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漆参 神と鬼  


 静先生はボロアパートの階段を二階まで昇って、背後を振り返り、命令した。

「散れ!」

 もわもわと漂っていた妖気が、弾け飛んだ。

 気のせいか、街灯が明るさを増した。


「静、どうした?」

 武蔵が玄関ドアを開け、出迎えた。

「何でもない。雑魚よ」

 静先生は上着を脱いで、自分の部屋に入った。


「あんなのは問題じゃない。それより最近、何か、特殊な妖気がする…。ずっと尾行られてるみたいな。監視されてるみたいな。近いような、遠いような…」

「気にすんなよ。俺が付いてんだから」

 武蔵がリビングのテレビを見ながら、ダンベルを使った筋トレに戻った。


 静先生はデスクで古文の課題を整理しながら、窓に目をやった。

 誰かが覗いている気がした。

 ちょっと気持ち悪かった。


「霊道ってのは大抵、このぐらいの高さを通ってあの世まで逝くからな。ここは五条清水の霊道に近い」

「そういう気配じゃないの。武蔵も見てよ…」

 静先生が窓をカタカタ開けた。

 冬の訪れを告げる木枯らしが吹き込んだ。


 武蔵が静先生の部屋に入って来た。

「…気配を隠しつつ、覗いてる。でも、漏れてる。…かなり強い鬼だな…」

 武蔵が窓の外を見回した。

 街灯の光が細い路地を照らしている。

「全然心当たりないんだけど。どこで拾ったのかしら?」

 静先生は魔除けの早九字を切り、窓を閉めた。





 静先生と雨音、雲林院が偶然、教室の前の廊下で並んだ。

「授業でわからないところがあったら、質問して下さいね。雲林院くんはここの大学に進むんですか?」

 静先生が眼鏡を外す。

 厚い眼鏡を外すと、急に垢抜けて綺麗な眸が向けられる。


「そうですね。俺はR大」

「そう。問題ないですね。渡邊くんは東京に帰るんですか?」

「はい。高校の間だけって、養父母(おや)と約束して来てるので…」

 雨音は少し複雑な家庭にいる。


「東京の大学を受験するんですか?」

「そのつもりです」

「紅葉ちゃん、悲しむんじゃない?」

 静先生が言うと、雨音は表情を曇らせた。

「そう…ですね。遠距離ってコトになりますね…」

 雨音はポリポリ頭を掻いた。


「雨音。俺、部活行って来る」

 雲林院が手を振り、廊下の角を曲がった。

「静先生はもしかして、武蔵さんと…結婚…」

「それは無いわ。私、結婚は懲り懲りなんです。もう誰とも結婚したくない。興味もありません」

 静先生は完全に否定した。


「静先生、タイプじゃない男が来たら、思いっきり冷たく拒絶しそうですね…」

「当たり前です。気を持たせる方が残酷じゃないですか? 私はノーならノーの態度を取ります。引き摺るより、早く諦めて別の人を探す方がいいでしょ? だから、私ははっきり言います。あなたがどこで野垂れ死のうが、私には関係ありませんって」

 静先生が答えた。


「それ、ストーカーに刺されるタイプですね…」

 雨音が笑った。

「あら、言いますね。渡邊くん…」

 静先生が雨音を睨んだ。


「静先生はどこかで恨み、買ってそうですね」

「恨まれる理由はありません。渡邊くん、人を好きになるのは相性でしょ? 外見でも性格でもない。趣味が合うとか、話が合うとかでもないと思ってます。相性が良ければ、自然に人は惹かれ合う。好きになれなかったからって、いちいち責任負えません」

