肆捌 鬼弁慶
1
五条大橋の上、数メートルの距離まで相手が来た。
一人は長い髪を束ね、背の中ほどまで垂らした美女。
もう一人はニット帽を被り、布で包んだ武器を背負う巨漢。
「鬼連れてます? 静先生」
雨音が問う。
「渡邊くん。宿題やりましたか?」
美女が違う話に変えた。
「静先生。この状況でそれはないんじゃないですか? 僕、古文苦手だから、来週職員室に質問に行ってもいいですか?」
「渡邊くん。宿題は月曜提出です。質問は認めますが、提出日は守って下さい」
美女は無表情に、事務的に話した。滅多にお目にかかれないほどの美しさで、切れ長の眸がややきつい印象を与える。
雨音の視線は、巨漢が背負う武器に移る。
「先生、その人誰ですか? もしかして、デートですか?」
女は巨漢をちらっと見た。
「…これは…兄の武蔵です。君は早く帰りなさい」
「兄…って、全然似てませんけど!?」
雨音は困惑した。
武蔵は名前通り、武蔵坊弁慶みたいだ。
2メートル近い身長で、熊みたいな体格をしている。体重も100キロ以上あるだろう。
この男と静先生が並ぶと、美女と野獣。
特に不細工じゃないけれど、野性味が溢れている。
「忠告します。…この辺りを真夜中にうろつくのは、やめた方がいいですよ…」
静先生は一方的に話し終わり、凛然と前を向いて、雨音の横を通り過ぎた。
武蔵が雨音を睨みながら、肩を揺すって、静先生に続く。
「早く、おうちに帰んな。ガキはオネンネの時間だぞ…」
武蔵がぺっと唾を吐いた。
武蔵は雨音の刀ケースを見て、斜めに口を歪め、ハスキーな声で言う。
「妖刀だな。鬼を倒すほどに、妖気を増す…。誰を斬るつもりだよ?」
雨音は背中を見せないように振り向き、武蔵の妖気に痺れた。
冷や汗が出た。
雨音は二人の後ろ姿を見送った。
静先生は学校ではアイドル的に人気があったが、とにかく堅物で無愛想で、冷たい人だと思われていた。
「鬼と何やってんだろ、静先生…」
雨音は首を傾げ、距離を置いて、二人を追いかけた。
雨音はすぐに静先生を見失った。
五条大橋の脇の細い道に入り、真っ暗な路地裏に、榎の老木が立っていた。
傍に立札があり、その木が源融の別宅・河原院のものであったことが書かれていた。
源融は渡辺綱の祖父の祖父。
河原院が、現代の繁華街の中心・河原町通りの名の由来であるらしい。
「静先生!?」
雨音は周辺をうろうろした。
八車線もある五条通りが静まり返り、車も殆ど走ってなくて不気味だった。
2
翌日。
雨音と雲林院が、山上の建築設計事務所を訪れた。
山上は怪我から回復し、結構元気そうに見えた。
「雨音。雲林院くんも。まぁ、座って」
山上が和モダンのエントランスの椅子を勧める。
高校の制服姿の二人が、山上の向かいに座る。
他のスタッフはもう帰宅したようで、事務所には山上だけ。
山上は封筒を二つ取り出した。
「状況はもう待ったなしや。マナブは大鬼を復活させていく。晴明の封印は千年を経て、殆ど無効。俺は鬼を放置するのもアリやと思ってる。人間が鬼の側に堕ちるかどうか、それは個々の問題でもある。この千年、そういうことが無かったわけやないし。自然災害も絶え間なく有った。…でも、マナブは悪意を持って、大量に人間を殺戮しようとしてる。これだけは阻止せんとあかん」
雨音と雲林院は黙って聞いていた。
山上は封筒を一つずつ、彼等に手渡した。
「そこでや。マナブは咲良ちゃんに執着してる。ちょっと危ないけど、彼女を餌にマナブをおびき出して、鬼の首を取る他ない…。うちの家に伝わる方法を使う…」
「はい…」
雨音は封筒を受け取り、中身を透視するようにじっと見詰めた。
「これと同じものを、旭と咲良ちゃん、紅葉ちゃん、コマチちゃんにも持たせた…。俺ら、しゅとーん部はこれより鬼切抜刀隊としてマナブを倒す。…ええか?」
