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漆肆 鬼のようなストーカー

 五條大橋。

 白目を剥いて暴れる静先生を、雨音が連れて帰った。



 朝八時半のチャイム寸前の、R高校の正門。

 雨音が静先生の手をぐいぐい引っ張って行く。

 静先生は紺のスーツにパンプスを履き、眼鏡を掛け、重そうな鞄を持っている。

「渡邊くん、手を放しなさい。もう大丈夫ですから!」

 静先生は恥ずかしそうに、人目を気にした。


「そんなこと言ったって、静先生、逃げたくてウズウズしてるでしょ!?」

 雨音は強引に引っ張った。

 雲林院が後ろから追い抜かした。

「雨音、おまえもかー。遅刻するぞー。なんで静先生と一緒なん?」

 雲林院がのんびり聞く。


 たまたま職員室の前にいた鬼坂という生徒が、彼等に気付いた。

「渡邊ー!? どうして気安く静先生と手繋いでんのー!? 僕らの静先生に触れるなぁー!!」

 彼は生徒会役員で成績優秀。とても真面目な、眼鏡の似合う男子生徒だ。

 日頃は穏やかな鬼坂が珍しく興奮して、雨音の手を切り放した。


「鬼坂。静先生、具合悪いんだ。静かにしてあげて」

 雨音が頼んだ。

「おまえが何かしたんやろ、渡邊!? それで静先生が…」

「鬼坂くん、私は大丈夫よ。本当に」

 静先生が鬼坂を抑え、職員室に入った。


「渡邊、いい加減、その髪切れよ。そんな長い前髪、見てるだけでウザい!」

 鬼坂の嫉妬の視線が、雨音に向けられた。

「そう?」

 雨音は手首からゴムを外して、耳にかけていた前髪を結んだ。


「雨音、どうしたん? 顔に傷あるで」

 雲林院が顔を覗き込んだ。

 雨音が静先生に殴られた時、彼女が指輪をしていたので、引っ搔き傷が出来た。

 雨音は唇も切っていた。


 チャイムが鳴り出し、彼等は急いで教室に滑り込んだ。





 静先生は古文の授業中もソワソワしていた。

 視線が泳ぎ、何度も廊下の方向や窓の外を見た。


 鬼坂はずっと、隣りの席の雨音を睨んでいる。

 鬼坂が消しゴムを投げて来た。

「何があった? 言えよ」

 鬼坂が偉そうに言った。

 雨音は知らん顔して、教科書を読んでいる。



 剣道部の顧問の武蔵が、休憩時間に、雨音に電話してきた。

「世話になったな、源次。今、静はどんな感じだ?」

 電話の向こう、武蔵は苛々していた。

「暴れた後、元に戻ったけど、まだ変ですね」

 雨音と武蔵の通話を、雲林院が腕組みして聞いている。

 鬼坂は聞き耳を立てている。


「武蔵さん。静先生は相手が鬼じゃなくて、神だと言ってました。鬼と神の違いって、何ですか?」

 雨音が武蔵に聞いた。

「俺とおまえは、異端という意味じゃ鬼だよ。だが、人間に言わせりゃな、祟るヤツが鬼で、願い事を聞いてくれる相手が神だ。神すら願い事を聞いてくれなきゃ、鬼と呼ぶ。人間様のご都合の悪い相手が、鬼さ」