 静先生は職員室へ行く。


「気を付けて下さい。静先生、人気あるんだから。駅で一目惚れされても、刺されるかも知れないですよ」

「張り倒して、ボコボコにしてやります。怖くないし」

 静先生は振り返り、すまして言った。





 土曜日、しゅとーん部の道場。

 紅葉は雨音が東京の大学に進学すると聞き、ショックだった。

「まだ一年先だけどね」

 雨音は重い鍛練棒を振り始めた。


 紅葉は頭の中が真っ白になって、

「年に数回しか会えなくなるの?」

 と、心配した。

「雨音くん、東京のどの大学受けるの?」

 咲良が素振りの手を止め、聞いた。


「まだわかんない。けど…、大学進んだら、また剣道しようかな…。したくなってきた」

 雨音がぶん、と鍛練棒を振った。

「完全に面が、居合の斬り下ろしになってはるよ」

 紅葉が突っ込みを入れた。


「紅葉ちゃんも東京の大学行けばいいでしょ。三年後だけど」

 旭が言った。

「心配せんでも、雨音はあーゆーマイペースな性格やから、自分から女の子に声かけたりしないし」

 雲林院が紅葉に耳打ちした。

「でも…」

「東京なんて新幹線で二時間ちょっとやで。いつでも会える」

 山上が紅葉を慰めた。


 咲良は笑いながら、紅葉を抱きしめた。

「紅葉ちゃんは本当に雨音くんが大好きなんだね。好きな人と会いたい時に会えないのは、切ないよね。いつも一緒にいたいよね…」

 咲良は紅葉を抱きながら、じっと雨音の素振りを眺めた。





 ある朝の七時頃、静先生と雨音は清水寺の境内を歩いていた。

「不思議ですね。どんなめぐり合わせがあらかじめ用意されているのか、誰も知らないまま生きてくのに、出会った時には奇跡を感じる。不思議な法則を知って、人間にスピリチュアルな存在を感じさせる意図があるみたいに思う。私達はただ生きるだけで、運命と言う苦々しいものを感じずにはいられないんです…」


 紅葉が散った参道。

 時間的に、観光客もまだ少なかった。

「渡邊くんと紅葉ちゃん、蘇芳くんとの出会いも。咲良ちゃん、マナブ、雲林院くん、山上さんと旭さん、コマチちゃん、…みんな、見えない糸で繋がってる…」

 静先生は長い睫毛をパチパチ瞬いた。

 一粒の滴が落ちた。

「私とあの人…、武蔵の三人も…。繰り返し奏でられる…、重苦しい運命の旋律…」

「いつか帰って来ますよ、旦那さん」

 雨音が呟いた。



 静先生はきょろきょろ見回した。

 数日続いていた、怪しい妖気が途切れていた。


 静先生はホッとして、穏やかな表情になった。

「君といると落ち着きます。安心します…」

 静先生は言ってから、告白みたいな台詞に赤面した。

「変な意味ではなく、戦いの間の休息みたいなものです」

「女戦士ですもんね、静先生は」

 雨音は淡々としていた。



 二人は五條大橋まで歩いた。

「古典を読んでいると、神と人間の対立というテーマがよく出て来ます。人間は時として、神に大切な身内をお供えしたりするんです。そしてその神は、人を喰らう存在であったりします。人を祟ったり、蛇の姿をしていたり。そして、人間の裏切りに遭って、退治されてしまったり。結構、残酷な物語が多いです。…あれは、本当に物語なんでしょうか…?」

 静先生が言った。


「神と言うより、鬼ですよね。僕らの感覚からすると」

 雨音が応えた。

「鬼と言うのは、後から来た概念です。そもそもの民間伝承では、やはり神と呼んでるわけです。咲良ちゃんが共鳴する神泉は、千年近く刀に宿る霊的存在ですから、妖怪的なツクモガミとはまた別の、神と呼べる存在なのだと思います。と言うよりも、もしかして、私達の周りは神で溢れている…?」

 静先生は首を傾げた。


八百万(やおよろず)の神が住まう国だからですか?」

 雨音が質問した。

「その質問は、山上さんにお聞きなさい。渡邊くん。我々は神を鬼と呼んだのです。本来は神だったのです。鬼という言葉が来て、神の地位は悪魔のように逆転した。菅原道真は自分を陥れた相手を呪って死んだけれど、祀られ、鎮まって、人に幸を与える側になったから、神です。私達は本来、神として祀るべき、他の非業の死を遂げた祖先や、その土地古来の神を、鬼に(おとし)めたのではないでしょうか…」

