伍肆 殺生石
1
真正極楽寺(真如堂)にて。
白い石畳を辿り、境内を進む。紅葉の枝が、頭すれすれの高さまで垂れ下がっている。
入って正面に本堂。右手に、木々の梢の上に湧き出すような三重塔が見えた。
咲良と紅葉は三重塔を見上げ、微笑んだ。
「いいね、何かしっとりした感じだね」
「五重塔も三重塔も、なんでこんなに綺麗なんやろね? バランスの良さ?」
紅葉はパシャパシャと写真を撮った。
ここは天台宗のお寺で、本尊は阿弥陀如来。
紅葉と咲良は参拝した後、本堂の受付で殺生石の御守りを買った。
それから境内を回り、池の側を抜けて不動堂に参り、地蔵堂にも参った。
「ここが例の、九尾の狐の殺生石で作ったお地蔵様かな?」
彼女達は格子のガラスにくっ着きそうなほど、額を寄せて覗いた。
お堂の中には千体の小さな地蔵と、金の光背を持つ地蔵像が立っていた。
地蔵の右手には錫杖が、白いお顔には憂いがあった。
参った後で紅葉が、
「あれ? 三重塔の横に、もう一つ小さなお堂がある…。あっちがそうかな?」
と、気付いた。
一番小さなお堂。地味過ぎて目立たない。
鎌倉地蔵の提灯が下がり、花が供えられている。
小さな看板に鎌倉地蔵の由緒が記されていた。
白面金毛九尾の狐が古代中国の皇帝を虜にして国を傾けさせたが、正体を見破られ、日本へ逃げてきた。
そして、平安時代。十二世紀。
鳥羽上皇の寵愛を得た玉藻前は、実はその九尾の狐だった。
安倍晴明の子孫の泰親に見破られ、那須で討伐された。
しかし、殺生石となって二百年祟り続けた。
室町時代、玄翁和尚が杖で殺生石を叩き割った。
悪霊は成仏し、殺生石の欠片は各地に飛んで行った。
玄翁和尚は残った欠片で地蔵を彫った。
地蔵はしばらく鎌倉にあったが、江戸時代、甲良豊後守によって京都に移された。
咲良は声に出して読み、
「紅葉ちゃん。飛んでいった欠片はどうなったの? 地蔵にならなかった欠片はどうなったの?」
と、聞いた。
「あれは物語やから、咲良ちゃん」
紅葉は否定した。
咲良は鎌倉地蔵のお堂の格子を覗き込んだ。
灰白色の石で出来た地蔵が目に入った。
先程の地蔵堂の地蔵とは趣が異なり、彫り方も素朴な感じである。
優しい顏をしていらっしゃる。
京の町の辻にある石の地蔵のように、頭巾を被り、赤い前掛けをしていた。
シンプルに着物の襞が刻まれ、裾から足の指が出ていた。
咲良は一心に地蔵を見詰め続けた。
眩い光が射してくるように感じた。
「咲良…」
咲良は地蔵に呼ばれた気がした。
「そなたは心得よ。そなたの手に委ねられておる…。多くの命を守らねばならぬ…」
「お地蔵様…」
咲良が合掌した。
紅葉は何だか恐ろしくて、言葉が出なかった。
地蔵に睨まれた気がした。
自分でもわけわからない震えを覚えた。
お堂の日陰から黒い煙がもわもわと立ち上がり、
「久しぶりじゃのう、紅葉…。覚えておるか、妾のことを…」
と、囁いたように思った。
黒い煙は女の形になり、ゆらゆら揺れながら、
「紅葉…、妾はそなたの味方…」
と、囁いた。
それは紅葉にしか見えないし、他の人には聴こえない。
咲良は一心に拝んでいる。
「おまえ、誰…? 消えろ!」
紅葉は不安になり、心の中で呟いた。
「妾はいつでもそなたの側にいる…。欲しい物を与える。紅葉、どんな望みでも叶えてやるぞ…」
黒い煙の女が直接、紅葉の頭の中に語りかけてきた。
「悪霊、消えろ…!」
紅葉は耳を塞いだ。
2
三重塔の前に、屋根が付いて涼しげな休憩所がある。
疎らに観光客がいたが、制服の二人を修学旅行生と思っているのか、誰も気に留めていない。
紅葉と咲良は休憩所のベンチに座って、水色の御守り袋を開いた。
クッション材に包まれ、小指の先ほどの小さな石と、鎌倉地蔵の絵姿の護符が入っていた。