 武蔵のハスキーな声が答えた。

「雲林院、俺がいなくても部活の練習メニュー、変えるんじゃねーぞ」

 武蔵が電話を切った。



 静先生は鬼の気配に怯えていた。

 瞼を閉じても、あの鬼の顔が目に浮かんだ。

「どうやって祓えばいいの?」

 と考えた直後に、

「祓う必要あるの?」

 と、口から思いもしない言葉が飛び出す。


 雨音が静先生を送って行く途中、

「僕、静先生を見て、なんで咲良ちゃんがマナブに冷たく出来ないのか、わかりましたよ。こういうことなんですね。鬼に魅入られるって」

 と、言った。


「どういう意味ですか? 渡邊くん」

「自分を千年も好きと言われたら、大概の女性は、相手が鬼でも冷たく出来なくなるんですね」

「そんなわけありません。好きと言われて好きになるほど、私と咲良ちゃんは単純ではありません。私があの鬼を好きになることはないですし、ゾッとします!」

 静先生は否定し、吐き気を感じた。


「でも、会って話してみたいと思います。もしかしたら、あの鬼を変えることが出来るかも知れません」

「僕は無理だと思いますね。あの鬼は勝手な理屈で人間を恨んでるから、あんなに歪んでるんだと思う」

 雨音は言い切った。

「静先生らしくないですよ。いつもの冷静な先生に戻ってほしい」

「もしかして、妬いてるの? 渡邊くん」

 静先生は言った後で、しまったと思った。


 雨音はむっとした。

 彼はアパートの前で、回れ右をした。

「じゃ、僕、帰ります。明日の朝、また迎えに来ます。それまでおとなしくしてて下さい!」

 走り出す雨音を見て、静先生は慌てた。

「待って! 行かないで、渡邊くん。本当は自分でもわかってます。一人でなんかいられない。だって、私は…」

 雨音は行ってしまった。


 彼女は溜息をつき、アパートを見上げた。

 アパートの部屋の中は、鬼によって破壊されている。

 静先生は外階段を昇りながら、早九字を唱え、

(りん)(ぴょう)(とう)(しゃ)(かい)(じん)(れつ)(ざい)(ぜん)…」

 と、人差し指で横五回・縦四回、交互に切った。


「し…ずか…」

 誰かが呼んだ。


 静先生はびくっと肩を震わせた。

 静先生はもう一度、早九字を切った。

「臨・兵・闘…」

 早九字を唱えて進む間、よそ見してはいけない。


「し…ずか…ぁ…」

 しわがれた老人の声。

 苦しそうな息遣い。彼女の真後ろから聞こえた。

「…皆・陣・列…」

 静先生は震え、恐る恐る振り向いた。


 冷たい風が吹いた。

 誰もいなかった。


「うっ…」

 静先生は目頭を押さえ、玄関ドアを開けた。



 静先生は思いつく限りの魔除けと結界を施した。

 とても眠る気分ではない。

「興奮して、自分が別人みたいに変わってしまう。こんなことは初めて」

 静先生はかつてない恐怖で緊張していた。





 朝が来て、スズメの鳴き声が聞こえた。

 静先生は結局、一睡も出来なかった。

 彼女の眼の下に隈が出来た。

 朝食も食べられなかった。水を飲んだだけで、胃がムカついた。


 ドアホンが鳴った。

「静先生、おはようございます」

 雨音は静先生の無事を確認し、胸を撫で下ろした。

