漆弐 鬼女・朧月夜
1
土蜘蛛の長・朧月夜の眸が金色に光った時、メドゥーサに睨まれたように、紅葉とコマチも固まった。
瞬間冷凍されたみたいに、カチンコチンになった。
「紅葉ちゃん!? コマチちゃん!?」
咲良は慌てて二人を揺さぶった。紅葉とコマチ、新見の三人の間を行ったり来たりした。
「何故、おまえは固まらぬ!?」
朧月夜が驚いた。
「あちゃー。最早、為す術がないのぅ…」
識神の巨門と文曲が項垂れ、立ち尽くした。
「諦めるのが早くありませぬか?」
貪狼が眉間に皺を寄せ、牙を剥いた。
貪狼は闘争本能のまま、土蜘蛛の長に突撃していった。
旋風が巻き起こり、目に見えぬ速さで貪狼の切れ味鋭い攻撃が繰り出された。
朧月夜は神速の刀さばきで、全て細かく打ち返した。
「おまえ如きにやられはしない。もっと手練れを出して来い!」
朧月夜が嘲笑した。
貪狼は腕を削られ、コマチの前まで下がった。
「退け。たかが識神。おまえらは人間に使われることに甘んじる犬。低級の鬼だ…」
朧月夜が顎を上げ、傲慢に言った。
「犬などではない…。鬼でもないし。…低級な鬼は貴様だ…」
貪狼が唸った。
実は、紅葉の右手は不思議と、未だ固まりきってなかった。
紅葉は右手にだけ、感覚が残っているのを感じた。
指先が熱っぽかった。
「瞼一つ動かせへん…。声も出ぇへん。けど…、指は動かせそう…」
紅葉は意識を右手に集中した。
硬いが、微かに動いた。人差し指の第一関節が震えた。
他の誰も気付かなかった。
朧月夜が片手で剣を構えた。
「ふん。主人を守る為に死ぬんだろ。犬じゃないか。尻尾でも振っていろ!」
反りのない直刀が、貪狼の腹を刺し貫いた。
「ぐるる…」
貪狼が足を踏ん張って衝撃に堪え、紅葉とコマチを守った。
「貪狼さん、大丈夫!?」
咲良は覚悟を決めた。
彼女は短刀の神泉で突っかかった。
朧月夜が神泉を軽く叩く。
咲良はわざと叩かれて刃をひっくり返し、そのまま懐に飛び込んだ。
居合の小太刀の間合いを使う。ワンタッチの次の瞬間は敵の懐になる。
神泉の刃が、朧月夜の喉まで飛ぶ。
神泉が光った。
神泉の光で、朧月夜の目が眩んだ。
「くっ」
朧月夜は神速で刀を戻して払う。
咲良は刀が戻って来ることを知っていた。
受け流し、同時に側面に足を運んで、敵の額から刃を入れる。
咲良はこの形を繰り返し稽古してきた。頭が真っ白でも、体が全自動で動く。
朧月夜の額に浅い傷が入った。
「まさか、私がそんな小太刀で斬られるとはね。よく稽古している、小娘」
朧月夜が咲良の足を蹴り、転倒させた。
咲良は地面で尻を突き、長身の敵を見上げた。
背後に、枝が天高く広がる御神木のシルエットがあった。
「やられる…。御神木さん、助けて…」
咲良は身を縮ませた。
額から血を流す朧月夜。眸が爛々と輝いている。
「嫌だ。私は負けられないよ…」
咲良は紅葉達を振り返った。
腹から血を噴き出す貪狼が、両腕を広げ、紅葉達の盾になっている。
咲良は震えながら、神泉を構えた。
右に動くのはどうだろう。左に動くのはどうだろう。
小山のてっぺん。足場が悪い、石と木の根っこだらけの場所だ。
彼女は朧月夜の次の動きを待った。
2
紅葉は五本の指の、第二関節まで動かした。
「もう少し…」
目玉も動かせない中で、紅葉は視界のぎりぎり端に、月光を照り返す雷帝を見ていた。
「雷帝の…刀匠さん…。力を貸して…」
紅葉が刀の主を呼んだ。