「これが殺生石か…」
二人はまじまじと石に見入った。
殺生石は白くてざらざらした石だ。陽にかざすと、1ミリぐらいの黒い粒々が付いている。
「きらきらしてるなぁー」
「鬼に対する防御アイテムになるかなぁー?」
「マナブに投げてみよし。あいつ、逃げるかもわからへんで」
紅葉はふざけて言った。
「紅葉ちゃん。もしかしたら、九尾の狐は死んでないんじゃない? 殺生石の呪いは終わったけど、九尾の狐はまだ生きてるかも知れないよね…」
咲良が真面目に言うので、紅葉は笑ってみせた。
「鎌倉地蔵は九尾の狐とちゃうよ。欠片になって散らばった石も、どっちみち強い妖力はもう無いよ」
紅葉は考えることを避けた。
「もし、飛び散った欠片を集めたら…九尾の狐は…」
「もうええやん」
咲良の話を紅葉が遮った。
「咲良ちゃん。九尾の狐は安倍晴明が封印した十二の鬼とは関係ないしな。うちらにも関係ないはず。ほな、次は吉田神社に行くえー」
紅葉が立ち上がった。
二人は真正極楽寺の参道の正面の、宗忠神社の石段を昇った。
宗忠神社も心が穏やかになる、空気の清浄感を持った神社だった。
吉田神社と真正極楽寺は目と鼻の先にある。
神楽岡の坂道を少し下ると、すぐに吉田神社の鳥居に辿り着いた。
吉田神社の主祭神は奈良の春日大社と同じだから、本宮は四つの宮が繋がった独特の形。
アメノコヤネノ命、タケミカヅチノ命、イワイヌシノ命(フツヌシノ命と同じ)、ヒメ神。
拝殿の向こうに朱塗りの本宮、左手は社務所。右手の崖側に摂社が並ぶ。
若宮社の祭神のアメノオシクモネノ命は、アメノコヤネノ命の御子神。
隣りの神楽岡社は、大雷神、オオヤマツミノ神、タカオカミノ神を祀る。
小さな祠まで、細く急な石段が続く。
「咲良ちゃん。吉田神社が建つ前のことが延喜式に、霹靂神が神楽岡に坐すと書いてある。神楽岡って言うぐらいやから、きっと神楽を舞ってお祭りしてたんやろなぁー。雷除けの神様って書いてあるけど、神楽は雨乞いかな?」
紅葉と咲良が空を見上げた。
あれほど秋晴れだった空が、俄かに西から曇ってきた。
「後で神楽岡の頂上に昇ってみよう。京都市内が一望出来るかも」
二人は拝殿で柏手を打った。
3
吉田神社の鳥居を出て、坂を上る。
鬱蒼とした自然林で、細い道の脇に近回りの獣道が出来ている。
スズメバチがいそうだし、ヤブ蚊がいるし、蜘蛛の巣もある。
咲良と紅葉は途中でためらった。
その時、ひらひらとオレンジ色の光が飛んできた。
ヒョウモンタテハ、ヒョウ柄の綺麗な蝶。
翅の先端が黒くて派手な方が雄。山に咲く野生の花に蜜を吸いに来た。
「綺麗ー」
咲良が蝶を追いかけ、獣道に入った。
蝶に案内されるように、間もなく、二人は頂上近くの舗装された道に出た。
「あーあ。木が茂り過ぎて、市内が見渡せへんわ…。惜しいな」
「紅葉ちゃん、もうすぐ雨が降りそうだよ」
西から黒い雨雲が近付いて来る。
東の空はまだ紺碧で、コントラストが不思議なほどだった。
頂上の公園には僅かな遊具があり、すべり台に子供がいた。
公園は松や杉の大木で景色が区切られ、全体がよくわからない。
散歩している人や、観光客もいた。雨が降り出しそうなので、みんな急いで山を降りようとしていた。
風が紅葉達の髪を乱した。
ゴロゴロと雷が鳴り出した。
「さっきまで、めっちゃいい天気やったのに…」
紅葉が風で膨らむ制服のスカートを押さえた。
「木の下で雨宿りする? 紅葉ちゃん」
「危ないわ。ここは丘の上やし、ほんまに落雷もありそう。降りようか」
いつの間にか、公園は二人だけになっていた。
紅葉は先刻から嫌な気配を感じていた。
殺生石の鎌倉地蔵のお堂から去った後、ずっと何か不気味な気配がついてくる。
