇芳は即座に判断して、スライドドアを開けた。
「えっ、どうしたんですか。旭さん、雨だから送ってくれるんですか?」
雲林院が嬉しそうに乗り込んだ。
「八尾の狐に追われてる。すぐ近くにいる」
「ゲー! マジっすかー!?」
「雲林院。そこ、狐の唾と鼻水が飛んだから。雨音、鬼切は持ってるな?」
旭の鋭い眼が、雨音の刀ケースを確認した。
「はい。あります」
雨音が助手席に座り、返事した。
「俺は今、手ぶらですけど。蜘蛛切なら家にあります」
蘇芳が言った。
「取りに行く暇はないね」
旭は残念そうに言った。
走り出してすぐ、車のバンパーに衝撃が来た。
何かがぶつかり、フロントガラスの上に飛び乗ってきた。
血だらけの美少女が凄い形相で、ワイパーを掴む。
「出たぁ!!」
雲林院と蘇芳が叫んだ。
「プルメリアのアロマがお気に召さないんだと。車内には入って来ない」
旭がみんなに落ち着くように言った。
車はボンネットに八尾の狐を乗せたまま走った。
「ふふ、クソガキども。すぐにパトカーが来るぞ…。事故は目撃された。この車のナンバーも見られた。…捕まるのが嫌なら、今すぐ車を捨てて…出て来い…」
八尾の狐が四人の脳内に直接話しかけた。
「くそー。俺を轢き逃げ犯にするつもりかよー!」
旭はけたたましくクラクションを鳴らした。
八尾の狐はわざとらしく、顔から流れる鮮血を、フロントガラスに擦り付けた。
長い舌を出し、ニヤニヤ嗤っているのが気持ち悪かった。
知らない通行人や対向車の運転手が、こっちを見て騒ぎ出した。
「冗談じゃないぞ。狐が自分から車にぶつかって来たんだ。当たり屋狐が」
旭は焦った。
八尾の狐は美しい顏から目の玉が零れそうなほど目を剥いて、ガンガンとフロントガラスを叩いた。
怪力でヒビが入り、ガラスに蜘蛛の巣状クラックが走った。
視界が半分なくなった。
雨音は助手席の窓から手を出し、八尾の狐に小瓶を投げた。
「何を投げた?」
「刀油です。模擬刀の手入れに使うやつ…」
雨音は刀ケースのファスナーを静かに閉めた。
「ふぁああ、ああっ…!?」
刀油で八尾の狐の手が滑り、車から転げ落ちていった。
しかし、その時には後方からパトカーが来た。
サイレンを鳴らし、赤色灯を回転させる。
「うわぁー。もうヤケクソだ。とにかく行くぞ…。おまえら、地獄まで…道連れだっ!!」
旭がアクセルを踏み込んだ。
4
静先生はすぐアパートに帰された。
しかし、逮捕状が出る可能性もあった。
アパートの部屋には誰もいない。
静先生は小雨が降り込むアパートの外階段を、のろのろと昇っていく。
「鬼坂くん、ごめんなさい。大事な君を死なせてしまった。私は…どうして…あんなことに。こんなはずじゃなかった…」
彼女はずっと泣いていた。
玄関の鍵を開けると、冷えた部屋が待っていた。
壊れた壁の穴から、風が吹き込んでいた。
そして、天井から一本、ロープが垂れていた。
「…鬼。これで私に死ねと言うの…?」
静先生はロープをまじまじと見詰めた。
「私が死んでも、許してくれないよね。鬼坂くん…」
彼女はしゃくりあげながら、ロープの端を掴んだ。
5
旭は車を走らせ続け、山手に進んだ。
細かな雨が視界をグレーにけぶらせた。
気温はどんどん下がり、雨音達は制服だけでは寒いぐらいだった。
日暮れまで時間があるはずなのに、空はもう暗かった。
雨音は見覚えのある道を見た。
前に来たのは、青々とした楓と樹皮に苔生す緑のトンネルの、爽やかな季節だった。
楓は丸裸になり、道は暗く黒く、全く別の景色に見える。