「待っていたぞ、紅葉…。我を使え…」
雷帝に宿る刀匠の魂が、呼びかけに応えた。
「刀匠さん…、私達をこの呪縛から助けて…」
紅葉は必死に指を動かした。
かろうじて、握ったり締めたり出来る程度まで動いた。
「任せろ。ついて来い、紅葉…」
雷帝が鬼火に包まれ、ふわり、浮き上がった。
切先を地面に擦りながら、柄が浮いて、人が持っているように立ち上がった。
雷帝がひとりでに紅葉の手まで滑って来て、ぴたっと掌に吸い付いた。
「刀匠さん!」
紅葉が刀を掴んだ。
「行くぞ!」
刀匠が囁きかけ、切先が宙に浮き上がった。
紅葉は固まった体勢から膝が崩れるように前につんのめり、雷帝に引き摺られた。
それでも、手を放しはしなかった。
固まった足がロボットのようにギクシャク動き始めた。
紅葉は全力疾走と同じ速さで、雷帝に憑かれて走った。
咲良と朧月夜が睨み合っている。
鬼の剣を、咲良は横に一歩盗んで避けた。
江戸時代に出来た居合の動きは、朧月夜には読みにくいものだった。
でも、朧月夜は落ち着いて、
「おまえに二度目はないわ。これで終わり…」
と、咲良の打ち込みを抜いた。
「ん…!?」
途中で、朧月夜が紅葉に気付いて振り返った。
ざあざあ、落葉を蹴散らして、紅葉が飛び込んできた。
「憑かれて刀を振り回している!? 面白いな!」
朧月夜は剛腕で、紅葉の雷帝を叩き落とそうとした。
「甘いわ!」
刀匠の魂は紅葉の手を操り、朧月夜の魔剣を真っ二つに切断した。
「我が鍛えし鋼の威力を見よ!! ふははは!!」
刀匠が哄笑した。
折れた剣先が地面に突き立った。
朧月夜は半分の剣で刀匠と戦った。
「この大太刀を生んだのは…私だ!」
「なまくら刀よ。我はおぬしの数百年後の生まれじゃ! 我が太刀こそ、至高の太刀よ!」
刀匠が自画自賛した。
紅葉の斬撃が朧月夜を縦に割いた。
紅葉のコートは、葉っぱと木の枝だらけになっていた。
彼女はしっかり雷帝を握り、斬った手応えを確かめた。
無意識に、剣道で慣れた中段に構えていた。
新見とコマチの凍っていた血が流れ出す。
バキバキ、関節の音がするような感覚で、二人は解凍された。
「やっと動くぅ…」
新見はホッとして、自分の両手を見詰めた。
「あ、生きてたの? 新見くん」
コマチが新見に気付いた。
咲良はじわじわ、朧月夜の背後に回った。
「行け、紅葉ちゃん…。行け…」
咲良がそっと呟く。
紅葉が迷いなく、果敢に飛び出す。
地面を蹴って、怒涛の面を打つ。
「どうやって、私の呪いを解いた?」
朧月夜は鍔で雷帝を受け止めた。
「あんたの呪いより、私にかかった刀匠さんの呪いの方が強かったんよ!」
紅葉は引くと見せかけて、前に出た。
朧月夜は一歩下がって迎え撃った。
「攻め好きな小娘だな…。この半端な刀で、弱いおまえと五分と言うことにしておいてやる…」
咲良が背後から突きかかった。
朧月夜は短い腰刀を抜き、咲良の神泉を受けた。
そして、同時に二人を払い飛ばした。
突然、朧月夜が見えなくなった。
辺りに濃い闇が広がった。
「隠れた!? 朧月夜って、そういう意味なん?」
紅葉は周囲の気配を探った。
雲に隠れる月のように、朧月夜が消えた。
3
一方、山上と雨音達は大虫神社を探して、山で迷子になっていた。
「元は鬼の大江山に鎮座してたそうなんやけどなぁー。土熊の鬼が隠れて、人間の目から見えなくなった時、大虫神社のご神宝の鏡を付けた犬が現れて、鏡に鬼を映したと言う。…でも、この鏡は火事で焼失して、現在はない…」