彼女は何度も背後を振り返った。
誰もいない。
でも、誰かがすぐ後ろにいるような気がしてしまう。
「咲良ちゃん…、わかる…?」
紅葉が自分の後ろを指で示した。
咲良はこくっと頷いた。
「…さっきから…何かいるよ」
咲良も気付いていた。
紅葉は何故か、
「あいつに…見つかってしもた…」
と、心の中で思った。
咲良が公園の小石を拾い、紅葉の影に投げた。
「紅葉ちゃんから離れろー!」
小石が紅葉の影に当たる寸前、空気に弾かれるように他へ飛んだ。
二人はぎょっとした。
「今の、何!? 石が自分で方向変えたよ!?」
紅葉の影がぐにゃっと歪むような気がした。
だが、太陽が完全に雲間に隠れて、影が見えなくなった。
そして、すぐに雨がポツポツ降り出した。
二人は急いで、坂へ引き返した。
紅葉と咲良は狭い坂道で、三人の男と鉢合わせた。
黒猫を抱いた大男が、
「早く降りないと、カミナリ様が落っこちて来るぞ…」
紅葉達を冷やかした。
紅葉と咲良は2メートル近い身長の男を、首が痛くなる角度で見上げた。
「武蔵さん…。静先生の弟さんの…」
「なんでこんなとこにいるんだ? 学校はどうした? とにかく、早く山を降りろ」
武蔵が二人を急かした。
「武蔵さんこそ、なんでここに?」
「いいじゃねーか、俺はただの散歩だよ…」
と、答えた武蔵の背中に、大薙刀を包んだ袋がある。
「その薙刀は…」
咲良が言いかけた時、武蔵はチッと舌を鳴らした。
武蔵と喋っていた相手が、彼の背後から顔を覗かせた。
三つボタンの黒スーツと細身のネクタイ、軍刀ベルトに日本刀を吊るした、青白い顔の男達。
「天狗党…!!」
紅葉と咲良が叫んだ。
「嫌ですね。突然の雨って」
天狗党のルイが言った。
「そう。私達も神社にお参りに来たんです。今日はあの狼女を連れてないんですね?」
双子のレイが、コマチと識神の貧狼がいないことを確認した。
レイは先日受けた傷が一つもなくなっている。
「ルイ。話の続きをしよう。この子達は関係ねぇ」
武蔵が二人を押し退けた。
咲良は識神・文曲を呼んだ。
文曲は人見知りで面倒臭がり。天狗党を恐れ、呼ばれても発動しなかった。
「あれれ、出て来ないよ! 文曲さぁーん!」
咲良が護符に呼びかけた。
紅葉は識神・巨門を呼んだ。
光がポンッと弾け、老人の識神が長い衣を擦って現れた。
「儂を呼んでも、仕方がないぞ。鬼のことは鬼に任せておけ」
巨門は説教する口調で言った。
ルイは紅葉達を気の毒そうに眺め、
「詰んでますね、お嬢さん方。殺生石の御守りは効果ありそうですか?」
と、皮肉を言った。
「さっきのお寺で九尾の狐の話は聞きましたか? 日本に逃げてきたという…最強の鬼の話です」
雨が強くなり、紅葉達はあっと言う間にずぶ濡れになった。
雷の音が近くなった。
稲妻が閃き、ルイの顔に陰影をくっきりと刻んだ。
「いるんですよ。九尾の狐…。飛び散った殺生石の欠片から、今も怨念が瘴気を放っています…。九尾…、玉藻前と私達は、昔から多少の因縁がありまして…」
彼はぺらぺらと聞きもしないのに喋った。
ルイは武蔵に向き直った。
「武蔵。君が天狗党を抜けた時は、本当に残念でしたよ。もしかして、やっと戻る気になりました? 何なら、私が鞍馬の首領に取り次いでも構いませんけど」
「戻るなんて、とんでもない。俺はずっと旅が合う…」
武蔵は苦い表情で呟いた。
次の瞬間、神楽岡の真上に押し寄せた黒雲から、一条の光が走った。
バリバリバリと鼓膜を破る雷が轟いて、一番高い杉の木が裂けた。
「きゃーっ!!」
紅葉と咲良は耳を塞ぎ、その場に座り込んだ。
焦げ臭い煙が立ち上った。
二俣に裂けた熱い杉の木の根元、虚に深い暗黒が開いていた。
「異界…」
武蔵が暗黒を見て呟いた。