「旭さん、もしかしてここ、貴船ですか?」
「そっ」
旭は貴布禰神社の参道の暗闇に目を凝らし、八尾の狐を警戒していた。
「旭さん、すみません。僕は行きます」
雨音が鬼切を蘇芳に預け、識神・破軍の札を旭に渡した。
「おまえ…」
旭は言葉を詰まらせた。
「僕、武蔵さんに頼まれてるんで。静先生のこと…」
雨音は停まった車から降りた。
「その顔、静先生に殴られたんやろ?」
蘇芳が聞いた。
「はい」
「…わかった。雨音、行って来い。鬼切、借りとくぞ」
蘇芳が微笑んだ。
「雨音。何も持たないで、ええんか?」
雲林院が心配した。
「雲林院は山上さんを手伝って」
雨音は道を引き返す。
「雨音、山上さんから電話」
旭が車の窓から、自分のスマホを雨音に渡した。
「もしもし?」
「雨音…」
山上の太い声がした。
「戦国時代、武士は主君から少しの兵を任され、城一つ防衛した。時には援軍が間に合わず、全員討ち死にした…。俺はおまえに何も付けてやれない。小隊一つさえ…」
「はい…」
雨音はこくんと頷き、スマホを旭に返した。
「雨音…」
旭がドアミラーに映る黒い道を見た。
雨音の姿は見えなくなっていた。
6
紅葉と咲良とコマチは、鴨川の河原を歩いてた。
「昔、鴨川の河原って、刑場やったんやなぁー。今は学生が多いけど」
「桜の季節はいいよねー。遊歩道の花びらが川面に散って、鴨川の片側がピンクになる…」
コマチはうっとり言った。
日暮れ。
四条の灯りが、街のシルエットを浮かび上がらせている。
ゆるり曲がる鴨川と、四条大橋と三条大橋。その向こうに、山が連なる盆地の景色。
山の頂が、雨で白くぼやけている。
「あれは五山の送り火の山かな。そのずーっと奥が貴船と鞍馬かぁ…」
紅葉が呟いた。
突然、山上から紅葉のスマホに電話がかかって来た。
「山上さん、どーしはったんですか?」
「紅葉ちゃん。ちょっと悪いけど、識神全部、召集かけるから。しばらく巨門も文曲も貪狼もこっち来てもらうから、君らノーガードになるけど。今夜は無茶しないようにね」
山上が言った。
「わかりました」
「くどいこと言うけど、ほんまにほんまに絶対どこも行かんと、まっすぐ帰って安全にしててや」
山上はしつこく念を押した。
「あ、何かやってますね? もしかして、安倍晴明の秘術ですか? ひどいなー。またうちらは除け者ですか?」
紅葉は頬を膨らませた。
「いや、何て言うかな。ほら、ちょっとリハーサル的な…」
山上は歯切れが悪くなった。
「雨音くんも一緒ですか?」
「いや、雨音は来てない。ほんまに来てない」
山上は二度繰り返した。
「蘇芳くんは来てるけどね。心配しんといて。すぐ終わるし」
「おにぃが?」
紅葉は咲良を振り返り、小声で囁いた。
「ねぇ。男の事情とか、男の友情とかって、マジで理解できひん。ムカつくと思わん?」
「ほな、また道場で」
山上は急いで電話を切った。
「何だろねー?」
咲良は不思議そうだった。
「ね、静先生のアパートって、鴨川の近くやったね。遊びに行ってみよっか?」
コマチが言い出した。
「静先生、いはるかな? 武蔵さんもいはるかなー?」
紅葉は静先生に何となく会いたくなった。
山上にあれだけ止められたのに、三人は傘を弾ませ、静先生のアパートへ立ち寄った。
入り組んだ路地の、日当たり悪そうな一画。
いかにも、鬼の武蔵が棲んでいそうな場所。
紅葉が先頭に立ち、アパートのドアホンを押した。
「静先生ー」
三人の女子中学生の声が揃って、静先生を呼んだ。
「静先生ー」
彼女達はドアをノックした。