山上が言った。
「ふーん、鏡ですか。丹波は他にもありましたね。籠神社の国宝の息津鏡と辺津鏡、日本最古の伝世鏡で、中国の前漢と後漢の時代のものとかって。有名な三角縁神獣鏡より、何百年も古いんでしょ? 古い方は、今から二千百年も前に製作されたって聞きましたよ…」
旭が山上と話している。
「俺達、完全に道に迷ってますよね。早く天橋立行って、御馳走食べましょうよー」
雲林院が旭に訴える。
「鏡ですかぁー。どっかの博物館から借りて来ましょうか?」
雨音が山上に言い、
「あかん、すぐ無断で借りるな! おまえは…」
横から蘇芳が凄い目で睨んだ。
「借りれへんけど、二千年前の鏡って言ったら、ほんまに霊力強そうやな。そんな鏡、神さんと同じや」
山上は溜息をついた。
「鏡は日の神の依代なんやで」
彼は途方に暮れた。
「ほんまや。完全に迷ってしもた…」
4
咲良は文曲に尋ねた。
「気配があるのに、姿が見えないよ。あの鬼、かなりのダメージを受けたはずなのに」
「この結界全体に薄く溶けて広がっています。正確に急所を突かなければ、倒せません」
文曲が答えた。
紅葉は闇雲に雷帝を振り回した。
空気を切っても、手応えはない。
新見がぽんと手を打った。
「俺、こういう話、聞いたことあるで。目に見えへん悪霊は、鏡にだけ映るねん。コマチ、鏡持ってへんか?」
コマチは涙を拭い、貪狼に声をかけていた。
「私の為に、こんなに血塗れになって…。ありがとう、貪狼。もう、ゆっくり休んでて」
貪狼は微笑み、お札の中へ白い光になって吸い込まれた。
「コマチ。鏡なんか常に持ってるの、あんたぐらいなんやから!」
紅葉が急かした。
「わかったわ。鏡って、こんなコンパクトでもええの?」
コマチはリュックのポケットから、折り畳み式の手鏡を出した。
「貸せ、コマチ。ここからは儂の出番じゃ」
巨門が手鏡に手をかざした。
文曲も同じことをした。
手鏡がぱぁっと光った。
咲良は手を合わせ、一心に光明真言を繰り返し唱えた。
「オン、アボキャ、ベイロシャノゥ、マカボダラ、マニ、ハンドマ、ジンバラ、ハラバリタヤ、ウン…。オン、アボキャ…」
大日如来の御光を思い浮かべる。
蓮の花から光が溢れて、この世を遍く照らしていく。
清らかな光が手鏡から射した。
世界を清めるように。
「あの鬼、どこに隠れた?」
紅葉がコマチの手鏡を覗く。
新見は裾を捲り、
「魔除けのターコイズ、他にも持ってるねん。チャラ男と言われるだけあって。鬼、どこにおる?」
と、アンクレットを外した。
紅葉は鏡に映る自分を見た。
自分の姿に、黒い烏帽子の刀匠が重なっていた。
背後で濃淡のある闇が、渦を作っていた。
その渦の一つに、額が割れた土蜘蛛の顔があった。
美しい朧月夜の顏ではなく、醜い鬼の、蜘蛛と混じり合った顔。
「嫌っ。蜘蛛やん!」
紅葉は顔を背けた。
「そこか?」
新見がアンクレットを投げ付けた。
一瞬、闇が左右に分かれ、朧月夜が見えた。
「紅葉、斬れ!!」
コマチが怒鳴った。
紅葉は我を取り戻し、振り向きざまに横一閃。
「ひぎゃっ!!」
朧月夜が胴体真っ二つになって、その上半身が後方へ飛んだ。
「見よ、この切れ味!! 鬼の背骨をも断つ!!」
刀匠が叫んだ。
朧月夜の上半身が、どさり、地面に落ちた。
二股の御神木の前。
二股の巨木には、封じられていた朧月夜の穴があった。