「おはようございます、渡邊くん」

 静先生はグレーのタイトスカートのスーツで出て来た。


 雨音は何だかよくわからない違和感を感じた。

「何もなかったんですよね? 鬼は出なかったんですよね?」

 彼は念を押した。

 部屋の匂いを嗅いでみたが、あの鬼特有のドブ臭い悪臭もしなかった。

「何もありません…」

 静先生は虚ろに答えた。



 高校に向かう途中、二人は無言で歩いた。

 何となく気まずくて、話題が浮かばなかった。


 学校に着くと、鬼坂が正面玄関で待っていた。

「まさか、一緒に住んでるの? 教師と生徒の、いわゆる禁断の関係か?」

 彼はぶっ飛んだ質問を浴びせた。

「なわけないし」

 雨音は疲れた様子で、鬼坂の脇を擦り抜けた。


 鬼坂はどろどろとした黒いものが、胸に込み上がるのを感じた。

「なんで、よりによって渡邊なの?」

 彼は両手を握り合わせ、ポキポキ指を鳴らした。

 彼はポケットからナイフを取り出し、刃をじっと見詰めた。

 鬼坂は涙ぐんで、

「ずっと憧れてたんやぞ。俺の静先生を…取られてたまるかぁ…」

 と、呟いた。



 授業中、雨音は机に突っ伏して寝ていた。

 担任の先生が横まで来て、雨音の寝顔を見下ろし、

「はい、ここ重要ですー。聞いてた人はラッキー」

 と、言った。

「ここがテストに出るのかな。後で、雨音に教えたろ」

 雲林院はノートに丁寧に書き込み、印を付けた。



 実は、雨音は一晩中、静先生のアパートの外で見張っていた。

 夜中から朝方にかけて、かなり冷え込んだ。

 彼は高校の制服だけで、コートもカイロもなし。

 コンビニでパンを買って食べた。

 張り込み中の刑事みたいだった。

 朝、自宅でシャワーだけ浴びて、静先生を迎えに行った。


 だから雨音は眠くてたまらなくて、授業どころじゃなかった。

 彼は爆睡した。

 武蔵が帰る日まで、今夜も徹夜するつもりだった。



 静先生は神経質に見回したり、しょっちゅう何か唱えたりしていた。

 手首には数珠を巻いていた。

 目が落ち窪み、充血していた。


「静先生、ちょっと質問があるんですけど」

 鬼坂が渡り廊下で静先生に声をかけた。

 静先生は古文の授業のことで質問かと思った。

「何ですか? 私、今日はちょっと頭がいっぱいで…。何か間違えたかも知れませんね」

 静先生が立ち止まった。


「渡邊とどういう関係ですか? ちょっと不適切だと思うんですけど」

 鬼坂が突っかかった。

「そんな話ですか。別に何もありません。偶然、朝一緒になっただけです。君の考え過ぎです」

 静先生は憮然と答えた。


 鬼坂は右手をポケットに入れ、左手の拳を握り締め、肩を震わせた。

「僕は…僕は…、静先生がそんな先生だと思いませんでした…。僕は…とてもショックです…」

 鬼坂は突然、眼鏡を外して投げた。

 渡り廊下には、他に誰もいなかった。


 静先生は冷然と断った。

「君の気持は嬉しいけど、私は渡邊くんにも君にも、教師としての感情以外は持ってません。将来、君にもっと相応しい人が現れると思います。君は国立大を受験するんですよね。じゃ、今は勉強を頑張りなさい」

