肆陸 元愛宕、トンネルの鬼
1
小雨を避けて参拝し、木々に囲まれた摂社と拝殿の前で写真を撮り、紅葉達は出雲大神宮を後にした。
次は元愛宕こと、愛宕神社。
延喜式に、阿多古神社と名前が残る。
祭神は加具突智神、伊邪那美神。
今はひっそりと建つ。
御神殿は鎌倉時代の建物だが、屋根と塀で半分囲われ、これが全国に千以上もある愛宕の本宮かと思うほど小さく地味だ。
訪れる人も少なく、閑散としている。
疎らな集落、田んぼが延々続く道から、一つ目印になるような山、わかりやすい神籬がある。
山の中腹に、応仁の乱の戦火を免れた神社があった。
「やったぁー。ここ、ほんまに来たかってん…」
紅葉がはしゃぎ、鳥居を潜った。
「彼女は僕の後を継いでくれると思うよ。史学か考古学に進むつもりみたいだから」
紅葉の父が咲良に言った。
御神殿の前に巨大な杉がそびえ、境内の端に八世紀の遺構から出た石が積まれている。
独特の雰囲気がある。
石段を行く頭上を紅葉の青葉が屋根のように覆っている。
境内にはちょうど、彼等四人以外には誰もいなかった。
雨がしとしと、降ったり止んだりしている。
紅葉の父は、
「大化の改新の後、丹波の国府はこの地に置かれた。既に阿多古神社と集落があったから、この近くに国分寺が建立されたそうで、それだけ古いってことなんだよ」
と、神社背後の牛松山を見上げた。
「亀岡に、下鴨神社祭神のカモタケツヌミの妻を祀る神社がある。カモタケツヌミは奈良から京都の久我に移り住んで、丹波のイカコヤヒメと結婚した。その娘のカモタマヨリヒメは、川で丹塗り矢を拾って妊娠した。最初、腹の子の父親が誰かわからなかったけど、ヒメを妊娠させた赤い矢は、火雷ノ神だと後にわかった。ヒメが産んだ子が、上賀茂神社に祀られる雷神だ…」
「火雷はカグツチと同じ神様なんですか?」
咲良が質問した
「火雷は別の神様。黄泉で、イザナミの体から生まれた雷神とも言われる」
もっとも、紅葉の父は実在した人物のことに興味を抱いていた。
「イカコヤヒメの名前にあるように、亀岡には伊賀と呼ばれる地域があった。時々、神様の名前に地名が付いていることは話したね。地名に尊称を付けて、祖先の神様を呼んだのかもね。上賀茂神社の雷神カモワケイカヅチも、よく見るとイカの地名が入ってるよね!?」
「イカヅチのイカのことですか!?」
咲良は目を丸くした。
「そう。もしかしたら、賀茂氏のイカの首長とか、そう言う意味だったかも知れない。火雷も、ホという集団のイカの首長かも…」
「えー!? 雷神じゃないんですか!?」
咲良は戸惑った。
「咲良ちゃん。賀茂氏が住んでた久我周辺に、火雷神社があったよ。久我と亀岡は近い。カモタケツヌミとイカコヤヒメ、カモタマヨリヒメと火雷の結婚の話は、辻褄が合う。それから、奈良にも古い火雷神社があるんだよ」
紅葉の父は、火雷が関連する地域について調べたことがある。
しかし、火雷を祀る神社が古過ぎて、はっきりしたことを確認することは出来なかった。
「鬼の里・丹波地方には古くから人が住み、往来があった」
彼は交差点の赤信号で、咲良を振り返った。
2
彼等は嵐山で夕食を食べた。
母子家庭の咲良はこんな高級店で食事をしたことが余りなくて、お尻が少しムズムズする感じだった。
紅葉は何度も時計を見て、溜息を漏らした。
コマチが結局、清滝トンネルに行くことになったのは知っている。
「今日は何事も無く済んでよかったなぁ…」
「あのぅ、実は…もう一ヶ所行きたいところが…。嵐山近辺で…」
「紅葉。あんた、何言うてるの。どこの寺社? お寺やったら、もう拝観時間過ぎてるで」
蘇芳が妹を睨んだ。
「清滝トンネルって近いですか?」
咲良が単刀直入に質問した。
「清滝トンネルー!?」