山上が聞いた。
雨音は申し訳なさそうに頭を下げた。
「僕のせいで…。僕のトラブルに皆さんを巻き込んでしまって…」
「おまえのせいちゃう。これは鬼の復活から京都を守る為」
山上は断定し、雨音の謝罪を打ち切った。
「咲良ちゃん、マナブさんに対して、突発的にどう動くか、わかんないとこあるんですけど…」
雨音が不安を漏らした。
「俺も前から思ってたけど、咲良ちゃん、ひょっとしてマナブに好意を持ってんのかな? 同情なのか、恋愛なのか? …とにかく、雨音と雲林院くんは、もしもマナブが出没して、鬼を復活させる動きがあったら、俺に教えてくれ」
山上が顎髭を擦り、腕組みした。
雨音と雲林院が帰る途中、目の前を一匹の黒猫が横切った。
雲林院は過敏に反応した。
「うわっ。黒猫や! 俺、猫だけ苦手やねん。前に欠伸するとこ見たら、口でかくて、結構牙が鋭かった」
「子猫だよ、雲林院…」
雨音は吹き出して、子猫を呼んだ。
子猫は彼等を怖がって、住宅街に駐車している車のタイヤの裏に隠れた。
「でも、猫って何か不気味やん。妖気と言うか、何かあるで。雨音、トキソプラズマって知ってる?」
雲林院が言う。
「何、それ?」
「猫を宿主にする寄生虫。他の生き物にも寄生する。ネズミはトキソプラズマに寄生されると、自ら猫の前に飛び出して、わざと猫に食われたいんかい!? みたいな、おかしな行動をする。人間が寄生されたら、風邪みたいな症状になって、稀に脳炎とか起こす。…鬼も、寄生虫みたいって思わへん?」
雲林院は怖れを口にした。
「鬼と接触してたら、そのうち、脳に寄生されるんちゃう? 眼に見えへんぐらいの小さい鬼が、口とか鼻、傷口から入ってくる…。支配されてしまいそう…」
雲林院は少しビクビクしていた。
「雲林院。鬼ツアーの時の、鬼からもらった刀はどうした?」
「毎日、横に置いて寝てるよ。夜中に鬼に襲われたら、斬るつもりで…」
雲林院が答えた。
「刀、俺が時々手入れしたげるよ。夏は湿気で錆びやすいから。刀はケースに入れて、布団から離して寝た方がいいよ。鬼は本当に感染するかも…」
「わかった。そうする」
雲林院が素直に頷く。
子猫がタイヤの影から出て来て、雨音の指の匂いを嗅いだ。
「大丈夫。何もしないよ。いい子だね…」
雨音が子猫を撫でた。
子猫は急に、雨音の手に牙を立てた。
「雨音!! 大丈夫か!?」
雲林院の声に驚いて、子猫は住宅の敷地に跳んで戻った。
「大したことないって…」
彼は強がったけれど、二つの牙の跡から血が滲み出した。
3
日曜日。
紅葉と咲良、コマチ達、紅葉の兄・蘇芳が清水寺へ行った。
蘇芳は女の子達の止まらないお喋りに、途中でギブアップした。
「雨音、助けてくれー」
と泣きつき、雨音と雲林院が後から合流した。
彼等は縁結びで有名な地主神社に参り、界隈でスイーツを食べ、楽しく時間を過ごした。
その後、五条大橋を渡り、徒歩で市比賣神社に参拝し、五条通りと並行する松原通りへ入った。
距離はあるけれど、彼等は元気だから、喋りながらどんどん進む。
松原通りのあちこちに、牛若丸と弁慶のイラストの旗があった。
「この通りの東に、ほんまの五条大橋があったと言われてるの」
紅葉が説明した。
「どこに橋があろうが、ほんまに橋の上で戦ったんとちゃうやろ? 兄に理解してもらえんと、追い込まれて死ぬ義経。全身に矢を受けて、立ったまま死ぬ弁慶。そういう悲劇的な結末が一般にウケてるんよ」
蘇芳が言った。
「な、咲良ちゃん」
咲良は蘇芳を見上げ、
「そうですね」
と、返事した。
しかし、彼女の心は空想の彼方に、風船のように飛んでいっている。
紅葉は雨音の手の絆創膏に気付いた。
「雨音くん。手、どうしたの?」
「別に。猫に噛まれただけ」
雨音は右手をひらひらさせた。