 静先生はさっと背を向けた。


 鬼坂はポケットから右手を出した。

 ナイフが握られていた。

「くそ。渡邊に取られるぐらいなら…」

 鬼坂がナイフを構え、突っ込んだ。


 静先生は表情も変えず、余裕で鬼坂の腕を捩じった。

「バカなことはおやめなさい。ボコボコにしちゃいますよ!?」

「しずかぁ…」

 いきなり、鬼坂の顏が皺だらけの老人に変わっていた。


「きゃっ…」

 静先生はびっくりして、鬼坂の右手を放した。


「そなたは冷たいのぉ…。何と冷たい女よ…。誰の愛情を受け入れることもせず、誰の誠を見ようともせぬ。男を振り回し、疲労させるのみ…」

 鬼坂がしわがれた声で囁いた。

 急に別人の目つきで、黒い瞳の奥が光っていた。


「出た…!」

 静先生は落ちていたナイフを拾い、身構えた。

「そなたは我のものじゃ…。誰にも渡さぬ…」

 鬼坂が老人の声で背を丸め、 ゆっくり近付いて来る。


「来ないで。刺しますよ!」

 静先生が怒鳴った。

「刺せ。痛くも痒くもないわ。そなたの可愛い生徒を刺せ。そなたに憧れておる、ただのガキじゃ…」

 鬼坂が両腕を伸ばし、よろよろと迫る。


「鬼坂くんから離れなさい、この鬼!」

 静先生が叫んだ。

 彼女の手に巻かれていた数珠が、パーンと弾けて飛んだ。

「ヒヒヒヒ…。断る」

 鬼坂が口からヨダレを零した。


 その時、渡り廊下がグラグラッと揺れた。

「地震!?」

 静先生が周辺を見た。

 景色が濁って、(もや)がかかっている。


 渡り廊下のコンクリートの壁に亀裂が走った。

 天井から白い粉が降った。

 縦揺れの後、長い横揺れが来た。

「でかい…!」

 静先生は蹲って、柱に掴まった。

「ゴゴゴゴ…」

 地鳴りのような音が響き、二階の床が波打った。


「静先生…、僕と死んで下さい…」

 鬼坂が静先生の首を絞めた。

「やめて!」

 静先生は突き飛ばそうとして、誤って彼を刺してしまった。


「静先生…、好きです…」

 鬼坂が左胸にナイフを突き立てたまま、血を流して下がった。

「あ…」

 静先生は真っ青になった。


「静先生、好きです。好きです。好きです。好きです…」

 鬼坂が狂ったように叫んだ。

 彼のブレザーのボタンが外れて、シャツが真っ赤に染まってきた。


「やれやれ、ひどい女じゃ…。自分を好いてくれる男を、また一人殺しおった…。そなたは業が深い。なぁ、静…」

 静先生の背後、渡り廊下の手摺の向こう、宙に浮かぶ鬼が囁いた。

 大蛇の如き長い胴体と尾が、渡り廊下の天井と床を挟み込み、軋ませていた。

 鬼のせいで、渡り廊下が波打っていた。


「よくも、私の生徒を…」

「刺したのはそなたじゃ、静…。我は昨夜(ゆうべ)から既に、そなたの中に()む…」

 鬼がニッと嗤い、煙になって、静先生の口の中へ飛び込んだ。



 静けさが戻り、靄が晴れた。

 廊下に損壊はなく、地震による亀裂もなくなっていた。

 廊下の真ん中に、ナイフで刺された鬼坂が横たわっていた。

 彼は出血でショック状態になり、瞳孔が開いている。


「鬼坂くん!!」

 静先生が駆け寄った。

 鬼坂は息を引き取る間際、

「しず…かせんせ…、好きです…」

 と、うわ言で呟いた。

 映画の1シーンのように、鬼坂の首がガクンと垂れた。


「鬼坂くん!!」

 静先生が叫んだ。

「キャー!!」

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 渡り廊下の出口で、女子生徒のグループが静先生と鬼坂を見付けた。