紅葉の父と蘇芳の尻が、椅子から浮き上がった。
「あかん。咲良ちゃん、そんなとこはパワースポットちゃう。ただの心霊スポットや。行く必要なんかない!! 絶対、連れて帰る」
蘇芳が言い張った。
3
新見がコマチの家まで迎えに来た。
新見の兄が運転し、他にサッカー部の水木と黒田、コマチの親友の煌星が乗っていた。
コマチは何故か煌星が来ていることで、とてもびっくりした。
煌星は小声で、コマチに耳打ちした。
「私、ずっと新見くんのこと好きやったの。コマチ、何とも思ってないんでしょ? 私が狙ってもいいよね?」
「そんなん、私にいちいち聞かなくても、好きにすればいいやん…」
コマチは冷たく言ってから、
「私、イヤな子やな…」
と、自分で思った。
夜になるほど、雨が強くなってきた。
彼等は近くのコンビニの駐車場でもう一台と合流し、そのコンビニで飲み物や菓子類を買い出しした。
煌星が新見に話しかけに行くのを見て、コマチはしらけてしまい、ムスッとしていた。
コマチは一人車に残って、無理やり聞き出した旭のSNSにメッセージを送った。
「…今から、クラスの男子と清滝トンネル行ってきまーす…」
旭がヤキモチを焼いてくれることを期待したが、コマチはスマホを叩き、
「あんな無愛想な人、知らん。滅多に返事くれへんし、ムカつく…!」
と、怒った。
車が再び走り出し、新見が今夜のルールを説明した。
「この車が2号で、あっちが1号。1号がトンネル入って、五分待ってから2号が入る。その間、ライト消して、スマホの電源を必ず切っておくこと。車の中、真暗にしたいねん。その方が緊張するやろ? 俺は助手席から動画撮影するけど…」
「五分間は1号と連絡取れへんわけやな。ゾクゾクするなぁー」
男子は陽気に喋り続け、車内にずっと笑い声が響いていた。
彼等は何となく、無事に終わって拍子抜けするような結末を予想した。
「大丈夫。紅葉と咲良ちゃんが来てくれるって言ってたもん」
コマチは心の中で呟き、スマホの電源を切った。
午後十時。
トンネルの入り口が見えてきた。
雨で景色が煙っている。
2号は路肩に停車し、1号がトンネルに入るのを待った。
BGМを邪魔するように、水滴を拭う車のワイパーの音がうるさかった。
トンネルは不気味と言えば不気味だけど、人数もいるし、そんなに怖いとも感じなかった。
他にもトンネルを訪れた車があり、無事に出て来るのを見て、
「なんだ。全然大したことなさそう…」
と、全員が思った。
でも、五分待つ間に、コマチの心臓は何故だかバクバク鳴った。
言葉と裏腹に、掌が汗ばんだ。
新見兄がわざと低い掠れ声で話し、
「ほな、清滝トンネルの…注意事項を言うで…。ひとーつ…、赤信号で入ったらあかん。青信号になるのを待って入ること…」
と、赤信号でトンネルに入った。
彼等は悲鳴を上げた。
コマチもとても興奮して、楽しかった。
「ふたーつ…、フロントガラスに女の霊が落ちて来る…。焦ってブレーキを踏んではいけない…」
新見兄はふざけて、クラクションを鳴らしたり、軽く蛇行したりした。
「やめてよー」
コマチと煌星が怖がって騒いだ。
トンネルはそれほど長くないので、すぐカーブが見えてきた。
入り口から出口を見通すことは出来ない。
たまたま、トンネルの中は2号だけだった。
コマチは清滝トンネルが他のトンネルより暗いように思った。
トンネルのライトが赤みを帯びて、車内を照らす。
その瞬間、コマチは思わず口走った。
「なんで!?」
トンネルのライトに照らされた級友の顔が、どの顔も般若みたいに見えた。
鬼だ。
周り全員が鬼だ。
しかも、鬼達は嗤い、ざわめいて前方を見詰めていた。
首から下は、華奢な子供達。
頭部は髪型だけ本人のまま、顔はとても本人とは思えない鬼なのだ。