木の虚に閉じ込められていた朧月夜は、新見と紅葉とコマチに樹皮という鍵を剥がしてもらい、根元を破壊するように飛び出て来た。
その後、木の虚は黒々とした闇を見せ、どこかの異空間に繋がっているようだった。
木の虚から誰か出て来た。
蘇芳だ。
「おにぃ!? 丹波に行ったんちゃうの!?」
紅葉が叫んだ。
蘇芳は切先を下に向け、逆手で太刀・蜘蛛切を持った。
「この御神木に呼ばれた気がしてな…。大虫神社の御神木や」
蘇芳は朧月夜の頭の側に立った。
「よ、頼光…!?」
朧月夜が蘇芳を見上げ、歯をキリキリ軋ませた。
「紅葉は引っ込んでろ。俺がとどめを刺す」
蘇芳が真下に蜘蛛切を突き刺した。
朧月夜の頭部は地面に釘付けにされるが如く、刺し貫かれた。
「ぎゃああ…」
朧月夜が悲鳴を上げ、めらめらと燃え盛る炎に包まれた。
「おにぃ、雨音くんは!?」
紅葉が木の虚を覗いた。
「雨音はきっと、山上さんらと天橋立でご飯食べるやろ。俺はあんたを連れて帰って、うちでご飯食べるわ。ほな、あいつには連絡しとくから」
蘇芳が右手に太刀、左手でスマホを持ち、メッセージを送信した。
「誰かわからへんけど、もう一人いたよ」
紅葉が女の子の手を引っ張って、木の虚から出て来た。
「双葉ー!!」
新見が駆け寄った。彼の妹だった。
双葉は無事で、寝起きみたいに目を擦っていた。
「ありがとう、御神木さん…」
咲良とコマチは二股の木に近付き、苔むした樹皮をそっと撫でた。
紅葉は雷帝を見詰め、
「ありがとう、刀匠さん…」
と、囁いた。
「まさかの事態じゃわい。もう為す術もないと思ったのに。子供らだけで、大鬼を一匹倒しよった。成長したな…」
巨門が呟き、白い光になって、ボンと弾けた。
巨門も文曲もお札に戻った。
5
数日後。
紅葉と咲良は近鉄の桃山御陵前で降りた。
「ここの御陵は、桓武天皇。平安京に遷都した天皇。怨霊になった早良親王は、桓武天皇の子」
「ふーん」
紅葉の説明に、咲良が頷く。
二人は御香宮神社へ行った。
「ここは古くから神宮皇后を祀ってる。伏見は名水の地で、酒処」
どうりで、参道に酒樽が並んでいる。
老舗の酒造会社が伏見にあり、新酒が奉納される。
「昔、豊臣秀吉の伏見城があった。安土桃山時代の後半、ここで絢爛豪華な文化が花開いた。…秀吉が生きてるうちに、大地震で伏見城は崩れたけど」
紅葉が咲良を案内して回る。
二人は大手筋商店街を歩き、きょろきょろした。
途中の路地を入って行くと、酒蔵が建つ辺りは昔の風情を残している。
酒蔵を改造した焼鳥屋や、居酒屋がある。
新酒の季節は、伝統の杉玉が酒造会社の軒先に出る。
商店街の出口を曲がって少し進むと、坂本龍馬と新撰組のお土産を扱ったお店がある。
しばらく歩いて、観光客が写真を撮っている場所に出た。
「あれが寺田屋。襲撃を受けた龍馬が、その後結婚することになるお龍さんと出会った旅館」
「ふぇー。まだ残ってるんだー」
咲良は寺田屋の二階を見て、龍馬が障子を開け、道を見下ろすところを想像した。
「あちこちに龍馬を偲ぶ場所があるよね。今度、龍馬めぐりする?」
紅葉が咲良に聞いた。
「パワスポだけでいいよ。今日はどこに行くの? 伏見って、鳥羽・伏見の戦いの?」
咲良は日本史のテスト問題を思い出した。
「私、鬼を捜してるの。ねぇ、菅原道真や早良親王が怨霊になるぐらいなら、織田信長や坂本龍馬も怨霊になってそうやと思わへん?」