紅葉達は落雷のせいで、鼓膜がジンジン痺れた。
しばらく立てなかった。
ルイが彼女達の目の前に、右の拳を開いた。彼の拳の内側には、呪術的な一つ目の絵が描いてあった。
「お嬢さん方、少しの間眠ってもらっていいですか? 夢の中で、私達の自己紹介をさせてもらいます…」
ルイがパチンと指を鳴らした。
紅葉と咲良の目の前が霞んでいく。
眠気を感じ、二人は地面に倒れ込んだ。
それで、ルイとレイが紅葉と咲良を肩に担いだ。
「これはいかん。山上の倅に連絡するか…」
巨門が息を吹き、白い鳩を空へ飛ばした。
レイが武蔵に、
「君も来るでしょ? 首領に挨拶ぐらいして行ったらどうですか?」
と、誘った。
「ぐぅ…」
武蔵は獣のように唸った。
4
同じ頃、雨音はR高で古文の授業を受けていた。
静先生は源氏物語を題材に、熱心に教えている。
教室はとても静かで、私語をする生徒はいなかった。
雨音は窓際の席で、西の空が一気に曇るのを見ていた。
「おかしな雲だな…」
彼は嫌な予感を感じた。
やがて、教室の後ろから、霊気がとろとろと吹き込んできた。
冷たい霊気が隙間から押し寄せて、雨音を包んだ。
霊気の一部は人の形になり、半透明の男になった。平安装束を着ている。
「山上様の使いで、禄存と申します…」
「山上さんの識神ですか?」
雨音は教科書を立て、口元を隠してボソボソと喋った。
「さようで…」
禄存は丁寧に頭を下げた。
禄存の姿は無関係な者には見えない。
「何かありました?」
雨音がボソボソと聞いた。
「咲良様と紅葉様のことで。至急、足をお運び下さいますよう、お願い申し上げます」
「咲良ちゃんと紅葉ちゃんがどうかしたんですか?」
雨音が聞き直す。
腰に手を当てた静先生が、彼の側までやって来た。
「渡邊くん。何をボソボソ言ってるんですか?」
眼鏡をかけ、髪を一つに束ね、学校での静先生は地味だ。
静先生は雨音の机を、爪でトントン叩いた。
「渡邊くん。私の授業を妨害したいのかしら?」
雨音は教科書を机に置いた。
「静先生。急用が出来たんで、早退してもいいですか?」
教室にざわめきが起きた。
「静先生にあんなこと言うなんて、雨音、アホか…。零点付けられるぞ」
雲林院は少し離れた席で呟いた。
そこに禄存が来た。
「雲林院様もご同行お願いします…」
「待ってーなー。静先生の古文はヤバいねん…」
雲林院は口の中で返事した。
「渡邊くん、早退なんて許しません。用事はお昼休みに済ませて下さい。君はまた宿題を出されたいの? 今度は補講も受けたいのね? 古文は大学受験に関係ないとか思ってる?」
静先生の目尻が吊り上る。
他の生徒は、雨音と静先生のやりとりに驚く。
静先生は無愛想だが、超絶美人なので人気がある。
雨音は鞄に荷物を詰めながら立ち上がった。
「すみません、静先生。僕、急ぎますから」
「ダメよ。それなら、私も行きます」
静先生が言い張った。
「えー!?」
男子生徒全員がブーイングした。
「静先生。おんぶした時、重たかったんですよ。背が高いからかな。もういいでしょ…」
「失礼な。体重のことをここでバラすんですか!?」
静先生は赤面して怒った。
「渡邊くん、待って…」
静先生が教室から走り出た。
「みんな、自習ですよ。次の授業で小テストしますからね!」
静先生が戸を閉める間際に言い捨てた。
雲林院はロッカーから竹刀袋に入った刀を取り出し、大慌てで雨音を追いかけた。
5
咲良と紅葉が周囲を見回した。
薄暗い視界に少しずつ慣れていく。
「ここ…、どこ…?」
雨がしとしと降っていた。
二人が倒れていたのは薄暗い不動堂の板間で、護摩壇の匂いがする。
外は夜。
小さな灯火が隙間風に揺らぐ。
暗がりに、木彫りの不動明王の顔が浮かび上がる。