「血って、昔は穢れって言ったんやろ? 神前に出るのを憚るぐらい…」
蘇芳が何となく言った。
「死体とか、誰が片付けてたの? 昔は行き倒れとかよくあったよね?」
コマチが紅葉に聞いた。
「寺社の警護をする為に雇われた人達がいたらしいよ。その人達が葬送とか、祭りの際の都大路の清掃、トラブルの武力的な解決に関わった。神人、祇園社の犬神人とか呼ばれてた。穢れを浄める力を持つ存在として、使われてたらしい…」
中世の、下級の使用人の仕事である。
彼等は神職の白い浄衣と違い、褐色の地味な着物を着て、顔を布で覆い、目だけ覗かせる異様な格好だった。
「犬って…、ちょっと酷い呼び方やん。その人達が死体を…?」
コマチは不快感を抱いた。
咲良は想像し、固まった。一瞬、背中が寒くなった。
それが何かはわからない。
卒塔婆立つ薄暗い道をゆく葬列と、棺を担いだ覆面の男達が思い浮かんだ。
話の流れから、雨音は遠慮して、
「僕、ここで待ってます。参拝してきて下さい」
鳥居の前で立ち止まった。
狭い敷地を埋める、どっしりとした造りの拝殿。
五條天神社は平安京の遷都の頃に建てられたと言う。
かつての境内は広かったが、幕末、禁門の変で建物が焼失した。
長州勢に向けて、会津・薩摩・幕府方が市中で大砲を撃ちまくった、どんどん焼けの大火。
多くの寺社と、二万七千世帯が焼けた。
紅葉が鈴を鳴らし、二度礼をして、柏手を打った。
咲良は真剣に願い事をして、長く合掌していた。
雨音は鳥居の外で、立札の案内を読んでいた。
彼は青い小鬼の気配を感じ取った。
日陰にいると、昼間でも小鬼の蠢く気配を感じることがあった。
北側のじめじめとして陽が当たらない場所では、小鬼が虫のようにカサカサ動いていた。
何も知らない人が小鬼に触れ、手を介して口の中に侵入した。
小鬼は人の体内で、負の感情を糧に増殖していく。
「やっぱり、咲良ちゃんをオトリにするのは嫌だなぁ…」
雨音はぼそっと呟いた。
彼は鬼の襲撃を警戒して、周囲を見回した。
雨音は呆然とした。
「静先生…。何してるんですか?」
静先生が一人で、通りを歩いてきた。
今日は長い髪を束ねず、肩や背に垂らしている。
「宿題出来ましたか、渡邊くん?」
静先生は学校で見る紺のスーツじゃなくて、カジュアルな装い。
豊かな胸の谷間が覗くぐらい、シャツのボタンを外していた。
「先生、この辺に住んでるんですか?」
「いいえ、ただの散歩です。…渡邊くん、今日は刀は持ってないの? そう言えば、君、元剣道部だったよね。君って……強いの?」
静先生が雨音の眸を覗き込んだ。
「僕は正直、強くないです。そうなりたいですけど。僕、今日、無敵の蘇芳さんと一緒ですけど?」
「ふーん、そう。蘇芳くんは一年の時、私の受け持ちだった。君達、仲いいんだ? …あら!? 渡邊くん、中学生の女の子達と遊んでるの?」
静先生が境内を覗き、蘇芳らを見た。
紅葉達は、道端で話し込む雨音と静先生を眺めた。
「雨音くんが超絶美人と喋ってるよ!」
コマチが紅葉を小突いた。
雲林院がげらげら笑った。
「あれは、俺らの学校の先生や!」
「ああ。古文の森静先生。二十七歳、独身、身長170センチ。めっちゃ厳しい先生で、美人やけどツンツンしてる…。俺は苦手…」
蘇芳が言う。
「仲よさそう…。雨音くん、何喋ってんのかな…?」
紅葉は気になった。
4
日曜日のパワスポめぐりは、特に何事もなく終わった。
雨音の右手の傷は、パンパンに腫れてきた。
痛くて、宿題もやってられない。
彼は途中でシャーペンを投げ出し、一人暮らしのマンションを出た。
山上に言いそびれたけれど、雨音はマナブの居所について見当を付けている。
この前、蘇芳の魂を取り戻しに雷神の子供を追いかけていた時に、マナブを捉まえたスーパー。
あの近くだ。
たぶん、あの時一緒だった若い男・カズチと住んでいる。