新見も煌星も、鬼になってしまった。
「何が起こったの!?」
コマチは自分の顔を確認しようとして、焦って窓を見た。
ガラスに映る彼女の顔は、正常だった。
鬼に囲まれ、一人だけ人間。
「嘘っ…」
コマチは叫ぼうとして、喉が渇いて声が出ないことに気付いた。
次の瞬間に、車がポンッ、と弾んだ。
「うわっ、何か轢いてしもた!!」
新見兄が慌てて、車を停止した。
黒田も焦って、
「ヤバい。停めんといて下さいよー!! きっとタヌキ轢いたんですよ…!!」
と、大声で喚いた。
「他の車が来るから、トンネルのカーブの前後で車停めたらあかん…。追突される」
新見が言い、新見兄も急いでアクセルを踏んだ。
しかし、エンジンがこういう時に限って、プルプル…プッスン…と、止まってしまった。
コマチは心臓が止まりそうだった。
みんなは見えなかったのか。
白い服の女が躍り出て、車の前で倒れた。
新見兄が轢いたのは…、たぶんその女だ。
コマチは窓の外に、無数の半透明の手が動いているのを見た。
停車した車にしがみつく手、窓を叩く手、窓を掻こうとする手…。
闇の中、蠢く手は肘から先だけだ。
どれも痩せた女の手のように思う。
「紅葉が言ってた。怖いから見てしまうって。これは、私が不安に思ってることを見てるだけ…」
コマチは自分に言った。
悪い夢から覚める呪いがある。自分のほっぺをぎゅっとつねるのだ。
コマチはつねって、更に目を固く閉じ、見開いた。
窓の外の手が消えた。
コマチはホッとした。
「大丈夫? コマチ、気分悪いの?」
煌星が般若の顔で聞いてくる。
コマチは吐き気を感じた。
「タヌキか何か知らんけど、まだタイヤの下にあるんちゃう…? ほら、揺れてるやん…」
水木が言った。
彼が言うまで何もなかったのに、言った途端に車がガタガタと揺れ出した。
「おい、やめろよ。車揺らすなって…」
新見兄が黒田に怒鳴った。
「俺は何もしてないって…」
黒田は半泣きになった。
コマチは両手で耳を塞いだ。
車は激しく揺れ、傾いた。
「うわぁぁ、引っくり返される…!!」
新見兄が叫んだ。
数秒後、車の揺れはぴたっと収まった。
エンジンが復活し、新見兄が大急ぎで車を出した。
走り出してから、彼等は何を轢いたのかと興味を引かれ、車の後方を注視した。
地面には何も無かった。
彼等の顔に安堵の色が浮かんだ。
その時、ガッと二本の手が車体後部を掴んだ。
車に引き摺られていた何者かがリアガラスまで顔を上げた。
血塗れの女の顔がガラスに押し付けられ、尖った紅いネイルがガラスをキィキィと掻いた。
「…乗せて…。トンネルの出口まで、乗せてって…」
血塗れの女が頼んだ。
声は聞こえないが、唇の動きで何を言ってるかがわかった。
「きゃあ!!」
煌星が叫んだ。
「すぐに出口や!! 歩けよ!!」
新見兄が怒鳴った。
彼は女を振り落とそうとして、蛇行運転した。
「出口…、見つからない…。どこ…?」
女がニヤッと嗤った。
血だらけの歯と歯茎が見えた。
コマチ達は一斉に、出口方向に向き直った。
カーブの先にあるはずの出口が、真っ暗闇に沈んでいた。
「ぶっ」
新見は唾の塊を吐いた。
「俺、起きたまま夢見てるわ…」
「俺も…」
黒田と水木と新見兄も、同じことを考えた。
「コマチ、紅葉ちゃんに電話して!!」
煌星がコマチの背中を叩いた。
コマチも至急、スマホのボタンを押した。
けれど、手が震えて、うまく電源が入らない。
車がガタガタ揺れた。
霊に囲まれている感じがしたが、誰もそんなことは言わなかった。
背筋が凍りつく感じ。
コマチにはまだ全員が鬼に見えたままだった。
それにまた、窓の外に手がびっしり見えた。
血塗れの女はリアガラスを叩き続け、
「の…乗せて…。乗せて…。…乗せろ…!」
と、少しずつ態度を荒げていった。