「紅葉ちゃん、何か聞こえるよ…。変な音がしてる…」
咲良は青くなって、一歩下がった。
「そう? 私は聞こえへんけど。あ…、もしかして…」
紅葉は異変を察した。
彼女はドンドンとドアを強く叩いた。
「静先生ー! 大丈夫ですかぁー!?」
紅葉の背後で、コマチが咳き込んだ。
「紅葉、何か臭い。めっちゃ悪臭してるけど、何これー。何か腐ってるの!?」
コマチが鼻を摘んだ。
玄関ドアの鍵穴から、刺激のある悪臭が漏れて来た。
「生臭いような…腐ってるような…」
紅葉と咲良も鼻を押さえた。
紅葉達は安アパートの薄い玄関ドアに耳をくっ付けた。
人の気配はするけれど、よくわからない。
「咲良ちゃん、神泉は!? 私、雷帝置いてきたんやけど」
「私も神泉、寺に置いてきたよ…」
咲良の額に汗が滲んだ。
識神も使えないし、今日は完全な丸腰だ。
コマチは思い切って、玄関ドアのレバーを回してみた。
音もなく、軽くドアが開いた。
「開いてる…。静先生、鍵を閉め忘れたのかな…」
不気味に壊れた室内が、三人を招き入れるように口を開けた。
途端に悪臭がひどくなり、三人は吐き気を催した。
「オエッ」
腐乱死体でもありそうな匂いだ。
紅葉は嫌な予感がした。
「静先生…、入りますよ!」
彼女達は急いで靴を脱いだ。
玄関のすぐ横に洗面所と浴室。
表側に窓を持つ部屋が一つ。
玄関の正面のドアを開けたら、狭いダイニングキッチンと和室という間取り。
「静先生ー!!」
ダイニングキッチンの入り口のドアが開かない。
大きなカブを引き抜くおじいさんとおばあさんの昔話のように、紅葉達は一列になって、ドアノブを引っ張った。
板チョコ形のドアで、正方形のガラスが二列に並んでいる。
そのガラスから、暗いキッチンが見える。
暗がりで一瞬、何かが白く光った。
静先生が手に薙刀を構え、一角の鬼と対峙していた。
老仙人のような白髪・白髭の鬼だ。
額の角は刀ぐらいの長さがある。
鬼の腰から下は蛇だ。
鬼の蛇身がうねり、キッチンをとぐろの内側に絡めている。
キッチンを丸ごと、ギシギシ締め付けている。
ガスコンロの換気扇が壊れ、ばらばらと欠片が散った。
「あっ。あの鬼の顔…」
紅葉は思い出した。以前見た、百鬼夜行の夢に出て来た鬼だ。
汚れた布を巻いた、老仙人のような鬼。
「君達、帰って!! 私はこんな鬼一匹に喰われたりしない。お子ちゃまは早く帰って、オネンネするのよ!!」
静先生が紅葉達に怒鳴った。
「こんな時に、山上さんは何やってんの!? 雨音くんはどこにいるの!? 武蔵さんは!?」
紅葉は混乱した。
山上と旭達が八尾の狐に追い込まれていることは、とても想像出来ない。
「私達は何も武器を持ってない。誰も助けに来てくれない」
それだけを確信した。
「紅葉ちゃん。あれ、十二の大鬼の一匹だと思う。それも、最強クラス。山上さんに連絡しなきゃ…」
咲良は慌てて電話をかけた。
何回コール音が続いても、山上は電話に出なかった。
出られない事態なのかも知れない。
「一角の翁…」
紅葉はその鬼の名がわかった。
安倍晴明が最も恐れた鬼の名だったと思う。
一角の翁の結界の中で、静先生はロープを投げ付けた。
「なんで私が死ななきゃならないのよ。なんで私がおまえのような妖怪の巫女になって、おまえを祀らなくちゃならないのよ。真っ平御免蒙るわ!!」
静先生の目尻がきりっと吊り上った。
一角の翁は太い胴でキッチンを絞めつけながら、とぐろの中心の僅かな隙間で薙刀を構える、怖いもの知らずの静先生に答えた。