二人は憤怒系の不動明王を見て、気味悪く思った。
不動明王はガラス製の目玉をしかめ、眉間に皺を寄せる。
下顎から上向きに生えた牙を覗かせ、仏像ではあるが、鬼のような姿だ。
そして、天を突く髪と背後の炎が赤く逆巻く。
「ちょっと待って。これは夢や」
紅葉は冷静に分析を試みようとした。
彼女の周辺に巨門はいなかった。
「夢? 二人で一緒に一つの夢を見てるの? そんなことって、有り得ないよね!」
咲良は驚きながら、格子から外を窺った。
暗過ぎて、よくわからない。
どこかの山奥。
雨が笹を叩き、音を奏でている。
「武蔵さんと天狗党はどこ?」
咲良は竹林の向こうに目を凝らした。
鬼火が雨の夜を流れていく。
いくつもいくつも、青白い鬼火や赤と橙色がかった鬼火が不気味にして美しい。
ホタルのように点滅しながら、右へ左へ揺れる。
咲良と紅葉は無言で鬼火を眺めた。
不動明王に守られていることが幸いだった。
彼女達は不動堂から出ようとしなかった。
やがて、人の輪郭を持った赤い鬼火が竹林に現れた。
笹を揺らし、赤い鬼火が不動堂に近付いてくる。
紅葉達は息を殺す。
鬼が来る。
身長は190センチ以上あるだろう。
恵まれた頑丈そうな体格ではあるが、右に左に傾きながら歩く為、足を痛めているのかも知れない。
ぼろぼろの大鎧に、数十本の矢が突き立っている。
兜は被っていない。
丸坊主を雨に濡らしている。
「落武者…!?」
紅葉が無意識に呟いた。
平安末期か鎌倉時代の古めかしい大鎧、そんなものは今まで、お祭りか博物館でしか見たことが無かった。
あれだけの矢が刺されば、鎧を付けていてもかなりの怪我をしているはずだ。
落武者の霊は竹林を抜け、不動堂の砂利道に出た。
紅葉達は落武者の霊の全身を見ることが出来た。
落武者は不動堂の正面に立ち、砂利を踏みしめ、数歩近づいた。
紅蓮の炎を全身から噴き出し、尾を引く複数の赤い鬼火をまとわりつかせている。
落武者の顔は血に塗れ、真っ赤だった。鼻も口もわからないほど汚れている。
眼だけがはっきりと二つ、炯々と光っていた。
落武者は歯軋りし、獣のように唸り続けた。
遂に力尽きてがっくりと片膝着き、頭を項垂れる。
彼の手には、刃が真ん中で折れた大薙刀がある。
「無念なり…。無念なり…。無念なり…」
落武者の霊はぶつぶつ呟き続けた。
すると、不動堂の屋根から、よく透る声で嘲笑が起きた。
「ふははは、ははは…。武蔵坊。都まで、死んで帰って来たか。お連れはいかがした?」
咲良と紅葉は頭の真上を見上げた。
天井の張られていない、梁と小屋組み丸見えの屋根裏。
屋根上にいる男の声は雨の音も消して、彼女達の耳によく届いた。
「天狗殿…。面目ござらぬ。命に代えても御守りせん、と誓ったのに。あの方を死なせてしまいました」
落武者の霊は男泣きに泣いた。
天狗と呼ばれた屋根上の男は、しばらく黙っていた。
軒から雨が滴っている。
雨は落武者の涙のようだった。
「九尾の狐は? 仕留めたか?」
天狗が冷たい口調で尋ねた。
不動堂の脇から子供らが走り出て、落武者の霊の前に跪いた。
幼い子供らの顔に、紅葉達は天狗党の双子・ルイとレイの面影を感じた。
「那須まで参りましたる時に。…九尾の狐を封印したという石を訪ねましたが、既に割れ、中の妖気は殆ど抜けておりました。人を怨む念だけが強く残り、瘴気を発しておった。…天狗殿。九尾の狐は既に…、封印を破っておりまする…」
落武者は屋根の上に向かって呟き、
「口惜しや…。ああ、口惜しや…。死んだ者達を弔わずに死ぬわけには行かぬ…」
と、唸り続けた。
「死んだ者の弔いが済み次第、おぬしは九尾の狐を斬って参れ。首を斬り、両目と頭を潰し、その肝を抜いて来るのじゃ。よいか…」
天狗が言った。