「誰か、助けて…」

 静先生は鬼坂の遺体を抱き締め、呟いた。





 旭が山上の建築事務所を訪れた。

「今、営業の途中なんですけど。近くまで来たから、ついでに」

 旭が山上の好きな日本酒を手渡した。

 山上はちょうど、大型のテレビでニュースを見ていた。

 京都嵐山の連続殺人事件のニュースだ。


「死体の腹が裂かれてるのは臓器売買か、って騒いでる。肝を喰われてるんやけどな」

 山上は苦々しく言った。

「八尾の狐、一時期よりペース落ちましたね。食欲減退?」

「飢餓期を越したんやろ。腹が脹れて来たんやな。厄介なことに、完全復活や」

 山上は事件について、新聞をスクラップしていた。


「嵐山は観光客も減ってるそうですね」

「そりゃ、人喰い狐が出てるからな」

 二人が話していると、山上の美人の助手がコーヒーを出した。

 旭は助手をちらっと見た。

「綺麗な人ですね…」

「そうか?」

 山上は照れ隠しに、話題を戻した。

「あの狐、何とか縛らんとな」


 旭は考えた。

「うーん。また雨音に女装させても、八尾の狐は引っかからないでしょうね。静先生にオトリを頼んでみては?」

「武蔵が許すわけないし。俺も静先生を危険な目に遭わせたくない」

 山上は答えたものの、

「…でも、それしかないかなぁ。武蔵に頼んでみるか?」

 と、スマホを取った。


 武蔵は応答なかった。

「雨音と雲林院に頼んどくか」

 山上はメッセージを送信した。


「じゃ、私はこれで。今日は営業車じゃなくて、電車なんで。雨が降らないうちに行きます」

 旭が山上の事務所を出た。

 雲行きが怪しかった。

「くっそ。天気予報じゃ、雨は明日って言ってたのになぁ…」

 彼は駅へ急いだ。

 ぽつぽつ、水滴がスーツに当たった。



 駅は混雑していた。

 電車の車両トラブルが発生したらしい。

「ついてねーなぁ…」

 旭は何気なく、電車の入ってくるはずの方向を見た。


 旭は目を疑った。

 無彩色の人混みの中に一ヶ所、原色の花が咲いているみたいに目立つ少女がいる。

 額を出して長い髪を束ね、背中に垂らしている十代の女の子。

 掃き溜めの鶴と言うのか。ずば抜けて美しい。


「あれは…八尾の…」

 旭の思考が停止した。

 八尾の狐は嵐山にいるはずだ。

 全然方向が違う。


 八尾の狐は旭を見て、一瞬、微笑んだ。

 八尾の狐は乗車位置に並んだ。

 その前には疲れたサラリーマンや、お喋りが止まらない女性やら、杖をつくお年寄りがいる。

 旭の背中を冷汗が流れた。


 ようやくホームに電車が入ってくる。

「ホームに人を落とすつもりじゃないだろな!?」

 旭は冷や冷やした。


「見付けたぞ、おまえら…。見付けた」

 少女の可愛らしい声が、旭の頭の中に響いた。


「ヤバい…。今、俺独りだし、丸腰だし…」

 旭は山上にすぐ連絡しようと思ったが、手が震えて出来なかった。


 電車のドアが開き、ホームに溢れていた客が雪崩れ込む。

 八尾の狐も乗り込んだ。

 旭も乗った。

 ドアが閉まり、電車は逃げ場のない密室になる。

 乗客全員がテロリストの人質のような事態だ。


 八尾の狐は旭が立つドア付近から少し離れた、次のドア付近にいる。

 電車内は暖房が効き、雨の湿気と乗客の熱気で蒸し、窓ガラスが曇る。


「久し振りだな…。この前…、私が晴明にやられたとでも思ってたか?」

 八尾の狐は旭の脳内に直接喋りかけて来た。

「思うかよ。相変わらず、肝ばっかり喰ってやがる…」

 旭は心の中で愚痴った。


「ふふふ。そうだな。腹ごなしに体を動かそうかな。おまえ、ちょうどいい。鬼ごっこしないか? 鬼は私。おまえが逃げる。おまえは猫に狩られるネズミのように、必死に逃げる…」

 八尾の狐は可笑しそうに言う。

「じゃ、私から仕掛けるぞ。おまえは何人助けられるかな?」

 八尾の狐がすぅっと息を吐いた。


「あ、頭が…痛い…」

 バタバタと乗客が倒れた。

 八尾の狐の瘴気が車両に流れた。

 旭も途端に頭痛を感じた。


 救護する者も、消防を呼ぶ者もいない。

 そんな暇もなく人が倒れ、互いにぶつかり合って沈んでいく。

「これって、もしかしてサリン!?」

 誰かが呟き、車両にパニックが起きた。


 電車は何事もないみたいに走って行く。

 次の駅までは二、三分ぐらい。


「やめろよ、八尾の狐!!」

 旭も膝を着いて崩れながら、心の中で叫んだ。

「最後に会いたい者の名を言ってみろ。誰だ? 誰の顔が思い浮かぶ? ねぇ。死ぬって、どんな気分?」

 八尾の狐の美しい顔が、醜く歪む。

 殺人の快楽に恍惚としている。


 旭は反射的に、会いたい人の顔を思い浮かべた。

 両親と兄、コマチのことを思い出した。

 武士として戦いに死ぬことを願いながら、病に倒れ、血を吐いて畳の上で死んだ前世を思った。

 山上と雨音と雲林院、死んだ酒井、武蔵ら男達の顔が思い浮かんだ。


「急々如律令…」

 意識が遠くなる寸前、旭は声を絞り出した。

武曲(むこく)、手を貸してくれ…」

 旭は識神のお札が入った財布を、痺れる手で撫でた。


 白い光がボンッと弾けた。





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