「あの子等は? 静、生贄を用意してくれたか…。そうとも、我は腹を空かしておる。腹ぺこで死にそうじゃ…。柔らかくて美味そうな子等じゃなぁ…」
「あの子達に手を出したら、許さない」
静先生が紅葉達を庇って、キッチンのドアに背を向け、仁王立ちになった。
「我の力を知っておるか、静?」
大鬼が尋ねた。
「知ってるわ。一角の翁は神出鬼没で、どこからでも出入り出来る。針の穴を、蟻よりも身を小さくして通り抜け、蓋された甕の中にも入り込み、杯の酒から大蛇となって踊り出る。でも、これはどうかしら? さすがに現代の保温力抜群のマグボトルは無理なんじゃない? 完全密封なんだけど」
静先生は鞄から水筒を出して、中のお茶を大鬼にぶちまけた。
「舐めるなよ、静。我に不可能などない。しっかり蓋を閉めてみろ…」
大鬼が本気で腹を立てた。
静先生はパチンと蓋を閉めた。
大鬼は顔にかかったお茶を、長い二股の舌で舐めた。
それから、徐々に細かな粒の集合になっていき、身を水蒸気ぐらいまで分解した。
湯気のようなものがマグボトルに入っていった。
「鬼を捕える民話が、数多く現代に残されてるのよ!」
静先生はキュッと蓋を固く閉め、一枚の札を取り出し、マグボトルに貼った。
「ナウマク・サラバタターギャテイビヤク・サラバボッケイビヤク…」
静先生は不動明王火界咒を唱えてから、
「天魔外道皆仏性、四魔三瘴成道来、魔界仏界同如理、一相平等無差別…」
と、念じた。
マグボトルは最初、静先生の手の中で激しく揺れた。
しかし、次第に揺れが収まっていった。
鬼の結界は、泡が弾けるように解けた。
カブを引っ張るようにドアノブを引っ張っていた紅葉達は、玄関側に引っくり返った。
「静先生ー!!」
紅葉達は半泣きでキッチンに駆け込んだ。
「来ないで!!」
静先生は怖い顔で、女の子達を制止した。
静先生のブラウスの襟の下で、白い肌が青黒く染まっていく。
「どういうこと!?」
静先生はマグボトルの封印を確認した。
お札は剥がれてない。蓋は開いてない。
静先生の首が青黒く変色していく。
青黒いシミは顔に広がり、ブラウスの袖口から手にも広がってきた。
小豆ほどの大きさの青い小鬼が、皮膚を突き破って出て来た。
静先生の全身が、藍色の燐光に包まれる。
無数の小鬼はどれも、一角の翁と同じ顔。同じ角、痩せた手足と吸盤のある指を持っていた。
静先生の破れた皮膚から、血が噴き出した。
「あっ!! 静先生!!」
紅葉達は間近に静先生の異変を見た。
静先生の白目から小鬼が飛び出し、血が流れた。
静先生は宙を睨み、動けなくなった。
薙刀が床に落ち、マグボトルがダイニングテーブルの下へ転がっていく。
静先生の体が裂けていく。
肉の裂ける奇妙な音がする。
彼女は悲鳴も発しない。
グレーのスーツとブラウスが血染めに変わっていく。
「大変だよ。鬼はマグボトルの中に、一部しか入ってないよ。目の錯覚で、私達、騙された。この部屋の空気全体を、でっかい鬼が占めてる…」
咲良が言った。
ダイニングキッチン全体がとてつもなく臭かった。
余りの臭さに、嗅覚が麻痺してきた。
マグボトルの蓋がひとりでに開き、パーンと音がして、ボトルがちぎれ飛んだ。
金属さえ、紙のように引き裂かれた。
「静先生の脚が…キャッ!」
コマチが悲鳴を上げた。
静先生の脚が反対向きに捻じれていく。
コマチは途中から正視できない。
「やめなさいよ!! 一角の翁!!」
紅葉が叫んだ。
血の涙を流す虚ろな眼差しで静先生が振り返り、しわがれた老人声で、
「久しいのぉ、紅葉…。千年ぶりではないか…」
と、囁いた。