 静先生は立ち止まった。


「十二の鬼の…心を救いたい…咲良ちゃんの考え方は…、私は検討すべき余地があると思います」

「そんなの、今更無理ですよ。静先生だって、疫病を撒き散らす鬼は殺すじゃないですか!?」

 雨音は急に声を荒げた。


「そうね…。私は考えてるんですよ。鬼との戦いに旅立ったあの人が帰らないわけは…、鬼と戦ううちに、あの人も鬼になってしまったんだろうなぁ…、って……」

 静先生は眸を潤ませて、京都盆地を囲む山並を眺めた。

「愛宕山…、マナブの陣営にいるのは、もしかしたら私の夫のなれの果てかも知れないって…。私はきっと、いつかあの人と再会するでしょう。次は敵・味方に分かれて…」


 雨音は愛宕山の方角を睨んだ。

「すみませんけど、もし先生の旦那さんが含まれてても、僕は全部の鬼を殺りますよ。それが僕のやらなきゃならないことですから」

 雨音が宣言し、静先生は静かに頷いた。


 雨音はそのまま、登校する。

 静先生はいったん、アパートに寄った。





 静先生は自分の部屋から、教材の入った重い鞄を取ってきた。

 武蔵は留守だった。

「私、なんであんなことを渡邊くんに話したのかしら…?」

 静先生は洗面所で髪を束ね、学校に行く準備をする。


 その時、洗面所の鏡から、黒く渦巻く妖気が溢れ出した。

「来た!」

 静先生は飛びずさり、身構えた。

 先日から続く、あの妖気だ。


 洗面所の鏡が異界と繋がり、どろどろと冷たい妖気が流れた。

「会いたい…。そなたに会いたい…」

 老人のしわがれた声がした。


「誰!? 私はあなたを知らない!」

 静先生が鏡の相手に言った。

「よく、そんな残酷なことを言う…。千二百年前のことじゃ…。そなたは忘れたか…」

 しわがれた声が陰々と響いた。

「そんな昔のこと、知ってるわけないでしょ。私は二十七よ!」

 静先生は早九字を切って、鏡と異界を切り離そうとした。

 鏡の中から垢だらけの、皺くちゃの細い腕が、にょきっと突き出した。


「う…」

 静先生は洗面所のドアを閉め、外からお経を唱えた。

 洗面所のドアがパリッ、と裂けた。

 裂け目の真ん中から、また黒い腕がにょきっと突き出た。


「あれは風の強い夜じゃった…。我はそなたに会いたくて、舟を出した…。そなたは冷たい娘じゃった。優しさの欠片もない…。我の心を知りながら…、灯火を消した…。我は真っ暗闇で方向を見失い…、一晩中彷徨って…波に沈んだ…」

 老人の手がひらひらと、静先生を探し求めた。


 静先生はリビングの壁まで下がって、

「ルイ、レイ…、聞こえる!?」

 と、天狗の双子を呼んだ。

「ここは我の結界の中…、天狗からは見えぬ…」

 洗面所のドアへ、黒い腕がいったん引っ込んだ。

 一瞬、静先生はホッとした。


 次の瞬間、今度は静先生が凭れていた壁の壁紙(クロス)を突き破って、老人の腕が躍り出た。

「我はあの夜、死んで鬼になった…」

 老人の声が呟いた。

「ひっ」

 静先生の両側から腕が出た。

 静先生は慌てて、壁から離れた。


 床がもこもこ、もぐらが通ったみたいに膨れ上がった。

 腕と離れているのに、一本の長い角が床から突き出た。

 頭部がじわじわ上がって来る。


 床から老人の頭半分、血走った眼までが出て来た。

 床下で、大蛇が身をくねらすようなズルズルズル…という音が鳴った。

 天井からも、大蛇が這うような音がズルズル…と聞こえた。


「どれだけ長い胴体してるの!?」

 静先生は嫌悪感を込め、老人に言った。

「そなたを思う年月が長くなるほど…我の身は伸びた…。よみがえって、(うみ)を渡る為に…」

 老人が床下の口で、ボソボソと喋った。

 部屋全体が大蛇に締められるように、ビキビキ、ミシミシ、軋んだ。


「繰り返して言うけど、私はあなたなんか知らない。私はあなたを裏切ったこともない。そんな思い込みの復讐は迷惑。あなたを死に追いやった女は、千年以上前に死んでるはずよ。私には何の関係もないわ!」

 静先生が鬼に言った。

 鬼は怒りで震えた。


「おお、何と冷たい女。恋しくて恋しくて、封じられた井戸の底から会いに来たと言うのに。そなたを祟り殺そうと言うのではない。ただ、この募る思いを伝えたかった。…何故、この哀れな老人の恋心を受け入れてくれぬのか。恨めしい…。心底恨めしいぞ…」

