陸参 禍蛩夜姫
1
手を縛られ、祈る女の形のシミ。
咲良は祖母のトキに電話した。
「咲良、落ち着きよし。あんたが慌ててどうするの。明日、何とかしたる。今日ははよ、帰って来なさい」
「わかった」
咲良は祖母の声を聞いて、とても安心した。
「大丈夫みたいだよ。コマチちゃんには貪狼もいるしね」
咲良が電話を切った。
コマチは怖かったけど、姉の部屋で寝ることにした。
翌日。
コマチの家に、咲良とトキが来た。
トキはコマチの部屋でお経をあげた。
それから、美しい景色のポスターを広げた。
三人の中で一番背の高い咲良が椅子に乗って、斜めの天井にポスターを貼り付けた。
それは例のシミの場所だった。
気味悪いシミは、ポスターで覆い隠された。
「モン・サン・ミッシェルの夕景ですね。神秘的で、心が安らぐわ…」
コマチは嬉しそうにポスターを眺めた。
満潮の時には島になり、引潮の時には陸地と地続きになる場所に建つ、中世の要塞のような修道院。
お寺の家のトキが異国の修道院のポスターを持って来たので、不思議な感じがした。
トキはコマチに、
「これは私が若い頃に旅行した場所の写真。宗教の違いなんて関係あらへん。平和を祈る心は同じ。コマチちゃんが見たシミには、可哀相な女の人の祈りの気持ちが表れてた。おばあさんがこれから毎日、お寺から拝んで、お経あげるさかい。コマチちゃんは何も心配せんでええよ」
と、優しく言った。
「はい」
コマチが頷いた。
帰り道、トキが話し始めた。
「これは関係あるかどうか、知らんけどな。江戸時代の初め、キリシタンが京都にもいてな。禁教令が出て、京都にあった天主堂とか、教会関係は全部焼き払われた。長崎みたいな迫害があってん。女子供、幼児も含む五十五人ものキリシタンが、鴨川の六条河原で火あぶりになった。徳川秀忠の直々の命令による、公開処刑や。酷いもんや」
「うそぉ…」
咲良は話を聞いただけで、涙が込み上げた。
「大勢捕えられた中で、何人か獄中死してるそうや。六条河原に近い正面橋のたもとに、殉教者の慰霊の碑があるわ。あのシミがその時の女の人かどうかは知らん」
トキが合掌し、祈った。
「ただなぁ、昨夜の照明が落ちて来たのと、鏡に怖い霊が映ったのは、別の鬼の仕業や。あのシミに、そんな敵意も殺意もあらへん。咲良は気ぃ付けてな」
「うん。どんな鬼なの?」
咲良が尋ねた。
「うーん。もしかしたら、…この前の、九尾の狐の眷属かも知れへんよ…」
トキは直感で答えた。
2
それから、コマチは天井のシミがすっかり気にならなくなったと言う。
夜もよく眠れるらしい。
楽しい夢を見ると言っている。
その割には、コマチの顔色は青白い。
ちゃんと眠れているのかどうか、紅葉と咲良は心配した。
教室で喋っている時、コマチは突然、紅葉にこんなことを言い出した。
「京都って、各時代のいろんなパワスポがあるやん。江戸時代の建物に行ってみたい」
「それ、パワスポって言うより観光でしょ?」
紅葉は笑いながらマップを開く。
「やっぱり、二条城と桂離宮かな。二条城は徳川家康が建てて、慶喜が大政奉還した場所ね。桂離宮もめっちゃええよ。予約要るけど。他は、お寺かな」
咲良とコマチも、紅葉のマップを覗き込んだ。
「舞妓さんとか芸妓さんがいっぱいいたのは、どこ?」
コマチが尋ねた。
紅葉は意外そうに、
「花街? 祇園、先斗町、上七軒、宮川町とか聞いたことあるよ。木戸孝允が結婚した幾松は、上七軒の芸妓で、陸奥宗光の奥さんの亮子は、東京新橋の芸妓やった。小説とかで、土方歳三の逸話によく書かれる東雲太夫は、遊郭の島原ね。太夫は教養の高い女の人」
と、説明した。
「島原に行ってみたい」
コマチが真剣に言った。
「いいけど。新撰組を好きな人とかが壬生寺の屯所跡に行って、島原に行く。島原は新撰組の屯所から近かったから」
「新撰組は別にいいの。島原」
コマチは強く言い切った。