雨音はマナブが住むと思われる場所まで行ってみた。
京都市内は夜空が開けて、星がチカチカ瞬いている。
雨音は五階建てのマンションの50メートル手前で立ち止まった。
並木道に風が心地よく吹いて、葉擦れの音が鳴っている。
雨音は綺麗なアイボリーのタイル張りマンションを見上げ、何度も溜息をついた。
結界が張ってある。
彼の数メートル先で、空気が変わる。
何匹かの鬼が見張りをしているようだ。
「マナブさん…、いるかな…?」
彼の視線の先、五階の窓から明かりが零れている。
その部屋では今、カズチがパソコンのキーボードを叩いている。
サイレンを響かせ、雨音の背後を救急車が走っていった。
スーパーの前に人だかりが出来ていた。
何かあったみたいで、駐車場で野次馬が騒いでいる。
その騒ぎが彼の耳まで届いた。
「人が死んだらしい。おかしな死に方で」
雨音は何の気なしに、野次馬に近付いていった。
彼はポケットに手を突っ込んで、人だかりの一番後ろで背伸びした。
消防士が毛布を掛けた担架を運んでいく。
担架から死体の片手がはみ出ていた。
男の骨ばった手首に、牙の跡らしき穴が二つあった。
「あの人、スーパーのエスカレーターの手摺を跨いで、いきなり吹き抜けにダイビングしたの。そんな場所で普通、自殺はしないよね…。変なクスリでもやってたのか…」
主婦が携帯電話で、ひそひそと話す。
雨音は血の匂い、鬼の匂いを感じる。
彼は前方に、武蔵を見つけた。
「なんで、こんなとこに武蔵が…」
武蔵はニット帽を目深に被り、足早に歩いている。
彼の口元には薄笑いが浮かんでいる。
彼は大きな黒猫を抱いている。
100キロ超の体躯に迷彩ジャケットとカーゴパンツで、ミリタリーブーツを履いている。
例の武器を包んだ布袋は、今回背負ってない。
武蔵はすぐに人混みに紛れてしまった。
「誰が死んだんですか?」
雨音が野次馬の若い主婦に聞いた。
「知り合いの男の人です。親しい人じゃないけど」
「自殺なんですか?」
「そんなわけないです。彼は私の勤め先の人なんですけど、明日からハワイに行くはずだったんです…」
主婦は目撃した話を詳しく聞かせた。
男をスーパーで見掛けた時、その人物は挙動不審で、何かぶつぶつ言いながらエスカレーターに乗った。
男は急に唾を飛ばして喚き散らし、エスカレーターの手摺を跨ぎ、吹き抜け側に飛び降りた。
彼は幻覚を見たのだろう。何かに掴みかかろうとする動きだった。
最後に主婦は言った。
「お金、お金、お金。いつもお金のことばかり考えてる、金の亡者。本当にケチで、性格が歪んでて。親戚からでも年金暮らしのお年寄りからでも、お金を搾り取ることばかり考えてるような人。その為には手段を選ばない、鬼みたいな人でした…」
「鬼…ですか」
雨音はその場を離れた。
そう言えば、今朝もテレビで、京都市内で起きた自殺のニュースをやっていた。
それも、自殺する可能性のとても低そうな人が、考えられないような不自然な死に方を遂げていた。
「武蔵は関係あるのかな? あの死体の噛み傷は…?」
雨音は周辺を歩き回り、武蔵を捜した。
近くに古いお寺があって、お堂の近くに樹齢数百年の巨木があった。
武蔵の気配は、その巨木の近くで途絶えていた。
5
翌日、雨音は古文の宿題を提出し損ねた。
静先生はいつも通りの授業をした。
今日の静先生は紺のスーツを着て、黒いパンプス、髪は一つにまとめ、眼鏡をしている。
美人が目立たない、地味な格好だ。
雨音と雲林院は食堂へ、昼食を食べに行った。
「雨音。俺、今日、イヤなもの見たよ」
ランチを食べながら、雲林院が話した。
通学電車の中、お年寄りに絡む、ガラの悪い男がいた。
他の乗客は見て見ぬふりして、少しずつ距離を離していく。関わり合うのは御免だと。
雲林院はやや離れたところに立っていた。