 鬼がゆっくり、上半身を床から現した。

 長い白髪と髭、深い皺だらけの額、燃える眸。

 鬼の首の下に続くのは、蛇の胴体。

 壁から出た黒い手の指先には、吸盤があった。


「あなたの恋心は到底受け入れられない。私は人間で、あなたは鬼か妖怪よ。相性が悪いのよ!」

 静先生ははっきりと言った。


 鬼は尻尾を床下で振り回し、地団太を踏んだ。

「おお、何と冷たい女。我はそなた一筋なのに。我は心を伝えること以外、何も望んでおらぬのに。その美しい顔が美しいほど、憎らしいぞ!」

 鬼が憎々しげに言うと、毒の息が部屋に撒き散らされ、静先生は失神した。


「苦しめて苦しめて、そなたを死なせる」

 鬼が身を縮めて、床下へ沈んでいった。

 壁から出た腕を引っ込め、部屋を締め付けていた胴体を緩めた。





 雨音は五条通りを歩いていたが、急に振り返った。

「静先生?」

 彼は妖気を感じた。

 彼の額の第三の眸が、前髪の下でぱちくり開いた。

「鬼の気配だ。ヤバい。静先生が…!?」

 雨音は全力で走って、川沿いの入り組んだ辺りで、妖気を強く感じ取った。


「静先生!!」

 雨音がアパートの玄関ドアを叩いた。

 鍵が閉まっていた。

「うちで何やってんだ、源次?」

 武蔵が帰って来た。

 武蔵も顔色を変え、ドアを開ける。

 二人が飛び込んだら、滅茶苦茶に壊れたリビングで、静先生が倒れていた。


「静!!」

 武蔵が静先生の頬を叩いた。

 雨音も覗き込んだ。

「何があったんですか!?」

「鬼に魅入られやがった。最悪だ」

 武蔵が鼻に皺を刻み、周囲に残った鬼の匂いを嗅いだ。

「とてつもなく強い鬼だ。九尾の狐と同格ぐらいの…、グホッ…」

 武蔵も毒の空気にむせた。


 雨音は制服のブレザーの袖口で、自分の鼻を押さえた。

「何ですか? この匂い? 生臭い…、汚いドブみたいな匂い…」

「この鬼、ドブを通って来たんだろ」

 武蔵は吐き捨て、静先生をベッドに運んだ。


「どうなるんですか? 静先生」

「どうなる? ハッ、このままだと、本人の好むと好まざるとに関わらず、鬼のものになる。自分の意思に関係なく、静は何故かこの悪臭の鬼を求めて、恋焦がれるだろうよ」

 武蔵が部屋から飛び出して行く。

「武蔵さん、どこ行くんですか?」

「悪縁を切らなくちゃならん。こんな因果の意味を知らなくちゃならん。源次、静を頼む!」

 武蔵は興奮して、アパートの階段を駆け下りた。


「武蔵さん。待って、僕も…」

 雨音が立ち上がりかけた時、冷たい手が彼の腕を引っ張った。

 むっくり、静先生が起き上がった。

「あの鬼はどこに行きましたか、渡邊くん?」

 静先生の頬は紅潮している。

 綺麗な眸が雨音を見詰めた。


「静先生?」

「あの鬼…、不細工で吐きそう…」

 静先生はひどいことを言った後、

「でも…気になります。どこに行きましたか?」

 と、周りを見て、鬼を探した。

 その目付きは異常な感じがした。

 部屋の壊れ具合も目に入らないらしい。


「静先生。落ち着いて下さい。あの鬼は僕と武蔵さんでやっつけます…」

 雨音は静先生の眸を覗き込んで言った。

 静先生は暴れた。

「何を言ってるの。君はわかってません。鬼…と呼ぶべきではないんです。あれは神…。私が彼を祀りましょう。私が巫女になったら…鎮まるかも知れません」


「はぁ、何言ってるんですか、静先生!?」

 雨音は慌てて、静先生の両肩を押さえた。

 静先生は雨音の手を解き、彼の上に馬乗りになって、無抵抗の生徒を平手で殴った。

「鬼として貶めるから、祟られるんです。神として祀れば、人に幸を与える存在になるんです!」

 静先生は何発も、上から雨音を打った。


 雨音は我慢した。

「静先生、落ち着いて下さいよっ! あんなドブ臭い神なんていませんよ!」

 雨音が言うと、静先生は半狂乱で、スカートが捲れるのも気にしないで大股で跳び、部屋から出た。



 静先生が朝の通勤通学時の五条通りを、裸足で駆けて行く。

 雨音が追う。

 五條大橋のたもとに、義経と武蔵の像がある。

 武蔵の像は、武蔵が壊した為、ブルーシートが掛かっている。


 静先生は五條大橋から、鴨川に飛び下りようとした。

「あっ、静先生!!」

 橋の欄干を跨ぐ静先生を、雨音が捕まえて押さえ込んだ。


 静先生は髪を振り乱して暴れ、甲高く叫んだ。

「神が…、降臨したぁー!! 神がぁ…!」

 橋を渡る人々の視線が、二人に集中した。

「先生、そろそろ学校行きましょうよ…」

 雨音は引き摺って、静先生を欄干から降ろす。


 通勤途中の塾年サラリーマンが、雨音と静先生をじろじろ眺めた。

「君の彼女、べっぴんさんやけど、激しそうやな…」

「彼女じゃないです…」

 雨音は熟年サラリーマンに返事した。





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