紅葉は寺田屋を見ながら呟いた。
「えっ、まさかー。龍馬はないでしょ、龍馬はー」
咲良は大笑いした。
「ほな、明智光秀は? 光秀は落ち延びる途中、伏見の小栗栖で農民に竹槍で突かれて死んだ。家臣は主君の首を隠したけど、犬に掘り出されたと言われてる」
「気の毒…」
咲良は光秀に同情した。
「心配で心配で、ずっと落ち着かないの。うちらがまだ封印出来てない鬼がよみがえって、たくさんの人が死ぬんちゃうかって。八尾の狐とマナブ、神王、口の臭い虎長…、それから一角の…」
紅葉は指を五本折った。
「ああ。晴明さんが言ってた鬼ね。ヤバい三大鬼が残ってるんだよね」
咲良も数えた。
紅葉は元来た道を引き返し始めた。
「とりあえず、お腹空いた。伏見でラーメン食べてこ!」
「なんだ。今日の最終目的地はラーメン屋さんか」
咲良が吹き出した。
「美味しいとこあるの。もう十一月だし。今日は特に寒いし。ラーメン食べてあったまろう」
紅葉の足が速くなり、軽く弾んだ。
6
紅葉と咲良の知らぬところで、何かが蠢いていた。
頭をもたげ、身をくねらせる。
水音がちゃぷちゃぷ鳴った。
ここは暗い。
「はぁー…」
何かが長い息を吐いた。
狭い場所が白く煙り、石の壁に亀裂が入った。
息だけで、壁が圧迫を受けていく。
「ふぅー…」
何かが吸盤の付いた前脚で、崩れた石の壁に這い上がった。
「晴明め…。我をこんな地底に閉じ込めおって…」
老人のしわがれた声がした。
彼は半分水に浸かり、金属製の鎖で繋がれているらしい。
だが、千年の月日で、鎖も腐食していた。彼が動くと、鎖がすぐ切れた。
「ここは…いずこじゃろう…? 千年も寝てしもうた…」
老人は長い胴体と尻尾をくねらせ、吸盤で石の壁を登り始めた。
老人は紫色の長い舌を垂れ、隙間風の吹き込む方向を探した。
「ままならぬ…。人間の生血を啜らねば、力が出ぬ…」
老人が呟いた。
えらの呼吸孔がピクピク動き、背鰭が震えた。
彼の全身から水が滴った。
老人は何かぶつぶつ唱えた。
彼のぬめぬめした皮膚から小鬼が生まれ、彼の代わりに壁をよじ登っていった。
無数の小鬼が石を噛み砕き、天井に穴を開けた。
「小鬼ども。我の体に刺さりし棘を抜いてくれ…」
老人の体には、数十本の矢と槍と剣が突き刺さっていた。
小鬼らが朽ちた矢の鏃を齧り、槍先を齧り、錆びた鉄の塊を噛み砕いた。
「ふぅー…。少し楽になったぞ…」
老人が毒の息を吐く。
石の壁に付いていた虫が死んで、井戸の底へ落ちていった。
「人呼んで、一角の翁。地獄よりよみがえりたる…」
老人が井戸の蓋に開いた穴から手を出した。
青白い皮膚と薄い筋だけが張り付いた腕だ。
月明かりが照らす。
骸骨に近い、仙人みたいな老人が現れる。
老人が身に付けているものは、ぼろぼろの布一枚で、着物の原型など無い。
額からは長い角が一本。
一角獣のような角だった。
「そなたを信じて、舟を出したのじゃ…」
老人が呟き、古井戸から這い出た。
「恋しい娘よ。そなたを信じ、暗闇の湖へ漕ぎ出でた…。そなたが目印の灯を消すなど、…思いもせぬ…」
彼は尻尾まで、完全に這い出た。
「千年経とうと、万年経とうと、我の思いの深さは変わらぬ。ただ一筋に…そなたを慕う…」
老人は砂利を這い、町の方向へ向かった。
舌をにょろにょろ動かして、匂いを探る。
「こっちか…」
老人は心当たりのある匂いを嗅ぎ、道の側溝に頭から潜って行った。