「コマチちゃん、どうしたの?」
咲良は不思議そうにコマチを見た。
「今朝、めっちゃ鮮明な夢見たの。綺麗な着物着て、簪何本も挿した日本髪結って、お腹の前で豪華な帯を締めてるの。テレビで見た花魁道中みたいな。横に子供がいるの」
コマチが夢の話をした。
「禿かな。お付きの子供ね」
紅葉は島原の資料を探した。
土曜日、待ち合わせにコマチが来た。
コマチはげっそり痩せて、どんどん青白くなっている。
「コマチ、ちゃんと食べてる? 痩せたんちゃう? 顔色悪いよ」
紅葉達は驚いた。
「大丈夫。ちょっとダイエットして、サラダを主食にしてるだけ」
コマチは全然気にしてなかった。
コマチは多少興奮気味に話した。
「また、今朝も花魁みたいな着物着てる夢見たよ。私、前世で太夫さんやったのかも…。そんな気がしてきたよ」
「コマチが太夫? ファッション的には、すごく似合いそう。キャラ的にも…」
紅葉も納得した。
三人は島原大門を通り、輪違屋、角屋などを外から眺めた。
昔は揚屋や置屋が並んでいたと言うが、今はどこか哀愁を感じる。
遊郭はなくなったが、現代の太夫さん達も文化を引き継いでいる。
彼女達は門前の柳の側に立って、一時、過去の空気を想像した。
「島原かどうかわからへんけど、私、花街に住んでた気がする…。夢のせいでそう思うのかな?」
コマチは普段にない熱っぽい眼差しで語った。
「コマチ、わかってる? 遊郭。男の人の相手する所よ?」
紅葉はいつものコマチと比べて、違和感を感じた。
「うん。わかってるよ。今日の夢、旭さんが出て来てた」
「えー? 旭さんが? 花魁の格好で、しゅとーん部の道場に行ったとか?」
「そんなんちゃう。旭さんは江戸から時々来る侍で、私のお客さんなの。変な夢よね?」
コマチは自分で吹き出した。
「旭さんは約束してた日に来なくて、それっきり。私はずっと待って、何年も待って、遂には人に頼んで捜したけど、見つからなかった。私は腹が立って…、別に結婚したいとか思ってたわけちゃうけど、連絡も無いのが許せへんかった。それで、もらった簪を、ポッキリ折って捨ててやった…」
コマチは大門の内側に佇んで、外を見詰めていた。
「簪…、それかぁー」
咲良は笑った。
「それ、夢よね? 夢でしょ、コマチ?」
紅葉はコマチの背中に言った。
コマチは貴船神社の奥の院に行った時みたいに泣き出した。
「会いたかった…。ずっと会いたかった…。他に彼女が出来たんやと思ったけど、…真面目で誠実なとこだけが取り柄の人やと思ってた。その人を信じてた…」
夢を思って、涙を流した。
「それが旭さんなの? コマチ、待って。落ち着いて…。私、意味わからへんわ」
紅葉がおろおろした。
「その人はいつも無愛想で皮肉屋で、でも全然チャラくない。めっちゃ真面目な人やった。たまに高価なプレゼントをくれたりもした。身請けしたいとか、一度も言ってくれたことなかった。他のお客さんは、私を口説く為に身請けしたいとか口先だけ言って来たのに。その人は…私が独りぼっち生きてきた中で…、唯一信用出来る人やった…。裏切られた。約束を破られて…悔しい…」
コマチは道端に座り込んで、嗚咽した。
咲良がタオルハンカチを渡した。
「夢の中の花魁になりきってしもてるやん…」
紅葉は戸惑った。
3
コマチは十二時に勉強を終え、ライトを消して、ベッドに入った。
天井に浮き出たシミは、悪い霊ではなかった。
安心して眸を閉じた。
今夜も夢の続きを見たいと思った。
何だか楽しみだった。
コマチは数分で、眠りに落ちた。
ぐっすり眠り、寝息も静かだった。
真っ暗な部屋で、ガサガサと音がした。
コマチは熟睡して、起きない。
ガサガサ、音が続く。
ベッドの下から、ぼんやり光が漏れて来た。
何かがベッドから這い出た。
痩せた女の手だ。
手の甲に血管が浮き、骨に皮だけ張り付いている。
女がベッドの下から這い出して来る。