女が車によじ登り、ワイパーを素手で引きちぎった。
コマチは女を振り返らなかったが、みんなは振り返って見た。
夫々が一番恐ろしいと思うものが見えた。
新見は血塗れの女の頭が少しずつ膨らみ、風船のように破裂する瞬間を見た。
飛び散った脳が、リアガラスを真っ赤に染めた。
新見兄は血塗れの女が、過去につきあっていた女に見えた。
「地獄まで離さない…」
ストーカー女が別れ際に呟いた声が、もう一度耳に届いた。
黒田は血塗れの女がガラスを突き抜け、車内に入ってくるのを見た。
女は黒田にぴったり身を押し付け、彼の頭を長い舌でべろっと舐めた。
黒田は女に首を絞められ、口から泡を吹いて失神した。
水木は血塗れの女が車を捻り潰し、彼の腕に掴みかかるのを見た。
水木は金縛りに遭って動けない。
女の牙が水木の首筋に食い込み、血を噴き出した。
「ひぃ…、いぁぁ…!!」
文字通り、水木が絶叫した。
コマチは無心で、ただ耳を塞いでいた。
何も見なかった。
煌星は血塗れの女が車内に躍り込み、コマチに襲いかかるのを見た。
煌星は無事だが、コマチが女に両手を捩じ上げられ、車から放り出されるのを見た。
煌星が見た事柄が、コマチの現実に変わる。
ポルターガイストのように勝手にスライドドアが開き、コマチは唐突に投げ出され、トンネルの地面を転がった。
コマチは車を振り返り、煌星と目が合った。
「煌星、何か見たの!? なんであんただけ無事なの!?」
「決まってるやん…。私、ずっとコマチが嫌いやった…。自惚れてて…ワガママで…、威張ってて…大嫌い…」
煌星が鬼の顔で嗤う。
「煌星…。親友と思ってたのに…」
コマチは固まってしまった。
対向から来た車のヘッドライトが、彼女に迫る。
闇に消えた出口の方から走ってきた、一台の冷蔵トラック。
コマチはヘッドライトを浴び、眩しさに目を背けた。
車内で新見が、
「鬼や…!! おまえら、なんで鬼の顔してんの!? この車、鬼でいっぱい…。…助けて…!!」
と、女みたいな甲高い声で喚いた。
彼は急に、車外に飛び出した。
我先に逃げて、トンネルの出口を捜した。
彼の手から、動画撮影中のスマホが滑り落ちた。
「新見くん!!」
コマチが助けを求め、倒れた地面から手を上げた。
新見は声を聞いたのに、完全に無視して、全力でトンネルの進行方向へ疾走した。
無数の半透明の手が、新見を追いかけてゆく。
「新見くん、危ない!!」
新見の体が、対向から走ってきたトラックに撥ね飛ばされた。
急ブレーキの音がトンネルに響いた。
新見の細い体は宙で回転して、壁に激突して落ちた。
新見を撥ねた冷蔵トラックの運転手は、
「幽霊を撥ねてしまった!!」
と、叫んだ。
新見はコマチの代わりに撥ねられたようなものだ。
コマチが走り寄ったら、彼は白目を剥いて、ピクピク痙攣していた。
「お…、鬼が…」
それだけ言って、首ががくんと落ちた。
「嘘でしょ…!? 新見くん!?」
コマチが新見を揺さぶった。
新見は青い顔で、長いまつげを伏せている。
彼を撥ねた冷蔵トラックは逃げるように走り去った。
彼等の側で、新見のスマホが一部始終を撮影していた。
皮肉にも、彼の最後まで、カメラのフレーム内に収まっていた。
血塗れの女がコマチに近寄って来た。
女は掠れる声で、ぶつぶつ呟いた。
「このトンネルから…、出たくても…出れないの……。車に乗せて…。私を連れ出して…」
女が両手を力なく垂れ、血だらけの足を引き摺り、コマチのすぐ目前まで来た。
「うう…」
コマチはじりじり後退し、トンネルの壁際に寄った。
コマチは車の中に座っている煌星を見た。
煌星は般若の顔で、
「コマチが…女の霊に殺されちゃうー! 誰か、助けてー!」
と、泣きそうに眉を寄せながら、口元はしっかり嗤っていた。