男は優先座席に座っている老人に怒鳴りつけ、理不尽な要求をしていた。
何故か、土下座して謝れと言うのだ。
老人は頑固に、一言も弁解しなかった。
男はブチ切れて、ナイフを取り出した。
雲林院は老人が手を少しばかり切られるのを見て、警察に通報しようと思った。
雲林院が離れてスマホの110番を押そうとしたら、
「助けてぇ。助けてぇ…」
老人が雲林院に向かって、涙声で訴えた。
周囲はみんな引いてしまって、一番近くにいたのが雲林院。彼は部活の鞄と竹刀袋を下げていた。
雲林院は男に、
「このおじいさん、血が出てるじゃないですか。何があったかは知りませんけど、もうそれぐらいでやめてあげて下さい…」
と、モゴモゴと話した。
「何ぃー!?」
男は逆上して、雲林院に刃を向けた。
しかし、彼の竹刀袋をちらっと見て、次の駅で降りた。
「おじいさん、もう大丈夫ですよ…」
雲林院が振り返ったら、老人は先に逃げて、そこにいなかった。
更に最悪なことに、向かいに座っていた女が一部始終を動画に撮っていたのだ。
雲林院は動画を削除してくれるように頼んだ。
女は動画を投稿して、一部始終を公開し、自分が注目を集めたいと考えていた。
雲林院は雨音に言った。
「最悪のゴミクズ女やと思わへん? 警察に通報してあげればいいのに、その女、四~五分も動画を撮ってたんやで。そんな長い時間。それも、おじいさんが刺されるとこを…」
「悪趣味な女…」
雨音もうんざりした。
最近、世の中おかしいと思う。その女はもっと流血沙汰の大事件になることを願って、スクープ映像が撮りたかったのかも知れない。
で、その女は結局、雲林院の顔が映った動画を削除することを拒否した。
思わず、雲林院は罵倒したと言う。
女はたまたま、雲林院と同じ駅で降りて、順番を抜かしてタクシーに乗ろうとした。
タクシー乗り場で人を押し除け、もめている時に、他のタクシーに轢かれた。
救急車が来るまでに、意識がない状態になっていた。
雲林院はその横を歩いて、学校に来たそうだ。
「その人も、雨音と同じような噛み傷が手にあったよ。…雨音の手、腫れ過ぎやな。野球のグローブみたいになってる。抗生物質飲まなあかん。保健室に薬無いかな? 猫の口は雑菌だらけやでー。トキソプラズマ、怖いやろ!?」
雲林院に言われ、雨音も痛くて堪らないので、二人で保健室に寄った。
「失礼しまーす」
雲林院が保健室の戸を開けた。
返事がなく、静かだった。
窓はカーテンが閉め切られ、外はよく晴れて明るいのに、保健室の中は奇妙に暗い。
いつもするはずのアルコールの匂いがしない。
別の異臭が漂っていた。
「あ…」
雨音が突然駆け込んで、奥のカーテンを全開に引っ張った。
ベッドから赤黒い血が滴っていた。
白いシーツを血が染め、その染みが大きくなってゆく。
枕の辺りに、首の無い死体。
その死体は保健室の先生だ。白衣を着ている…。
ベッドの側に、血が付いた薙刀を持った静先生がいた。
静先生の後ろの窓が開いているようで、遮光カーテンが風に揺らめいている。
「静先生…!!」
雨音と雲林院は愕然として、声も掠れた。
静先生は落ち着き払って、黒いキャリーケースの中に人間の頭部をしまい込んだ。
薙刀の血をシーツで拭き取り、鞘を嵌めて、布袋に納める。
彼女は手にゴム手袋をしている。
「ああ、あ…」
雲林院が腰を抜かした。
「渡邊くん。宿題、早急に提出して下さいね。わからないところがあれば、後で職員室に来て下さい」
静先生の顏に、血飛沫が飛んでいる。彼女は、
「これ、私が殺ったんじゃありませんから…」
と、言い訳した。
「静先生、この状況で、僕が動詞の下二段活用について質問すると思いますか!?」
雨音は苛立ちを滲ませた。
「静先生、急いで質問します。武蔵はどこですか!?」
彼は鋭く質問した。