背を丸め、ずるずると長い裾を引き摺っている。
黒っぽい着物だが、女は全体に仄かに光っている。
女はベッドの下から出て来た後も、床に手を着き、背を曲げていた。
床を蹴って、そのおかしな体勢のまま、ベッドに跳び上がった。
女の顔は光のせいで、下から不気味な陰影が付いている。
陰影のせいで美しく見えないが、顔立ちは悪くない。
地味な顏ではあるかも知れない。
長い着物で足元まで覆われ、尻だけが異様に大きく膨らんでいる。
女はモン・サン・ミッシェルのポスターを眺め、クククと嗤った。
「あれが魔除けのお札でなくて、結構なことじゃ…」
コマチの学校の鞄の中で光が点り、貪狼の低い唸り声がした。
女は、
「識神よ。呼ばれもせぬのに、出て来るな!」
と、落ち着いて言った。
貪狼は静かになった。
女がコマチの側に這い寄り、布団の上からコマチを眺めた。
「可愛い娘…。朝まで、楽しい夢をご覧…」
女が長い舌を吐き出した。
真っ黒の舌がコマチのパジャマの隙間から、背中辺りまで、皮膚を舐めていく。
女の舌はかなり長い。
コマチの顔の間近に、女の顔が迫る。
コマチの知らぬ間に、背中にコブがいくつか出来ている。
何度も血を吸われた跡だ。
少し痒いけれど、どんな状態になっているか、コマチ本人もわかってない。
紫色に変色している。
女はコマチの気付きにくい背中に、舌先の針をちくんと射した。
後はゆっくりと、新鮮な血を吸う。
女の顔はどんどん黒くなり、舌が膨らむ。
女の着物も帯も含めて、色が濃くなる。
「今宵はこのぐらいで…。また明晩…な…」
女がベッドから跳び下りた。
ガサガサと、またベッドの下へ潜って行った。
4
翌週、月曜日。
コマチが登校してきた。
紅葉と咲良はコマチを見て、愕然とする。
コマチは病気を疑うほど痩せてきた。
「ヤバい。絶対、何かあった」
紅葉と咲良は目で話した。
けれど、コマチを取り巻く鬼の気配などは微塵もなかった。
「紅葉…、咲良ちゃん…」
コマチは突然涙を零し、
「旭さんに捨てられた。旭さんには許嫁がいて、田舎に帰って結婚してた。私は…遊ばれただけ」
と、夢の話をした。
「もう夢と現実がごっちゃになってるやん」
紅葉は焦った。
「コマチちゃん。旭さんはすぐ近くにいるでしょ。毎週、しゅとーん部に来てるよ。前世は前世。続きはやめようよ。生まれ変わったら、一度きりの人生。もういいでしょ、今度はいつでも会えるんだから」
咲良がコマチに言った。
「うん、そうやね…」
コマチはティッシュを出して、鼻をかんだ。
いきなり、コマチが貧血で倒れた。
「コマチ。大丈夫?」
紅葉が支え、背中の感触にぎょっとした。
「コマチ、何? このデコボコ…」
紅葉はコマチのシャツ越しにコブに触れた。
「コマチ、ちょっとごめん」
紅葉は思い切って、コマチのシャツを捲った。
ブラのホックの周辺に、ダニに血を吸われたどころではないコブがあった。
「何なの、これ?」
紅葉が聞いた。
コマチは紅葉から離れ、シャツをスカートに挟んだ。
「やめてーな、紅葉。こんなとこで…。私、昨日から何度も旭さんにメッセージ送ったよ。なんであの時、私を裏切ったのか、って聞いてみたの…」
「えっ? 旭さん、意味わからへんでしょ?」
「返事、全然来ぅへん。あの時と同じ。また裏切られた…」
コマチが貧血で立っていられず、近くの椅子に座り込んだ。
「旭さん、いつも返信遅い人じゃなかった? 旭さんは電話に出ないって、山上さんと雨音くんも言ってたよ。前からそういう人じゃないの?」
咲良が言う。
「悔しい…。今まで、男の人に無視されたことない。あの人、殺してやりたい……」
コマチは何かに憑りつかれたみたいに、
「殺したい…。殺したい…」
と、繰り返した。
「わかった。本人に聞いてみようよ。旭さんを連れて来たらいいんだね。待ってて、コマチちゃん!」
咲良が教室を飛び出した。