4
マナブがカズチのマンションに帰ってきた。
「ただいまー」
彼はカズチの部屋を覗いた。
カズチはカタカタとパソコンのキーボードを叩いている。
「そんなに根を詰めたら、体を壊すよ。カズチ」
マナブが心配した。
彼はキッチンに行き、冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫の中には、死体をバラしたものを保存容器に入れて、よく冷やしてあった。
「マナブ。どこ行ってたの?」
カズチはパソコンの画面から目を離さずに問いかけた。
「元愛宕。稚桜と紅葉が来てた…。頼光も…。僕は清滝に行って…、愛宕山まで行ってきたよ」
マナブがキッチンから答えた。
「ふーん」
カズチは聞いてるのかわからない、生返事をした。
「稚桜達が…、火雷の話をしてたよ、カズチ…」
マナブは水をがぶ飲みして、カズチの部屋の入り口まで戻って来た。
「清滝トンネルで、ちょっと事故があったんだけど。この続き、聞きたい?」
マナブが腰に手を当てた。
「月曜日に提出する論文が、まだ出来てないんだ…」
カズチはパソコンの作業に没頭していた。
「また教授にダメ出しされた? その教授、僕が殺してやろうか?」
「博士論文が終わったら、殺してもいいよ」
カズチが椅子を回転させ、やっとマナブを振り向いた。
「清滝トンネルで何があったの? 幽霊でも出た?」
カズチが尋ねた。
「こんな話さ…」
マナブが胸を張り、語り始めた。
5
コマチは紅葉に止められたのに、清滝トンネルに来たことを後悔した。
他の車は何事もなくトンネルを折り返したのに、彼女達だけが災難に遭った。
トンネルはひんやりとして、湿気臭かった。
赤みがかったライトが、非現実感を盛り上げた。
トラックに撥ね飛ばされた新見の息が止まっている。
彼はアイドルみたいな顔で静かに目を閉じている。
壁際、コマチは間近で、血塗れの女の顔を見た。
女の髪の顔にへばりついた一筋一筋から、白目がちの気味悪い眼まで、克明に見えた。
白いパジャマらしき服装だ。
髪はばさばさ。
狂ったような目つき。頭がぱっくり割れて、流れ出た血が顎から滴っている。
「このトンネルから出られない…。連れてって、外へ…」
女が低く呻き、コマチに頼んだ。
「違う。…あんたは元から存在しない…」
コマチはほっぺをつねり、強く目を閉じた。
目を開くと、女は忽然と消えていた。
「うまくいった…」
コマチは額の冷汗を拭った。
黒田と水木、新見兄は血塗れの女に襲われ、既に失神している。
一人だけ無事の煌星に、コマチが言った。
「煌星、何も考えたらダメ!! 考えたことが全部形になってしまう…!! 頭真っ白にして…」
煌星は鬼の顔を歪めた。
「そんなの、無理。考えてしまう。怖いもん。…たぶん、もう助からへんよ。コマチは女の霊に憑り殺されてしまう…」
コマチがせっかく消した血塗れの女が、また現れた。
白いパジャマに血飛沫を付けて、地面からゆらゆらと湧き上がった。
女は髪を振り乱し、髪の間からコマチを睨み付けた。
女が青白い指をコマチの襟にかけ、彼女の喉に触れてきた。
コマチは戦慄した。
もう一度、血塗れの女を消そうとして、ほっぺをつねった。
だが、血塗れの女は消えなかった。
それどころか、いよいよリアルに、細部まで鮮明になっていく。
女の手がコマチの首を絞めた。
コマチは抵抗し、女の手を剥がそうともがいた。
「苦しい…。息が…。助けて、煌星…」
車の中、煌星は、
「…コマチ。死なんといて、コマチ……」
と、啜り泣きながら、どんどん鬼と化していく。
嫉妬、僻み、憎しみ。
か弱い少女の輪郭が、音を立てて崩れていく。
血塗れの女も煌星のように啜り泣き、血走った眼から血の涙を流した。