「咲良ちゃん! もう一時限目が始まるよ!」
紅葉は驚いて、廊下に向かって叫んだ。
「咲良ちゃん、旭さんはサラリーマンやで。会社に押しかける気?」
紅葉は咲良の後ろ姿を見送った。
「何かあったの?」
煌星とスミレ、新見が心配して、集まってきた。
5
咲良は学校を飛び出したけれど、旭の連絡先を知らなかった。
彼女は雨音に電話した。
「あ、雨音くん? コマチちゃんの様子が変なの。旭さんを殺したいとか言ってる」
「咲良ちゃん?」
雨音は咲良から初めて電話を受けた。
「僕、今、授業中…。それも、静先生の古文です…。痛ててて…」
雨音は静先生に耳を引っ張られた。
「雨音くん。直感だけど、あれは鬼だと思うの。でも、全然気配がないの。どうやったら視えるの?」
校門を出て歩きながら、咲良は雨音に尋ねた。
「咲良ちゃん、学校をサボったらダメです。授業に出なさい。どんなに役に立たないように思えても、勉強は必ず、あなたの将来を支えます」
電話に出た静先生が言った。
「咲良ちゃん。その鬼をやっつけても、社会に出たら至るところに鬼がいて、困難が待ち構えています。その対処に、基礎学力が必要です」
「静先生! 背中から血を吸ってコブを作る鬼っていますか?」
咲良が静先生に聞いた。
「…血を吸うのは蚊とアブ、ダニ、シラミ、ノミ、ヒル、一部の吸血蝙蝠です」
静先生が答えた。
「わかりました。ありがとうございます! 雨音くん、旭さんの会社教えて。うちの中学に連れてくの。緊急事態なの!」
咲良は大きな声で言った。
「旭さんは僕が連れてくよ。咲良ちゃんは学校に戻って…」
雨音が答え、
「うん!」
咲良はいきなりブツッと、電話を切った。
「…まさか、行く気じゃないでしょうね。今は古文の授業中ですよ? 渡邊くん」
静先生が腰に手を当て、眼鏡の奥から雨音を睨んだ。
雨音は雲林院と目を合わせ、苦笑した。
「静先生。…僕ら、宿題大好きですから。補講も受けますから」
と言って、二人が椅子から立った。
「君達! 甘いですよ。宿題とか補講でもう許してあげませんから!」
静先生が怒りながら、背を向けた。
「ありがとう、先生」
雨音と雲林院は静先生の背中に感謝して、廊下に出た。
咲良は一人でバスに乗り、コマチの家に向かった。
「わかった。鬼のいる場所…。絶対、コマチちゃんを助ける…」
ほどなく、コマチの家に着いた。
外から眺めても、二階のコマチの部屋の窓から、先日咲良が逃げ出したくなったあの妖気が漏れていた。
「鬼が隠れ棲んでる…。かなり強い鬼が…」
咲良はゾクゾクッと悪寒を感じた。
咲良はコマチの家族に簡単にわけを話して、
「この前来た時の続きで…」
と、部屋に入れてもらった。
部屋に入ると、強い妖気を感じた。
敵意が部屋に漲っていた。
咲良は来る途中のドラッグストアで購入した殺虫剤を、ベッドの下と壁際、鏡の下などに噴霧し始めた。
窓を開け、片手で鼻を摘み、刺激のある匂いのするスプレーを撒き続けた。
特に、ベッドの周りは念入りに噴霧した。
咲良がベッドの前に屈んで、床との僅かな隙間に噴霧して、ふと視線を上げた。
ベッドの上に長い爪が伸びた足が見えた。
痩せた女の足で、甲に静脈が浮いている。
誰かが立っている。
咲良は一瞬で鳥肌立ち、視線を少しずつ上げた。
黒っぽい着物の裾が布団とシーツに被さっている。
長い腕を垂れ、背を曲げて首を突き出すように、女が咲良を睨んでいた。
暗がりじゃないから、女は光っていなかった。
「何をしておるのじゃ…」
しわがれた声で囁いた。
鋭い眸が、真っ赤に充血していた。
「だ、誰? 鬼?」
咲良は女に聞いた。
「我は禍蛩夜…」
鬼女が名乗った。
「禍蛩夜!」
咲良が叫び、鬼女に向かって殺虫剤を噴霧した。
スプレーしたが、目の前から消えていた。
「どこ…?」
咲良が言うより早く、背後の天井に張り付いていた鬼女が、
「ここじゃ!」
と、吠えた。




